どろっとしたゼリー状のお風呂に浸かっていたような意識が少しずつ水面に引き上げられていく。
 まず目に映ったのは見慣れた天井。病院だ、ということがわかる。身体じゅうにみっしり疲れが溜まっていて、すぐに動かせない。カーテンの隙間から青白い光が入ってきて、夜明けが近いことがわかる。


「気がつ付いた?」


 楓馬の声だった。
 楓馬はベッドのすぐそば、椅子に腰かけて掛けて心配そうな目でこっちを見ていた。心なしか、髪がよりいっそう白さを増したように見える。


「覚えてる? ハワイで発作を起こしたんだよ、陽彩ちゃん」
「……なんとなくは。希織はどうしたの?」

「まず、陽彩ちゃんに薬を飲ませた。未来から持ってきた、この時代のものよりずっと効く薬をね。それを飲むと陽彩ちゃんの発作はおさまって、代わりに意識を失った。大変だったよ、人前で倒れたんだもん。救急車を呼ばれそうになったけど、それを断って、デロリヤンに陽彩ちゃんと希織ちゃんを乗せて戻ってきた。希織ちゃん、陽彩ちゃんのことすごく心配してたよ。まだ朝方だけど、早めに連絡してあげたほうがいいと思う」

「そう、なんだ……」


 情けなさで声が小さくなる。


 楓馬はきっと、発作で青ざめ、紫色になったみにくいわたしの唇を見ている。目ん玉は飛び出てよだれなんかも出ちゃって、みっともない姿になってたはずだ。希織にも、お父さんにだってできれば見られたくないのに、まだ知り合ってまもないよくも知らない男の子にそんな姿を見られてしまうなんて。

 ……いや、それだけじゃない。楓馬にみっともないところを見られたくないのは、知り合って日が浅いから、それだけじゃないような気がする。うまく言えないけれど、もっと大きな動きが心のなかにあるような、そんなふうに思う。


「迷惑かけて、ごめんね」
 とにかく謝らなくちゃいけない。楓馬はにこっと口角を上げて、首を横に振る。


「大丈夫だよ、僕のほうこそごめんね、薬ぐらいちゃんと持たせておくべきだった。それに陽彩ちゃん、病気だもんね。これからはやたらと連れ出すことは控えるよ」
「うん、わたしも、あそこへ行きたいとか、わがまま言うのやめる。いくら、デロリアンデロリヤンがあるからって」


 まだ胸に痛みの名残りがとどまっている気がして、心臓のあたりにそっと手をやる。とくとく、それは生まれたての小鳥みたいに動いている。

 あったかいけれど、一見、ちゃんと働いているようだけど。この心臓は、命にかかわる欠陥を抱えている。

 今回は楓馬が持ってきてくれたっていう薬のおかげでなんとかなったけれど、わたしが常に命の危機に瀕している のはまごうことなき事実だ。


「ねえ、楓馬」
「うん?」
 楓馬の目の奥、黒い瞳の向こうを探るように見つめた。


「わたし、本当に死なないの?」
「……死なないよ。僕の言うことを聞いてくれれば」
「楓馬は運命を変える、っていうけれど、具体的にはどうするの? わたしは何をすればいいの?」
「今の段階では教えられない」


 風馬はふっと悲しげな顔になって首を横に振った。その態度に疑念が生まれる。


「何それ、どういうこと? それもまた、守秘義務なの?」
「……そういうこと。時がくれば来れば、ちゃんと教える」
「時がくれば来ればとか悠長なこと言わないでよ! わたし、余命宣告されてるの! さっきだって死にそうになってたじゃない! 楓馬だってその目で見たじゃない!!」


 思わず声を荒らげ てしまい、楓馬が叱られた子犬みたいな目でわたしを見た。その視線に、罪悪感がちくんと心を刺す。
 楓馬と喧嘩したいわけじゃないのに。怒りたくなんかないのに。だいたい、怒ったりしたらまた、心臓に悪い。意識して深呼吸をした。


