希織が帰った後、なんとなく院内をぶらついていた。今日も小雨が降り続いていて、窓の外からしとしとと水音が聞こえている。
午後遅い時間の病院には 、穏やかな時間が流れている。入院患者と面会に来た人が廊下を行きかって、あちこちからおしゃべりの声が聞こえ、笑い声がさざめいていた。ちょっと前だったら、もうすぐ死ぬという絶望に囚われて、そんな明るい声に耳を塞ぎたくなってたけど。
楓馬の登場のおかげで、わたしの心は春の海のように凪(な) いでいる。運命を変えるって具体的に何をするのか教えてもらってないけれど、とにかく未来が断たれないで済むというのは、この上ない安心感だ。
「やだー澄(すみ)夜(や) くんってば。何よそれー」
樹里ちゃんの個室の前を通る時、中から樹里ちゃんの声が聞こえてきた。甘ったるい声音に、立ち聞きはよくないと思いつつ、つい足が止まってしまう。
「そんな大胆な水着、恥ずかしくて着れないよー。ていうか、あたしの病気のこと忘れてるでしょ。海なんて無理だって」
「無理って言ったらなんでも無理になるんだ。今からがんばって病気治せば、行けるって」
樹里ちゃんの他にもうひとり聞こえる声は、間違いなく男の子のものだった。話の内容からして、海に行くか否かの相談をしているらしい。
まさか、樹里ちゃんに彼氏……!?!?
「じゃ、俺、そろそろ行くから」
足音が近づいてきて、わたしはさっと扉から離れた。しかし無情にもがらっと扉が開いてしまい、びっくり顔の男の子と目が合う。隣にいる樹里ちゃんが、わたしを見て目を見開いた。
「あ、陽彩ちゃん!」
「樹里ちゃん……こんにちは」
立ち聞きしてしまった後ろめたさから、ついへらっと笑ってしまう。樹里ちゃんはわたしが何をしていたかわかっていそうなものなのに、気を悪くした様子はない。
「この人ね、同級生の大野(おおの) 澄夜くん! 野球部なんだー。練習大変だけど、終わった後こうして来てくれるの」
「こんにちは」
挨拶すると、澄夜くんは爽やかな笑顔を見せた。野球部らしく肌が浅黒くて、白い歯と絶妙なコントラストを描いている。アイドルやモデルみたいな感じじゃないけれど、イケメンの部類に入るだろう。
「こんにちは、樹里がいつもお世話になってます」
「お世話って、何よー! お兄さんかなんかみたいな言い方!」
「樹里ってなんか妹っぽいじゃん」
「それ、子どもっぽいって意味?」
軽く口をとがらせる尖らせる樹里ちゃん。でも、なんだかうれしそう。うーん、わたし、この場にいるのすごく気まずくなってきた。どう考えても、二人の邪魔だもん。
何か口実を思いついたフリをして去ろうとすると、その前に澄夜くんが歩き出した。
「じゃ、また来るからな」
「うん、またねー!」
手を振って澄夜くんが去ってい行った後、わたしは樹里ちゃんに抑えた声で聞いた。
「ねえ、澄夜くんって、樹里ちゃんの彼氏?」
「やだなあ、そんなわけないじゃんー!」
赤くなった頬が、澄夜くんのことをなんとも思ってないわけじゃないことを物語っている 。さっきの会話からしても、二人は付き合っているわけではないとはいえ、かなりいい感じに思える。
「じゃあ、樹里ちゃんの好きな人?」
そう言うと、樹里ちゃんは耳まで真っ赤にして、しばらくの間の後うなずいた。
「澄夜くん、普段ふだんはおちゃらけてるんだけどさあ。グラブ握ると人が変わったみたいになって、すごく格好よくて。野球推薦で、高校狙ってるの。甲子園行けそうな、野球の強豪校。応援しちゃうよねー」
