澄夜くんに想いを伝えた一週間後、樹里ちゃんは静かに息を引き取った。

 最後の五日間は気管切開をしたせいでしゃべれず、栄養も点滴だけだった。しゃべれない状態の樹里ちゃんのもとに元に澄夜くんは毎日通い、二人は視線だけで気持ちを通い合わせた。

 樹里ちゃんが亡くなってから何をしても、心がついていかない。ご飯を食べても味がしないし、本を読んでも内容が頭に入ってこないし、テレビは遠い世界の出来事を延々と報じ続けるだけで、ちっとも興味を惹かれない。樹里ちゃんがいなくなった世界は、色を失ったようだった。

「いつまでもそんな顔してると、樹里ちゃん喜ばないわよ」

 日課の血圧と体温を測る時、池澤さんに言われた。日々、たくさんの人の生死に向き合わなければならない立場の人は、こんな時でもしゃんとしている。


「ひーちゃんが今樹里ちゃんにできるのは、一日一日をせいいっぱい、やりきることなの。全力で生きることなの。そんな、抜け殻みたいに毎日のんべんだらりと過ごしてたら、生きたくても生きられなかった樹里ちゃんに申し訳ないって思わない?」

 池澤さんの言葉に曖昧にうなずいた。

 池澤さんが善意で、わたしを励まそうとしてくれる のているのはわかる。池澤さんの言葉が正しいのもわかる。でも、素直にはい、と言えないのは、まだ樹里ちゃんがいなくなったことを受け入れられないから。

 もっと樹里ちゃんとたくさん話したかった、できれば一緒に退院して、外で二人で遊んだりしたかった。ほんの一ヵ月くらいの友だちだったけど、わたしにとっては大事な子だった。

 わたしが樹里ちゃんのためにできることは、悲しみに浸ることなんじゃないかとやっぱり思ってしまう。


「 相変わらず、ぜんぜん笑ってくれないね」

 樹里ちゃんが死んだ日、わたしは楓馬の前で身体じゅうの水分がぜんぶ出ていってしまうんじゃないか、という勢いで泣いた。その日から毎晩、楓馬はわたしをデロリヤンで連れ出して、ドライブに連れていってくれる。デロリヤンは時空を越えられるから、フランスもアメリカも中国も、どこにでも行けた。でも凱旋門(がいせんもん) もワールドトレードセンターも万里の長城も、心の端にひっかかりもしない。


「ごめん、つい、樹里ちゃんのこと考えちゃって」
「いいよ、無理しなくて」

 今日はわたしたちは、沖縄の離島に来ていた。宇宙のように真っ黒い海がゆらゆらしていて、砂浜には心地よい風が吹いていた。空にはプラネタリウムで見るみたいな、満点の星空が広がっている。天の川の光までよく見えた。


「わたし、結局樹里ちゃんに何ができたのかなって思っちゃうんだ。最期に気持ちを伝えることで、樹里ちゃんはひょっとしたらもっと、未練を残しちゃったんじゃないかとか」


 もうすぐ死ぬ人間からの告白なんて重い、と言った樹里ちゃん。

 たしかに気持ちを伝え合ったことで二人は最期に濃厚な時間を過ごすことができたけれど、そのことで二人により背負わせることになっちゃったんじゃないだろうか。樹里ちゃんは澄夜くんのことが最期まで気がかりだっただろうし、澄夜くんにしても悲しみはいっそう濃くなったかもしれない。


「幸せだったのかな、樹里ちゃん」
 ぽつんと言うと、パオがぱたぱたぱた、と羽根 をはためかせながら言った。


「ニンゲンはほんと、くだらないことばっかり気にするなあ。幸せ、そんなものが何になるんだい? 幸せになると、お金が増えるのか? 何かがもらえるのか? ニンケゲンはすぐ、愛だの幸せだの、形のないわけのわからないものに振り回される」
「パオ、ちょっと黙ってて」

 楓馬がいつになく険しい声で言って、パオがそっぽを向いた。


「よく、言わない? 死は遺された人のものだって」
「言うけど……」
「それ、ほんとだと思うんだ。もう陽彩ちゃんは樹里ちゃんに何もしてあげられない。だから陽彩ちゃんの気持ちと向き合うこと、自分の悲しみとうまく付き合うことが、今は大事なんじゃないかな」

 楓馬がそっとわたしの手に自分の冷たい手のひらを重ねる。ざざざ、 と遠くで波がくだけている。


「僕は、陽彩ちゃんの心が元気になれるように、なんでもするよ」
「ありがとう、楓馬。楓馬がいてくれて、本当によかった」


 こんなこと、ひとりじゃとても抱えきれなかったから。

 くだける波の音を聞きながら、夜風に吹かれながら、二人ぴったりと寄り添っていた。空の星が小さくまたたき、ひとつ揺れて、海に沈んだ。流れ星だと思ったけれど、お願いをする気にはなれなくて、星が消えていったあたりを見つめながら樹里ちゃんが天国でやすらかにしていますように、と口の中でつぶやいた。