土色の砂煙を巻き上げ、風が吹いた。大地は震えていた。
 陽明(ようめい)は目の前の光景を、じっと見つめている。簡易な鎧をまとう雑兵、軍鼓(ぐんこ)、騎馬隊の配置、弓矢の配置を高い丘から視認した。

(この布陣は――)

「勝てると思うか?」と、端正な顔立ちの美男子が真横に立った。
 陽明はハッと我に返り、団扇(だんせん)で顔を隠す。

「……なるべく流血を避けたいです」

 男はちらりと陽明を一瞥すると、丘の下に広がる大地へ視線を戻した。

「そんな甘い事をいっていると、敵兵に足をすくわれるぞ」
「すくう、という意味では――”救い”ます。僕が」
「要点からいえ。策はあるのか?」

 すう、と息を吸い、鳥の羽でできた団扇(だんせん)を敵兵に向けて、指し示した。陽明は自分で自分の心の内を確認するように、いいきかせた。
 
「策は――あります。無血開城です」

********
 さかのぼること十年前。

「玲妃(れいひ)、まだ起きていたのか」

 天幕の布地を一部開け、軍師である玲妃の父が入ってきた。玲妃の母はすでに亡くなっていたため、まだ幼い玲妃は父と共に行動していた。

 玲妃は眠る前に聞かせてくれる話を楽しみにしていた。

 童話の才は残念ながらなく、聞かせていたのは敵兵を死者なく落城させる将の話や、地の利を生かし少数で勝ち抜く将の話、天候を利用し生き抜いた将の話などばかりだった。文字を教えてもらったので、昼間に父がいない間は天幕の中で何冊かある古い書物を読みふけっていた。読めない漢字は推測し、読み進めていく。それが幼いころからの玲妃の日常だった。



 だが、その日、日常はたやすく壊れた。天幕周りが騒がしく、父は慌てて飛び出していった。しばらくして別の人物が複数人天幕に入り込み、叫ぼうと思ったが無駄だった。玲妃は(さら)われ、気が付いたときには別の場所にいた。

 ついた先が後宮だと気づいたのは、しばらくしてからだ。
 戦を勝利に導くために邪魔だった軍師の娘を誘拐。子供を殺害するのはためらわれた人物が、玲妃を殺しはしない代わりに後宮にどうにか押し込んだのだ、人質として。ただし位は低かったので、後宮の人間たちはさして興味を示さなかった。

 あてがわれた屋敷は帝の宮廷より一番離れているところだった。世話係はいつの間にかいなくなり、玲妃がいた宮はボロ屋敷さながらとなった。掃除も洗濯も、全部自らの手でやらねばならなかった。(あで)やかな衣装の女性たちが、いつもみすぼらしい服装の玲妃を見て、嫌悪の表情を浮かべる。何人かは、夜に出会うと悲鳴をあげた。幽霊妃、という噂がたっていたことすら、玲妃は後宮の事情については、到底うとく何も知らなかった。

 良かったこともあった。屋敷のほぼ真横に小さな扉がついており、綺麗な水が沸く温泉と書物の蔵へとつながっていた。後宮から宮廷への秘密の抜け穴があり、両方を管理する老いた宦官がいた。書物を読みに出入りしており、仲がよくなりそのうちに管理と掃除を手伝うようになった。あまる時間で書物整理のかたわら、読めない文字も教えてくれた。そのうちに師匠と呼ぶようになり、食事は食べきれぬ、といつも玲妃にわけてくれた。この老官がいなければ、玲妃はとうに死んでいただろう。

 皇帝へ見初められようと頬へと粉をはたく女人たちを尻目に、玲妃は土やほこりをいつも髪や頬につけていた。そして髪の毛は洗うにも掃除にも邪魔になるため、短く切っていたし、細い手足はまるで痩せた男児のように思えただろう。

