以下は、ご遺体の持っていたUSBメモリに保存されていたいくつかのテキストファイルの内の一つです。著者はおそらく、大山直人と思われます。
息が乱れ、呼吸が苦しくなってきたので目出帽を口元まで下げて、大きく息を吸った。冷たく澄んだ空気が鼻を通り抜け、肺に到達し、疲弊し酸素を求める身体中にエネルギーを循環させていく。
排気ガスをばら撒く自動車も、絶え間なく呼吸を繰り返す夥しい数の人間もここにはいない。自由で、困難でひたすらに美しい。
北海道の中央部に位置するトムラウシ山は日本百名山に指定され、大雪山国立公園のほぼど真ん中で『大雪の大座敷』なんて呼ばれている。手付かずの自然や動物が息づくカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)だ。
立ち止まって深呼吸をしていると更に呼吸を乱れさせて妻が追いついてきた。
「少し止まって深呼吸をするんだ」
そう言うと彼女は自分と同じように目出帽を下ろし、大きく息を吸う。更にサングラスも外そうとしたがそれは止めた。一面の雪に反射された太陽光は目を焼き、視力を低下させる。
「きれいね」
呼吸を整え、水を飲みながら彼女は周りを見渡し、サングラスの奥で目を細める。
流れるような切れ目で見透かすような黒い瞳が好きだった。
12月初めですでに雪が積もり、見渡す限りの雪原が眼前に広がっている。どうしようもなく美しく、絶望的だ。丸裸の人間が何も知らずにここへ放り出されれば何もできずに夜を迎え、やがて凍死するだろう。
俺たちは体を防寒着で覆い、丈夫な靴を履き、十分な装備を準備することで安心して此処を歩く事ができる。なんとも無力で矮小な生き物だろう。
「夏山のハイキングしかしてない久子が此処まで歩けるとは思わなかった」
「ふふ、学生の頃運動部だったの。まだ頑張れるわ」
はにかむ彼女にチョコレートを渡し、行動を再開した。
結婚してからしばらく経って、彼女が自分も雪山に登りたいと言ったのだ。結婚前には夏に谷川岳や蝶ヶ岳を一緒に登ったことはあったが、彼女は冬山は初めてだったので、学生の頃に一度登った頃があるトムラウシにした。
久子の装備を準備して飛行機で札幌へ行き、そのまま
祖父の家の車を借りてトムラウシへ行くという計画だった。
空港へ着くと祖父が車で迎えにやってきた。結婚式ぶりに会ったが元気そうだった。祖父の家に着くと祖母が笑顔で出迎えてくれた。祖母は足が悪く結婚式には来れなかったため、久子を会わせるのは初めてだった。
祖母は久子を見てピリカ・メノコ(美人)だと喜んだ。祖母は数少ないアイヌの子孫だった。
俺は小さい頃に母親を亡くし、父親は出張が多かったため面倒を見てくれたのは祖父と祖母だった。
母親の愛をほとんど知らず、友達もいないひとりぼっちだった俺に祖母は優しくアイヌの童謡や神話を教えてくれた。山や海にいろんなカムイがいて、アイヌは神に感謝し、それらの恩恵をお借りして生きていたということを。
そんな祖母の元で育ったのだから俺が山好きになったのも当然かもしれない。だが俺が山に行くたびに祖母は心底心配そうにして、山のカムイにお祈りをしていた。
そんな祖母が久子を気に入ってくれた様子を見て俺は安心したのだ。
夕食を食べて、一泊し早朝にトムラウシの登山口へ出発する予定で、早めに布団を敷いて休もうとすると寝床で久子が俺の手に触れた。
「どうした?」
「できたの」
「なにが?」
「妻がもじもじして『できたの』って言っておやつができたとでも思うの?赤ちゃんに決まってるでしょ?」
久子は呆れながらバッグから黒い紙を取り出した。それはお腹のエコー写真だった。
「3カ月だって」
「そ、そうか」
「それだけ?」
「なんか現実感がなくてさ。がんばろうな」
「うん」
