『屋上に入ってはいけません』。そう書かれると屋上に入りたくなる。『私語をしてはいけません』。そう言われるとワッと大声で叫んでやりたくなる。『黄色い線の内側までお下がりください』。そう言われると、黄色い線を跨いで歩いてやりたくなる。
そう言うと、幼なじみの駿河陽平は、「お前ときどきヤバいやつだよな」と言って笑い、「黄色い線は跨ぐなよ!」と釘を刺す。
「いやいや、やんねーよ、思うだけだよ。思うだけなら自由だろ?」
「そうだけどさあ~」
でも実際にやったらどうなるだろうって想像は常に頭の中にある。表情筋が凍ってると噂の、現代文教師陸奥の前で大声出してやったら、流石にびっくりするんじゃないだろうか、とか。
とにかく陸奥という新人男性教師は、無表情、硬質な声、態度も悪いときて男子からは超絶不人気なんだけれど、よりによって女子が好むような美青年めいた顔立ちをしているから、一部の女子は「塩対応いただきました」などとはしゃいでいる。いや、普通に考えて、陸奥が接客業の、例えばファストフード店とかコンビニの店員だったら、どんだけイケメンでも絶対気分が悪くなるって。そう駿河に言うと、
「潤、逆に考えなよ、コンビニ店員になれないから陸奥は高校教師をやってるんだよ」と言われる。「もっと言えば、教師にしかなれなかったんだよ、陸奥は。あれはクール通り越して冷凍だろ。接客業には向かない向かない」
「はい、時間、席に着く」
と、教科書と参考書、それから板書のノートを抱えて噂の陸奥が現れる。端的に指示――というか命令だけ飛ばした陸奥は、ぐるりとクラス内を見渡して最後に俺と駿河を見る。それが女子の言うところの、『氷の王子様』のルーティン。
「授業を始める」
クール通り越して冷凍。俺と駿河は目を見合わせて小さく笑う。
「秋保潤。授業中だ。笑うな」
「はぁいすみませーん」
陸奥はじっと俺の目を見た。睨んでいるのか、ただ見ているだけなのか判別がつかなかった。でもこういうことは度々あったので、俺は机に頬杖を突いたまま陸奥の視線を迎え撃つ。『目をそらしてはいけない』。そう自分に言い聞かせる。
ほどなくして、陸奥はそっと視線を外した。今日も俺の勝ちだ。やってやったぜ。
「昨日の続きから」
「――潤、資料集忘れてきた。見して」
隣の駿河がそそくさと机をくっつけてきた。こいつのうっかりにも困ったものだ。それを見とがめたのか、陸奥は俺たちを凝視した。それが、見たことないほど必死な顔だったので、俺は面食らって、先生に訊ねた。
「どうしたんすか、先生」
「……なんでもない。続けるぞ」
くるりと背中を向けた陸奥は、猛然と板書を始めた。陸奥の板書は決して静かなものではないと分かっていたけど、こんな風に何かに駆り立てられているような板書は初めてだった。板書を写し取るために顔をあげると、板書を終えた陸奥が、教卓に向かって何かを書き込んでいるのが見えた。一心不乱という言葉がよく似合う表情だった。周りの生徒は板書に夢中だから見ていなかったかもしれないが、俺は見た。
陸奥は、驚くほど邪悪に笑っていた。
あまりに異様な光景だった。駿河にも「あの陸奥、見たか?」と聞けなかった。俺はあのとき陸奥が邪悪に笑いながら一体「何」を書き殴っていたのか気になって仕方なかった。それは「決して見るな」と戒められたものを覗き見たい気持ちであって、「鶴の恩返し」でおじいさんとおばあさんが襖を開けてしまった気持ちときっと同じだった。
思いたった俺は放課後の国語科準備室に足を運んだ。ここには古典の渋谷先生と、陸奥と、同じく現代文の古川先生がいるはずだった。
ノックをして、「失礼します」という免罪符とともに足を踏み入れる。
「秋保、どうした」
渋谷先生と古川先生は喫煙者だから、おおかた喫煙ルームに行っているのだろう。部屋には陸奥と俺しかいない。好都合だ。
「授業で分からないことがあったので、聞きに来たんですけど」
あのとき陸奥が開いていたのは教科書だったか、資料集だったか。それとも板書ノートだっただろうか? 俺は視野をフル活用し、目玉だけを動かして陸奥の様子と、陸奥の机の上をちらりと窺った。
「なんだ」
と、陸奥が開いて見せた教科書にも、次に開いた資料集にも、あくどい顔で笑いながら書き込んだような筆跡はなかった。ただ、流麗な、判で押したような字が、授業に必要な分だけ並べられていた。外れだ。じゃあ板書ノートか?