 その日、いつも通り玲妃は蔵で掃除をしていた。もう長くないことを悟った師匠を労わるために、よく働いた。すると、外に繋がる窓から、男の衣服が降ってきたのだ。

「どうした?」 
「師匠、これって……どこの服でしょう」

 赤い柄がついた襟付きで、まるごと帯にくくられていた。広げてみると武をたしなむものが着用するような漢時代の武侠(ぶきょう)のような衣装にも見える。

「……誰かが脱ぎ捨てだのだろうな」
「サイズは大人の男性としては、なんだか小さめですね。着てもいいでしょうか、私の服はボロボロですし」

 玲妃の衣服は風で飛んできたものを拾ったり、捨てられていたものだったりでキレイとは到底いえなかった。いつ誰に見られてもいいように中性的な服ばかりを着ていた。今回は武侠(ぶきょう)衣装にも見える服で、ややサイズは大きかったが、今の玲妃の服に比べると比較にならないほど良いものだった。師匠はうなずくと、急いで着替えてきた。
 
「どうでしょう」

 確かに見事なものではあった。
 温泉で日々手入れをしていたため、肌の汚れさえ取ればなかなかのものだ。

「馬子にも衣裳。しかし、これではもう男児にしか見えんな……」
 
 師匠は残念そうにため息をついた。

「皆のように女子の衣服を着て整えさえすれば、いずれ位の高い寵姫になれると思うのだがな」
「でも帝は父ほど歳が離れているのでしょう? それなら、今の方が幸せじゃないでしょうか」
「そう思うならば、その息子を狙え。歳が近いし、まずまずの切れ者と聞いた。お前と話が合うだろう、得意の話術でな。これをやろう」

 師匠はカラカラと笑うと、玲妃にパラパラとめくっていた書物を渡した。

「これは?」
「かつて名を馳せた陽明の戦術史だ。名書だが、存在自体ほとんど知るものはいない。今度はそれを読め」
「へえ……陽明、ですか? ……聞いたことがありませんが」

 見慣れぬ書物を懐にそっとしまった直後、慌てて何者かが飛びこんできた。
 
「ジイさん! これから軍議があるんだが、ここにある戦術書を貸してくれ。良書でな」
「知っておる。すでに用意してあるから、そこに積んであるのを持っていけ」
「お、さすが……と、持ちきれないな。といってもジイさんに持ってもらうのもな……」

 背の高い宦官はちら、と玲妃の方を見た。

「なんだ、ここに坊主がいるじゃないか。お前も手伝え、軍議の場所まで持っていくぞ」

「へ!?」 

 手伝え、もなにも基本的に後宮の、しかも(一応は)寵姫である玲妃が男がたくさんいる宮廷へ行くことなど赦されない。

「し、師匠!」 
慌てて、助け舟を求めるべく、師匠へ顔を向けた。

「ジイさん、借りてもいいよな? 坊主、名は?」

 困惑していると、師匠は口を開いた。

「陽明だ。ほれ、行ってこい、陽明」

 ぐい、と師匠は玲妃――陽明の肩を掴んで小声で耳打ちした。

「……断ったら不自然じゃ。後宮の形だけとはいえ寵姫がこの書物庫や宮廷をうろうろしているとバレたら縛り首だからな。今からはしばし陽明と名乗れ。そして私といわず”僕”といえ。その2点を守れば、容易にはバレない」

 師匠の言葉に、陽明は真っ青になった。

(しばり、首なの?)

 恐怖で恐れおののく。こくこくとうなずき、陽明は書物を両手で抱えた。少し重かったが慣れた作業だったので、そろそろと忍び足のごとく宮廷内を進んでいった。

 曲がり角近くにあった入口でどん、と誰かにぶつかり、バサリと手持ちの本が何冊か落ちた。

「落ちたぞ」

 すっと本を差し出し、両手で抱える本の山へと乗せてくれたのは若い男子だった。陽明と同じくらいの歳だろうか、いくらか背は高かった。

「ありがとう、ございます……」が、目を見張った。

 光沢のある絹、そして白い金の刺繍が施された襟と袖の衣服。高貴であることを陽明は一瞬で把握した。するとその男は、陽明の服を見て、怪訝な表情を示した。

「おい、その服は――」と、声をかけた時に、後ろから野太い声が響いた。

「龍雪様、さきほどもしかして、後宮に? 噂の幽霊妃を探しにですか?」

 龍雪と呼ばれた男は振り返った。
 慌てて、陽明は真横の軍議の部屋へと飛び込んで、部屋の端にそっと本を積んだ。壁の向こう側で、先ほどの男性たちの声が聴こえた。

「確かにいってみた。が、いたのは父上の妃たちだ、それもたくさんな。父上の死期が近いからか――あからさまに私にすり寄ってくるものが何人かいたな。父上も豪勢な後宮を持つのならば、妃の一人一人に配慮を忘れないようにせねばならんのにな、彼女らを気の毒に思うよ」

