間違いなく、そこに映っていたのは自分の妻、大山久子そのものだった。久子は1階からエレベーターに乗り込み5階のボタンを押した。妻は一人だった。
 ドアがゆっくりと閉まり、エレベーターは上昇を始めた。5階へ向かう間、妻はほとんど動かず、じっとエレベーターの階層表示パネルを見つめていた。やがてエレベーターは5階へ到達した。しかし妻はドアから少し顔を出して周りを伺った後、またエレベーターの中へ戻って次は8階のボタンを押した。
 
「一体、何をしてるんだ……」

 思わずそう呟いたが周りに誰もそれに対して反応をしなかった。おそらく私以外はすでに何度かこの映像を見たのだろう。
 すると、5階から8階へエレベーターが上昇する間、7階を通過する際に廊下の様子が一瞬見えた。そこに赤い上着を着た女の子が立っていた、背丈だがエレベーターは止まる事なく上昇していった。このマンションの住人だろうか。久子はその子を目で追っていたようだった。

「今、人が見えましたか?」
不意に警察官が話しかけてきたので、赤い服を着た女児が見えたと答えると、警察官は何も返してこなかった。
 そうしているうちにエレベーターは8階へ到達し、ドアが開いた。やはり久子は降りることはなく周りの様子を確認してからエレベーターの中へ戻り、今度は9階のボタンを押した。何か決まった順番に従って押しているようで、久子は淡々としていた。表情が少し微笑んでいるようで、それは楽しみにしていた映画が始まるのを席に座って待っているような表情だった。
 久子は9階でも降りようとはしなかった。次は8階を選択し、エレベーターは8階へと戻っていく。
 すると久子は肩にかけていたバッグに手を入れ、何かを取り出した。それは手のひらサイズのうさぎのマスコットだった。
 8階へ戻ると人形を右手に握りしめて、左手で10階のボタンを押す。エレベーターはゆっくりとドアを閉め、交渉を始める。久子の背中がゆらゆらと揺れている。
 俺は一体、何を見せられているのか。
 10階へ到達した時、どうやらそれは屋外のようで、ドアが開くと強烈な光がエレベーターの中へ差し込んできて、久子が眩しそうに目の前に手をかざす。
 そしてゆっくりと身を乗り出して外の様子を伺い、中々出ようとはしなかった。
 なにやら決心をしたのか、手に持っていたマスコットをエレベーターの床に優しく置いて久子は外へ足を踏み出し、光に飲まれていった。
 久子が出ていき、うさぎのマスコットだけを載せたエレベーターはゆっくりと下降を始め、1階へ到達すると、1階で待っていたのは今モニターの前にいる警備員であった。警備員はエレベーターの中に入って様子を改めるとそのまま2階のボタンを押して、2階で降りていった。

「映像はここまでです」

 モニターの前に座る警備員が言う。警察官が頷いてから俺に聞く。
 
「大山さん、こちらの映像に映っていたのは奥様に間違いありませんか?」
 
「はい、間違いありません。この後久子はどうなったのですか?」

 マンションの屋上に行き、その後消えた妻、俺の頭の中にあった考えはただ一つだった。久子はきっとこのマンションの屋上から飛び降りたのだろう。しかし、警察官から帰ってきた返答は思いがけないものだった。

「大山さん、このマンションの10階は屋上ではないんです。そして奥様はこの後このマンションのどの監視カメラにも映っていない」
 
「え?だって映像では10階についた時すごく明るかったじゃないですか。あれは外の光じゃないんですか?」

「このマンションは10階建ててすべて居住フロアです。屋上はありますがエレベーターで行くことはできません」

「あんたふざけてるのか?じゃあ久子はどこ行ったんだ?」

「分かりません、ですが大山さん。はっきりと言えることがあります。奥様は何か明確な理由があってエレベーターに乗り込み、決められた順番とルールに則って10階へ向かいました。奥様がこのマンションであのエレベーターを使っている間、マンションの住人からエレベーターが呼んでもこないという連絡があり、警備員が確かめに行きましたが、エレベーターのボタンが全く反応せず、久子さんが10階と思われるどこかで降りた後、やっとエレベーターが反応し、1階から見ることができたのです。そしてその後警備員が監視カメラを確認したところこう言った様子が撮影されていたのです」

