「はい、これどうぞぉ」
ルミナから手渡された最初の1冊は、"二重人格研究ノート"。しかし、イメージしていたのとは違い、沢山の紙を糸で固定したという、手作業感満載のノートだった。
「えっ、こんな感じなんですか?」
「うん。禁忌はねぇ、一応禁忌と呼ばれるぐらいには危険で恐れられてたの。だからすごい昔に禁忌についての研究を禁止して、闇医者とかの実験してる業界にスパイを送って根絶やしにするって作業をやってたの」
「そしたら研究する人はいなくなって、あとは記憶操作の魔法でスパイと政府高官の記憶を消したら完璧。これでこの世のほぼ全ての領域から禁忌に関する知識は消えちゃったんだ」
「でも矮小すぎる村の口伝や海の底に封印された絵巻みたいなのは排除できなかったの。気づけなかったってのはあるけど、気づいた頃には国のすごい人たちはみんな禁忌について忘れて対処もなにもなかったんだよね。存在すら知らないものをどうこうするってのは誰にもできないからねぇ。だからそれみたいなシンプルな本だけしか残ってないし、そういう本は残ってるんだよぉ」
人の紡いだ歴史が消えることはない、いいのか悪いのかは知らないがそんな言葉を思い出した。それにSNSのない昔でさえ消しきれないんだから、現代ならなおさら無理だよね。消そうとしたらむしろ増えるまであるからね。

さて、ルミナの解説が終わったところで、右手で一枚捲ってみる。章タイトルや目次のようなものはなく、最初のページからびっしり並んだ文字の山と脳の構造が置いてある。目が痛い。僕は小説を読むと活字の多さでダメージが入るのに、この圧倒的物量は脳が破壊される。活字離れの弊害に耐えつつ一ページ読み終えても、禁忌についての記述はまだない。

「……わかんないって顔してるねぇ」
嘘つけ絶対心を読んでるでしょ。ルミナの能力の性質上、この心情も筒抜けなわけだけど。それでも読み続ける。何時間(実際は30分強)経ったかもわからないが、20余枚めくったところでやっとそれっぽい記述が現れた。
「『。この青年は事前の兆候なく、本人の自覚もなく二つ目の人格を得てそれが殺人を起こし逮捕された。』」
「『多重人格の原因には強いストレスや過去のトラウマなどがあるとされているが、それらの一般的な原因が一切介在していないという点も珍しい。そこで、かつて禁忌と呼ばれていた技術が関係しているかもしれない』」
"禁忌"……!やっとたどり着いた。だがこの記述だけじゃわからないな。"禁忌"が妄言でなく実在しうるものだとは分かったのは幸い。次行こう、次。
"日記"。一般家庭にあったのだろうただのノート曰く、「こないだ帰ってきてから弟の様子がおかしい。好きだったはずのハンバーガーを食べずに、東洋のコメを食わせろとわめいている。さらっとあいつの口から洩れた禁忌ってなんだ?」だとか。
"後世に告ぐ"。結界術を駆使し水を弾き、海の底に保存されていたこの本が言うには「"禁忌"の調整は完了だ。私は二人になった。これで寝てる間に勉強ができる。…で、どっちの私がゲームをするんだ?」らしい。
「なんとなくはわかったでしょ?」
「はい、ほんとになんとなく、"禁忌"が人格に絡んでるってことが」
しかし後者民間療法的なノリで"禁忌"使ってない?
「正確に言えば"魂"だねぇ。"禁忌"は魂に干渉する技術なんだ」
魂……一寸の虫にも、とは言うが人間にも本当は魂があるのか?正直漫画とかでしか見たことないんだよね。
「うん、この世界には魂ってものは存在する……はずだよ。少なくとも私の家は魂に関係する呪いがかかってるんだってさぁ。禁忌を調べてるのもその呪いを解決するためだね」
そうだったのか。呪い…ルミナの先祖は何をしたんだろう?一族に続く呪いなら、その代償の分だけ得たものもあるのだろうか。
「それと一つ付け加えておくと、"禁忌"のことは本当に誰も知らない。ほとんどの人はね。君を狙う組織があったとして彼らも深くは知らないだろうし、禁忌そのものが知れ渡ることはたぶん心配してない」
「狙われてるのは君に使われた"禁忌"じゃなくて君自身なんだよ。"禁忌"関係以外の理由は知らないけど」

