陽彩ちゃんはしばらく目を見開いてじっと僕の顔を見つめていたけれど、まだ僕の手が頬にあったことにようやく気付づいて、ばっと身体を離した。顔が真っ赤になっている。


「……それ、どういうこと?」
「どういうことも何も、そのままの意味なんだけど」
「な、何それ……」


 陽彩ちゃんの瞳が涙でふくらんでいる。うれ嬉しいんじゃなくて、あまりのことに感情がたかぶって自分でもわけがわからなくなっているんだろう。熱そうな真っ赤な頬を両手で覆って、陽彩ちゃんは叫び出した。


「こんな病人のどこがいいっていうの!? わたしと付き合って何かいいことある? ないでしょ!? だいたい楓馬、わたしのことまだなんにも知らないじゃない! わたしだって楓馬のこと何も知らないし」
「うん、僕は陽彩ちゃんのことを何も知らない」


 そう言うと、陽彩ちゃんは大きく目を瞬かせた。自分では気づいてないのかもしれないけれど、長い睫毛は存在感があって目をきれいに見せている。


「でも、この気持ちは本物なんだ。恋人同士になって、これからはもっともっと陽彩ちゃんのことを知っていきたい。陽彩ちゃんにも僕を知ってほしい」
「………… 」
「僕じゃ、嫌?」


 長い長い沈黙の後、蚊の鳴くような声が返ってきた。


「考えさせて」
「わかった」


 僕はそっと立ち上がり、病室を後にした。扉を閉じるとき時、ベッドの上で呆けている陽彩ちゃんの姿が目に入った。

 病院の屋上に上り、腰のベルトからテントを出す。未来のテントはテニスボール大の大きさで、スイッチを押すだけで六畳ほどの大きさにふくらむ。場面に応じて、外から見えないようにする透明機能つき。原理はデロリヤンと同じだ。

 テントの中にはベッドと机とパソコン、ひととおりの生活用品がそろっている。みんな、未来の僕の家にある自分の部屋から 、テントの中に運び込んだ。これは運送用ロボットを使えばものの数分で終わる作業だ。お気に入りの赤いソファに腰掛け、コーヒーメーカーのスイッチを押す。この時代なら豆を挽くだけでたいへんな大変な時間がかかるけれど、未来の技術ではあっという間においしいコーヒーができる。今日はコスタリカ産の豆だ。

 二十世紀風の青い陶器のマグカップにコーヒーを淹れ、丸い窓から少しずつ朝の色に染まっていく世界を見つめながら、カップを傾ける。昼夜逆転の生活を送る僕はこの時間帯にコーヒーを飲まないほうがいいんだろうけれど、一日の終わりに味わう苦味はくせになる。


「楓馬も、なかなかひどいことをするんだな」
 ひょっこり現れたパオが、机の上で責めるような目で僕を見る。


「見てたのかい?」
「楓馬の背中にくっついて、一部始終を見ていた」
「のぞき見だなんて趣味が悪いなあ」
「趣味が悪いのはどっちだ。あれ、色仕掛けっていうんだろう」
「ひどい言い方するね」


 ロボットのくせに、人間のやり方にケチをつけるなと言いたいが、僕だって自分のやってることを後ろめたいと思う気持ちはあるので、黙ってパオの言いぐさを聞く。


「ひどいのは楓馬だろう。あんな純粋な女の子をたぶらかすなんて、ああニンゲンは怖い、ニンゲンは怖いなあ」
「いいだろう、別に。これも任務のうちに入ってるんだよ」
「任務だったら、他人の気持ちを振り回してもいいのかい?」


 ふん、と拗ねたようにパオが後ろを向いた。普段ふだんはあまり目立たない、短いしっぽが怒ったようにつんと尖っている。


「まったく、楓馬をこんな子に育てた覚えはないのに」
「おいおい、保護者ヅラするなよ。君はあくまで秘書ロボットだろう、親じゃない」
「親なんていないくせに」


 パオがぱたぱたと飛び上がり、僕の耳元で釘を刺すように言った。


「とにかく、あの陽彩とかいう子をあまりこちらの都合で振り回すんじゃない。ほんとにニンゲンは怖いことをするんだから」
「しょうがないだろう。運命なんだ、この恋は」
「耳障りのいい言葉で丸め込もうとしても、無駄だ」


 憮然とした調子でパオが言った。

 今頃陽彩ちゃんは寝ただろうか。それともベッドの中で、さっき僕が言った言葉をぐるぐる思い出して、寝られなくなっているだろうか。

 罪悪感がないわけじゃない。パオの言うことだってよくわかる。

 でも僕は、なんとしてでも陽彩ちゃんと付き合わなきゃいけないのだ。

 人類の未来のために。