消灯時間になってお父さんが帰っていって、すぐに寝れずにお父さんが持ってきてくれた漫画を開いた。昔の漫画だから絵は古いけれど、たしかにストーリーは面白い。でもなかなか物語の世界に入っていけず、三分の一くらいまで読んだ後、ページを開いたままお腹の上に本を置いて、ため息を吐いた。
漫画そっちのけで考えてしまうのは、お母さんのこと。お父さんの話を聞いて、気になってしまった。
記憶がないんだから、親とはいえとっくに死んでしまった他人、ぐらいの感覚しか今までは持てなかったのに、なんだか急にお母さんのことを知りたくなってしまっている。手がかりになるのは、写真だけ。家にはお母さんの写真があって、写真の中のお母さんはたしかにお父さんの言うとおり、きれいな人だ。
目がぱっちりアーモンド形で、鼻筋がすっと通っていて、モデルさんか女優さんと言われても納得しそうな顔。お父さんがわたしを見て、お母さんに似てきたと言ってきたのは親贔屓目(ひいきめ) だろう。
コンコン、とドアを たたく音がする。誰が来たかはすぐにわかる。
「楓馬だよね? 入って」
引き戸を開く音がして、楓馬が笑顔を覗かせた。告白した後だっていうのに、ちっとも気まずそうじゃない。むしろこっちのほうが意識してしまう。
まだ、楓馬にちゃんと返事をしていない。
「お、陽彩ちゃん、漫画読んでたんだ」
「うん、お父さんが差し入れてくれたの。楓馬、もしかしてわたしのお父さんのことも知ってる?」
「南部陽一さん、だよね」
わたしはうなずく。楓馬がベッド脇の椅子に腰掛け、続ける。
「南部陽一さんの名前は未来にも伝わってるよ。今日まで続く科学技術の礎(いしずえ) を築いた、素晴らしい先人として。南部陽一さんがいなかったら、未来の世界はこんなに発展していなかっただろうし、デロリヤンも誕生しなかっただろうって言われてる」
「そのデロリヤンって、過去にも行けるんだよね?」
「うん、デロリヤンは空中も水中も走行可能だし、タイムマシンの役目も果たせる。過去にも未来にも行けるよ」
「あのね、わたし」
わたしの口調が無意識のうちに変わっていたのか、楓馬が急に真剣な目になる。シーツを握りしめながらわたしは続ける。
「わたし、過去に行きたいの」
「過去って……どれくらいの過去?」
「お父さんとお母さんが、若い頃に。わたしはお父さんに育てられたから、お母さんのことなんにも知らないの。写真でしか顔がわからなくて、この人がお母さんだよって言われても、へーそうなんだ、ぐらいの気持ちしか持てなくて。それって、すごい寂しいことなんじゃないかと思っちゃって……だから過去に行って、お母さんがどういう人なのか知りたい」
お母さんに夢中になってアタックしていたお父さんをうまく想像できないし、お父さんをそこまで夢中にさせたお母さんも想像できない。でも二人が愛し合ったからわたしがここにいるわけで、そんな二人の間にどんな恋があったのか、この目で見てみたい。
それは、今恋をするかどうか、決断を迫られているわたしにとって、ヒントになることかもしれない。
楓馬がうーん、とうなって腕組みをした。
「それは、陽彩ちゃん以外の人の歴史に干渉する可能性があるからな……たとえば陽彩ちゃんと過去の南部陽一さんが接触したことで、南部陽一さんと奥さんの彩奈(あやな) さんが結婚しないとか、そういうこともあるんだよね。そしたら陽彩ちゃん、生まれなくなっちゃうし」
「大丈夫! 変なことは絶対しない! お願い、楓馬!」
神様にするように手を合わせて頼むけれど、楓馬の表情はかたい。わたしは最後の一押しに出た。
「もし、お願い聞いてくれたら」
そこでちょっと、言葉に詰まった。楓馬のわたしをまっすぐ見る目は、そこに恋があるのかどうか、恋をしたことがないわたしには判断がつかない。
「お願い聞いてくれたら……楓馬の言うこと、なんでもひとつ聞くよ」
「なんでも?」
「そう、なんでも」
これで、もしキスしてほしいとか言われちゃったらどうしよう。そんな思考になってしまう自分が恥ずかしくて、顔が熱くなる。
楓馬がふっと口元をゆるめた緩めた。
「いいよ、過去に行こう」
「本当!?」
「陽彩ちゃんにとっては、大事なことだもんね」
楓馬が手を差し伸べ、わたしはその手をとって、ベッドから起き上がる。