「『山月記』、どちらかというと、解釈とかじゃなくて、陸奥先生の考えを聞きたくて」
「というと?」
「どうして李徴は虎になってしまったんでしょうか」
俺は言葉を探しながら、視線だけで陸奥の板書ノートをさがした。机の上を滑る視線にも気づかず、意外にも陸奥は真剣に考え込んでいる。
「……原典があるから、という答えでは納得しないか?」
「はい。臆病な自尊心と尊大な羞恥心ってことばがあったじゃないですか。俺はあれが、よくわからなくて」
陸奥は俺の言葉を聞いて、思い出したように板書ノートを取り出した。
出た。俺の目が音もなく光る。何も気づかない陸奥は、訥々と説明を始める。
「板書にも書いたが、あれは李徴の性格を端的に表しているものだ。自分の才能が大したものではないことを恐れ、かといって、自分が平凡になることもできない、許せない。李徴は非常にプライドが高い人物で、けれど自信がないんだ」
「なるほど……」
陸奥は板書ノートを取り出したのに、いっこうに開く気配が無い。俺はしびれを切らして、陸奥の手元に手を伸ばした。
「陸奥先生、いつも板書ノートに何書いてるんですか?」
「覗くもんじゃ無いぞ」
陸奥は嫌だとばかりにノートを押さえつける。『覗くな』。そう示されると燃えてしまう。
「見てもいいですか?」
「面白くないと思う」
「見てから決めますから。気になるんですよ」
「見るな」
「だって、なんか――めちゃ邪悪に笑いながらメモとってたじゃないですか。俺気になって」
陸奥の顔が驚愕に染まった。オセロの黒が白になるくらい、面白かった。あの冷凍マグロみたいな陸奥が。
「……! 見るな!」
陸奥がノートをしまい込もうとするより先に、俺はノートを取り上げている。そして今日の板書の部分を開くと、ひらりと紙が一枚落ちてきた。
それはルーズリーフを小さく切ったもので、メモ用紙のようだった。
「見るな!」
そこには、陸奥の乱れた字でこう書いてある。
【Sが教科書を忘れ、机を寄せる。Aがこれ幸いと、机の下で手を繋ぐ。誰にも気づかれない机の下の逢瀬。Aがノートの端に今日会えないかと書き込み、Sは恥ずかしそうにうつむいて、小さく頷く。約束を取り付けたAとSは、頭の中で放課後の事について思いを馳せる。昨日の放課後の事が頭の中をぐるぐる回る、『最中』のこと】
「机の下の逢瀬ェ⁉」
「見るなッ!」
もう遅い。見た。全部見た。
「このAって俺のこと?」
「違、」
「で、Sが、駿河のこと? なに、これ、ボーイズラブ? ホモ? の、筋書き? みたいな? てか最中って、これ、」
文脈通りならAとSはセックスしてるぞ。
「違う、それは、……そう、ただの小説の下書きだ」
「でもこの机をくっつけるってシチュエーション、さっきの俺たちですよね? イニシャルも一致してるし」
「そ、それは、たまたまで……」
陸奥は苦し紛れの言い訳をしようとしたが、やがて何も言えなくなったのか黙ってしまった。沈黙を肯定と受け止めた俺は、座ったままの陸奥を見下ろして言い放った。
「なんでこんなもん書いてるんですか。ヤバ」
返事がない。俺は小さなメモの文字をじっと見た。
「それとも陸奥先生の目に映る俺たちってこうなの? セックスしてそうなの?」
返事は、やはりない。
「っていうか、常識的に考えて、生徒をネタにしてこんな妄想してる教師って普通にヤバくない? 大丈夫? 訴えられたら負けない?」
ひとごとのようにつぶやいていると、陸奥が椅子から転げ落ちるように床に手をつき、そのまま、土下座した。
土下座するほどなのか。
「誰にも言わないでくれ。特に駿河には言わないでくれ、頼む」
「えー、そう言われてもなあ」
「言うな! 言わないでくれ!」
『言うな』って言われると言いたくなってしまう。俺はうずうずし始めた口を押さえて、陸奥をチラリと見下ろした。美形が土下座していると迫力がある。あるし、優越感もある。この教師をかしずかせているのは俺なのだ。
