「お互いに神宮寺じゃ、ややこしいから――これから”風花”って呼んでもいい?」
……私の部屋で夜に、2人きり。クラスメイトのタケルくんは、じっと私の瞳を見つめてきた。通常の女子ならば、飛び上がって喜ぶであろうシチュエーションなのに、私にとってはそうでなかった。今にして思えば、トラブルの始まりはこの日、彼と話すようになってから。
何を考えているのか、いまいち読めない瞳で、そのままタケルくんは当然そうすべき、といった口調で続ける。
「それでさっきの話だけど。今日から一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」
その上で、より理解しがたい言葉が私へとかけられる。何度目か数えたくないくらいの、信じられない内容の言葉を。
****
教室の窓側、グランドがよく見える私の席には、いつも通り、午後の暖かな陽光が降り注いでいた。
「……この問題を……神宮寺!」
先生の声で、私はハッと我に返った。
「はい」
返事をし慌てて席を立つと、クラスメイトほぼ全員がポカンとした表情で私を見てきた。チョークを持った手をビシッと私に向け、先生はいった。
「違う、お前じゃなくて、男の神宮寺の方だ。紛らわしいな、ホント」
先生の声を皮切りに、教室内がどっと笑い声であふれた。私は頬っぺたから耳まで――いや、身体全体が羞恥でいっぱいだった。同じ苗字の神宮寺タケルくんが私をじっと見つめている、何かいいたげな表情で。
「すみませんでした……」
小さな声で椅子に座り直し、顔を隠すようにして教科書を立てた。今日は朝からずっと、ぼーっとしていたからか、どこまで授業が進んだのか全く聞いていなかった。
先生に当てられた神宮寺くんは、黒板の前に立ち、チョークをもってスラスラと回答を黒板に書いていく。キレイな文字で。何人かの女子生徒が「難問なのに解けるなんてすごい」とひっそり話しているのが耳に入る。そんな優等生の神宮寺くんと、平々凡々、どころか赤点気味な神宮寺さん――なんだか対比ができてしまったようで、悲しくなる。
でも今日は仕方がなかった。なんだか、いつもより、全体的に空気がおかしかったから。どうも表現しがたいけれども、世界がゆがむような、淀むような、そんな妙な息苦しさと重苦しさの空気が朝からあったのだから。なんだろうと――意識がそちらばかりにいってしまっていたから。
授業が終わり、帰宅しようとカバンに教科書をつめる。ざわつく教室内、私の机の目の前に、神宮寺くんが――
「神宮寺さん」
同じ苗字の人に名前を呼ばれる、なんとも奇妙な感じだ。烏の濡れ羽色の髪、二重まぶたの瞳と中性的な顔立ちで、終始物静かに過ごす彼は『目立たないけど推せる』と評判の男子だ。
「どうかした?」
「一緒に帰ろう」
突然の提案に、何人かのクラスメイトたちが驚愕の声をあげる。
正直に言わせてもらうと、意味がわからなかった。私たちの間には苗字以外に接点はない。同じクラスだけど、話したことあったっけ? という程度なのに。
「なんで……?」
「今日は、一緒に帰らないとマズイと思う。僕が送るから」
理解が追いつかなかった。周りのクラスメイトは、私たちの話の内容に興味津々だ。視線の中には好奇と、そして一部の嫉妬が入り混じっている。「付き合ってたの?」なんて誰かの声で、ハッと我に返る。
「ごめんね、一人で帰るからいいよ」
神宮寺くんに言い放つと私はカバンを持ち、教室を飛び出した。どうして一緒に帰ろうといいだしたのか。
その謎が解けたのは、ほんの少し後。
学校を出て家に帰る途中の15分ほど後に、事件が、起こったからだ。
***
河原の横の細い通学路を進む。たなびく雲を見上げ、空は赤く染まっていた。陽は陰り段々と落ちてきて、まるで空全体が燃え盛っているような光景だった。そして私の身の周り。遠くで車の走らせる音が止んだ、と思った時に気づいた。
白い綿毛が草の根から覗き見えた。
ふわふわと浮いている。
