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指定された店に時間よりも10分ほど前に到着すると、彼は既に窓際の一番奥の席に座っていた。白い鶴の柄があしらわれた黒いカッターシャツに包まれた、筋肉質な背中が丸まっているのが見える。ライブハウスでは幾度となく顔を合わせて雑談に興じることもあったが、慣れない場所で顔を合わせるとなるとやはり改めて緊張するものだ。

ご足労頂いてすみません、事務所がこの近くなので、と肩を竦める彼は、今まで見たことがないほど小さく見えた。彼がこれ以上萎縮しないよう、問題ないですよ、私もここはよく利用するので、と応じる。実際、家にいるのが気が滅入るときなどにはよく利用していた場所だ。下北沢駅から直結の、時間貸しのカフェラウンジ。



(※イメージ 引用:Pixabay)

名物のカフェオレの紙コップを握り締めた両手は、少しだけ震えていた。逞しい見た目に反し、決して自信家なタイプのバンドボーカルではない彼だが、やや思い詰めたようなその様子は、いちリスナーに過ぎない私には見慣れないものだった。砂糖をたっぷり入れたそれを少しだけ啜り、美味しいですね、ここのコーヒー、と、所在なげに呟いている。カップからほのかに立ち上がる湯気で、度入りの黒縁眼鏡にスモークがかかった。彼が話しやすいよう細心の注意を払って話を促すと、彼はやっと我に返ったように顔を上げた。
どこから話していけばいいのかわからないので、ゆっくりになってしまうんですけどいいですか、と、彼はまず前置きをした。この後は予定はないのかと聞くと、7時からスタジオ練習が入っていると言う。まだ3時間以上はあるし、落ち着いて話してくれればいいですよ、と返すと、彼はやっと安堵したように、訥々と話し始めた。眼鏡のスモークは、もう解けている。

「サビがキャッチーなら、物語性もメッセージ性もなんもかんも無視してバズる可能性ってあると思ったんですよ」彼は件の曲について、そう話し始めた。私は今年のはじめ、彼らが新年1曲目としてリリースしたその曲のことを思い出す。4人のバンドサウンドと打ち込みのシンセサイザーが絶妙にマッチした、おもちゃ箱をひっくり返したように賑やかな音。それでいてBPMは高過ぎず、一度耳にしただけで口ずさめるようになってしまえそうな覚えやすさがある。同じフレーズを繰り返す歌詞、意味深な言葉選び、しかし全体的に前向きなメッセージで締められているような印象……その楽曲の持つ親しみやすさとインパクトは、なるほどサビだけでも伝わってくるようではある。
「まずは知ってもらわないと。今どきエンタメが氾濫している時代ですから、音楽なんか聴かないでいようとすれば聴かないで生きていけちゃうし」まるでイタズラの言い訳でもするような調子で、彼は上目遣いにこちらを見ながら、言葉をゆっくりと選んで話す。「そりゃ音楽好きな人の耳には届きやすいでしょうけど、そうやない人の耳にまで届けてやっとヒット曲やと思うので。ほら、めちゃくちゃダンスでバズった曲が、よく聴いたら到底踊れるようなご陽気な歌詞やなかったりするやないすか。でも、それでもまずは知ってもらえるような曲やないと意味がないから、おれはなるべくキャッチーなサビがええよな、と思ってて。動画とかでBGMに使われる部分なんて、15秒やそこいらなんやし。
Kはそれが嫌やって言うんですよ。どんなにキャッチーな曲ができても、相当気に入らんと敢えてリードやなくてカップリングにしたりする。それどころか、デモ聴いたおれたちの絶賛無視して没にしてしまうことも少なくなくて。もしバズっても誤った認識で広まったら嫌や言うて。おれはずっと、何甘いこと言うとるねんと思ってたんですけど。
それなので、あいつがおれたちに送ってきたデモ音源って、結構スゴい曲が多いんですよ、悔しいんですけど。あの、おれたち来年早々にアルバム出す予定あるんですね。ああ、これはまだ公式発表はしてないですけど、ライブとかではもう言っちゃってるんで、お気になさらず。記事にも書いちゃってください。あ、どっちみち匿名なのか。はは。あ、はい、すみません続けます。
それで、今年はそれに向けて曲作ったり、そこからシングルカットして出したりっていう方に注力してたわけですけど、なんつーか、こう、パンチがないんですよ。はい、おれの作る曲に、です。おれたち、アルバム出しますってなったとき、基本的にそれぞれ何曲か作っていったものを持ち寄って、そこからより良いやつとかコンセプトに合ったものとかを選んでいって、各々の曲がまんべんなく収録されるようにしていくことが多いんですけど、やっぱり曲がりなりにもメインボーカルなんで、1曲は必ず入れたいじゃないですか。でもなんか、そのとき作ってたデモが、全部自分的にはパッとしなくて。これじゃあシングルカットは無理やな、と思いながら、家でパソコンの整理してたんですよ。やっぱりこういう仕事してると、パソコンの容量が重くなりがちで。定期的に音声データとかは消していかないとすぐストレージがいっぱいになっちゃうんですけど、おれ、すぐにデータの要る要らないとか、判断するの苦手なんですよ。それで、普段からメンバーに送ってもらった試作のデモだとか、自分で作ったけどいまいち納得いかなかったやつとかを、音源も歌詞のテキストデータも構わずぶち込んでおくファイルを作成してあるんですね。そこに入ってただいぶ前のKから送られてきた音源をなんとなく聴いてみたら――なんかね、上手く言えないんですけど、すごく、癖になるような曲だったんです。2、3年ぐらい前のものだったかな。おれがその、自分が作ったことにして発表したやつは結構音を増やしてよりバンドの曲らしくしてるんですけど、その原曲はもっとシンプルなピアノと、打ち込みのドゥンドゥンしたベース音だけで、歌も入ってなかったんです。それでも歌メロにあたる部分はすごくいいメロディだったし、何よりなんというか……一度耳にしたら忘れられないというか。おれ、その曲聴いたあと、半日ぐらいはサビメロが頭の中でずっとずっと流れてましたもん。セルフ作業用BGMです。たった1回しか聴いてないのにですよ?
それで、おれ、確信したんす。この曲なら天下取れるなって。実際作り替えて作詞もしてツインボーカルにしたら、天下取るまではまあ、いきませんでしたけど、それでもおれたち的にはかなりバズった方ですからね。MVも1ヶ月で1万回再生されたら体感としては大ヒットで、しかも初動1ヶ月経過しちゃったらそれ以降再生数が爆発的に伸び続けるなんてことはまずないのに、今現在、公開から半年以上経ってますけど、昨日ちょうど5万再生突破しましたから。複雑な気分ではありましたけど、自分の曲がそんなんなったことないんで、めちゃめちゃ嬉しかったっすね」