「……ごめん。大声出しちゃって」
「いや、いいよ。僕がいけないんだから」
「わたし、信じていいんだよね? 楓馬のこと」


 楓馬が来てくれて、うれ嬉しかった。死ななくていいと言われて、小躍りしたいような気分になった。
 余命三ヵ月だなんて言われて、わたしは絶望していたから。
 一度救い上げられて、また高いところから落とされるようなことだけは、絶対嫌だ。


「わたし、死にたくないの。まだやりたいこと、食べたいもの、行きたいところ、たくさんあるの。お父さんに恩返しもしてないし、自分の夢だって叶えられてない……だから」


 だから、の次に言葉が続かない。わたしは楓馬に何が言いたいのか。
 運命を変える具体的なその方法を教えてといっても、きっとはぐらかされてしまうだろう。
 でも何も知らされていないのに、信じるのは難しい。

 うつむいたわたしの頬を、ふんわり包み込む感触があった。
 それが楓馬の手だと気づ付いた時は、朝に近づ付いた青白い光の中、楓馬の顔がさっきよりもだいぶ近いところにあった。


「まだやりたいこと、あるって言ったよね」
「……言った」
「恋を、してみたいとは思う?」


 唐突な質問にちょっとびっくりしたけれど、真面目に考えた。


「よくわからない。わたし、ひとを好きになったことがまだないから」
「……陽彩ちゃん、高校生だよね?」
「高校生だよ。自分でも遅れてると思う」


 わたしにとって男の子は、危険な存在だ。小学校の頃、女の子たちは表面上は仲良くしてくれてもどこか一歩距離を置き 、陰で有名人の娘のわたしのことをあれこれ言う陰湿さを持っていたけれど、男の子たちはもっと直接的で、物理的にわたしをいじめてきた。

 髪の毛を引っ張ぱられる、スカートをめくられる、ランドセルを蹴られる。そんなことは、同年代の女子だったら経験してもおかしくないけど、わたしの場合は「お父さんは天才科学者なのに娘はたいしたことない」という大義名分をいじめの理由にされ、精神的な攻撃までされた。授業中に当てられて答えを間違えた時なんて、男子たちからいっせいに笑われた。

 中学に入ると、男子たちは少し大人になったのか、女子をいじめるなんてことはしなくなったけれど、その代わりひっそりと、にやにやと、下品な話をするようになった。そのなかに中にわたしの名前も出てくることを知っていた。なんて低俗で、嫌な生き物なんだろうと心底軽蔑した。クラスの女子の胸のサイズでランキングをつけるなんて、趣味が悪過ぎる。しかもわたし、下から二番目だったし。


「同い年の男の子は乱暴で下品で子どもっぽくて、恋愛対象には見られないし。かといって年上の男の人でいいなって思う人もいなかったの。そもそもイケメンに興味がないのかもしれない。芸能人で特に好きな人とかもいないし、推しに心酔する感覚もよくわからなくて……でも、憧れる思いは、あるよ」

「憧れる?」
「恋って、きっといいんだな、って思う」


 自分が好きな人に好きだと言ってもらえるのは、すごく素敵なことだろう。休みの日には一緒に映画館や動物園に行ったりして、カフェでパフェを半分こして食べたりして、定番のあーん、なんかしちゃって。

 わたしの「恋」のイメージはそれ以上ふくらまないし、だいいちこんな身体じゃ思うようにデートなんてできないけれど。でも、恋をしてみたいという気持ちは、なくはない、と思う。


「じゃあ、僕じゃ駄目かな」
「え?」
 楓馬の白い頬にふっと赤みが差した。いつも堂々と、わたしをまっすぐ見る目が、照れたように揺らいでいる。


「僕と付き合ってほしい」
「……どういうこと」
「陽彩ちゃんのことが、好きなんだ」


 時が止まったような、なんていう表現をよくこういう時使うけれど、本当にそんな感じだった。
 朝日が出る前の青い光が、少しずつ白っぽくなっていた。