綿毛は生きているように見えた。黒猫にいじめられているのか、ボールのように遊ばれている。猫の手足が触れるたび、キューキューと鳴声が聴こえたた。ウサギか何かだと思い、慌てて助けようと猫に近づくと、警戒した猫は私を一瞥したのち、逃げていった。
綿毛は私の方へふわふわと飛んできた。ウサギではなかったが、白い綿毛の中に、くりくりとした黒い瞳が見える。思ったより、かわいらしく、まるでぬいぐるみのように見えた。
「大丈夫だった?」
私の言葉がわかるだろうか、そんなことを思って手のひらを差し出したら、恐る恐る私の手のひらに乗ってきた。柔らかな毛の感触が手のひらに伝う。
「かわいいね」
思わず笑ってしまった。私の笑みにほっとしたのか、キューキューと鳴き、私のスカートのポケットに入っていった。慌てて取り出そうとすると、ポンッと肩に現れた。瞬間移動でもしたように。口を開いたままにしていると、頬っぺたをすりすりとしてきたので、撫でようと思った瞬間のことだった。
――何かが、いる。
寒気がするし、いくつかの視線を感じる。周りには人なんていないのに。
人、だけではなかった。静かすぎる。鳥の鳴き声や虫の音、葉のざわめきも、全て聴こえない。分断されたのだ、元々いた世界と。
小さな頃から『霊力が強い』家系に生まれた私は、時折こんなことが起こる。太陽と地が交じり合う逢魔が時に。
いつもの日常とは違う魑魅魍魎の世界に、一瞬だけ入り込むことが、今までに何度もあった。
いつもなら、それでもすぐに現実へと戻ることができた。今日だけ違うと感じたのは、空気が張り詰めていたからだ。気配すべてが比にならないほど強く多いことだ。
私の頭上、異形の群れが燃ゆる虚空から現れる。花緑青の角生えた鹿のようなもの、黄金のたてがみが見事な江戸紫の竜と獣を足した、そんなものが。それぞれの獣たちは私の方を一切見ていなかったが、じっと見ていると私の方へ1匹――いや、1人だけ気づいた。地に舞い降りる。
リン、と高く澄んだ鈴の音が鳴った。
緋色の衣服に身をまとう、頭に角が生えた鬼の面。和服といえばそうなのだが、見慣れない服。人の形を成していたが、気配はまるで人ではない。背は私より少し高く、じっとこちらへ面を向けていた。
肌が粟立つ。
逃げた方がいい、と直感でそう思った。
『視えるのだな、ならば』
低い声は頭に直接響いてきた。
『一緒に、来い』
動けなかった、身動きができない。身体の中で血が凍るように冷えていく気がした。生きているのに、じっくり魂が抜けて死んでいくような感覚。嫌だと拒否することすらできない。鬼は、私へ手を差し向けてきた。手は思ったより若い手で。
すると――
「神宮寺さんッ」
後ろから、聞こえた声。すぐさま全身をぎゅっと何かに包み込まれる。温かな血が逆流し、全身が自分に戻ってきた気がした。その間息を止めていたらしく、思わず大きく息を吸いこむ。
「神宮寺さん、大丈夫?」
今度の声は耳元で聞こえた。
聞き覚えがある、この声は、まさか。
「――え?」
でも全くもって状況は大丈夫、ではなかった。
神宮寺くんだ。後ろから、すっぽりと私を抱きしめていたのは神宮寺くんだった。ご丁寧に腰回りまで手を回している。
「え、ちょ……っと」
混乱の上に混乱が重なる。
振り向こうと顔をあげ、近さと、温かさと、どうしてここにと。
「今日は百鬼夜行があるから、一緒に帰らないと危ないよっていいたかったんだけど――」
そこまでだった。
言葉がいい終わる前に鬼は、私の手首をガッと強く掴んできた。怖すぎて、到底悲鳴をあげることなどできなかった。
『邪魔をするな』
リーン、と今度は強く鈴が鳴った。
「させない」
声は耳元で低く響く。神宮寺くんの胸ポケットから、何かが飛び出した。人型をした白い紙。何かが墨字で書かれている。鬼の指に触れ、バチン、と青色の火花を散らしチリチリと焦げ付いていく。鬼はチッと舌打ちをし、私から手を離した。
