「お互いに神宮寺じゃ、ややこしいから――これから”風花”って呼んでもいい?」

 ……私の部屋で夜に、2人きり。クラスメイトのタケルくんは、じっと私の瞳を見つめてきた。通常の女子ならば、飛び上がって喜ぶであろうシチュエーションなのに、私にとってはそうでなかった。今にして思えば、トラブルの始まりはこの日、彼と話すようになってから。

 何を考えているのか、いまいち読めない瞳で、そのままタケルくんは当然そうすべき、といった口調で続ける。

「それでさっきの話だけど。今日から一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」

 その上で、より理解しがたい言葉が私へとかけられる。何度目か数えたくないくらいの、信じられない内容の言葉を。

****

 教室の窓側、グランドがよく見える私の席には、いつも通り、午後の暖かな陽光が降り注いでいた。

「……この問題を……神宮寺(じんぐうじ)!」

 先生の声で、私はハッと我に返った。

「はい」

 返事をし慌てて席を立つと、クラスメイトほぼ全員がポカンとした表情で私を見てきた。チョークを持った手をビシッと私に向け、先生はいった。

「違う、お前じゃなくて、男の神宮寺の方だ。紛らわしいな、ホント」

 先生の声を皮切りに、教室内がどっと笑い声であふれた。私は頬っぺたから耳まで――いや、身体全体が羞恥(しゅうち)でいっぱいだった。同じ苗字の神宮寺タケルくんが私をじっと見つめている、何かいいたげな表情で。

「すみませんでした……」

 小さな声で椅子に座り直し、顔を隠すようにして教科書を立てた。今日は朝からずっと、ぼーっとしていたからか、どこまで授業が進んだのか全く聞いていなかった。

 先生に当てられた神宮寺くんは、黒板の前に立ち、チョークをもってスラスラと回答を黒板に書いていく。キレイな文字で。何人かの女子生徒が「難問なのに解けるなんてすごい」とひっそり話しているのが耳に入る。そんな優等生の神宮寺くんと、平々凡々、どころか赤点気味な神宮寺さん――なんだか対比ができてしまったようで、悲しくなる。

 でも今日は仕方がなかった。なんだか、いつもより、全体的に空気がおかしかったから。どうも表現しがたいけれども、世界がゆがむような、淀むような、そんな妙な息苦しさと重苦しさの空気が朝からあったのだから。なんだろうと――意識がそちらばかりにいってしまっていたから。

 授業が終わり、帰宅しようとカバンに教科書をつめる。ざわつく教室内、私の机の目の前に、神宮寺くんが――

「神宮寺さん」

 同じ苗字の人に名前を呼ばれる、なんとも奇妙な感じだ。(からす)の濡れ羽色の髪、二重まぶたの瞳と中性的な顔立ちで、終始物静かに過ごす彼は『目立たないけど推せる』と評判の男子だ。

「どうかした?」
「一緒に帰ろう」

 突然の提案に、何人かのクラスメイトたちが驚愕(きょうがく)の声をあげる。

 正直に言わせてもらうと、意味がわからなかった。私たちの間には苗字以外に接点はない。同じクラスだけど、話したことあったっけ? という程度なのに。

「なんで……?」
「今日は、一緒に帰らないとマズイと思う。僕が送るから」

 理解が追いつかなかった。周りのクラスメイトは、私たちの話の内容に興味津々だ。視線の中には好奇と、そして一部の嫉妬が入り混じっている。「付き合ってたの?」なんて誰かの声で、ハッと我に返る。

「ごめんね、一人で帰るからいいよ」

 神宮寺くんに言い放つと私はカバンを持ち、教室を飛び出した。どうして一緒に帰ろうといいだしたのか。

 その謎が解けたのは、ほんの少し後。
 学校を出て家に帰る途中の15分ほど後に、事件が、起こったからだ。

***
 
 河原の横の細い通学路を進む。たなびく雲を見上げ、空は赤く染まっていた。陽は(かげ)り段々と落ちてきて、まるで空全体が燃え盛っているような光景だった。そして私の身の周り。遠くで車の走らせる音が止んだ、と思った時に気づいた。