楓馬の手は低体温なのか、わたしの手よりずっと冷たくてひんやりするくらいだったけれど、手のひらは大きくて、包み込んでくれるような安心感があって、ちゃんと男の子の手なんだなって思う。
「パジャマのままじゃまずいから、これを着て」
すっかりおなじみになった白いワンピースを楓馬が渡してくれる。トイレで着替え、楓馬がタブレットをかざした。一瞬で白いワンピースが紫色になった。淡いストライプが入って、青や白の紫陽花がちりばめられている、きれいな柄だ。
「すごいかわいい、この服! 未来にもあるんだね、こんなおしゃれなの」
「もしかして陽彩ちゃん、未来の服ってダサいと思ってた?」
「うん。だって楓馬の服、すっごいダサいんだもん。最初、何かのコスプレかと思った 」
「一応、未来の最先端コレクションに出てたやつなんだけどな……」
楓馬がわかりやすくしょげる。その顔が面白くて、思わず笑ってしまった。
「ニンゲンが服にこだわるのは、ワタシには理解できない感覚だね」
「パオ!」
どこに隠れてたんだろう、いつのまにか楓馬の肩から数センチ上のところにパオが小さな翼をぱたぱたさせて浮かんでいた。
「服なんて、なんだっていいだろうに。ワタシをはじめ、ロボットはみんな服を着ない。無駄なことをしないだけ、ニンゲンより優れていると思わないか?」
「そういうことじゃないんだよ、パオ。人間はね、用途やその日の気分に合わせて服を選ぶっていう楽しみがあるの。人間は、パオみたいなロボットたちよりも、楽しみが多いんだよ」
「ふーん」
「何それ、ひとが真面目に話してるのに!」
「まあまあ」
楓馬が苦笑いしている。パオはむっつりとした表情になって吐き捨てた。
「なんにせよ、自分の両親の若い頃が見たいなんて、変な願いだな」
「パオにはわかんないよ、ロボットには親なんていないんでしょう?」
「そうだ、だからロボットはニンゲンより優れている」
「もう、またそれ! なんでそんなにマウント取りたがるの!?!?」
「陽彩ちゃん、声大きいよ」
はっと口を押さえると、楓馬は笑っていた 。パオは相変わらずむっつりとした顔で、ぷんとそっぽを向いた。
「ごめん、つい」
「いいよ、大丈夫。誰かが聞いていたとしても、まさかこれから病院を抜け出して、過去に行くなんて想像もしないよ」
「それもそうだね」
二人でくくっと笑ってるその横で、パオはまだむっつりしていた。
デロリヤンが停めてある屋上へ、なるべく足音をさせずに向かう。屋上の扉を開けると、デロリヤアンの銀色のボディが雨を受けててかてかと光っている。ちょっとの距離でも濡れないようにと、楓馬が傘を取り出して差してくれた。これは未来仕様で もなんでもない、普通の傘だった。
「具体的に、何年の何月何日に行きたい?」
運転席に座った楓馬が、ボタンを押してモニターを操作しながら言う。
「具体的に……かあ。お父さんとお母さんが結婚したのが、今から二十年前の冬だっていうのは知ってるんだよね。だから、その半年くらい前に行きたいな。結婚前のお父さんとお母さんが見たい」
「ずいぶんとざっくりした情報だな。大丈夫か、楓馬?」
パオの声があきれている。思わずパオをにらみつけるけど、ざっくりしているのは本当なので言い返すこともできない。
「わかった、じゃあ今から二十年前の七月に行こう。場所はどうする?」
「場所!?!? ええと……若い頃、お父さんとお母さんが横(よこ)浜(はま)大学の研究室にいたのは知ってるんだよね。だからそこに行けば、研究しているお父さんとお母さんが見れると思うんだけど」
「思うんだけど、ねえ。ざっくりしている上に、無責任だ」
今度こそパオを百パーセントの苛つきを込めてにらみつけるけど、パオはべーと舌を出しただけだった。挑発のつもり? ていうか、ロボットに舌、あるんだ。
「よし、横浜の大学の研究室だね ね。すぐにつくよ」
楓馬の右手人さ差し指がモニターの真ん中のエンターキーみたいな細長いボタンを押すと、ぎゅううん、とデロリヤンのエンジンが回り出し、窓の外が白い光に包まれる。あっという間に加速して、デロリヤンが白い光の中を疾走する。
「きゃっ」
すごいGがかかって、耳がきーんとする。あまりの光量は網膜を破かんばかりの勢いで、思わず目をぎゅっとつぶった。