とりあえずスマホを取り出す。俺は土下座している陸奥を画像におさめ、それからゆっくりしゃがみ込んで、陸奥と視線をあわせた。
「正直に答えてくださいね。先生、小説書いてんの?」
「書いて……ます」
「俺と駿河のホモ小説?」
「……、はい」
「エロ?」
「…………はい」
沈黙が長かった。でも認めた。
「どこかに公開してる?」
「公開はしてない! ……自分で書いて、読むだけ……読むためだけに書いて……」
「出さないの? なんで?」
「出すわけ無いだろ!」
こうしてみると、陸奥はすごく表情豊かな人間のように思えた。先生って言うよりか、二十四才のお兄さんって感じだ。
「じゃ、公開してみましょうか、先生」
「は?」
「インターネットに公開してよ。俺、読んでみたいよ。先生の書く俺と駿河」
「お前に、データ渡すだけじゃダメなのか……?」
すがるようなかすれた声。俺はにやりと笑った。
「ダメ。他の人にも読んでもらいましょうよ。せっかくだから」
あの陸奥の瞳がぐらぐら揺れている。まだ迷いがあるようだから、俺はさっき撮った土下座画像を見せた。陸奥はそれを見て観念したように瞼を下ろし、か細い声で、「わかった」と言った。
勝った。
陸奥の家は国語科準備室のデスクのようにこざっぱりとしている。意外だった。じゃあどんな家だと思っていたのかと言われるとなんとも言えないんだけど、陸奥はもっと内側に、俺の知らないものをたんまりとため込んでいると思っていた。俺は陸奥に期待していたのかもしれない。本当なら入るべきで無い、見るべきでは無い、その裏側を、陸奥は見せてくれると思っていたのかもしれない。
「さっさとやるぞ」
投げやりな調子の陸奥が、奥にあるパソコンデスクの前に腰掛ける。手慣れた様子でパソコンを起動し、素早くパスワードを打ち込むと、中にあるファイルを迷わず開いて見せた。
「俺の作品はこれしかない」
ファイルは三つだった。どれも「AとS」というタイトルがついていて、隣に簡単に「1、2、3」と振ってあった。本当に俺と駿河のこと見てネタにしてるんだな、という実感が湧き上がってくる。ネタというか、モデルというか、なんと言えば良いんだろう。まるで俺も駿河も、陸奥の頭の中の都合のいい操り人形みたいだ。陸奥のいいように振る舞い、キスとかセックスとかさせられてるんだろう。
ちょっとキモいな。いや、大分キモいな。駿河とそんなことするなんてごめんだ。それがたとえ、頭の中のことだったとしても。なんかキモいな。
「じゃあ、それ良い感じの小説サイトに上げてくれますか。俺ここから見てるんで」
「何考えてんだよ、お前」
「先生がちゃんと全部サイトにアップしてくれるかなって心配してますけど」
「やるよ。やるって言ってるだろ」
土下座画像一枚でここまでやるということは、陸奥も相当プライドが高いのかもしれない。俺はパソコンデスクの斜め後ろに、画面が常に見える位置を探して腰を落ち着けた。
「お前ちょっとおかしいよ」
サイトにアカウントを開設しているのだろう、画面にメールアドレスを打ちこんでいる陸奥が唸るように言った。
「先生ほどじゃないですけど」
「俺はちゃんと隠してた」
「いや、全然隠れきれてませんでしたけど」
画面が変わる。黒い背景に、ピンク色の文字が躍っている。「それっぽい」サイトだ。俺はわくわくしてきた。
「人の秘密を暴いてやろうってその根性がおかしい。第一、――」
「見るなって言われるとどうしても見たくなっちゃうんですよね、俺。昔からそう」
陸奥はチラリとこちらを見下ろした。俺は、抱えた膝に顔を埋める。
「だから女子のスカートとか率先してめくってました。それで担任だった女に殴られそうになったことある」
「……殴られなかった?」
「殴った方が負けですからね。つまり、殴られなかったら勝ち」
陸奥はため息をついた。それはもう、深々と。