俺は久子のお腹に手を当て、これから生まれるであろう命に想いを馳せた。
早朝、まだ日も出てないうちに祖父の車に荷物を詰めて出発した。
助手席で眠たそうにしている久子はコーヒーを飲んでいる。
「なんか夢かわからないんだけど夜中におばあちゃんが私の寝床にきたのよ」
「おばあちゃんって俺のばあちゃんか?」
「うん、なんか眠ってる私のとこで正座してた」
「まあ夢だろうな、ばあちゃんは足が悪いから2階の寝室には上がってこないよ」
「まあそうなんだけどね、なんか私のお腹に手を当ててお呪いみたいなのを唱えてたんだよね」
祖母は昔、俺が転んで怪我をした時によくお呪いをしてくれた事があった。アイヌ語のお祈りをしながら傷に薬草を押し当てていると「そんなことをしてバイ菌が入って悪化したらどうする、インチキめ」と父に叱られていたが絆創膏一つ貼ってくれない父よりも祖母の温かい手で触れてもらうことの方が自分にとってよっぽど有意である事が明らかだった。
久子の話を聞いて、祖母はもしかしたらただのアイヌの子孫ではなく何か特別な巫女のような存在なのではないかと感じた。
祖母にはまだ久子の妊娠については話していなかったからだ。
トムラウシは標高は2000mを少し越えたくらいで大した標高ではない。だが北海道と本州の山を標高だけで比較してはいけない。緯度の差がもたらす気温差と気候差は山の難易度を跳ね上げさせる。もし気候が怪しければ撤退するつもりではいたがそれは杞憂だった。
空は青々と高く、風もほとんど凪いでいた。雪原にはすでに他の登山者が通ったトレースができており、それを辿れば雪に足を取られることなくスムーズに歩みを進められた。
久子も体力があり、予定よりも早く山頂へ行きそうだった。
「あっ」
「どうした?」
急に久子が立ち止まり、一点を見つめている。
見つめる先に同様の目線を向けると真っ白な雪原の中で一点、赤い箇所があった。
クマだ。目を凝らすとそこには口元を真っ赤にさせたクマがいた。その下には鹿かうさぎかはわからないが獣の死体の一部が雪の上に落ちていた。
クマはしばらく口の中の肉を咀嚼していたが、此方に気付いたようで首をこちらに向けている。
腰を下ろしている状態でも子供くらいの身長がありそうだ、全長は2mほどだろうか。クマが微動だにせずこちらをじっと見つめている。
クマはアイヌにキムンカムイ(山の神)と呼ばれている。更にクマは大人のクマや子供のクマ、住んでいる場所によって呼び方が変わるのだ。
山頂近くに現れたあのヒグマはヌプリパコロクル(山の上を守る神)だろう。
俺はゆっくりとザックのポケットに手をかけ、熊スプレーを取り出そうとする。
久子はクマを静かに見つめ、動こうとはしない。動けばあのカムイは不躾な侵入者に手厚い洗礼を向けることを理解していたのだ。
俺たちは長い時間、その場から動かずただじっとしていた。お互いの領域を犯さぬように。
どれほどの時間が経っただろうか、それとも一瞬だっただろうか、クマは足元の肉塊を拾い上げ、森の中へゆっくりと戻っていった。
クマの姿が完全に見えなくなると久子は緊張が一気に解けたのか膝をつき、倒れこんだ。雪がズムッと音を鳴らし、久子の足を包みむ。
「もう大丈夫だ、あいつはもう俺たちを気にしないだろう」
久子の肩に手を置いてそう言うと彼女はこちらを見上げて
「よかった、アイツのおやつになるかと」
「怖い目に合わせてしまったな、すまない」
「いいわ、生きているんだもの。いい思い出話ができたわ」
久子はゆっくりと立ち上がり、続ける。
「それにしても冬でもクマって出るのね。冬眠してるのかと思った」
「そうだな、ヒグマは大体12月から4月にかけて冬眠をする。だがヒグマは完全に眠っているわけではなく少しの刺激で起きたりするし、様々な要因で冬眠に失敗することもある。そういう奴は危険だ」