そこで私の脳裡には、ある根本的な疑問が浮上した。そもそもK君は、M君が自分が作った曲を流用したものを「自身の手による曲だ」と標榜して持ってきたことに、何故全く気づかなかったのだろうか? 当初は私も多作な若いミュージシャンにとっては“あるある”なのだろうと考えていたが、改めてその疑問を率直にM君にぶつけてみると、彼は苦笑いを深めたような顔で、小さく頷いた。

「一応あのときの謝罪文にも書いた通り、結構前のデモでしたし、忘れてたって、本人は言ってました。スランプとは無縁ですからね、あいつは。それに、おれが盗用したのはサビしかなかったデモ音源で。メロの部分やイントロだとかアウトロだとか、他の部分は全部そのサビに誘われるようにして、自分で作ったんです。ああいう断片的な音源であれば、あいつは呼吸でもするように日々作ってるはずなんで――って、思ってたんですけど、」
彼は一度、静かに息をついて下唇を軽く噛み、少しだけ顔を上げる。そして、想定外の言葉を続けた。

「でもね、あいつ、気づいてたんやと思います。おれが自分の曲パクったって」

えっ、なんで。口をついて飛び出したその言葉は「なんでそう思うのか」という意味のものだったが、M君は実はここが今日の本題で、と、少しだけ背筋を伸ばした。
「あくまで今思い返せば、ですけど。あいつ、わかったうえで気づいてないフリしてたんやろな、と思うんです。敢えて、泳がせてたというか。

おれ、あの曲が出たあと、正直言って怖くなっちゃったんです。自分的には生まれて初めてのスマッシュヒットで、最初はもう脳内バグってるからメンバーと抱き合って喜びましたけど、考えれば考えるほど、やっぱり自分の曲やない曲がウケちゃったわけじゃないですか。罪悪感、とは少し違う……そりゃまあ、もしも本人に気づかれたらどうしようとか普通に思いましたけど、どっちかというと、アイデンティティ奪われるみたいな恐怖と悔しさの方が強かったですね。だっておれが単独で作った曲をリードトラックにしてもMVせいぜい9000回とかしか回らへんのに、平気で万の壁越えてったわけですから。おれだけじゃあどうしようもなかったのかなあと思うとなんか、段々不安にも駆られるようになって。うちのバンドはそれぞれが曲を作れて詞も書けるのが売りなので、まさかフロントマンがパッとしない曲しか作れなくなってもうたら、もうそんなん売りにならんくなるわけやないですか。もうそんなん、歌だけ歌ってろやってことになるわけで。たかがスランプと言われたら返す言葉もないんですけど、段々夜も眠れなくなってきて。

