自分の個室に戻って、ベッドに潜って、何もせずにただ時が過ぎてゆくのを待った。窓の外では夏の長い日がゆっくり落ちていって、濃い夕闇に変わっていく。わたしはただじっと息をして、酸素を消費し続けていた。
こうしている間にも、樹里ちゃんの時間は砂時計の砂が落ちてゆくように少しずつ減っているのだと思うと、胸が詰まって喉が苦しくて、何もできなかった。池澤さんが運んできてくれた夕食にも、ほとんど手をつけなかった。ぜんぜん減っていないお盆の上を見て、池澤さんは「ひーちゃんどうしたの」と顔をしかめたけれど、すぐに察したんだろう。わたしと樹里ちゃんが仲がいいことを、この人は知っている。
「 今日は、目も合わせてくれないんだね」
楓馬の寂しそうな声に我に返る。
抜け殻といっても差し支えない状態になっていたわたしは、消灯時間の後、楓馬が個室に入ってきたのにも気づかなかった。
「友だちが、死にそうなの」
口にしてしまうとあっけなく感じられて、それが悲しい。楓馬は少しだけ目を見開いた。
「その友だちって、希織ちゃんじゃないよね?」
「まさか。あの子は死からいちばん遠いよ」
「じゃあ誰が……」
「入院してから仲良くなった子で、小さい頃からずっと白血病で 闘と闘ってたの。樹里ちゃんっていうんだけど」
それからわたしはかいつまんで、樹里ちゃんのことを話した。病気を感じさせない明るく元気な子だということ。樹里ちゃんと過ごす時間が本当にきらきらしていたこと。澄夜くんという好きな男の子がいて、おそらく両想いじゃないかということ。
話しているうちに、涙が出てきた。わたしに泣く権利なんてないのに。樹里ちゃんのつらさを思いやるどころか、余命宣告されてないわたしより幸せじゃないかって、そんなひどいことを考えてたわたしが泣いていいわけない。泣いちゃいけないのに泣きたくないのに、涙はぽろぽろこぼれて、感情が噴き出す。
「楓馬の持ってる未来の便利な道具で、樹里ちゃんを救うことはできないの?」
お願いしているように、責めるような口調になってしまう。楓馬は何も言わない。沈黙こそが、答えだった。
「おかしいよ、わたしなんかが助かるのに、樹里ちゃんみたいな優しくて素敵な子が、こんな若さで死んじゃうなんて。楓馬お願い、わたしの代わりに樹里ちゃんを助けて」
「陽彩ちゃん」
わたしの両肩に自分の手を乗せ、楓馬が言った。楓馬の手のひらは今日も冷たかった。
「命はみんな平等だなんて、嘘なんだ」
「な……!」
「たとえば、政治家と一般人が同じ事故に巻き込まれて、病院に運ばれたとする。その時一般人より政治家の治療を優先したら病院を責める人がいるけれど、本当は責められるようなことじゃないんだ。人が背負う役割や責任の重さには、それぞれ違いがある。命の重さに順列をつけるのは、間違ってることじゃないんだよ」
楓馬は今までに見たことないほど苦しそうな顔をしていた。楓馬だって本心は、自分の言葉を取り消したいんだろう。間違ってることじゃないとは言っても、正しいことだとも思っていないんだろう。
「未来の規定で、過去に戻って運命を変えていいのは、未来に続く功績を残した人だって決まってる。陽彩ちゃんは、功績を残した人だ。だけどその樹里ちゃんって子は違う。樹里ちゃんの運命を変えることはできない」
「樹里ちゃんは」
涙のせいで出した声が震えているのがわかる。つらそうな楓馬の目をしっかり見つめながら、頼りない声を振り絞る。
「樹里ちゃんは、恋をしているの。澄夜くんとは、きっと両想いなの。言ってたよ、一度くらいデートしてみたかったって」
「陽彩ちゃん……」
「運命を変えられないなら、せめて樹里ちゃんに最期、なんの心残りもなく死んでほしい。笑ってこの世を去ってほしい。樹里ちゃんの運命を変えられないなら、せめて樹里ちゃんの力になりたい」