 白い綿毛が草の根から覗き見えた。

 ふわふわと浮いている。
 綿毛は生きているように見えた。黒猫にいじめられているのか、ボールのように遊ばれている。猫の手足が触れるたび、キューキューと鳴声が聴こえたた。ウサギか何かだと思い、慌てて助けようと猫に近づくと、警戒した猫は私を一瞥したのち、逃げていった。

 綿毛は私の方へふわふわと飛んできた。ウサギではなかったが、白い綿毛の中に、くりくりとした黒い瞳が見える。思ったより、かわいらしく、まるでぬいぐるみのように見えた。

「大丈夫だった?」

 私の言葉がわかるだろうか、そんなことを思って手のひらを差し出したら、恐る恐る私の手のひらに乗ってきた。柔らかな毛の感触が手のひらに伝う。

「かわいいね」

 思わず笑ってしまった。私の笑みにほっとしたのか、キューキューと鳴き、私のスカートのポケットに入っていった。慌てて取り出そうとすると、ポンッと肩に現れた。瞬間移動でもしたように。口を開いたままにしていると、頬っぺたをすりすりとしてきたので、撫でようと思った瞬間のことだった。

――何かが、いる。
 寒気がするし、いくつかの視線を感じる。周りには人なんていないのに。 

 人、だけではなかった。静かすぎる。鳥の鳴き声や虫の音、葉のざわめきも、全て聴こえない。分断されたのだ、元々いた世界と。

 小さな頃から『霊力が強い』家系に生まれた私は、時折こんなことが起こる。太陽と地が交じり合う逢魔(おうま)が時に。

 いつもの日常とは違う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界に、一瞬だけ入り込むことが、今までに何度もあった。

 いつもなら、それでもすぐに現実へと戻ることができた。今日だけ違うと感じたのは、空気が張り詰めていたからだ。気配すべてが比にならないほど強く多いことだ。

 私の頭上、異形の群れが燃ゆる虚空(こくう)から現れる。花緑青(はなろくしょう)の角生えた鹿のようなもの、黄金のたてがみが見事な江戸紫の竜と獣を足した、そんなものが。それぞれの獣たちは私の方を一切見ていなかったが、じっと見ていると私の方へ1匹――いや、1人だけ気づいた。地に舞い降りる。

 リン、と高く澄んだ鈴の音が鳴った。

 緋色(ひいろ)の衣服に身をまとう、頭に角が生えた鬼の面。和服といえばそうなのだが、見慣れない服。人の形を成していたが、気配はまるで人ではない。背は私より少し高く、じっとこちらへ面を向けていた。

 肌が粟立(あわだ)つ。
 逃げた方がいい、と直感でそう思った。

『視えるのだな、ならば』

 低い声は頭に直接響いてきた。

『一緒に、来い』

 動けなかった、身動きができない。身体の中で血が凍るように冷えていく気がした。生きているのに、じっくり魂が抜けて死んでいくような感覚。嫌だと拒否することすらできない。鬼は、私へ手を差し向けてきた。手は思ったより若い手で。

 すると――
 
「神宮寺さんッ」

 後ろから、聞こえた声。すぐさま全身をぎゅっと何かに包み込まれる。温かな血が逆流し、全身が自分に戻ってきた気がした。その間息を止めていたらしく、思わず大きく息を吸いこむ。