その頃、おれ、悪夢ばっか見てたんすよ。しかもなんか、すごいリアルな悪夢。いやシチュエーションがリアルとか生活感があるやつとかではなくて、においとか、肌触りとかも感じるタイプの悪夢。昔の小説みたいなんですけど、夢の中のおれはデカい虫で、なんか小さな、監獄みたいな小部屋に押し込まれてるんです。どうせ虫ならサナギの中にでも籠って、綺麗なチョウチョにでもなれたら良かったんですけどね。でもその夢の中では真っ暗な密室の中におれは押し込められていて、布団だとか、家具が部屋の中にあるのかどうかもわからない。ただ部屋が狭すぎて身動き取れへんなあと思いながら手を挙げたら指先であるはずの場所がふしくれだった黒い爪楊枝みたいになっていて、それもまた真っ暗闇でもうっすら、窓の外の光だけを反射して湿ったようにぬらぬら光るから、ああこいつは決して綺麗なタイプの虫じゃないんやろな、ということだけはわかるんですけど。

あ、そう、部屋の中に一箇所だけ、窓があったんです。それもはめ殺しの鉄格子が付いていて、向こう側から光は届くけど、何故か窓の外の景色は真っ赤で。まるで学生時代に使った赤い下敷きでも鉄格子に貼り付けたんやないかってぐらい真っ赤な窓の外で、ずーっと、雨が降ってるんですよ。霧みたいな細かい雨です。耳鳴りみたいな、サーッていう音をずーっと鳴らしながら、真っ赤な空から、真っ赤な雨が、ずーっと降ってるんです。窓にはガラスは嵌ってないから、外のにおいもするんですけど、部屋の中は全くの無臭なのに比べて、ものすごく臭いんです。なんだろうな、腐った塩辛を鉄製のフライパンで焼いたみたいな……湿った、腥いにおいがして」

彼はここまで話したところで、自分が今いる場所が一応飲食物を提供する場所であるということを思い出したのか、我に返ったような表情になり苦笑した。
「すみません、███さんもコーヒー飲んでるのに……しかもなんか、こうやって言葉にするとめちゃめちゃキチガイみたいですね」
メンバーにも頼られるフロントマンである彼の意外な一面を目にして、私も少し面食らっていた。自らの出来心が発端とはいえ、彼がこれほどまでに神経衰弱に陥っていたとは察することすらできなかった。彼は左手の人差し指の爪の先を反対側の指先で少し神経質そうに触りながら、まあそんなんで、あんまり眠れない時期があって、と、再び薮を掻き分けるように話し始めた。
「副業もまだ、ね。おれ、派遣社員なんですけど、やめられないんで、そっちにも支障出ちゃうとやばいなーと思いながら過ごしてたら、Kが、睡眠用のリラクゼーションミュージックみたいな、音源を薦めてくれて」
私が思わず、へぇ、と声を出すと、彼も何故か少し嬉しそうな表情になって、珍しいですよね、と笑った。あいつがおれの健康を気遣うなんて珍しいですよ、やっぱり。
彼らは元々決して仲の悪いバンドではない――寧ろ私のようなファンの目には仲のいいバンドとして映っているが、マイペースでややドライに見える性格のK君が、能動的にメンバーの身体を気遣うような行動を取るのは物珍しく思えた。彼の名誉のために追記しておくが、日頃の彼の、特にM君に対して見せる一見ドライにも思える振舞いは、日常的に家族の分まで自炊する習慣があるほど生活力の高いM君への信頼感によるもので、たとえば年中お腹を出して眠っては風邪を引いているタイプであるH君などに対してはその限りではなかった。そんな、普段はやや塩対応気味なK君に薦められた音源とは一体どのようなものなのかと問えば、M君は本当に何の変哲もない、というような表情で、それが、本当に何の変哲もない、普通の音源で、と答えた。
「なんか……交感神経をリラックスさせる周波数の音をミックスした睡眠用BGMとかで……基本は打ち込みのストリングスとピアノがベースの、ゆったりした曲なんですけど。数曲の別の曲を繋いで1本の動画にしたような造りで、合間に川のせせらぎだったり、遠くで聞こえる街の雑踏だったり、雨音だったり、アンビエントみたいなのがバイノーラル音源で挟まって、場面転換するみたいに曲が変わっていくんです。まあよくある、『安眠 BGM』とかで検索したら出てきそうな感じの動画です。元々そういう音源にも頼ったりしていて、それでも悪夢は見るしなかなか寝付けない日もあったんで、あんまり期待できひんって本人にも言ったんですけど、どうせ普段はスケベなASMRとか聴いて消耗してんだろうとか言ってからかってくるもんやから、じゃあいっちょ試したるかって聴いたら、不思議とその日から夢も見ずに眠れるようになったんですよね」
どうやらその音源は、K君が学生時代に世話になったという先輩から依頼され、自身が制作に携わった音源なのだそうだ。M君はそれが余計に悔しい、と言いながらも、ほかのリラクゼーションミュージックを聴いても、ヨガをしても処方薬を飲んでも治らなかったという不眠と悪夢が解消されたことに対しては、心の底から感謝したのだという。