「デリカシー、って知ってるか?」
「でりかしー」
「お前に致命的に欠けてるものだ、覚えておけ」
陸奥はテンポ良くキーボードを叩き、作品をアップしていく。俺はそれを体育座りのまま見上げていた。
「18禁小説サイト【ライムベリー】にログインして、作者名の検索をかければ出てくる。存分に確認すれば良い」
作業を終え、だらりと両腕を垂らした陸奥がそういった。そして、次の瞬間には顔を覆っていた。
「はぁー……」
「お疲れ様です」
「これで満足か」
氷のような表情で、陸奥は言い放った。
俺はその場で【ライムベリー】に登録した。画面上に表示される「あなたは18才以上ですか?」という問いかけに、ためらいなく「イエス」と答える。18まであと一年だ、誤差の範囲だろう。
検索欄に陸奥のペンネームである「清井睦月」と打ち込むと、確かに三本の小説が出てきた。タイトルがそのままだ。「AとSその1」。
「先生、こんなんじゃ誰も読んでくれませんよ。読む気しません」
「注文の多いやつだな」
「でも、確認しました。ちゃんと全部載せてくれたんですね。後で読みます。で、感想文書きます」
「書かなくて良い!」
陸奥は顔を真っ赤にして拳を握った。
その日から俺のスマホには18禁サイト【ライムベリー】の閲覧履歴が並ぶようになった。流星のごとく現れたBL作家「清井睦月」は瞬く間にサイト内の日間ランキングのトップに躍り出た。俺はその様子をニヤニヤしながら見つめていた。
そいつ、俺が負かしてそこにいるんだぞ。俺が見つけなきゃ、ここには居ないんだぞ。
と思いながらも、ちゃんと中身を確認するのも怠らない。これが、実際の俺たちをモデルにした小説でさえなければ、めちゃくちゃ面白いのだ。いや、それを差し引いても、面白いのだ。
気まぐれに当たり障りなさそうな他の作者の作品を見てみても、陸奥、もとい「清井睦月」の作品に並ぶような飛び抜けたものはなかった。ようするに、陸奥はとんでもなく小説が上手かった。
履歴からログイン画面をスキップして「AとSその1」を見ると、昨日の深夜二時に更新があったようだ。陸奥の小説に関しては、更新があったらメールが届くように設定しているのだが、深夜だとそうはいかない。
俺はすぐさま最新話を開く。しかし、思ったより進まない。AとSは恋人同士のくせにいざセックスになるとどういうわけか及び腰になる。【ライムベリー】、ここは「そういう」サイトなのに、陸奥ときたらそれを躊躇っているらしかった。俺の目を気にしているのだろうか。
「おいおいチキるなよ大人のくせに――」
「なにがー?」
駿河ののんきな声が聞こえてきて、俺はスマホを慌てて机に伏せた。
「いや、なんでもない!」
そうしていると、次は古典の時間なのに、どういうわけか陸奥がずかずか入ってきた。
「はい、着席」
そしてぐるりと教室を見渡した陸奥は、最後に俺と駿河をじっと見た。今となってはこのルーティンにも意味があったのだなと気づく。俺たちの観察だ。
「陸奥先生。つぎ、古典ですけど……?」
「渋谷先生は体調不良で急遽欠席になった。プリントを預かってきているから、この時間はこのプリントをやるように。終わったら適当に自習してくれ」
そう言うと、陸奥は静かに持参したノートパソコンを開いた。
自習時間中、陸奥のタイプ音が休みなく続いている。何を書いているのだろう。エンターキーを押す小気味よい音が何度も何度も響き渡る。この先の授業のノートでも作っているんだろうか。まさか「AとS」の小説の続きを書いているんじゃないだろうな。そう思っていると、まさに俺のスマホが何かのメールを受信した。
しまった。電源落すの忘れてた。俺は机の下でそろそろとスマホの画面を開き、中身を確認する。メールだ。
【ライムベリー】からのお知らせ――「AとSその2」が更新されました。
おいおいおい! 自習中にそんなもん書くなよ!