衝撃で、私の反対で持っていたカバンが地に落ちた。とっさにかがんで取ろうとしたら、より強く引き込まれ抱きしめられた。
「カバンなんてどうでもいい。ここから戻れなくなるから僕に捕まって」
次の瞬間、音が戻った。
車のエンジン音、草木が揺れる音。私のカバンは消えていた。
「今の、何……?」
「……鬼に狙われてる。たぶん、君が百鬼夜行を見ちゃったからだ。ああ、百鬼夜行ってのは、妖怪が列で出歩くこと出ることだよ。霊力が強い女性は特に珍しいから、見つかると……嫁候補として狙われやすくて。だから、今日は一人じゃマズいんだっていいたかったけど、いまさら遅いよね」
「……嫁?」
「そう、嫁」
今日何度目かの理解しがたい出来事と言葉。
「とにかく君の家に行くよ、事情を話さないと」
****
出迎えた母は、私たちを見て、正しく言えばタケルくんを見て、驚いていた。
「た、ダケルさま!?」
母の反応に、逆に私も驚いてしまう。
タケルさま? とは?
「お母さん、神宮寺くんのこと……知ってるの?」
「知ってるも何も! うちは分家よ! こちらは神宮寺一族……この方は本家のご子息――つまりは 次期当主のタケル様よ。分家っていっても、だいぶ遠縁になりつつあるけれども……それより、なんでウチにいらしたの!?」
絶叫し、粗茶でも粗茶でもと呟いている。
湯呑に茶柱を大量に浮かべ、恐ろしい茶ができあがったころに、神宮寺くんは「お邪魔します」と靴を揃えてあがりこみ、コホンと咳をしたのち、口を開いた。
「おかまいなく、それよりも――」
ざっくりとリビングで私たちはことのあらましを説明する。私の解説は微妙だったのか、神宮寺くんの補足で母は理解したようだ。ひとしきり説明がおわると、湯呑に入った”茶葉ばかりの山盛り粗茶”をじっと私たちは眺めた。
「というわけで、娘さん――風花さんは鬼に狙われています。恐らく高位の。このままでは、彼女は”あちら”へ連れ去られてしまうかもしれません」
連れ去られる、のキーワードに私は言葉を失った。
「え……!?」と、母の顔は蒼白になる。
そうなのだ。うちはすでに、兄が数年前に行方不明になっている。生死は不明のままで。
「そんな、風花まで……どうすれば……」
「えっと、風花さん。席を外してくれますか。少し君のお母さまと話したいので」
神宮寺くんにいわれ、私は退出を促される。
やむを得ず、部屋に簡単な食事を持ち込み、一人で待つことにした。
でも現実味がない話を聞かされ、食は進まなかった。
カバンも失い、明日から授業どうしようか。教科書どうしようか、そんなことを考える。コンコンと控えめのノックでドアを開くと、神宮寺くんがいた。
「君のお母さんから許可をもらった。もちろん、僕の家からも」
「なんの?」
「ややこしいから、まずはこれから”風花”って呼んでもいい?」
……すぐさまの返答はできなかった。けれども現状お互いに苗字で呼びづらいのは確かだ。うなずいて、了承した。
「風花も、僕のことをタケルって呼んでも構わないけど」
「じゃあタケルくん、で……」
「今日から僕たちは一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」
何度目か数えたくないくらいの、信じられない言葉をかけられる。
「なんで」
「さっきもいったけど、君は鬼に狙われてる。だから、僕と一緒にいないと……たぶん、相当に、マズイ。少なくとも僕が一緒にいれば、鬼は下手に手出しができないはずだ。さっきみたいに、対抗できる手段があるから」
「でも」
とても落ち着いた声でいう。
でも、タケルくんと一緒に暮らすのは、それはそれでマズイのでは。
流石に本人の前ではいえないけれども。
「ひとまず、今日はこの部屋で寝るよ。数百年に一度の百鬼夜行が終わるまでの期間中――これから1年間は鬼の力が増して夜出歩くのは非常にまずい。君も、僕も」
「この、部屋で? 1年間?」
「うん。何か問題あったらいって」
問題があったら、いって???