「やっぱり詳しいのね、山や動物のことを話してる時のあなたは嬉しそう」
「まるでそれ以外の時は楽しそうじゃないみたいだな」
「みたいじゃなくてそうよ」
行動を再開して1時間もしないうちに俺たちは山頂へ着いた。天気も良く、大雪の山々が一望できた。連れてきてよかった。
久子は持ってきていた一眼で思いつく限りの構図の写真を撮り、俺は岩の上に座って温かい紅茶を淹れた。
「本当に、本当に来てよかったわ。あなたはこんな景色を何度も見ているのね」
「毎度上手くいくわけじゃないが下界じゃ見られないものばかりだよ」
「あなたが人間を嫌いになるわけだわ、こんなに綺麗なものを知っているんだから」
久子はシャッターを切りながらそう言うと何かに気づいて声を上げた。
「何かしら、あの赤いの」
久子が指を指す方向を見ると、広い雪原の中に一点、赤いものがあった。方角から考えるにさっきのヒグマに食べられていた動物の血痕だろうか。
「さっきのヒグマのじゃないか?」
久子は首を振る。
「違うわ、なんだか動いているもの。死骸は動かないわ。」
さっきまで吹いていた心地よく冷たい風はいつのまにか止んで、辺りから音がなくなった。
久子は思いっきりカメラをズームして赤い何かのある方へシャッターを切る。
パシャ パシャ パシャ
その間、俺は赤い何かをじっと見つめ、その正体を確かめようとした。
それは細い2本の足で雪の上に立っている赤いワンピースを着た女性のように見えた。断言することができないのはただの女性にしては不可解な点が多すぎるからだった。
まず、初冬のトムラウシは日中でも気温は5℃を下回るが、女性が迷っているワンピースはおよそ寒さを防ぐには役に立たなそうだった。さらにそれはやたらと背が高く、手足も枝のように長く、手のひらを足の膝あたりまで伸ばしてゆらゆらと揺れていた。極め付けには頭があるであろう場所はぼやけてよく見えず、まるで黒く長い髪を生やした女の頭が二つ重なっていようにも見えた。例えるならばさくらんぼみたいだった。
久子が撮った写真をカメラで確認していて、俺もそれを覗き見たが、そこには雪面にへばりついた血痕と毛皮の一部が写っているだけで、もう一度そちらの方を肉眼で見ると、もうそこには先ほどの赤いワンピースの女のようなものはおらず、小さい血痕があるだけだった。
俺たちは何も見なかったことにしてトムラウシの頂上を後にした。下山中、山頂で見たものの話は一切しなかった。
俺はその時はそれが山の女神だったのではないかと思った。
古いマタギの言い伝えでは山の神は嫉妬深い女神で、マタギは妻と一緒に山に入ってはいけないと言う。北海道の自然の中で生きてきたアイヌの子孫である俺が、シサム(アイヌ以外の人間)の女性を連れて山に入ったことを警告しにきたのではないかと、そんなことを考えながら歩き、たまに後ろの久子を振り向くと久子も先ほどのことを気にしているのか、笑顔はなく黙ってついてきているのみだった。
その後、登山口近くの駐車場で車に荷物を乗せて祖父の家へ戻ると久子が高熱を出した。
祖父の知り合いに医者に来てもらい、薬を飲ませたものの久子は暫くうなされていた。
祖母は山で何かあったか、何か見たかとしきりに聞いてきたが、俺は自分が何かまずいことをしてしまったかもしれないと思い、山で出会った謎の女のことは隠した。
久子は3日間熱に苦しんだ後、漸く落ち着いて一緒に飛行機で東京へ帰った。
帰るまでの間、祖母は久子の寝床でずっと何かをお祈りしたり鹿の角を使った占いをしていた。
久子は山の神に目をつけられていたのかもしれない、当時の俺はそんな事を考えていた。だが実際にはもっと恐ろしく抗いようのない怪物に憑かれていたのだ。