「秋保。スマホ。没収するぞ」
さらりと俺を注意する陸奥の声音には、今し方ホモ小説を書き終えたとは思えない涼しさがあって、なんだかむかつく。
「……すみません、気をつけます」
俺はしおらしくスマホの電源を切ってサブバッグの中に放り込む。陸奥はそれを確認すると、またパソコンのキーボードを叩き始めた。
自習時間の終わり、メールを確認すると四件来ていて、その全てが【ライムベリー】の更新通知だった。陸奥はこの時間に四回も更新をしたらしい。俺と駿河のイチャラブホモ小説を。
「ああして真面目に仕事してると陸奥も先生なんだなって思うよな。若いし、冷凍だけどさ」
無邪気なことを言っている駿河にぶちまけてやりたい。あいつ俺とお前のホモ小説書いてるんだぜ。
言ってはいけない。言ってはいけないと思うごと、言いたくなる。
「あのさ、駿河」
言ってはいけないことほど、言いたくなる。
「もしこのクラスに、俺とお前のビーエル妄想してる腐女子が居たらどう思う?」
「あ? 腐女子?」
「そう、腐女子」
その声は陸奥の耳にも届いたらしい。片付けをする手がぴたりととまり、こちらの言動に全部の器官を傾けているのが分かる。
「なんかきもいな。……めっちゃきもいな」
「……だよな!」
俺は頷く。そして陸奥のほうへ意識を傾ける。あいつはどんな顔をしてるだろう?
「キャラクターとかだったらいいけどさあ。ちょっと気持ち、分からんでも無いけどさ。生身の人間の妄想するのはヤバいよ、一線越えてるって。当事者だったら引いちゃうかもわからん。……でもなんで急に?」
「例えばの話」
「脈絡なさすぎだろ」
気づけば陸奥はいなくなっていた。黒板に白墨で書かれた「自習」という陸奥の綺麗な文字が、陸奥がそこに居たことを証明していた。逆に言えば、それがなかったら誰がそこに居たか全然分からなかった。
俺は男子トイレの個室に駆け込んで、スマホから【ライムベリー】をチェックした。四度の更新で、「AとSその2」にはドエロい濡れ場が追加されていた。巧みな筆致で書かれたそれを他人事のように読みながら、これ俺なんだよな、駿河なんだよな、と何度も確かめた。画面上に表示されるオトナの文章の内容なんかより、俺は、Aと秋保潤の間にある違いや、Sと駿河陽平の違いについて考えていた。これは本当に俺なんだろうか、駿河なんだろうか。それとも別の誰かなんだろうか、と。
読み進めるごと、Aが俺を離れていく。同じように、Sも駿河を離れていく。彼らは恋人同士で、俺や駿河にちょっと似ているけど、別の存在で、きっと別の時空で恋愛してるだけの男子高校生なんだ。
そうしているうちに、何人かがトイレに入ってきて、何人かがトイレから出て行った――気がした。【ライムベリー】の暗い画面を眺めている間だけは、俺は別の世界に居た。俺の中でひどくゆったりと時間が流れている間に、外で何が起こっていたかは知らない。気づいたら予鈴が鳴っていた。
陸奥の書いたエロ小説のエロ部分を読んで、感動したわけでも心動かされたわけでもないけれど、何か知らない世界の扉を押し開けたような気はした。目に見える景色がうっすらと黒く染まっているかのようだった。大人になるってこういうことなのかもしれない。知らないけど。
なんとなく目についた更新ボタンをなんとなく押す。と、『このページは存在しません』というエラーメッセージが出た。
「ん?」
何度更新ボタンを押しても同じだ。【ライムベリー】に入り直して確認すると、「AとS」は1から3まで、作品ごと消えてしまっている。そもそも、フォローしていたはずの「清井睦月」のアカウントごと無い。
「どういうことだ?」
俺は、次の授業を蹴っ飛ばして国語科準備室へと向かった。
「陸奥先生」
ノックもそこそこに準備室を押し開けるとそこには古川先生がいて、「おい秋保、授業はどうした?」と聞いてきた。俺はかぶりをふった。
「陸奥先生は?」
「陸奥先生なら授業に出かけたぞ」
「どこに?」
「それより秋保。授業はどうしたんだ」