その時、右手を優しく握ってくれる心地よい手の感触があった。
楓馬の手は相変わらずひんやり冷たくて、でも大きくてやわらかかった。
漫画そっちのけで考えてしまうのは、お母さんのこと。お父さんの話を聞いて、気になってしまった。
記憶がないんだから、親とはいえとっくに死んでしまった他人、ぐらいの感覚しか今までは持てなかったのに、なんだか急にお母さんのことを知りたくなってしまっている。手がかりになるのは、写真だけ。家にはお母さんの写真があって、写真の中のお母さんはたしかにお父さんの言うとおり、きれいな人だ。
目がぱっちりアーモンド形で、鼻筋がすっと通っていて、モデルさんか女優さんと言われても納得しそうな顔。お父さんがわたしを見て、お母さんに似てきたと言ってきたのは親贔屓目(ひいきめ) だろう。
コンコン、とドアを たたく音がする。誰が来たかはすぐにわかる。
「楓馬だよね? 入って」
引き戸を開く音がして、楓馬が笑顔を覗かせた。告白した後だっていうのに、ちっとも気まずそうじゃない。むしろこっちのほうが意識してしまう。
まだ、楓馬にちゃんと返事をしていない。
「お、陽彩ちゃん、漫画読んでたんだ」
「うん、お父さんが差し入れてくれたの。楓馬、もしかしてわたしのお父さんのことも知ってる?」
「南部陽一さん、だよね」
わたしはうなずく。楓馬がベッド脇の椅子に腰掛け、続ける。
「南部陽一さんの名前は未来にも伝わってるよ。今日まで続く科学技術の礎(いしずえ) を築いた、素晴らしい先人として。南部陽一さんがいなかったら、未来の世界はこんなに発展していなかっただろうし、デロリヤンも誕生しなかっただろうって言われてる」
「そのデロリヤンって、過去にも行けるんだよね?」
「うん、デロリヤンは空中も水中も走行可能だし、タイムマシンの役目も果たせる。過去にも未来にも行けるよ」
「あのね、わたし」
わたしの口調が無意識のうちに変わっていたのか、楓馬が急に真剣な目になる。シーツを握りしめながらわたしは続ける。
「わたし、過去に行きたいの」
「過去って……どれくらいの過去?」
「お父さんとお母さんが、若い頃に。わたしはお父さんに育てられたから、お母さんのことなんにも知らないの。写真でしか顔がわからなくて、この人がお母さんだよって言われても、へーそうなんだ、ぐらいの気持ちしか持てなくて。それって、すごい寂しいことなんじゃないかと思っちゃって……だから過去に行って、お母さんがどういう人なのか知りたい」
お母さんに夢中になってアタックしていたお父さんをうまく想像できないし、お父さんをそこまで夢中にさせたお母さんも想像できない。でも二人が愛し合ったからわたしがここにいるわけで、そんな二人の間にどんな恋があったのか、この目で見てみたい。
それは、今恋をするかどうか、決断を迫られているわたしにとって、ヒントになることかもしれない。
楓馬がうーん、とうなって腕組みをした。
「それは、陽彩ちゃん以外の人の歴史に干渉する可能性があるからな……たとえば陽彩ちゃんと過去の南部陽一さんが接触したことで、南部陽一さんと奥さんの彩奈(あやな) さんが結婚しないとか、そういうこともあるんだよね。そしたら陽彩ちゃん、生まれなくなっちゃうし」
「大丈夫! 変なことは絶対しない! お願い、楓馬!」
神様にするように手を合わせて頼むけれど、楓馬の表情はかたい。わたしは最後の一押しに出た。
「もし、お願い聞いてくれたら」
そこでちょっと、言葉に詰まった。楓馬のわたしをまっすぐ見る目は、そこに恋があるのかどうか、恋をしたことがないわたしには判断がつかない。
「お願い聞いてくれたら……楓馬の言うこと、なんでもひとつ聞くよ」
「なんでも?」
「そう、なんでも」
これで、もしキスしてほしいとか言われちゃったらどうしよう。そんな思考になってしまう自分が恥ずかしくて、顔が熱くなる。
楓馬がふっと口元をゆるめた緩めた。
「いいよ、過去に行こう」
「本当!?」
「陽彩ちゃんにとっては、大事なことだもんね」
楓馬が手を差し伸べ、わたしはその手をとって、ベッドから起き上がる。
楓馬の手は低体温なのか、わたしの手よりずっと冷たくてひんやりするくらいだったけれど、手のひらは大きくて、包み込んでくれるような安心感があって、ちゃんと男の子の手なんだなって思う。