「告白しないの? 面会に来てくれるってことは、じゅうぶん脈あると思うけど」
「それは考えた。でも、この時期に告白とか、野球の邪魔になんないかって考えちゃうんだよね。だいいち」
樹里ちゃんの顔が急に曇った。
「病気もちの彼女なんて、きっと、一緒にいても楽しくないよね……」
「樹里ちゃん……」
樹里ちゃんも、わたしと同じことを考えてた。
わたしも樹里ちゃんも、病気のせいでできないことがたくさんある。入院している以上、彼氏ができても自由にデートすることすら許されない。行けない場所も食べられないものもたくさんあるのに、好きな人を楽しませてあげられるか、って考えちゃうのはわかる。
改めて思う。楓馬は、わたしなんかと本当に付き合いたいって思ってるんだろうか。
でも、わたしは樹里ちゃんの背中を押してあげたかった。
「樹里ちゃんに好きって言われたら、澄夜くんはきっと、それだけでうれしいと思うよ」
「そうかな?」
ちょっと不安そうな樹里ちゃんの目に、力強くうなずく。
「澄夜くん、どう見ても樹里ちゃんのこと好きだもん。好きな子から好きって言われて、喜ばない男の子なんていないし。普通にデートとかできなくても、そのぶん澄夜くんのこと応援してあげたらいいと思うよ。そして、樹里ちゃんもがんばって病気を治したら、自由に二人で街を歩けるんだし」
自分で言っても一般論の域を出ていない、薄っぺらい言葉だと思う。でも、言わずにいられなかった。樹里ちゃんに恋を叶えて、幸せになってほしかった。
「ありがとう、陽彩ちゃん」
樹里ちゃんがいつものような、病気を感じさせない明るい笑顔になった。
「あたし、ちょっとがんばってみようかな。もうすぐ澄夜くん、夏の大会はじまるし。お守りとか渡してみるのもありだよね」
「うん、全然ぜんぜんありだと思う! 頑張がんばってよ、樹里ちゃん」
恋する乙女な樹里ちゃんを見ていたら、わたしも自然と楓馬のことを思い出してしまう。
だって、やっぱり恋って素敵だなって思っちゃったから。
わたしも楓馬と、樹里ちゃんと澄夜くんみたいになってもいいかも……そんな思いが、ひそかに胸の中で芽生えて、壊れかけた心臓を熱くした。
午後遅い時間の病院には 、穏やかな時間が流れている。入院患者と面会に来た人が廊下を行きかって、あちこちからおしゃべりの声が聞こえ、笑い声がさざめいていた。ちょっと前だったら、もうすぐ死ぬという絶望に囚われて、そんな明るい声に耳を塞ぎたくなってたけど。
楓馬の登場のおかげで、わたしの心は春の海のように凪(な) いでいる。運命を変えるって具体的に何をするのか教えてもらってないけれど、とにかく未来が断たれないで済むというのは、この上ない安心感だ。
「やだー澄(すみ)夜(や) くんってば。何よそれー」
樹里ちゃんの個室の前を通る時、中から樹里ちゃんの声が聞こえてきた。甘ったるい声音に、立ち聞きはよくないと思いつつ、つい足が止まってしまう。
「そんな大胆な水着、恥ずかしくて着れないよー。ていうか、あたしの病気のこと忘れてるでしょ。海なんて無理だって」
「無理って言ったらなんでも無理になるんだ。今からがんばって病気治せば、行けるって」
樹里ちゃんの他にもうひとり聞こえる声は、間違いなく男の子のものだった。話の内容からして、海に行くか否かの相談をしているらしい。
まさか、樹里ちゃんに彼氏……!?!?