タケルくんと一緒の部屋は非常にマズイのでは?
……流石に本人の前ではいえな……いや、いっていいでしょう、コレは!!
「だ、ダメに決まってるでしょ!!! なんで!」
「今、起きてる時は僕の霊力で隠せてるけど、寝てる時は僕でも霊力が下がっちゃう。特に夜は。それに離れちゃうと鬼に見つかりやすくなっちゃうんだ。ここに一緒にいればすぐさま僕が守れるから」
「で、でも! 問題はそこじゃなくて!」
「気になるだろうけど、君の邪魔はしないから。僕のことはいないと思って」
そんな無茶ぶりを!
サラッと素で言ってくれてるんだと思う、悪意は全く感じない。嬉しくないというか、色んな感情が私の心の中を渦巻いている。
「ちなみに、断ると……どうなるの?」
「いろんな意味で保障はできないかな……力になりたいから、そのあたりは理解してほしいけど。嫁になったあと、どうなるのかはわからない……」
確かに、あまり……これ以上は知らない方がいいかもしれない。知ると怖いから。
背に腹は代えられない。
「そう……」
私は黙って部屋を片付け始めた。幸いにも、一緒にというより、いなくなった兄が一緒の部屋で寝ていたから、私の部屋は二段ベッドだ。いつ帰ってきてもいいように用意してあった、兄用の着替えやパジャマを渡し、お風呂へと入ってもらう。大変な、ことになった。色んな意味で。
私の胸中など知りもせずに、眠れない私など構いもせずに――タケルくんは2段ベッドの上で早々に寝てしまった。そんなことをいっていた私も、いつの間にか眠ってしまったけれども。
***
事件は翌日に再び起こった。
朝から転校生がくる、とクラスメイトの誰かがいっていたからだ。
そうこうしているうちに、教室の扉が開けられ、先生と一緒に男子が入ってきた。音が消え――
リーン、と鈴の音が鳴る。
私はごくりと思わず唾を呑みこんだ。
金髪に白い肌。ハーフのような顔立ち。
ほとんどすべてのクラスメイトは見惚れていたけれど、私とタケルくんだけは違った。制服に身を包んでいたが、気配は”人”ではない。
「転校生……おおたけ、大嶽くんだ」
先生の目は虚ろで暗くなっている。
すると、隣に立っていた”おおたけくん”は口を開いた。
『風花の隣の席が空いている』
パッと私は自分の席の隣を見た。空いてなどいない、間違いなくメガネの委員長・鈴木くんが座っている。でも、大嶽くんの言葉に鈴木くんはふらりと立つと、別の空いていた席に座った。鈴木くんは先生のように虚ろな表情を浮かべたままで。
大嶽くんは、すっと歩き、がら空きとなった私の横の席に当たり前のように座った。
『普通に戻れ』
教室はいつも通りの日常らしいざわめきを取り戻した。
大嶽くんは、私の席にドサッと何かを置き、私へと視線を落としている。
机の上に、あったのは――
「これ、私のカバン……」
「よろしく、風花」
大嶽くんは広角を緩やかに上げた。
当然ながら、私は一度も名乗っていない。
そして、『逢魔が時』に失くしたカバンを渡してくるなんて。
間違いない、彼は”鬼”だ。
私の考えを肯定するように、少し離れた席のタケルくんは、大嶽くんを――睨んでいた。
二人の間に、見えぬ視線の火花が散ったように、私にはそう、思えた。
……私の部屋で夜に、2人きり。クラスメイトのタケルくんは、じっと私の瞳を見つめてきた。通常の女子ならば、飛び上がって喜ぶであろうシチュエーションなのに、私にとってはそうでなかった。今にして思えば、トラブルの始まりはこの日、彼と話すようになってから。
何を考えているのか、いまいち読めない瞳で、そのままタケルくんは当然そうすべき、といった口調で続ける。
「それでさっきの話だけど。今日から一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」
