楓馬のことを少し考えた。もし楓馬とキスする日が来たら、わたしもその時のことを一生の思い出にできるんだろうか。

希織が帰った後、日課になってる院内の散歩をすることにした。日課といっても、院内の光景は特に代わり映えしない。お医者さんや看護婦さんが行きかい、面会に来た人と患者さんがおしゃべりしている。病院の廊下は今日も、薬品を薄めたような独特のにおいがぷんと漂っていた。

 せっかくだから、樹里ちゃんに会っていこうか。彼氏ができたって報告するわけにはいかないけれど、樹里ちゃんの恋愛が進展してるかどうか、気になるし。

 そう思って樹里ちゃんの個室に向かうと、ちょうど中から澄夜くんが出てきたところだった。


「こんにちは」
 声をかけると澄夜くんが振り向く。日焼けしている顔が、なぜか青ざめていた。


「あなた、樹里の友だちの……」
「あ、この前名乗って なかったよね。南部陽彩です。樹里ちゃんとは仲良くさせてもらってます」

 改めて自己紹介をして軽くお辞儀をすると、澄夜くんもお辞儀をする。でも、なんだろう。動作がどこかぎこちない。心ここにあらず、といった感じだ。

 悪い予感がむくむくと頭の中でふくれあがる。


「樹里ちゃんのお見舞いに来たの?」
「はい……」
「樹里ちゃん、元気?」
「それが……」

 澄夜くんがゆっくりと次の言葉をしぼり出し、悪い予感が現実になる。


「樹里、肺炎にかかってて。それで今、かなり具合が悪いんです……」
「え……」

 膝からがくりと崩れ落ちそうになった。
 瞼の裏に、この前会った元気な樹里ちゃんの笑顔が浮かぶ。

 病気を治すぞって、前向きだった樹里ちゃん。
 澄夜くんにお守りを渡そうかなって、頬を染めて言った樹里ちゃん。
 樹里ちゃんはわたしと違って余命宣告されてないし、白血病という大病に冒されていても、絶対元気になるって思ってたのに。
 どうして、神様はこんな残酷な仕打ちをするんだろう。


「大丈夫ですか、陽彩さん」


 澄夜くんの声に、はっと現実に引き戻される。心配そうにわたしを覗のぞき込む澄夜くんは、やっぱり表情が暗い。澄夜くんはきっと樹里ちゃんのことが好きだ。その樹里ちゃんの命が危ないんだから、この人だってつらいだろう。


「大丈夫。ちょっとびっくりしただけで。澄夜くん、えらいね。こんな状況になっても、お見舞いに来るなんて」
「あと少ししか、顔見れないかもしれないし。そう思ったら、毎日でもここに足が向くんです」
 縁起でもないことを言ってしまったのに気づ付いたのだろう、澄夜くんがはっと口をつぐむ。

「ごめんなさい、あと少しなんて。俺がそんな気持ちでいちゃ駄目ですよね。つらいのは樹里なのに」
「ううん……樹里ちゃん、そんなに悪いの?」
「俺、何かあった時のためにって、樹里のお母さんと連絡取ってるんですけれど」

 隣の病室に見舞いに来たんだろう、患者さんの家族らしき男女二人組が笑いながら通り過ぎていく。澄夜くんが声をひそめた。


「いつ何があってもおかしくない状況だから、今のうちに会わせたい人はなるべく呼んでるって言ってました。本人には何も言ってないらしいけど、たぶん気づいてるんじゃないかと。樹里、そういうのは敏感なタイプだと思うし」
「そう、なんだ……」


 かつて、余命宣告されてるわたしよりも、そうじゃない樹里ちゃんのほうが幸せだと思っていたけれど、今から思えばなんて愚かな考えだったんだろう。

 樹里ちゃんだって、命の危機がある大きな病気と闘っている。容態が急変して、こんなふうに具合が悪くなることだってじゅうぶんありえたのに、それを今の今までわかってなかった。