「じゃ、俺、そろそろ行くから」
足音が近づいてきて、わたしはさっと扉から離れた。しかし無情にもがらっと扉が開いてしまい、びっくり顔の男の子と目が合う。隣にいる樹里ちゃんが、わたしを見て目を見開いた。
「あ、陽彩ちゃん!」
「樹里ちゃん……こんにちは」
立ち聞きしてしまった後ろめたさから、ついへらっと笑ってしまう。樹里ちゃんはわたしが何をしていたかわかっていそうなものなのに、気を悪くした様子はない。
「この人ね、同級生の大野(おおの) 澄夜くん! 野球部なんだー。練習大変だけど、終わった後こうして来てくれるの」
「こんにちは」
挨拶すると、澄夜くんは爽やかな笑顔を見せた。野球部らしく肌が浅黒くて、白い歯と絶妙なコントラストを描いている。アイドルやモデルみたいな感じじゃないけれど、イケメンの部類に入るだろう。
「こんにちは、樹里がいつもお世話になってます」
「お世話って、何よー! お兄さんかなんかみたいな言い方!」
「樹里ってなんか妹っぽいじゃん」
「それ、子どもっぽいって意味?」
軽く口をとがらせる尖らせる樹里ちゃん。でも、なんだかうれしそう。うーん、わたし、この場にいるのすごく気まずくなってきた。どう考えても、二人の邪魔だもん。
何か口実を思いついたフリをして去ろうとすると、その前に澄夜くんが歩き出した。
「じゃ、また来るからな」
「うん、またねー!」
手を振って澄夜くんが去ってい行った後、わたしは樹里ちゃんに抑えた声で聞いた。
「ねえ、澄夜くんって、樹里ちゃんの彼氏?」
「やだなあ、そんなわけないじゃんー!」
赤くなった頬が、澄夜くんのことをなんとも思ってないわけじゃないことを物語っている 。さっきの会話からしても、二人は付き合っているわけではないとはいえ、かなりいい感じに思える。
「じゃあ、樹里ちゃんの好きな人?」
そう言うと、樹里ちゃんは耳まで真っ赤にして、しばらくの間の後うなずいた。
「澄夜くん、普段ふだんはおちゃらけてるんだけどさあ。グラブ握ると人が変わったみたいになって、すごく格好よくて。野球推薦で、高校狙ってるの。甲子園行けそうな、野球の強豪校。応援しちゃうよねー」
「告白しないの? 面会に来てくれるってことは、じゅうぶん脈あると思うけど」
「それは考えた。でも、この時期に告白とか、野球の邪魔になんないかって考えちゃうんだよね。だいいち」
樹里ちゃんの顔が急に曇った。
「病気もちの彼女なんて、きっと、一緒にいても楽しくないよね……」
「樹里ちゃん……」
樹里ちゃんも、わたしと同じことを考えてた。
わたしも樹里ちゃんも、病気のせいでできないことがたくさんある。入院している以上、彼氏ができても自由にデートすることすら許されない。行けない場所も食べられないものもたくさんあるのに、好きな人を楽しませてあげられるか、って考えちゃうのはわかる。
改めて思う。楓馬は、わたしなんかと本当に付き合いたいって思ってるんだろうか。
でも、わたしは樹里ちゃんの背中を押してあげたかった。
「樹里ちゃんに好きって言われたら、澄夜くんはきっと、それだけでうれしいと思うよ」
「そうかな?」
ちょっと不安そうな樹里ちゃんの目に、力強くうなずく。
「澄夜くん、どう見ても樹里ちゃんのこと好きだもん。好きな子から好きって言われて、喜ばない男の子なんていないし。普通にデートとかできなくても、そのぶん澄夜くんのこと応援してあげたらいいと思うよ。そして、樹里ちゃんもがんばって病気を治したら、自由に二人で街を歩けるんだし」
自分で言っても一般論の域を出ていない、薄っぺらい言葉だと思う。でも、言わずにいられなかった。樹里ちゃんに恋を叶えて、幸せになってほしかった。
「ありがとう、陽彩ちゃん」
樹里ちゃんがいつものような、病気を感じさせない明るい笑顔になった。
「あたし、ちょっとがんばってみようかな。もうすぐ澄夜くん、夏の大会はじまるし。お守りとか渡してみるのもありだよね」
「うん、全然ぜんぜんありだと思う! 頑張がんばってよ、樹里ちゃん」
恋する乙女な樹里ちゃんを見ていたら、わたしも自然と楓馬のことを思い出してしまう。
だって、やっぱり恋って素敵だなって思っちゃったから。
わたしも楓馬と、樹里ちゃんと澄夜くんみたいになってもいいかも……そんな思いが、ひそかに胸の中で芽生えて、壊れかけた心臓を熱くした。