知り合ってまだまもない、付き合いの浅い友だちだけど、余命宣告されて落ち込んでたわたしの支えになってくれた樹里ちゃん。
樹里ちゃんの存在に感謝してるから、今樹里ちゃんのために何かしたいと思う。笑顔が素敵な樹里ちゃんだから、最期まで笑っていてほしかった。
楓馬はしばらく黙り込んだ後、いつものように腰のベルトから、しゅっと何かを取り出した。よく見るとそれは、手のひらサイズの弓矢だった。矢の頭のところにかわいらしいピンクのハートマークがついている。
「これ……おもちゃか何か?」
「告白の成功率を上げるアイテムだよ」
「それって、相手を自分に惚れさせるってこと?」
「そんな効果はない。人の気持ちそれ自体を変えてしまう道具は発売禁止だから。詐欺とか、悪いことに使われる可能性もあるからね。この道具は相手の気持ちを自分に向けることこそできないけれど、相手が真剣に自分の気持ちに向き合ってくれる効果がある」
楓馬がわたしの手のひらに弓矢を置き、手を包み込んで握らせた。弓矢は塩ビかなんかでできているのか、ぷにぷにとしたやわらかい感触がした。本当におもちゃみたいだ。
「これを持って告白するんだ。それだけで告白の成就率力が上がる って、未来では大人気だよ」
「なんかすごいね、未来って」
「人間が想像することは実現できる、って言うだろ? この時代 に誰かがあったらいいなと思ったものは、百年後にはだいたいできてる」
そう言って楓馬がくすっと笑った。わたしを元気づけるような笑みに、しおれていた心が活力を取り戻していく。
「ありがとう、楓馬。これで、樹里ちゃんの恋を名実ともに応援できる」
「あとはその樹里ちゃん次第しだいだね」
わたしはこくっとうなず頷いて、手のひらの上の弓矢を見つめた。数センチのハートの弓矢は、まさしくキューピットが構えるそれのミニチュアだった。
こうしている間にも、樹里ちゃんの時間は砂時計の砂が落ちてゆくように少しずつ減っているのだと思うと、胸が詰まって喉が苦しくて、何もできなかった。池澤さんが運んできてくれた夕食にも、ほとんど手をつけなかった。ぜんぜん減っていないお盆の上を見て、池澤さんは「ひーちゃんどうしたの」と顔をしかめたけれど、すぐに察したんだろう。わたしと樹里ちゃんが仲がいいことを、この人は知っている。
「 今日は、目も合わせてくれないんだね」
楓馬の寂しそうな声に我に返る。
抜け殻といっても差し支えない状態になっていたわたしは、消灯時間の後、楓馬が個室に入ってきたのにも気づかなかった。
「友だちが、死にそうなの」
口にしてしまうとあっけなく感じられて、それが悲しい。楓馬は少しだけ目を見開いた。
「その友だちって、希織ちゃんじゃないよね?」
「まさか。あの子は死からいちばん遠いよ」
「じゃあ誰が……」
「入院してから仲良くなった子で、小さい頃からずっと白血病で 闘と闘ってたの。樹里ちゃんっていうんだけど」
それからわたしはかいつまんで、樹里ちゃんのことを話した。病気を感じさせない明るく元気な子だということ。樹里ちゃんと過ごす時間が本当にきらきらしていたこと。澄夜くんという好きな男の子がいて、おそらく両想いじゃないかということ。
話しているうちに、涙が出てきた。わたしに泣く権利なんてないのに。樹里ちゃんのつらさを思いやるどころか、余命宣告されてないわたしより幸せじゃないかって、そんなひどいことを考えてたわたしが泣いていいわけない。泣いちゃいけないのに泣きたくないのに、涙はぽろぽろこぼれて、感情が噴き出す。
「楓馬の持ってる未来の便利な道具で、樹里ちゃんを救うことはできないの?」
