新宿駅の東口にやってくるとライオン像のすぐ近くに東氏は腰掛けていた。
少し前は平日の昼時は仕事をする人や学生、観光客でごった返していた新宿駅はほとんど人がおらず、街を賑やかすテナントやショップもほぼ全てが閉まっていた。
車の往来も全くなく、代わりにスズメや鳩の羽ばたきや囀りが聞こえてくる。目を瞑るとまるで自分が森林の中でひっそりと立っているような勘違いさえ引き起こしてしまう。
その中で、私と東氏だけがいた。
「電車、随分と本数が減ったでしょう」
東氏は浮浪者の様な装いになっていた。様々な上着を重ね着し、赤いニット帽を深々と被っていた。
「ええ、少し前までは考えられません。山手線で30分も待つなんて。まあそもそも電車が動いていることすら奇跡ですが。ああ、一応録音はさせていただきますね、後で文章に起こしたいので」
「構いませんよ」
「東さん、なぜ病院を抜け出してこんなところに?」
東氏は最後のインタビューの数日後、病院を抜け出して行方をくらましていた。だが毎日何千人も行方不明者が出ている状況かつ、東氏の行方を探す親類や友人もいなかったので特に捜索はされていなかったのだ。
東氏はこの世界に存在しない人間だからである。
それから2ヶ月以上経ってから、私から彼に連絡したのだ。
そして彼が今は新宿にいると言うのでそこまでやってくると浮浪者となった東氏がいた。
「驚いたでしょう、病院を抜け出して新宿でホームレスをしているなんて」
「ええ、でもなぜ?」
「初めはあなたの言うことを信じきれず、自分の家に帰ろうとしました。しかし私の家には全く知らない人間が住んでおりました。家族や友人、誰とも連絡は取れず、この世界のYouTubeには私のチャンネルはありませんでした。ここはやはり、私のいた世界ではなかったんです。私の身元を証明できるものは何もなく、徐々にこの国でツプサパフチの被害が広がり、私は仕事を得ることができず、ここへ流れつきました。」
私は、彼の隣に座り、話を聞いていた。東氏は病院で会った時よりも随分と歳をとった様に見えた。頬はこけ、黒ずみ、無精髭が生えており、目の周りには目やにがこびれついていた。
彼は両手の指を絡ませながら話を続けるが、事故のせいで何本かは失われていた。
「それは大変でしたね、ですがここでどうやって生きていたのです?ご飯や寝床は?」
「周りを見てください、既にこの街から秩序は消え去ろうとしています。今は無人となったカラオケやネットカフェに侵入して寝床を確保しています。食料はそこら辺から盗んでいますよ。」
東氏はこちらに顔を向けず、下を見ながらそう話す。
誰にも知られず、誰にも探されず、誰にも守られず、誰にも裁かれない。東氏は存在しない人間だった。
大山の凶行により、本人の意思に反してこの世界へやって来て、そしてツプサパフチを広めてしまった人間。この世界の絶望の元凶とも言える人間が、見窄らしい格好をして、頭を掻いてフケを空中へ撒いている。
世界は、1人のホームレスによって危機に瀕している。だが、彼をどうにかしたところでもうどうしようもない。ツプサパフチにとって、彼はこの世界へ至るための乗り物の様なものであり、彼自体には何の力も因果もない。
だからこそ彼はこの世界にとって無意義で無価値で、この世界から無視されて然るべき存在であった。
それは私の結論だった。彼に数回のインタビューをした中で得られた結果であった。
彼に会うことはもう2度とないと考えていた。
そんな中で私がもう一度彼に会おうと思い、連絡した理由は何か。
「私の息子が、何度もツプサパフチを見たと言っているのです」
私は、東氏の話を遮って打ち明けた。
「そうですか、それは……」
「お気になさらず、毎日何千人も行方不明になっているのです、いや実際にはもっと多いのでしょうね。もうそういった統計を取ることすらできない状況です。正直言ってこのままツプサパフチによって世界から人類が消えるより前に急激な人口減少による資本主義と秩序の崩壊によって、人類は内乱によって滅びる可能性の方が高いでしょう。その様な絶望的な世界で最後まで生き延びることに意味があるのかは分かりません。」
「すみません、平山さん、僕は頭があまり良くないので……」
「こちらこそすみません、兎に角、私はこの世界で息子が最後まで生き延びることにそこまで意味はないと思っているのです。むしろより苦しむだけかもしれない。
