斑尾(まだらお)高原は新(にい)潟(がた)の妙高市(みょうこうし) にある。

 冬はスキー、夏はハイキングが楽しい観光地で、今の時期は昼間は絶景を写真に収め、SNSに上げようとする人がたくさんいるみたいだ。

 でも梅雨明けの真夜中の斑尾高原は他に人もいなくて、見事にわたしと楓馬の二人きりだった。標高が高いからか、からっと涼しい風が駆け抜けていく。


「すごい星空だね」


 ちょっと視線を上げると、天の川みたいなものがぼんやりと広がっている。はくちょう座も夏の大三角形もおとめ座のスピカも、ここからだと東京よりずっときれいに見えた。漆黒の夜に山の稜線(りょうせん) がぼんやりと浮かび上がっていて、夜よりも暗い山は影絵みたい。スマホで一枚だけ撮ると、たくさんの星に彩られた夜空はアメジストを砕いて広げたような、淡い紫に映った。


「陽彩ちゃんって星、好きなの?」
「うん。都会だとなかなか見れないし、理科は好きだけど、本当は化学や物理より、地学のほうが得意だったりする。お父さんは、化学や物理を勉強してほしかったんだろうけど」
「しょうがないよ、化学式とか難しいし。僕もあんまり得意じゃない」

 こんな、年相応の他愛もない会話をしていると、楓馬が未来から来たってことを忘れそうになる。楓馬の背中の後ろからパオがぴょんと飛び出して、草の上をごろごろ転がり出しだした。


「広いところは気持ち良いなあ」
 そう言ってごろごろごろごろ、おむすびころりんみたいにどこまでも転がっていくので、わたしも楓馬もぷっと笑ってしまう。


「パオっていつも毒舌だけど、無邪気なところもあるんだね」
「あれでなかなか、かわいいところもあるんだよ」

 パオがぴょーん、ぴょーんとスーパーボールのごとく何度もバウンドしている様子を眺めながら、わたしは隣の楓馬に向かって言った。


「ねえ、楓馬」
「うん」
「わたしは、死ぬの?」

 楓馬の息が止まった気がした。

 その反応がすべてを物語っていたから、わたしは小さく息を吐き、笑顔を楓馬に向ける。

 こんな悲しい話をしているのに、不思議と心は凪いだ海みたいに穏やかだ。あれだけ絶望していて、苦しかった気持ちはどこへいってしまったんだろう。

 プラネタリウムよりずっと解像度の高い、素晴らしい夜空の空の下では、わたしの命が消えることぐらい、くだらないことに思えてしまっているんだろうか。


「よく考えたら、楓馬はわたしの運命を変えに来た、って言っただけ。わたしが死ぬ運命を変える、なんてひと言も言っていない」


 楓馬のこわばる頬に向かって、そっと手を差し伸べる。

 機械に生かされている人間の皮膚は水分が少なくてでろんとしていて、見た目はきれいなのにさわって触ってみると老人の肌みたいだ。


「いいんだ、楓馬。わたし、ちっとも怒ってないの。むしろ、楓馬はわたしに素敵な夢を見せてくれたから。楓馬に会えたから、楓馬と付き合ったから、わたしの最期の日々は本当に幸せなものになったんだよ。未来から来た男の子と恋をした女の子なんて、他にいないよ。それだけでわたし、生きていてよかった、って思える」

「陽彩ちゃん、ごめん」


 楓馬がわたしの手を取り、ぎゅっと握る。握り返しながら、ぶんぶん首を振る。

 楓馬の気持ちもわかる。そうするしかなかったんだろうな、というのも。いわゆる守秘義務というやつだったんだろうし、最初からすべて本当のことを言われていたら、こんなに楓馬に心を許せなかったと思う。

 でも。


「わたしを好きだって言ったのも、嘘?」


 言いながら、きゅっと胸がきしんだ。楓馬が目を広げる。


「わたしと付き合うことが、楓馬の職務上必要だったの? いわゆる、ビジネス恋人ってやつだった?」
「――正直、最初はそうだったよ」


 苦しそうに楓馬は言って、視線を遠い夜空にやった。星たちの光に照らされた楓馬の横顔が、苦しそうに歪んでいた。


「文献が残ってたんだ、楓馬という名の未来人が、南部陽彩という名の女の子と恋に落ちて、南部陽一の研究を壊した、って。僕はそれを、忠実になぞらなきゃいけなかった」

「……そう」
「でも、ね」


 楓馬が再びわたしの目を覗のぞき込む。その目の中にたしかに宿る想いの光に、とくんと胸が揺れた。


「陽彩ちゃんと一緒に過去に行って、自分のお父さんとお母さんを助けようとしている陽彩ちゃんを見たり。もうすぐこの世を去る運命の樹里ちゃんのために、自分ができるだけのことをしようとしている陽彩ちゃんの傍にいたり。そういうことをしていたら、だんだん、気持ちが本物になっていったっていうのかな……好きにならなきゃいけない、って思っていたのに、好きだ、に変わっていった」


 その時、楓馬の頭上で光っていた星がひとつぶ空をすうっと流れて、地平線に落ちていった。

 願い事なんてする暇はなかったけれど、星が消えていったあたりを見つめて、この時間が永遠に続けばいいのに、というありふれたことを思った。


「もし、わたしがお父さんの研究を壊したら、楓馬は死ななくて済むの?」
「歴史が変わるからね」
「わたしの選択次第で、楓馬を助けることができるんだね」
「……陽彩ちゃん」


 楓馬が何かに耐えられなくなったという顔をして、わたしをぎゅっと抱きしめてきた。背は高いのに華奢でごつごつしていて、少し冷たい。人間なのに、半分以上その機能が損なわれていて、もうすぐ命が尽きてしまう。

 楓馬の背中にそっと手を回しながら、脳裏にお父さんの顔がちらついた。

 わたしは、愛してくれたお父さんを裏切らなきゃいけない。