その上で、より理解しがたい言葉が私へとかけられる。何度目か数えたくないくらいの、信じられない内容の言葉を。
****
教室の窓側、グランドがよく見える私の席には、いつも通り、午後の暖かな陽光が降り注いでいた。
「……この問題を……神宮寺!」
先生の声で、私はハッと我に返った。
「はい」
返事をし慌てて席を立つと、クラスメイトほぼ全員がポカンとした表情で私を見てきた。チョークを持った手をビシッと私に向け、先生はいった。
「違う、お前じゃなくて、男の神宮寺の方だ。紛らわしいな、ホント」
先生の声を皮切りに、教室内がどっと笑い声であふれた。私は頬っぺたから耳まで――いや、身体全体が羞恥でいっぱいだった。同じ苗字の神宮寺タケルくんが私をじっと見つめている、何かいいたげな表情で。
「すみませんでした……」
小さな声で椅子に座り直し、顔を隠すようにして教科書を立てた。今日は朝からずっと、ぼーっとしていたからか、どこまで授業が進んだのか全く聞いていなかった。
先生に当てられた神宮寺くんは、黒板の前に立ち、チョークをもってスラスラと回答を黒板に書いていく。キレイな文字で。何人かの女子生徒が「難問なのに解けるなんてすごい」とひっそり話しているのが耳に入る。そんな優等生の神宮寺くんと、平々凡々、どころか赤点気味な神宮寺さん――なんだか対比ができてしまったようで、悲しくなる。
でも今日は仕方がなかった。なんだか、いつもより、全体的に空気がおかしかったから。どうも表現しがたいけれども、世界がゆがむような、淀むような、そんな妙な息苦しさと重苦しさの空気が朝からあったのだから。なんだろうと――意識がそちらばかりにいってしまっていたから。
授業が終わり、帰宅しようとカバンに教科書をつめる。ざわつく教室内、私の机の目の前に、神宮寺くんが――
「神宮寺さん」
同じ苗字の人に名前を呼ばれる、なんとも奇妙な感じだ。烏の濡れ羽色の髪、二重まぶたの瞳と中性的な顔立ちで、終始物静かに過ごす彼は『目立たないけど推せる』と評判の男子だ。
「どうかした?」
「一緒に帰ろう」
突然の提案に、何人かのクラスメイトたちが驚愕の声をあげる。
正直に言わせてもらうと、意味がわからなかった。私たちの間には苗字以外に接点はない。同じクラスだけど、話したことあったっけ? という程度なのに。
「なんで……?」
「今日は、一緒に帰らないとマズイと思う。僕が送るから」
理解が追いつかなかった。周りのクラスメイトは、私たちの話の内容に興味津々だ。視線の中には好奇と、そして一部の嫉妬が入り混じっている。「付き合ってたの?」なんて誰かの声で、ハッと我に返る。
「ごめんね、一人で帰るからいいよ」
神宮寺くんに言い放つと私はカバンを持ち、教室を飛び出した。どうして一緒に帰ろうといいだしたのか。
その謎が解けたのは、ほんの少し後。
学校を出て家に帰る途中の15分ほど後に、事件が、起こったからだ。
***
河原の横の細い通学路を進む。たなびく雲を見上げ、空は赤く染まっていた。陽は陰り段々と落ちてきて、まるで空全体が燃え盛っているような光景だった。そして私の身の周り。遠くで車の走らせる音が止んだ、と思った時に気づいた。
白い綿毛が草の根から覗き見えた。
ふわふわと浮いている。
綿毛は生きているように見えた。黒猫にいじめられているのか、ボールのように遊ばれている。猫の手足が触れるたび、キューキューと鳴声が聴こえたた。ウサギか何かだと思い、慌てて助けようと猫に近づくと、警戒した猫は私を一瞥したのち、逃げていった。
綿毛は私の方へふわふわと飛んできた。ウサギではなかったが、白い綿毛の中に、くりくりとした黒い瞳が見える。思ったより、かわいらしく、まるでぬいぐるみのように見えた。