私はただ、私がこの世界にいる間は息子に消えてほしくないだけなのです。」
「それは何故ですか?」
「ツプサパフチによって異界に送られるという現象、それはまだこの世界で私と東さんしか知らないことです。それ以外の人たちにとって、異界送りを知らない人たちにとっては急に人間が消えてしまうと言うのは死んでしまったことと同じです。子が親より先に死ぬことを看過できる親がいるでしょうか?」
「それは確かにそうですね。」
「私は息子と私ができるだけこの世界にとどまれる様にツプサパフチにとって有益だと思われる様に工夫をしています。だが奴はやはり理性のある生物ではない。気まぐれに人間を連れて行こうとする。息子が連れて行かれてしまうのも時間の問題だ。」
東氏は相変わらず足りない指を絡ませながら私の話を聞いている。
「息子が生まれてすぐに妻は亡くなりました。死因は出産後に子宮からの大量出血です。私は出産に立ち会っていましたが、妻からおびただしい量の血が蛇口を捻った様に流れ出ていくのをただ眺めていました。あの時から、息子を妻の忘れ形見として大切に守って来ました。ですが今、わけのわからない化け物によって息子は奪われそうになっている。私は奴の手助けをしていると言うのに」
「手助け?手助けとは一体何を?」
口を滑らせてしまった。だが構いはしない。本題はここからなのだから。
「私もツプサパフチが見える様になりまして、と言うより、ツプサパフチが連れて行こうとしている人間がわかるのです。そういう人間を見つけては上に送る手助けをしているのですよ、そうやってアレにとって有益な人間であると思わせるのです。」
「……」
「どうせいつかはみんな連れて行かれるんですよ、ただ私はタイミングを早めているだけです。」
「ツプサパフチが、アレがそんな事で人間を見逃すと思いますか?ただ運がいいだけでは?」
「何がです?」
「あなたの言う“手助け”をしているというのはただの勘違いでしかなくて、ツプサパフチは気まぐれにまだあなた方を連れて行っていないだけではないかと言う話です。あなたが手助けをできている証拠もなければそれをツプサパフチが認知しているかどうかもわからないではないですか?」
東氏と初めて目があった。私たちは数秒の沈黙の間、次の言葉を探していた。
「だが現に周りの人間がどんどん消えていく中で私と息子は見逃されているじゃないですか。ツプサパフチにとって私が役に立っている証拠だ。」
「ツプサパフチがそう言ったのですか?アレがあなたに感謝したのですか?」
「それはわからない、会話ができていないから確かめようもない。」
「あなたは何と言うことを……」
「“何と言うことを”?そもそもアレを連れて来たのは東さんではありませんか?」
「それは……」
「あなたさえここに来なければ、あなたが大山の誘いに乗らなければこうはならなかったはずです。この新宿だって少し前までは活気に溢れていたんだ。それを壊したあなたにそんなことを言われる謂れはないはずです。」
「平山さん、あなた一体何のために私にしに来たのですか?」
東氏は怯えていた。それまで忙しなく動かしていた両手の指は今はしっかりと左手と右手の残された指を組み合わせて固めている。まるで祈っているようだった。
「私は考えました。ツプサパフチから逃れる新たな手段を。だがいくら考えても分からない、アレとは会話などはできませんからね、望みを聞くこともできない。だから貴方に聞きに来たんです。」
「私に?」
東氏は目を丸くする。瞳に私が映っている。
「そうです、もう貴方に聞くことはないとは思っていたのですが、一つ疑問がありまして」
「一体なんですか?あなたのようにツプサパフチに手を貸すようなことはしていません」
「いや、それは分かりませんよ。私は以前はこう考えていました。あなたはこの世界へツプサパフチを連れて来た感染源であり、キャリアです。そこであなたの仕事は一度終わっている、そこでツプサパフチの興味から外れ、この世界からまた別の異界へ送られることはないのだと考えていました。ですが違う。」
「……え?」
「あなたの仕事は終わっていないのです。」
「何を言って……」