 樹里ちゃんのつらさ、明日がこのまま続いていくかどうか、不確かな不安。わたしはちっとも考えてなかった。自分のことばかり、かわいそうだって憐れんでた。

 なんてひどい友だちだろう。


「俺は、今日はもう帰ります」
 澄夜くんがぺこり、と小さくお辞儀をした。


「陽彩さんも今のうちに、たくさん会ってあげてください。樹里、陽彩さんのことすごくうれしそうに話すんですよ。友だちができたの、って」
「そうなんだ……」
「陽彩さんが会いに来てくれたら、樹里も心が楽になると思います」

 そう言って澄夜くんは帰っていった。

 個室に入ると、ドアの開閉音に気づいた樹里ちゃんがだるそうにこちらに頭を動かし、力ない笑みを浮かべた。紙 のように白い顔。秒単位で命がその身体の中からこぼれ出ている のを感じて、喉の奥がきゅっとせまく狭くなる。


「ありがとう、来てくれて」
 樹里ちゃんの鼻にはチューブが入れられ、腕にも点滴の管がいくつも刺さっていた。頬はやつれ、身体全体がしぼんてでしまっている。言葉が見つからないわたしに向かって、樹里ちゃんが言った。


「あたし、もう駄目みたい」
「そんなこと……」
「自分のことは、自分がいちばん、よくわかってる」

 既にあきらめ、受け入れてしまった笑顔で樹里ちゃんは言う。そんなことない、まだ生きられる、そう言いたかったけれど、そんな根拠のない薄っぺらい言葉にはなんの力もないだろう。


「陽彩ちゃん、ありがとう」
「樹里ちゃん……」
「あたしの友だちでいてくれて、ありがとう。陽彩ちゃんのおかげで、楽しかった」

 病院で出会った友だちだから、樹里ちゃんとは病院のなかで中での思い出しかない。ラウンジで何時間もおしゃべりしたりとか、樹里ちゃんの個室でボードゲームをやったりとか。そんな些細な思い出を、楽しかったと言ってくれる樹里ちゃん。わたしも何か言いたかった。ありがとう、楽しかった、出会えてよかった。でもそう言ってしまったら樹里ちゃんがもうすぐいなくなる、それが本当のことになってしまいそうで、何も言えない。ただ、涙をこらえるのが精せいいっぱいだった。


「澄夜と、一度くらいデートしてみたかったな」
 樹里ちゃんが遠い目になって言う。

「澄夜はもしかしたら、あたしのことなんてなんとも思ってないかもしれないけど。他に好きな子とか、いるかもしれないけど。でも……一緒に街に出て、アイスクリームを食べたりしてみたかったな」
「伝えなよ」

 出した声が、震えていた。駄目だ、泣いちゃ。つらいのは樹里ちゃんなんだから、わたしが泣くことは許されない。そう自分を叱るのに、出るのは涙が混じった頼りない声。


「今からでも、澄夜くんに伝えなよ、好きだって。そうしないと、樹里ちゃんきっと、後悔する」
 樹里ちゃんはしばらく黙った後、泣きそうな顔で微笑んだ。

「もうすぐ死んじゃう人間からの告白なんて、重いだけでしょ」
「そんなこと……!」
「そんなこと、あるよ。断るに断れないし、それに澄夜があたしのこと好きでいてくれたとしたら。はっきりさせてたら、あたしが死んだ後、なおさら立ち直れなくなりそうじゃん?」

 樹里ちゃんは本当に心がきれいな、優しい子なんだ。命が失われるという、普通なら気がおかしくなっても仕方ない絶望的な状況でさえ、自分の気持ちを伝えたいという欲よりも、自分の気持ちを受け取った澄夜くんのことを第一に考えている。

 わたしだったらきっと何も考えずに言ってしまうだろうに、小さい頃から病気と闘ってきた樹里ちゃんは、わたしよりずっと大人なんだろう。


「澄夜には、幸せになってほしいんだ。あたしがいなくなったら、さっさとあたしのことなんて忘れて、他の人に恋をして幸せになってほしい」
「樹里ちゃん……」

「だから、このままでいいの。澄夜にあたしの気持ちを背負わせたくないの。あたしはね、澄夜がお見舞いに来てくれて、それだけでうれしかった。澄夜といっぱい話せたから、それだけでよかった。だからもう、じゅうぶん」


 本当に心からそう信じているような、幸せにすら見える顔で、樹里ちゃんは言った。