「どこにいるんですか、陸奥先生は!」
古川先生から陸奥の行き先を聞いた俺は、階段を一段飛ばしで駆け上がり、陸奥の授業を受けているだろう三年生の教室をのぞき込んだ。が、その黒板には陸奥の字で「自習」と書かれていた。陸奥はいない。
人のいない廊下を全速力で駆け抜けていく俺はおそらく世界で一番滑稽だ。自分と親友のエロホモ小説のために走っている。馬鹿の極みだ。
あいつ、どこ行きやがった。アカウント消して、小説も消して、姿も消した。
一体どこに――。
「秋保潤。何してる」
ここを探してダメなら諦めようと思って屋上への階段を駆け上がろうとしたところで、俺は陸奥を蹴飛ばしかけた。階段の陰に隠れるようにして腰掛けていた陸奥は、俺を見て足をくんだ。つんのめって転びかけるが、なんとかバランスを保つ。
「わっ! 陸奥! 何でこんなとこに……!」
思いがけず漏れた呼び捨ての呼称に、「先生な」と付け加えて、陸奥は煙草をくわえた。くわえ煙草にライターで火を付ける陸奥は、かなり様になった。
「サボってる」
「あの、屋内禁煙ですけど……」
「知るか。バレなきゃ良いんだよ、バレなきゃ」
陸奥の吐いた煙は細く開けてある屋上の扉の向こうへ流れていった。俺は訊ねた。
「煙草吸うんですか、先生」
「吸ってるのは内緒にしてる。あのふたり、何かとしつこいし、うるさいんだ」
その「ふたり」とは、同じ国語科の古川先生と渋谷先生のことだろうか。陸奥は伏し目がちに大きく息を吐くと、俺に向かってからりと告げた。
「もう、やめた」
「は?」
「お前と駿河で、妄想をするのも、小説を書くのもやめた。小説は二度と書かない。約束する」
「……は?」
俺はじょじょに、怒りに似た感情に支配されていった。だって、陸奥の小説はすごく面白いのに。それに「AとS」は始まったばかりじゃないか。ふたりの恋は始まったばかりだったじゃないか。せっかく始まったのに、どうしてやめてしまうんだ。
「駿河にもお前にも悪いことをした。謝る」
「先生。陸奥先生、そんなのないよ」
俺は足を踏みならした。駄々をこねたい気持ちだった。
「先生は小説めちゃくちゃ上手かったじゃん! 俺、ちゃんと読んでたのに!」
そう、ちゃんと読んでいた。どんな文章でも目が滑って読めないこの俺が。
だけど、陸奥は冷たく言い放つ。
「上手いも下手も関係ないんだよ。アレは侵害だ。駿河の言葉を聞いて目が覚めた。小説をアップするべきじゃ無かった。お前に脅された時点で、ノーというべきだった。何もするべきじゃなかった。土下座画像を拡散されようが、変態教師と罵られようが、ネットにだけはあげるべきじゃ無かった」
俺は何も言えなかった。これじゃ、本当に陸奥は書くことじたい、やめてしまう。やってはいけないことだった。触れてはいけないものだった。どれだけ欲が疼いても触るべきではなかった。内容はともかくとして、あの美しい文章を潰してしまう。この俺が。
それはイヤだ。
「いきなり濡れ場を更新したのはお前に意趣返しがしたかったからだ。だけど……本当に悪いことをしたな。あの土下座画像は好きにすればいい」
「そんなの……そんなのテイのいい言い訳だろ!」
投げやりな陸奥に、から回っていく舌がハッタリをぶちまける。とにかく、陸奥の消沈した心を奮い立たせなければならない。「してはならない」を破って強行するよりもずっと、ずっと、重たい。決められたルールを守ることより、ずっと、力が要る。
「そう、そうだ、……本当は小説をやめるタイミング、見計らってただけなんだろ! 俺と駿河を言い訳に使うんじゃねえよ! 書けよ! 陸奥の作品を書けるのは陸奥しかいないじゃんか!」
やめるな。小説を書くのをやめるな、陸奥。
陸奥の瞳が苛烈に光り、俺の胸ぐらをつかんで引き寄せた。ぐっと言葉に詰まるけれど、負けない。
負けてやるかよ。
「俺と駿河の小説だろうが何だろうがあんたには才能があると思うし俺はぶっちゃけ、中島敦なんかより陸奥の小説のが好きだよ!」
負けるものかよ!