「うん、みんなその単語を聞いても漫画の話としか思わないよきっと。君だってシリアスな場面じゃなかったらそんなものが本当にあるって信じなかったでしょ?」
そうだ。たしかに命に関わるらしいから不安になっていた。大きな組織がなにか陰謀でも持ってるんじゃないかと怖かった。ルーシーやマリーを巻き込むことにも躊躇がないから"禁忌"そのものが触れてはいけない内容で、僕もろとも関係者はこの世から消されるのかとも思っていた。この白髪(はくはつ)司書・ルミナの前では今の心から過去の記憶までお見通しということか。そういう能力だからだけど。
「それをわかってるだろうから一緒にいでもしない限り君以外が狙われるってことはないと思うよ。『知ってるかも』で殺し続けるのはキリがないしサーシャくんって本題を解決する前に国家権力に見つかって組織が解散ってのは嫌がるはず」
「まあだから安心して。キリルちゃんを巻き込んじゃったんじゃないかってのは杞憂だからねぇ」
彼女なりのやり方の慰めか。こんな接し方をしてくれた…というかできた人を知らないから複雑だけど、心に寄り添ってくれてるってのとそれが確信できるのは本当にうれしいよ。

「そういえばサーシャくんって妄想家?普通の人より心を読む時にノイズが多いんだよねぇ」
「いえ、自覚はないです」
なんの意図を持った質問なんだろう。それよりも、ルミナの能力も完全無欠ではなく、個人の感覚や経験に依存する部分は見抜けないっぽいことがわかった。たぶんルミナが敵になったらそこが弱点だな。
「なるほどねぇ、さっきから道理で変な訳だよぉ」
「君の影から聴こえる声が一人分じゃないのは"それ"のせいだったんだねぇ」
「君は私の"同類(なかま)"かもね」
仲間?そりゃ同じ学校の生徒だし、仲間といえば仲間なんだろうけど…

「エーヴィヒ、出番だよ」
耳に辛うじて届くぐらいのささやきを残すと、ルミナはベッドから毛布を掴み取り、自身の上から被せる。布越しで見えないがしゃがむような動作と共に姿勢が低くなり、最後には床に広がって終わった。毛布を捲ってもルミナはいない。どこへ行ったのかと気になっていると、毛布の下、溶け込んだ影から再び姿を現した。

「サーシャ・デュアペル…でよかったか?」
ルミナの目の色が変わった。比喩表現ではなく、この一瞬で先程まで光たっぷりだった黄金の目は血を思わせる深い赤を見せていた。
それだけじゃない。顔も静かな笑みが保たれていた大きな目から、無表情に近いような細く鋭い眼光に変わっていた。

「はじめまして。オレはエーヴィヒ・テネブラエと名乗っている者だ」
エーヴィヒ。ルミナもそう言ってたし…ってちょっと待てよ。
「名乗ってる?それは本名じゃないの?」
「それか。なにせ本名がないからな。初めから魂だけの存在に名を付けてくれるものなんていなかったからな」
「一応お聞きするけど……性別は?」
「気になるよな。肉体は別としてオレ自身は男……のはずだ」
確証はないのか。魂だけの存在には本来そんなものないってことかな。僕も魂だけを引き剥がされたら女の子のままではいれないのかもね。
「オレはルミナの肉体に住むもうひとつの魂。平たく言ってしまえば多重人格みたいなものだな。感覚的にはそう思ってもらえばいい」
多重人格か。正直言って漫画の中でしか見たことがない。しかも任意で人格切り替え可能なものは特に。勝手に入れ替わって無茶苦茶やったり身を苦しめたり、というのがフィクションでは7割、リアルでは10割な気がする。
「影は魂を映し出したもの。影に触れるということは魂に触れるということだ」
「その関係かは知らないがテネブラエ一族は魂に敏感で、代々俺の魂を肉体に同居させてる」
聞いといてなんだけど、突然語り続けたので言葉を返してみる。
「影が魂に触れるって…そのエビデンスは?」
「ない。ルミナやその親族の天稟魔法が影を"そういうもの"だと定義してるからかもしれないな」
「魔法というのはイメージの力だ。魂があると思い込めばそうなるかもしれないし、非実在のオカルトだと思い込んでいればそうならないかもしれない。大昔の人間…いや、人間になる前の猿は魔法を使えなかったというから、想像力や空想が魔法の原動力なのは確かだろう」
中学レベルの魔法学だね。基本的に魔法を使えるのは人間だけ。例外的に魔法を使える猫や犬もいるけど、彼ら彼女らは往々にして知的で賢い。水魔法使いで能力を使ったら全身びしょ濡れで慌てるアホ猫もいたけど、それでも事前に二重三重の逃走経路を確保して魚を盗むとか知性は確かだった。
「つまり僕の水魔法も解釈次第で強くなるんだよね?」
「ああ。たぶんな。成長の余地があるならそうなんだろう」
「話が逸れたな。そして"禁忌"についてだが──」

エーヴィヒが身の上話を終え、やっと本題に入ってくれるその瞬間、話の腰とコンクリの壁を粉砕して黒フードの男がやってきた。けして体格には優れてないが、今までのやつらとは違う雰囲気を感じる。顔には歯を見せた不気味な笑顔を固めている。
「サーシャ、会いたかったです」