「意味がわからない……一体なんで久子が強い理由を持ってこんな事をしたと言える?」

「最初に我々が知らせを受けたのはここですが、実は久子さんは午前中から近隣の別のマンションでも監視カメラに映っていたのです。別の場所でも1階からエレベーターに乗り、何かの順番に従ってエレベーターを動かし、途中で他人が乗ってくるとそのエレベーターから降りて別のマンションへ移動していました。そして時系列としては最後にこのマンションに来て、エレベーターに乗って消えたのです。」

 一体どう言う事なんだ、あの日仕事に出かけると言って家を出た久子は実は駅には行かず、近所のマンションに侵入してエレベーターで不可解な行動を繰り返した末に、光に包まれて消えた?そんなことはあり得るのか?理解不能な現実を突きつけられ、胃袋の中に尖った石ころを詰められたように激痛が走った。

「恐らくですが、やっぱり異界エレベーターですよこれ」

 管理会社の社員の一人が声を発する。

「異界エレベーター?」

「ええ、一昔前にインターネットで語られる怪談で何かのきっかけでここではない別の世界に迷い込んでしまい、恐ろしい体験をすると言った形式の怪談が流行りまして、きさらぎ駅とか知りません?まあその中でもあるエレベーターに一人で乗って決められた順番にボタンを押すと異界に辿り着ける、みたいなのがありまして」

「俺の妻はその異界エレベーターに従ってこんな事をしたって言うのか?」

「可能性の話ですが、こんな事をやる理由他に思いつきませんよ。どこかに消えたい、そういう負の願望が無意味な儀式に意味を持たせるのかもしれません。でも異界エレベーターなんてデマですよ。本当に消えた人の話なんか聞いた事ないですし、消えた奴がいると言う話を又聞きしたと言い張るやつがネットに書き込んだ怪談ですから信憑性もゼロですよ」

「……久子の遺体はこのマンションの付近には無かったのですか?」

「ええ、付近を捜索しましたがそれらしきものは全く……奥様はこのマンションで煙のように消えた。それが事実です」

 その後は警察署に同行し事情聴取を受け、解放されたのは夜の9時だった。
 家へ戻るとパソコンをつけ、異界エレベーターについて調べてみることにした。すると異界エレベーターとは一つの怪談ではなく様々な派生が不特定多数に作られていることがわかった。
 1人で実行するもの、複数人で行うもの、階層を移動する順番や最終的にどこで降りるかなどのルール、実際に行ったと言う人間のルポや再現動画。あらゆる人間がエレベーターに乗って異界へ行くことに一種のロマンや神秘性を見出している事を知った。
 どうやら久子がエレベーターに乗って異界に行こうとした事は本当らしい、ではなぜ?
 そんなものは決まっている。生まれてくるはずだった子供を失い、これから先子供を産むことも出来なくなり、希望を失ったからに決まっている。
 それでも俺は彼女にとっての希望でありたかった。たとえこの先子供が出来なくとも2人で生きていく事はできたはずだった。
 自分1人しかいない部屋で俺は啜り泣いた。壁にかけてあるコルクボードに2人の思い出の写真や、2人で行った映画のチケットが画鋲で止められている。
 この先もこうして2人で生きて行くのではなかったのか?妻を失い、妻に裏切られたと言う事実だけが俺の心に突き刺さり、今すぐベランダから飛び降りてやろうかと思ったとき、コルクボードと壁の間からなにかがはみ出していることに気づいた。
 コルクボードを手で押さえて、それをそっと引き出すとどうやら折り畳まれた便箋のようだった。破れないように机の上で開くとそこには妻の字でこう書いてあった。