そのとき殴られた。グーで。
殴ったのは陸奥で殴られたのは俺。しっかり左頬に入った拳は俺の口の中を切った。鈍痛とともに口の中へにじんでくる血と、目の前の陸奥の、誰か知り合いでも死んだのかってくらい悲壮な顔とが、俺の感覚全部を満たしていく。
「……なわけ、ねえだろ。知ったかぶってんじゃねえよ、ガキ」
「陸奥、」
「この話終わり。……報告してくる」
「何を」
「生徒を殴ったって、教頭に」
「おい、陸奥! 陸奥! 待てよ」
追いすがる手を乱暴に振り払う陸奥は、もうかたくなに心を閉ざして俺の声を聞こうともしない。俺はにじんできた血を手の甲で拭って、陸奥の背を見送ることしか出来なかった。
これは……勝った? 負けた?
どっちだ?
「陸奥に殴られたってマジ? 潤、噂になってるけど」
翌日。駿河が俺の左頬を見て「いたそ」とつぶやく。俺は肯定も否定もしなかった。それを肯定と受け取った――受け取りたかったであろう駿河が、頬杖を突いてため息をつく。
「いやあ、あの陸奥が生徒に手を挙げる暴力教師だとは思わなかった。あの冷凍がね」
「……俺、なにも言ってないだろ、駿河。憶測で勝手に決めんな」
いらっとする。
「でも、陸奥だろ? 殴ったの」
「違う」
「じゃあ誰に殴られたわけ?」
無数の耳がこちらの言葉を聞き逃すまいとしているのが分かる。俺は大声で叫んでやった。
「スッ転んで頬から行ったんだよ! 言わせんな恥ずかしい」
「すっころんで?」「頬からいくか?」「嘘じゃないの?」「やっぱり陸奥先生が」
あちこちから聞こえてくるささやきや独り言。俺は足を踏みならした。
「何だよ、噂は信じて俺のことは信じられねーのかよ!」
そのときだった。
「秋保を殴ったのは俺だ」
次は現代文。陸奥が、姿を現した。
「教師としてあるまじきことをした。それを秋保に咎められて、かっとなってやった」
しんと、水を打ったように教室内が静まりかえった。
「うそお……」
「秋保を殴ったのはやっぱり陸奥だったんだ」
「それって教師としてどうなの?」「教師失格じゃん」「あー、もうだめだね」
ひそひそ囁く声がする。俺はかぶりを振った。
「ちがう、俺が陸奥を怒らせたんだ! 故意に怒らせた!」
「でも殴ったのは俺だ」
陸奥が静かに言う。俺は負けじと言い張る。
「な、殴らせたのは俺だ!」
「何言ってんだよ潤」
駿河が困惑したように俺を見上げる。誰もが俺を見ている。
訳の分からないことを言っている自覚はある。でも、ここで陸奥を「暴力教師」にしてしまうのは違う、俺の心がそう言っている。だって。
「全部幼稚な俺のせいなんだよ、わかれよ!」
そう、全部俺のせいだった。陸奥の隠し事を暴いたのも陸奥が小説をやめると言い出したのも陸奥が俺を殴ったのだって全部俺のせいだと思う。勝ちとか負けとかじゃ無くて、もはや「誰が悪いか」だ。そんなの決まってる。俺だ。
俺が、「してはいけない」の誘惑に負けたせいだ。
陸奥は黙ってそれを聞いていた。昨日、俺の胸ぐらをつかんでノーモーションでぶん殴ってきた男と同一人物とは思えなかった。氷のような表情からは何も読み取れず、俺はたじたじしながら首をゆるゆる横に振った。
「陸奥は、何も、悪くないじゃん……!」
「お前の言っていることは至極真っ当だった。だから俺は反射的に殴ってしまった。申し訳ないことをした」