会話はそこで途切れた。私の脳裡にふと、最近インターネットなどでよく目にするとある噂が過る。睡眠用BGMという言葉に喚起されて思い出したその噂は、1か月以内に立て続けに自殺した若者たち10人が、皆同じチャンネルが公開している睡眠導入BGMの動画を日頃から視聴していた、というようなものだった。そのチャンネルは今年開設されたばかりで登録者も2桁程度、公開されている動画もたった10本のみのいわゆる過疎チャンネルだったが、その噂が広まって以来急激に登録者数を延ばしたという。しかしそれきりそのチャンネルで新しい音源が公開されることはなく、それどころかそれまで公開されていた動画も全て削除。現在はチャンネル自体も既に削除されている。
誰かの日記帳の件名のような、年月日をタイトルに冠したその音源動画が、連続自殺を引き起こす原因になったのではないかという荒唐無稽な都市伝説のような噂だ。

対してM君は、K君に薦められた音源を聴くことでよく眠れるようになったという。しかし、それからひと月後、春の足音が聞こえる季節に差し掛かった頃、着々とレコーディングとライブに明け暮れる日々を過ごす彼の身に更なる変化が生じた。

「視界の端にね、虫みたいな黒い影が見えるようになったんですよ」まだ半分は入っている、ぬるくなったカフェオレを啜って、彼は言った。「季節の変わり目やし、相変わらずスランプ気味やったんで、飛蚊症みたいなもんかな、とも思ったんですけど。ほら、モニターとかに毎日向き合ってると、見えることあるやないですか。なんで、最初は全然気にしてなかったんですけど、だんだんその影がね、大きくなってきたんですよ。
たとえば、家でひとりで風呂に入ってるとき。寝る前にトイレに入ったとき。スタジオでほかのメンバーがコンビニ行ったりして退出した瞬間、何気なくひとりになったとき。視界の端に映っていた黒い影がね、最初はそれこそ蚊、ブーンって飛ぶ蚊ぐらいの、小さな点々だったやつが、日に日に大きくなっていって。目に入った壁の片隅に、ゲジゲジみたいなデカい虫が這ってると思って慌ててそっちを見たら、そこには何もいなかったり。はい、それも例の影です。影、そうです、最初は完全に輪郭もない、ただ影、としか言いようがなかったんですけど、だんだん、日を追うごとに立体的になって、手足とかが動いているように見えてきて、それでも、そいつがいると思った方を見ると、いない。なんかまるで、常にすばしっこいデカめの虫に監視されながら生活しているような気がしてきて、でも別に実際にそこにいるわけやないですから、なんかこう、ずっと不気味なままで。あっ、もう今は大丈夫です。今は全然、健康そのものです。そもそも視界が欠けたりとか、日常生活に支障があるほどじゃなかったんで、病院行くのもなーと思って放置してたんですよね。

そんな感じの状態が半月ぐらい続いた頃かな。その日は朝から耳鳴りが酷くて、レコーディングをお休みしました。ライブやなくて良かったな、流石に耳はヤバいから何日か治らんかったら耳鼻科行こう、と思いながら、その日は寝て過ごすことにしたんです。派遣の仕事の方も月末で忙しかったし、ちょっと堪えちゃったかなと思って。そうですそうです、あの夢の中みたいな耳鳴りでした。雨がずっと降ってるみたいな。朝目が覚めて、あんまりやかましいから大雨でも降ってんのかと思って窓開けたらめちゃくちゃ晴れててビビったぐらいの。食欲もあんまなかったんで布団に横になって、目を閉じたら。

見えたんです、あの夢の中の、狭い部屋の光景が。

いや、今となってはあれも流石に、夢見てただけやないかと思うんですけど。めちゃくちゃ怠かったんで、うたた寝してただけやったんやないかって。でも正直言って、目を閉じた瞬間に目の前に、あの光景が広がったように、そのときは感じたんです。