お願いしているように、責めるような口調になってしまう。楓馬は何も言わない。沈黙こそが、答えだった。
「おかしいよ、わたしなんかが助かるのに、樹里ちゃんみたいな優しくて素敵な子が、こんな若さで死んじゃうなんて。楓馬お願い、わたしの代わりに樹里ちゃんを助けて」
「陽彩ちゃん」
わたしの両肩に自分の手を乗せ、楓馬が言った。楓馬の手のひらは今日も冷たかった。
「命はみんな平等だなんて、嘘なんだ」
「な……!」
「たとえば、政治家と一般人が同じ事故に巻き込まれて、病院に運ばれたとする。その時一般人より政治家の治療を優先したら病院を責める人がいるけれど、本当は責められるようなことじゃないんだ。人が背負う役割や責任の重さには、それぞれ違いがある。命の重さに順列をつけるのは、間違ってることじゃないんだよ」
楓馬は今までに見たことないほど苦しそうな顔をしていた。楓馬だって本心は、自分の言葉を取り消したいんだろう。間違ってることじゃないとは言っても、正しいことだとも思っていないんだろう。
「未来の規定で、過去に戻って運命を変えていいのは、未来に続く功績を残した人だって決まってる。陽彩ちゃんは、功績を残した人だ。だけどその樹里ちゃんって子は違う。樹里ちゃんの運命を変えることはできない」
「樹里ちゃんは」
涙のせいで出した声が震えているのがわかる。つらそうな楓馬の目をしっかり見つめながら、頼りない声を振り絞る。
「樹里ちゃんは、恋をしているの。澄夜くんとは、きっと両想いなの。言ってたよ、一度くらいデートしてみたかったって」
「陽彩ちゃん……」
「運命を変えられないなら、せめて樹里ちゃんに最期、なんの心残りもなく死んでほしい。笑ってこの世を去ってほしい。樹里ちゃんの運命を変えられないなら、せめて樹里ちゃんの力になりたい」
知り合ってまだまもない、付き合いの浅い友だちだけど、余命宣告されて落ち込んでたわたしの支えになってくれた樹里ちゃん。
樹里ちゃんの存在に感謝してるから、今樹里ちゃんのために何かしたいと思う。笑顔が素敵な樹里ちゃんだから、最期まで笑っていてほしかった。
楓馬はしばらく黙り込んだ後、いつものように腰のベルトから、しゅっと何かを取り出した。よく見るとそれは、手のひらサイズの弓矢だった。矢の頭のところにかわいらしいピンクのハートマークがついている。
「これ……おもちゃか何か?」
「告白の成功率を上げるアイテムだよ」
「それって、相手を自分に惚れさせるってこと?」
「そんな効果はない。人の気持ちそれ自体を変えてしまう道具は発売禁止だから。詐欺とか、悪いことに使われる可能性もあるからね。この道具は相手の気持ちを自分に向けることこそできないけれど、相手が真剣に自分の気持ちに向き合ってくれる効果がある」
楓馬がわたしの手のひらに弓矢を置き、手を包み込んで握らせた。弓矢は塩ビかなんかでできているのか、ぷにぷにとしたやわらかい感触がした。本当におもちゃみたいだ。
「これを持って告白するんだ。それだけで告白の成就率力が上がる って、未来では大人気だよ」
「なんかすごいね、未来って」
「人間が想像することは実現できる、って言うだろ? この時代 に誰かがあったらいいなと思ったものは、百年後にはだいたいできてる」
そう言って楓馬がくすっと笑った。わたしを元気づけるような笑みに、しおれていた心が活力を取り戻していく。
「ありがとう、楓馬。これで、樹里ちゃんの恋を名実ともに応援できる」
「あとはその樹里ちゃん次第しだいだね」
わたしはこくっとうなず頷いて、手のひらの上の弓矢を見つめた。数センチのハートの弓矢は、まさしくキューピットが構えるそれのミニチュアだった。