「そもそも、この世界へツプサパフチを運ぶのがあなたの仕事であれば、その仕事が終わればまた別の世界へ飛ばしてしまえばいいはずです。しかしツプサパフチは今の所それをしていない。それはなぜか?」
「……なぜです?」
「ふたつ、可能性が考えられます。まず1人の人間を別の世界へ飛ばせるのは一度までという可能性です。あなたは前にいた世界からこの世界へ飛ばされた。そしてそこからまた別の異界へ飛ばすことは何らかの制限によってツプサパフチにも出来ない。ですがこの可能性は確かめようがありません。」
「もうひとつは?」
「あなたの仕事はまだ終わっていない、という可能性です。」
「終わっていない?」
「あなたはまだ依然としてツプサパフチのキャリアとして機能している可能性ですよ。」
「何を……」
「あなたは2ヶ月前ほどに病院を抜け出し、新宿へやって来て浮浪者となった。その時期と一致するのですよ。新宿駅周辺の行方不明者数が一気に増えたのが。」
「……」
「やはりとぼけていらっしゃったようですね。国内のニュースは機能を失っていますが海外のSNSやニュースサイトでは日々の日本の状況を報告している人もいるのです。そこで2ヶ月前から新宿駅周辺から人が急に減り始めている。そこからは早かった。毎日多くの人間が入れ替わり立ち替わり訪れる場所ですから、そこを中心に東京の人口の減少スピードは上がっている。原因は火を見るより明らかです、あなたがここにいるからですよ。」
「……ええ、あなたは正しい。私はまだツプサパフチに利用されています。ですが私にはどうしようもないのです。ただそこにいるだけでアレを広めてしまうのですから。それに……」
「それに?」
「ここは私とは全く関係のない世界ですよ?」
東氏は微笑んだ。
「ええ、確かに。あなたにとってこの世界は無関係で、ツプサパフチの広がりを止める必要もない。私も同意見です。私が知りたいのはあなたのようにツプサパフチのキャリアとなり、この世界にとどまる方法です。そのためにあなたは何かをしているはずです。」
彼は首を横に振る。
「何もしていない、ただ生きているだけですよ私は。ただ生きているだけで私の近くにいる人間はツプサパフチに取り憑かれ、連れて行かれます。この前は私にパンをくれた女性が私にパンを手渡した瞬間に消えてしまいました。だが私は無神経でどうしようもない人間です。自分の存在を呪いながらもその女性のために悲しむことはなく、そのパンを食べました。私はただ死にたくないのです。死ぬのは怖い」
「生きていればいつかはツプサパフチが解放し、元の世界に返してくれるとでも?」
「どうでしょうかね」
そう言うと彼は急に立ち上がり、上着を脱ぎ始めた。黒いダウンを脱ぎ、その下の茶色いフリースを脱ぎ、次はチェック柄のシャツを脱いだ。初めは着込んでいる分分かりにくかった彼の体のシルエットがどうにもおかしいことに気づいた。彼の左肩が妙に膨らんでいる。
そして彼は肌着すら脱ぎ、上半身が露わになった。
「何です、それは」
彼の左肩には大きな瘤があった。ちょうど大人の男性の握り拳二つ分くらいの大きさで、表面には皺があり、ところどころには黒い毛が生えていた。その毛は胸毛や脇毛のような体毛というよりも艶やかな髪の毛のようだった。
「もうすぐ、なるんですよ、私は」
東氏は恥ずかしそうに言う。
「何に?」
「二つの頭の老婆に」
「どうしてなる?」
「分かりません、ただ異界へ送られることを拒み、長く留まろうとした者は最後はアレと同じになるのかもしれません。アレには今は実体はありませんが、アレと長く関わったものの身体に根付き、瞳を咲かすのでしょう。感じるのです。この瘤は日に日に大きくなり、私ももう一つの頭になるでしょう。長い黒髪が生え、刻まれた皺はいつしか目となり鼻となり口になるでしょう。その時私は私でいられるでしょうか?あなたはできる限り自分と息子さんをこの世界に留まらせたいと考えているようですが、こうなることを望みますか?」
その時、私は隠し持っていたサバイバルナイフを思いっきり彼の喉へ突き出した。
万が一の場合に備えた護身用だったが、私が考えるよりも早く私の右腕は勝手に動いていた。
彼は喉に深々と刺さったナイフを掴み、抜こうとするがナイフの持ち手についた血で手が滑り、なかなか抜くことができない。そのまま私の方を見ながらフラフラと地面へ倒れ込んだ。
私は襟を直し、録音を終了してその場を後にした。