「いなかった? じゃあ、やはり、噂通り、幽霊なんでしょうか? いつの間にか、死んでしまった、とか。自殺したとか妖魔だとか、呪いの類だとか……」

「いや、単にその時に、部屋にいなかっただけだとは思う。はっきりとそうだとはいえないが。それに、アレを部屋というべかは――わからんが。そもそも、どこにいるのかさっぱりわからん。ただ幽霊というのもあながち嘘ではないのかもしれん。あんなところで本当に生きているのか、生きているだとしたら、どうやって――そう考えると、不気味ではある」

 会話の節々から、もしかしてそれは自分では、と陽明は震えた。
今日も早々に師匠の元へいったが、もしかしたらこの美男子”龍雪様”という人物と鉢合わせになったかもしれない。

(父上の妃、ということは……龍雪様は、次期皇帝では……?)

 重ねたようにマズい事態となった。この者に顔がバレてしまっては、縛り首。女だとは絶対にバレるでないぞ? と師匠の言葉が脳裏をよぎる。すぐさま龍雪は軍議の部屋に入ったため、逃げるタイミングを失ってしまった。

 少しだけ薄暗く、窮屈に感じる部屋。
 何人かの武将らしき者が視線を龍雪に向け座っていた。
 口火を切った武将の言葉に耳を傾ける、龍雪とその近辺の臣下たち。
 
「反乱だと」
「はい、超羽がこの機に乗じて陸州を得ようとしているとか。それを防ぐためにも――」

 ひげの武将が概要を語っている間、ぼんやりと陽明は壁に貼られた陸図を見る。二手に分かれた川、その真ん中に城がある。

 川、川?
 水を使って――そんな話を、陽明は昔、聞いた覚えがあった。

(でも状況が違う。例えばその川か渡る橋を逆に利用して、城を攻め落とすことは?)

「割符を手に入れてから、橋を、落として……」

 ポツリといった、つもりだった。ただでさえ静かな軍議の最中が、その言葉によってしん、と静まり返った。

「そこの、お前」

 龍雪はぴしゃりと扇で陽明を差した。

「いま、橋を落とすといったな。どうしてその必要性が?」

 陽明はしまった、という表情を浮かべた。
 そもそもこの場で目立ってはいけない、発言するなどもっての他だ。
 さあっと青ざめていた陽明の真横で、ぽかんとした表情で男が小さく声を出した。

「割符って?」
「印が押してある、木片を二つに割ったヤツだよ。伝令が身の証明をするために使うんだ」彼らの低い声でのやりとりはそこで終わった。

 川も城も橋も、簡単に言ったが全てどの程度の大きさなのか、概要を聞いていなかった。口は禍の元だと、よくいったものだ。

「名は、なんという? 先ほど尋ねようと思ったが、どこの者だ」
「あ、その、すいません。忘れてください」

「橋なんて落とせば、近隣の村が反発する。そんなバカな事を言い出すなんて――」 
 ひげの武将は、剣の柄に手をかけ、立ち上がった。

「待て」
 龍雪の声に、慌ててヒゲの男は口を閉ざし、座り直した。

「私も似たような策を考えていた。ただ、それだけでは詰めが甘い。橋を落としたところで、その後の話だ。続けろ」

「攻めてきている方々に、城を落としたという伝令を出しては(●●●●●●●●●●●●●●●●)。橋を落とせば、援軍は城へも行けない。逆に城に残っている人たちには割符で偽の情報を。そして、橋を越えて援軍にも行けずにパニックになるでしょう、その間であれば――」

「――ああ、なるほど。いいたいことはわかった。そう、それならば、できるかもしれん。橋や割符については、少し相談が必要だな。ところで、名は?」

「……よ、陽明、陽明です」

「コイツは書物庫のジイさんの弟子です」と、先ほどの宦官が口を挟んだ。

「……なるほど、では陽明。後ほど詳しく話がしたい、私の部屋へくるように」

 龍雪はパチンと扇をとじて懐へしまうと、陽明から視線を外さなかった。