 “先に行って待ってる。あの人の言うことに従ってね“

 妻は自殺したのではない。決して死にたかったわけではない。この辛く苦しい下界ではなく、別の世界に行きたかったのだ。俺を裏切ったのではなく、きちんと異界に行くことができることを俺に証明したのだ。
 俺も異界へ行くことにした。

 まず、久子が異界へ行ったマンションのエレベーターに乗り、久子がやった時と同じ順番でボタンを押した。ポケットには家にあったうさぎの人形を入れていた。
 1階から5階へ、5階から8階へ、8階から9階へ、そして9階から8階へ戻ってから10階へ。
 しかし、10階へ到達したとき、目の前にあったのは別の階と同じような居住エリアだった。
 それからは家の近くの別のマンションでも試してみたり、インターネットに出回っている異界エレベーターの、別の方法なども試してみた。
 しかしどれも成功せず、時間だけが流れていった。
 平日、仕事をしてから家に帰る前に目星をつけていたポイントに赴き、異界エレベーターを行う。失敗。
 休日は1日を丸々使っていろんな場所で異界エレベーターを行う。失敗。
 エレベーター以外にも、風呂場で異界に行く方法、クローゼットで行う儀式、何でも試したが、俺は妻のいる異界に行く事はできなかった。
 妻の行方について親類や友人から連絡を受けることもあったが、見つからないと知ると、内心ほくそ笑んで、

 ”この汚らしく無意味な下界にはもう妻はいないのだ。妻は美しく浄化された世界に行き、俺を待っているんだ。”

 と、電話越しに考えた。そう考えることが自分にとっての希望だった。
 そういった決心と異界への羨望とは裏腹に一向にこの身が異界に導かれる事はなかった。
 もう試せる方法がなかった。
 パソコンで異界へ行く方法を調べているときにある疑問が浮かんだ。
 そもそも妻が行った方法の元ネタはなんなのか?
 これまで100を超える異界への行き方を試したが妻と同じルールのものはなかった。あれは妻のオリジナルだったのか?
 すでに妻の行方の手掛かりを探るために家中の物をひっくり返したがまだ探れる場所はあった。

 妻は俺のパソコンを使ってよく調べ物をしたり、動画を見ていた。妻が消えた日より前の検索履歴を俺は調べることにした。

 ⬛︎異世界へ行く方法
 ⬛︎異世界へ行ける場所
 ⬛︎話しかけてくる声
 ⬛︎幻聴 女性の声
 ⬛︎異世界 怪談
 ⬛︎異世界エレベーター
 ⬛︎ふたつのあたま
 ⬛︎オカルト あずまんチャンネル
 ⬛︎あずまんチャンネル エレベーター

 あずまんチャンネル、東のYouTubeチャンネルのことだった。お前が誘ったのか、妻を。
 東は俺の友人だ。大学生の頃からYouTubeに動画を上げ始めていて、俺や久子も動画の撮影を手伝わされたことがあった。
 あいつなら確かに異界エレベーターの事を取り扱っていたとしてもおかしくない。
 そう思い妻の検索履歴を辿って東のチャンネルの動画からそれらしきものを探してみたが異界エレベーターに関係していそうなものは全くなかった。心霊スポットやインターネットの怪談を多く扱っているあいつが異界エレベーターに関する動画を作っていないのは些か違和感があった。
 思い当たる節があり、グーグルを開いて検索をした。
 トップに表示されたのはとあるまとめブログ記事だった。