「大丈夫だった?」
私の言葉がわかるだろうか、そんなことを思って手のひらを差し出したら、恐る恐る私の手のひらに乗ってきた。柔らかな毛の感触が手のひらに伝う。
「かわいいね」
思わず笑ってしまった。私の笑みにほっとしたのか、キューキューと鳴き、私のスカートのポケットに入っていった。慌てて取り出そうとすると、ポンッと肩に現れた。瞬間移動でもしたように。口を開いたままにしていると、頬っぺたをすりすりとしてきたので、撫でようと思った瞬間のことだった。
――何かが、いる。
寒気がするし、いくつかの視線を感じる。周りには人なんていないのに。
人、だけではなかった。静かすぎる。鳥の鳴き声や虫の音、葉のざわめきも、全て聴こえない。分断されたのだ、元々いた世界と。
小さな頃から『霊力が強い』家系に生まれた私は、時折こんなことが起こる。太陽と地が交じり合う逢魔が時に。
いつもの日常とは違う魑魅魍魎の世界に、一瞬だけ入り込むことが、今までに何度もあった。
いつもなら、それでもすぐに現実へと戻ることができた。今日だけ違うと感じたのは、空気が張り詰めていたからだ。気配すべてが比にならないほど強く多いことだ。
私の頭上、異形の群れが燃ゆる虚空から現れる。花緑青の角生えた鹿のようなもの、黄金のたてがみが見事な江戸紫の竜と獣を足した、そんなものが。それぞれの獣たちは私の方を一切見ていなかったが、じっと見ていると私の方へ1匹――いや、1人だけ気づいた。地に舞い降りる。
リン、と高く澄んだ鈴の音が鳴った。
緋色の衣服に身をまとう、頭に角が生えた鬼の面。和服といえばそうなのだが、見慣れない服。人の形を成していたが、気配はまるで人ではない。背は私より少し高く、じっとこちらへ面を向けていた。
肌が粟立つ。
逃げた方がいい、と直感でそう思った。
『視えるのだな、ならば』
低い声は頭に直接響いてきた。
『一緒に、来い』
動けなかった、身動きができない。身体の中で血が凍るように冷えていく気がした。生きているのに、じっくり魂が抜けて死んでいくような感覚。嫌だと拒否することすらできない。鬼は、私へ手を差し向けてきた。手は思ったより若い手で。
すると――
「神宮寺さんッ」
後ろから、聞こえた声。すぐさま全身をぎゅっと何かに包み込まれる。温かな血が逆流し、全身が自分に戻ってきた気がした。その間息を止めていたらしく、思わず大きく息を吸いこむ。
「神宮寺さん、大丈夫?」
今度の声は耳元で聞こえた。
聞き覚えがある、この声は、まさか。
「――え?」
でも全くもって状況は大丈夫、ではなかった。
神宮寺くんだ。後ろから、すっぽりと私を抱きしめていたのは神宮寺くんだった。ご丁寧に腰回りまで手を回している。
「え、ちょ……っと」
混乱の上に混乱が重なる。
振り向こうと顔をあげ、近さと、温かさと、どうしてここにと。
「今日は百鬼夜行があるから、一緒に帰らないと危ないよっていいたかったんだけど――」
そこまでだった。
言葉がいい終わる前に鬼は、私の手首をガッと強く掴んできた。怖すぎて、到底悲鳴をあげることなどできなかった。
『邪魔をするな』
リーン、と今度は強く鈴が鳴った。
「させない」
声は耳元で低く響く。神宮寺くんの胸ポケットから、何かが飛び出した。人型をした白い紙。何かが墨字で書かれている。鬼の指に触れ、バチン、と青色の火花を散らしチリチリと焦げ付いていく。鬼はチッと舌打ちをし、私から手を離した。
衝撃で、私の反対で持っていたカバンが地に落ちた。とっさにかがんで取ろうとしたら、より強く引き込まれ抱きしめられた。
「カバンなんてどうでもいい。ここから戻れなくなるから僕に捕まって」
次の瞬間、音が戻った。
