翌日も、鬱陶しい雨が降り続いていた。心なしか、個室の中の空気もじめっとしている。一日中ベッドの上で過ごすんだから、天気なんて関係ないんだけれど、こうも毎日嫌な天気が続くとおのずと気分が塞いでくる。梅雨の雨が鬱々とした気分を増幅させる。

 引きこもりの人は、引きこもれる 、という一種の才能みたいなものがあるのかもしれない。わたしは入院して三週間、既にメンタルがかなりやられている。テレビも読書 も本も漫画も、ちっとも面白くない。かつては、いつかお父さんの後を継ぐんだ、って勉強もがんばっていた。でも今となっては、勉強する意味もない。

 わたしに未来はないんだから。


 お昼ご飯を食べ終わった頃、希(き)(おり)織 からラインが来た。


『今日学校早く終わるんだ。迷惑じゃなかったらそっち行っていい?』


 もちろんいいよ、と返す。少しだけ口角が上がっているのを感じた。


 希織は幼馴染で、唯一の親友だ。小さい頃から周りにうまく馴染めなかったわたしに、希織だけは普通に接してくれた。「お嬢さま様」とからかわれることがあっても、「陽彩の気持ちも考えなよ」ってわたしの代わりに言い返すような子だ。

 そして今見舞いにきてくれる友だちは、希織しかいない。


「 んもー、雨強過ぎ! 傘差してたのに、めっちゃ濡れたし」


 そう言ってソックス をびしょびしょにして病室に現れた希織は、いつものように長い髪を高い位置で元気よくポニーテールにしている 。バスケ部で活躍していて 背が高くて、スタイルも良くて明るい希織。男子からも女子からも人気があって、内向的なわたしとは正反対だ。


「陽彩は何してたのー?」
「特に何も。何かしたって、なんにもならないし」
「もう、またすぐにそんなことを言う」


 希織が唇をとがらせ尖らせる。入院の前の日、電話で希織に余命のことを話すと、めったなことでは泣かないこの子が大泣きした顔を真っ赤にして泣いた。どうして陽彩が、まだ十六なのに、と途切れ途切れに繰り返す希織を大丈夫、大丈夫と何が大丈夫なのか知らないけれどなだめながら、妙にすっきりとしていた。


 ああ、わたし、本当に死んじゃうんだな。その時はじめて、自覚した。


「他の子はお見舞い、来ないの?」
「来ない。余命のことはともかく、担任はクラスの子に入院したこと伝えてくれたみたいなんだけどね」
「そっか。薄情だね、みんな」
「うん。でもね、仕方ないの。わたし、嫌われてたもん」


 天才科学者でプチ有名人のお父さんを持つ、身体の弱いわたし。それだけで、子ども社会 で浮いてしまうにはじゅうぶんだった。

『陽彩ちゃんはお嬢さまだから、なんでも買ってもらえるんだよね』『陽彩ちゃんは身体弱いから、ドッジボールなんてできないよね』『陽彩ちゃんはお母さんがいなくて、可哀相だよね』 ――幼い頃からかけられてきた無数の言葉は、 を、わたしは素直に受け止められなかった。 自分とわたしを隔てる、壁のように聞こえた。あんたとわたしは違う、と暗に言われているような気がした。


 だからわたしもいつのまにか、みんなとの間に壁を作るようになった。嫌われないように、浮かないように、いじめられないように。いつもそんなことばっかり考えて、顔にへらへらと笑いを貼りつけて、いい子で過ごしてきた。その気持ちは、なんとなく周りにも伝わっていたのかもしれない。


 希織以外、仲のいい友だちができなかったのがいちばんの証拠だ。こんなに心を閉ざしている子と、誰が友だちになりたいと思うだろう。


「嫌われてなんかないよ。ただみんな、やっかんでただけだよ。陽彩のお父さんが有名人だから、お金持ちの子だから、うらやましかったんだよ」

「そう言ってくれると救われる。でも、今、入院していて、考える時間だけはたくさんあるじゃない? だから、思っちゃうんだ。わたしにも悪いところ、いっぱいあったな、って」


 嫌われないように、浮かないように、いじめられないように。そう思いながら誰かと接するのは、何もしていない相手に対して、まるでこれから自分に何かするでしょ 、と考えながら向き合うってことで、それはとても失礼なことなんじゃないか。

 わたしは、お父さんと希織以外の人間を、信じたり頼ったりしてこなかったんだ。


「そうかもしれないね、でも」


 小さく同意しながら、希織がカバンをごそごそとやる。やがて取り出されたのは、女子高生が持つにふさわしい、オレンジのチェック柄のかわいらしいノートだった。


「でも過去のことうじうじ考えても仕方ないし、未来に目を向けようよ!」
「どういうこと?」
「これから陽彩がやりたいこと、このノートに書いてくの。どこまで実現できるかわからないけれど、やりたいことはあたしも協力する」
「なんか、ずいぶんベタなことするね……」


 こういうのよく、映画とかである。ジャック・ニコルソンが出演していた洋画にも、まったく同じシチュエーションがあった。でもまさか、十六歳にしてしてわたしが、 こんなことをするはめになるとは思わなかったけど。


「ノリ悪いなあ。いろいろあるでしょ? 行きたいところ、やりたいこと、食べたいもの、見てみたいもの」
「うーん、そう言われてもすぐには思いつかないなぁ……」


 それに、そんなことなんの意味があるんだろう。どうせわたしは、すぐ死んでしまう人間なのに。
 わたしの内心に気づかない希織がノートをめくる。


「たとえば、フェスに行くとかは?」
「いや、それは無理でしょ。この心臓じゃ、外出許可が下りない」
「じゃあ食べ物系はどう? 和牛霜降りA5ランクのステーキとか、食べてみたくない?」
「小学校の頃食べたことあるし」
「むむ、さすが南部陽(よう)一(いち)陽一 の娘は違うな……じゃ、これは?」


 希織がノートの一ページ目を開き、シャープペンを取り出して、「バーでお酒を飲む」と書いたので、思わず笑ってしまった。


「無理無理! 成人するまでに死んじゃってるもん! 高校生じゃ、バーになんて入れてもらえない!」
「へへっ、あたしはなんとか大丈夫じゃない? 化粧すれば余裕でハタチには見えるでしょ」
「年確どうするのよー」


 希織と一緒にはしゃいで笑いながら、一瞬、忘れてた。心臓のことも病気のことも余命のことも、未来がないってことも。

 絶対実現することのないノートの上の計画が、きらきら輝いているように見えた。