目の前にある小さな窓の外で、真っ赤な雨がずーっと降ってて。見えてるのは窓の外の雨だけやのに、雨音は、すぐ近くで聞こえるんですよ。身体が雨に取り囲まれたみたいに、まるで檻に囲まれてるか、繭に包まれるみたいに、身体中にまとわりついて、耳を塞ぐように雨音が聞こえて。今話しかけられても、なんも聞こえんやろなってぐらいの音量で、首を振っても消えへんし、起き上がろうにも起き上がれない。身体が鉛みたいに重くて、手足も動かせんくなって。喉が詰まって、腥い、血の塊が詰まったみたいな臭いがずっとしていて。呼吸の仕方も忘れそうで。やばい、このままやと死ぬ、と思って必死に腕を持ち上げたら、なんとなく壁に触れるみたいな感覚があったんです。
なんか、よくわからんけど、この壁を押したら助かると思ったんですよね、直感的に。もうそりゃ全力で、ぶち破ってやるぐらいの気持ちで思い切り押しました。手のひらで、叩くみたいに。多分手のひらなんかなくて、ふしくれだった虫の前足やったんやと思うんですけど、そんなことももう思い出せません。ただ、」

ここまで懸命に言葉を紡いできた彼が、ふと口を噤む。ひとりでは抱えきれなくなってしまった気持ちを、なんとか胸の内から外へ吐き出してしまおうとしているかのように話し続けていた彼だったが、突然、吐き出すことすら許されない、とでもいうような表情になってしまった。快活そうな相貌は普段の活気が嘘のように蒼白になり、噛み締められた下唇は細かく震えている。なんだか、そのときに目にしたものを思い出したことによって気分を害してしまったようだった。取材人として、インタビュイーの精神衛生は第一に考えないといけない。私は、話せなさそうならもういいですよ、無理しないで、となるべく優しく聞こえるよう言った。
しかし彼は、震えるように小刻みに首を横に振り、いいえ、大丈夫です、と話を続ける意思を示した。聞いてもらわないと、また眠れなくなりそうだから、と。

「壁が割れたように明るくなって、そこはさっきまでいたいつもの布団の上で、Kが、こっちを見てたんです」

K君が、と思わず繰り返す。彼は小さく頷いて、おれの顔を覗き込んでたんです、Kが、と続けた。

「ただ、その身体が、人のそれではなかった。真っ黒で脂っぽく光っていて、手足が何本も生えてて、背中からは、青白い羽根が生えていました。羽だけが薄暗い部屋の中で蓄光塗料みたいに光っていて、その光で照らされた黒い頭がパカッとてっぺんから、こう、割れていて、そう、まるで卵を割ったみたいに。その中から、生えてたんです。Kの顔が」
その姿はどう考えても普段のK君とは似ても似つかない、それどころか、人間の身長ほどもある大きさの虫のように見えたという。しかしそこから生えたK君の顔は、大きな目を見開いて口元だけでにっこりと微笑み、M君に向かって、こう言ったのだという。

「やっぱり、お揃いになれたね」

あとになって思い出したんですけど、とM君は言う。
「耳を、こう、両手で塞いだときに聞こえる耳鳴りみたいな、雨みたいなザーッていう音って、頭の中の血流の音らしいですね。そう考えると、あの腥い赤い雨って、なんかめちゃくちゃキモいな」


M君はその後、気がついたときには病院の救急外来へ運ばれていたという。医師には過労と診断され、充分な休養をとるよう言い含められ、翌日には帰宅した。
部屋で気を失っていたM君を発見し、救急車を呼んだのは、彼を心配したF君に「家が近いから」といった理由で頼まれ、様子を見に来たK君だった。
改めて言葉にしたらこれただ体調崩して変な夢見たってだけの話ですね、とM君は苦笑する。
「すみません、わざわざ御足労頂いて、こんなに時間も使ったのにどうでもいい話ばかりしてしまって」残ったカフェオレを飲み干したM君の表情は、先程までよりも、少しだけ穏やかに見えた。
小さく息をついて、M君が言う。

「でもあいつ、なんであんな音源薦めてきたんでしょうか。やっぱり、あの悪夢もあの音源のせいなんですかね。だとしたら、やっぱりあいつ、盗作のことわかってて、あんなもん薦めたのかな、って思って。だから怖くなって、告白したんです、盗作のこと」

後にわかったことだが、M君も、例の連続自殺にまつわる噂を知っているようだった。



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