車のエンジン音、草木が揺れる音。私のカバンは消えていた。
「今の、何……?」
「……鬼に狙われてる。たぶん、君が百鬼夜行を見ちゃったからだ。ああ、百鬼夜行ってのは、妖怪が列で出歩くこと出ることだよ。霊力が強い女性は特に珍しいから、見つかると……嫁候補として狙われやすくて。だから、今日は一人じゃマズいんだっていいたかったけど、いまさら遅いよね」
「……嫁?」
「そう、嫁」
今日何度目かの理解しがたい出来事と言葉。
「とにかく君の家に行くよ、事情を話さないと」
****
出迎えた母は、私たちを見て、正しく言えばタケルくんを見て、驚いていた。
「た、ダケルさま!?」
母の反応に、逆に私も驚いてしまう。
タケルさま? とは?
「お母さん、神宮寺くんのこと……知ってるの?」
「知ってるも何も! うちは分家よ! こちらは神宮寺一族……この方は本家のご子息――つまりは 次期当主のタケル様よ。分家っていっても、だいぶ遠縁になりつつあるけれども……それより、なんでウチにいらしたの!?」
絶叫し、粗茶でも粗茶でもと呟いている。
湯呑に茶柱を大量に浮かべ、恐ろしい茶ができあがったころに、神宮寺くんは「お邪魔します」と靴を揃えてあがりこみ、コホンと咳をしたのち、口を開いた。
「おかまいなく、それよりも――」
ざっくりとリビングで私たちはことのあらましを説明する。私の解説は微妙だったのか、神宮寺くんの補足で母は理解したようだ。ひとしきり説明がおわると、湯呑に入った”茶葉ばかりの山盛り粗茶”をじっと私たちは眺めた。
「というわけで、娘さん――風花さんは鬼に狙われています。恐らく高位の。このままでは、彼女は”あちら”へ連れ去られてしまうかもしれません」
連れ去られる、のキーワードに私は言葉を失った。
「え……!?」と、母の顔は蒼白になる。
そうなのだ。うちはすでに、兄が数年前に行方不明になっている。生死は不明のままで。
「そんな、風花まで……どうすれば……」
「えっと、風花さん。席を外してくれますか。少し君のお母さまと話したいので」
神宮寺くんにいわれ、私は退出を促される。
やむを得ず、部屋に簡単な食事を持ち込み、一人で待つことにした。
でも現実味がない話を聞かされ、食は進まなかった。
カバンも失い、明日から授業どうしようか。教科書どうしようか、そんなことを考える。コンコンと控えめのノックでドアを開くと、神宮寺くんがいた。
「君のお母さんから許可をもらった。もちろん、僕の家からも」
「なんの?」
「ややこしいから、まずはこれから”風花”って呼んでもいい?」
……すぐさまの返答はできなかった。けれども現状お互いに苗字で呼びづらいのは確かだ。うなずいて、了承した。
「風花も、僕のことをタケルって呼んでも構わないけど」
「じゃあタケルくん、で……」
「今日から僕たちは一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」
何度目か数えたくないくらいの、信じられない言葉をかけられる。
「なんで」
「さっきもいったけど、君は鬼に狙われてる。だから、僕と一緒にいないと……たぶん、相当に、マズイ。少なくとも僕が一緒にいれば、鬼は下手に手出しができないはずだ。さっきみたいに、対抗できる手段があるから」
「でも」
とても落ち着いた声でいう。
でも、タケルくんと一緒に暮らすのは、それはそれでマズイのでは。
流石に本人の前ではいえないけれども。
「ひとまず、今日はこの部屋で寝るよ。数百年に一度の百鬼夜行が終わるまでの期間中――これから1年間は鬼の力が増して夜出歩くのは非常にまずい。君も、僕も」
「この、部屋で? 1年間?」
「うん。何か問題あったらいって」
問題があったら、いって???