陸奥が俺の主張を全て呑んだ上でそれに覆い被せるように言うから、クラスは騒然として――そうしているうちに隣から数学教諭がすっ飛んできた。陸奥はあの字で「自習」と書くと、俺を呼んだ。
「秋保。話がある。来なさい」
国語科準備室には誰もいなかった。陸奥は煙草を取り出すと、準備室の窓を開け放ち、ライターで火を付けた。
「陸奥、」
「――昔から俺は小説家になりたかった。でも才能が無かった」
唐突に、陸奥はそういった。そして煙を吐いた。
「大学に行って勉強すれば、小説家になれると思ってた。でも実際、小説家ってのは、実力と運とコネクションで駆け上がっていかなきゃいけない世界で、大学を出ただけの俺にそんな道なんかなかった。だから俺は、教師になった時点で小説を書くのをやめてる」
俺は言葉をなくして、陸奥の言葉を聞いていた。
「いちおう、大学在学中に頑張ったんだよ。でも、納得いかなくて、全然上手くいかなくて、もう、ダメだと思った。やめようと思って……その矢先に、お前たちと出会った。小説を諦めて、パソコンの中の小説を全部消したあとのことだ」
俺と駿河のことか。
「もともと、ボーイズラブは好きだったんだ。お前たちを見ていたら、なんだか書きたくなってきて、なんとなく、いけない、ダメだと思いながらなんとなく、ずるずる、ずるずると書いて……そうしているうちに、三つも小説を書いてたし、――最終的にお前にバレた。ネットに小説を発表する羽目になった。最悪だよ」
無臭だった国語科準備室に、煙草のにおいがただよう。俺はようやく、陸奥にぶん殴られた理由について悟り始めていた。
「秘密を覗いてきた奴はノンデリだし、俺のこと知ったかぶるし、知ったかぶられた上に、その通りだし――本当に最悪だ」
「……陸奥の文章は、読みやすいしきれいだ」
「ありがとう。でも、もう書かないよ」
陸奥は机の上の本を取り上げた。
「お前にやる」
「なにこれ」
「江戸川乱歩の『孤島の鬼』。もう俺には必要ないから」
差し出された文庫本の重みを確かめてから、俺は陸奥を見上げる。
「陸奥。本当にもう書かないの」
「うん」
「俺のせい?」
「違う。そのときが来ただけだ。……けじめを付けるときが」
そして陸奥は微笑した。
「俺には、才能が無いんだよ」
今思えば、陸奥は李徴だったんじゃないかなって思う。『山月記』の李徴。陸奥レベルになれば、余裕で一次なんか通っちゃうし、どこかの出版社から声がかかってもおかしくなかった。だから陸奥は、本当は、小説をどこかに出したことなど、一度も無かったんじゃないだろうか。俺は勝手に、そう想像してる。
凡人だとバレるのがおそろしくて。結果が出ないのがこわくて。臆病で。
だから、俺にけしかけられて出した「AとS」が、陸奥の最初で最後の発表作なんじゃないかって。
もっとも、小説を書き始めて二年かそこらの俺が言うのもなんだけれど。
陸奥は俺が三年になる春に転任していった。あれから会っていない。
俺はといえば、高校を卒業して、大学に入って、初めて書いたサイコホラーものを同人誌にしたためて、フリーマーケットに出店することにした。一冊も売れなかったらどうしようという不安と、売れないわけない、という自信がない交ぜになった感情のまま、ブースで人波を眺めていたときのこと。
「一冊ください」
聞き覚えのある声がそういう。俺は顔を上げる。そして――こう呼ぶ。
「陸奥先生」
終