「パジャマのままじゃまずいから、これを着て」
すっかりおなじみになった白いワンピースを楓馬が渡してくれる。トイレで着替え、楓馬がタブレットをかざした。一瞬で白いワンピースが紫色になった。淡いストライプが入って、青や白の紫陽花がちりばめられている、きれいな柄だ。
「すごいかわいい、この服! 未来にもあるんだね、こんなおしゃれなの」
「もしかして陽彩ちゃん、未来の服ってダサいと思ってた?」
「うん。だって楓馬の服、すっごいダサいんだもん。最初、何かのコスプレかと思った 」
「一応、未来の最先端コレクションに出てたやつなんだけどな……」
楓馬がわかりやすくしょげる。その顔が面白くて、思わず笑ってしまった。
「ニンゲンが服にこだわるのは、ワタシには理解できない感覚だね」
「パオ!」
どこに隠れてたんだろう、いつのまにか楓馬の肩から数センチ上のところにパオが小さな翼をぱたぱたさせて浮かんでいた。
「服なんて、なんだっていいだろうに。ワタシをはじめ、ロボットはみんな服を着ない。無駄なことをしないだけ、ニンゲンより優れていると思わないか?」
「そういうことじゃないんだよ、パオ。人間はね、用途やその日の気分に合わせて服を選ぶっていう楽しみがあるの。人間は、パオみたいなロボットたちよりも、楽しみが多いんだよ」
「ふーん」
「何それ、ひとが真面目に話してるのに!」
「まあまあ」
楓馬が苦笑いしている。パオはむっつりとした表情になって吐き捨てた。
「なんにせよ、自分の両親の若い頃が見たいなんて、変な願いだな」
「パオにはわかんないよ、ロボットには親なんていないんでしょう?」
「そうだ、だからロボットはニンゲンより優れている」
「もう、またそれ! なんでそんなにマウント取りたがるの!?!?」
「陽彩ちゃん、声大きいよ」
はっと口を押さえると、楓馬は笑っていた 。パオは相変わらずむっつりとした顔で、ぷんとそっぽを向いた。
「ごめん、つい」
「いいよ、大丈夫。誰かが聞いていたとしても、まさかこれから病院を抜け出して、過去に行くなんて想像もしないよ」
「それもそうだね」
二人でくくっと笑ってるその横で、パオはまだむっつりしていた。
デロリヤンが停めてある屋上へ、なるべく足音をさせずに向かう。屋上の扉を開けると、デロリヤアンの銀色のボディが雨を受けててかてかと光っている。ちょっとの距離でも濡れないようにと、楓馬が傘を取り出して差してくれた。これは未来仕様で もなんでもない、普通の傘だった。
「具体的に、何年の何月何日に行きたい?」
運転席に座った楓馬が、ボタンを押してモニターを操作しながら言う。
「具体的に……かあ。お父さんとお母さんが結婚したのが、今から二十年前の冬だっていうのは知ってるんだよね。だから、その半年くらい前に行きたいな。結婚前のお父さんとお母さんが見たい」
「ずいぶんとざっくりした情報だな。大丈夫か、楓馬?」
パオの声があきれている。思わずパオをにらみつけるけど、ざっくりしているのは本当なので言い返すこともできない。
「わかった、じゃあ今から二十年前の七月に行こう。場所はどうする?」
「場所!?!? ええと……若い頃、お父さんとお母さんが横(よこ)浜(はま)大学の研究室にいたのは知ってるんだよね。だからそこに行けば、研究しているお父さんとお母さんが見れると思うんだけど」
「思うんだけど、ねえ。ざっくりしている上に、無責任だ」
今度こそパオを百パーセントの苛つきを込めてにらみつけるけど、パオはべーと舌を出しただけだった。挑発のつもり? ていうか、ロボットに舌、あるんだ。
「よし、横浜の大学の研究室だね ね。すぐにつくよ」
楓馬の右手人さ差し指がモニターの真ん中のエンターキーみたいな細長いボタンを押すと、ぎゅううん、とデロリヤンのエンジンが回り出し、窓の外が白い光に包まれる。あっという間に加速して、デロリヤンが白い光の中を疾走する。
「きゃっ」
すごいGがかかって、耳がきーんとする。あまりの光量は網膜を破かんばかりの勢いで、思わず目をぎゅっとつぶった。
その時、右手を優しく握ってくれる心地よい手の感触があった。
楓馬の手は相変わらずひんやり冷たくて、でも大きくてやわらかかった。