タケルくんと一緒の部屋は非常にマズイのでは?
……流石に本人の前ではいえな……いや、いっていいでしょう、コレは!!
「だ、ダメに決まってるでしょ!!! なんで!」
「今、起きてる時は僕の霊力で隠せてるけど、寝てる時は僕でも霊力が下がっちゃう。特に夜は。それに離れちゃうと鬼に見つかりやすくなっちゃうんだ。ここに一緒にいればすぐさま僕が守れるから」
「で、でも! 問題はそこじゃなくて!」
「気になるだろうけど、君の邪魔はしないから。僕のことはいないと思って」
そんな無茶ぶりを!
サラッと素で言ってくれてるんだと思う、悪意は全く感じない。嬉しくないというか、色んな感情が私の心の中を渦巻いている。
「ちなみに、断ると……どうなるの?」
「いろんな意味で保障はできないかな……力になりたいから、そのあたりは理解してほしいけど。嫁になったあと、どうなるのかはわからない……」
確かに、あまり……これ以上は知らない方がいいかもしれない。知ると怖いから。
背に腹は代えられない。
「そう……」
私は黙って部屋を片付け始めた。幸いにも、一緒にというより、いなくなった兄が一緒の部屋で寝ていたから、私の部屋は二段ベッドだ。いつ帰ってきてもいいように用意してあった、兄用の着替えやパジャマを渡し、お風呂へと入ってもらう。大変な、ことになった。色んな意味で。
私の胸中など知りもせずに、眠れない私など構いもせずに――タケルくんは2段ベッドの上で早々に寝てしまった。そんなことをいっていた私も、いつの間にか眠ってしまったけれども。
***
事件は翌日に再び起こった。
朝から転校生がくる、とクラスメイトの誰かがいっていたからだ。
そうこうしているうちに、教室の扉が開けられ、先生と一緒に男子が入ってきた。音が消え――
リーン、と鈴の音が鳴る。
私はごくりと思わず唾を呑みこんだ。
金髪に白い肌。ハーフのような顔立ち。
ほとんどすべてのクラスメイトは見惚れていたけれど、私とタケルくんだけは違った。制服に身を包んでいたが、気配は”人”ではない。
「転校生……おおたけ、大嶽くんだ」
先生の目は虚ろで暗くなっている。
すると、隣に立っていた”おおたけくん”は口を開いた。
『風花の隣の席が空いている』
パッと私は自分の席の隣を見た。空いてなどいない、間違いなくメガネの委員長・鈴木くんが座っている。でも、大嶽くんの言葉に鈴木くんはふらりと立つと、別の空いていた席に座った。鈴木くんは先生のように虚ろな表情を浮かべたままで。
大嶽くんは、すっと歩き、がら空きとなった私の横の席に当たり前のように座った。
『普通に戻れ』
教室はいつも通りの日常らしいざわめきを取り戻した。
大嶽くんは、私の席にドサッと何かを置き、私へと視線を落としている。
机の上に、あったのは――
「これ、私のカバン……」
「よろしく、風花」
大嶽くんは広角を緩やかに上げた。
当然ながら、私は一度も名乗っていない。
そして、『逢魔が時』に失くしたカバンを渡してくるなんて。
間違いない、彼は”鬼”だ。
私の考えを肯定するように、少し離れた席のタケルくんは、大嶽くんを――睨んでいた。
二人の間に、見えぬ視線の火花が散ったように、私にはそう、思えた。