 【人気オカルトユーチューバー、やらせか?ガチか?炎上動画を削除】

 人気オカルト系ユーチューバー“あずまんチャンネル”が炎上中!
 彼らが昨日投稿した動画にガチの幽霊らしきものが映り込み、やらせを疑われて炎上し、最終的に該当の動画を削除しました。
 内容としては2000年代のインターネット黎明期に流行った都市伝説“異界エレベーター”をテーマにした検証動画で、彼らは夜中、某所マンションにて異界エレベーターを決行!というものです。
 彼らは3人で1階からエレベーターに乗り込み、そこから5階へ、5階から8階へ、8階から9階へ行き、また9階から8階へ下降して、最後に8階から10階へ登り、異界へ行けるかどうかを試すと言う企画でした。しかし、9階から8階へ行った際に事件は起きたのです。
 8階へエレベーターが到達し、ドアがゆっくりと開くと、廊下の電気は怪しく点滅し、薄暗く怪しい雰囲気になります。メンバーのユウキが外の様子を伺ったその時、彼が大声をあげてエレベーターの中へ戻り。エレベーターの“閉”ボタンを連打します。何が何だか分からずパニックになる他の2人、するとエレベーターの扉が閉じ始めたと同時に廊下の奥からバタバタバタバタと足音が近づいてくるのが聞こえます。そしてドアが閉じるとドアのガラスに人間の手が叩きつけられ、何者かが何度もバンバンとガラスを叩くのです。そしてエレベーターは10階ではなく、1階へ向けて下降を始めますが、エレベーターのすぐ隣にある階段から凄まじい勢いで怪談を降りる音が聞こえるのです。3人は1階のエレベーターが到達すると猛ダッシュでマンションから逃げ出し撮影用の車へ戻ったところでカットされ、別スタジオで3人があの時何があったのかを説明すると言うパートになりました。
 8階でエレベーターから廊下の様子を伺ったゆうきくん曰く、変な女が廊下の奥にいて、俺に気づいた瞬間こっちに向かって走り出したのだと説明しました。
 非常に恐ろしい動画で瞬く間に再生回数は伸びましたが、動画内で一瞬だけ映った女の様子が安っぽくてヤラセみたいだ、そもそも勝手にマンションに侵入して動画を撮っていいのかなど批判的な意見が相次ぎ、あずまんチャンネルは動画を削除しました。
 最後に動画が消される前に当ブログがスクリーンショットを撮っておいたエレベーターの女の姿がこちらです!

 その文章の後にはスクリーンショットはなく、おそらくそこに画像があったのであろう空白とその下には脱毛の広告が貼り付けられているだけだった。
 東は確かに異界エレベーターを実行していた。そこで何者かに遭遇し、儀式を中断した。
 しかも階層を移動する順番は完全に久子が行った方法と一致していた。久子はこれを真似し、東とは違い10階まで行ったのだ。
 調べたところ東が動画を撮ったらしいマンションは既に経年劣化を理由に取り壊されて更地になっていた。
 東の方法で妻はエレベーターから異界に行った。だがなぜ俺は同じ方法でも異界に行くことができないのか?

 “先に行って待ってる。あの人の言うことに従ってね“

 あの言葉を信じるのであれば、俺は何に従えばいいのか?トムラウシで出会い、妻に取り憑いたツプサパフチに従えばいいのか?ツプサパフチは物語の妖怪みたいなものだ。実際には存在しない。存在しなかったはずだが、妻はそれに魅入られていた。ツプサパフチが妻を異界へ導いたのだ。山の神の化身のようなものなのかもしれない。不幸に打ちひしがれる妻を救うため、より高い場所に異界への窓を作ってくれたのかもしれない。
 無機質なパソコンのモニターを眺めながらそんな妄想を考えていると、突然、リビングから音と光が漏れてきた。
 見ると暗いリビングでひとりでにテレビがつき、とある旅番組を映し出していた。
 テレビの正面に置いてあるソファに誰かが座っている。
 妻だった。妻がソファの真ん中に行儀よく座ってテレビを見ていた。
 声をかけようとするが驚きのあまり、声が出せない、喉に栓をされているようだった。
 妻はテレビの方をゆっくりと指差してこう言った。

「上へ参ります」

 テレビの方を見ると、そこには富士山が映し出されていた。夕焼けに映し出され真っ赤に燃える霊峰がそこにあった。富士山から視線をソファの方へ戻すと、既に妻は居なくなっていた。

 富士山、この国で最も高く、最も天に近い霊峰。ツプサパフチ、山の神、1から10、順番、うさぎの人形。

 行けというのか、そこから異界へ。