「神宮寺さん、大丈夫?」

 今度の声は耳元で聞こえた。
 聞き覚えがある、この声は、まさか。

「――え?」

 でも全くもって状況は大丈夫、ではなかった。
 神宮寺くんだ。後ろから、すっぽりと私を抱きしめていたのは神宮寺くんだった。ご丁寧に腰回りまで手を回している。

「え、ちょ……っと」

 混乱の上に混乱が重なる。
 振り向こうと顔をあげ、近さと、温かさと、どうしてここにと。

「今日は百鬼夜行があるから、一緒に帰らないと危ないよっていいたかったんだけど――」

 そこまでだった。 
 言葉がいい終わる前に鬼は、私の手首をガッと強く掴んできた。怖すぎて、到底悲鳴をあげることなどできなかった。

『邪魔をするな』

 リーン、と今度は強く鈴が鳴った。

「させない」

 声は耳元で低く響く。神宮寺くんの胸ポケットから、何かが飛び出した。人型をした白い紙。何かが墨字で書かれている。鬼の指に触れ、バチン、と青色の火花を散らしチリチリと焦げ付いていく。鬼はチッと舌打ちをし、私から手を離した。

 衝撃で、私の反対で持っていたカバンが地に落ちた。とっさにかがんで取ろうとしたら、より強く引き込まれ抱きしめられた。

「カバンなんてどうでもいい。ここから戻れなくなるから僕に捕まって」

 次の瞬間、音が戻った。
 車のエンジン音、草木が揺れる音。私のカバンは消えていた。

「今の、何……?」

「……鬼に狙われてる。たぶん、君が百鬼夜行を見ちゃったからだ。ああ、百鬼夜行ってのは、妖怪が列で出歩くこと出ることだよ。霊力が強い女性は特に珍しいから、見つかると……嫁候補として狙われやすくて。だから、今日は一人じゃマズいんだっていいたかったけど、いまさら遅いよね」

「……嫁?」 

「そう、嫁」

 今日何度目かの理解しがたい出来事と言葉。

「とにかく君の家に行くよ、事情を話さないと」

****

 出迎えた母は、私たちを見て、正しく言えばタケルくんを見て、驚いていた。

「た、ダケルさま!?」

 母の反応に、逆に私も驚いてしまう。
 タケルさま? とは?

「お母さん、神宮寺くんのこと……知ってるの?」
「知ってるも何も! うちは分家よ! こちらは神宮寺一族……この方は本家のご子息――つまりは 次期当主のタケル様よ。分家っていっても、だいぶ遠縁になりつつあるけれども……それより、なんでウチにいらしたの!?」

 絶叫し、粗茶でも粗茶でもと呟いている。

 湯呑に茶柱を大量に浮かべ、恐ろしい茶ができあがったころに、神宮寺くんは「お邪魔します」と靴を揃えてあがりこみ、コホンと咳をしたのち、口を開いた。

「おかまいなく、それよりも――」

 ざっくりとリビングで私たちはことのあらましを説明する。私の解説は微妙だったのか、神宮寺くんの補足で母は理解したようだ。ひとしきり説明がおわると、湯呑に入った”茶葉ばかりの山盛り粗茶”をじっと私たちは眺めた。

「というわけで、娘さん――風花さんは鬼に狙われています。恐らく高位の。このままでは、彼女は”あちら”へ連れ去られてしまうかもしれません」

 連れ去られる、のキーワードに私は言葉を失った。

「え……!?」と、母の顔は蒼白になる。
 そうなのだ。うちはすでに、兄が数年前に行方不明になっている。生死は不明のままで。

「そんな、風花まで……どうすれば……」
「えっと、風花さん。席を外してくれますか。少し君のお母さまと話したいので」

 神宮寺くんにいわれ、私は退出を促される。
 やむを得ず、部屋に簡単な食事を持ち込み、一人で待つことにした。

 でも現実味がない話を聞かされ、食は進まなかった。
 カバンも失い、明日から授業どうしようか。教科書どうしようか、そんなことを考える。コンコンと控えめのノックでドアを開くと、神宮寺くんがいた。

「君のお母さんから許可をもらった。もちろん、僕の家からも」
「なんの?」
「ややこしいから、まずはこれから”風花”って呼んでもいい?」

 ……すぐさまの返答はできなかった。けれども現状お互いに苗字で呼びづらいのは確かだ。うなずいて、了承した。

「風花も、僕のことをタケルって呼んでも構わないけど」
「じゃあタケルくん、で……」

「今日から僕たちは一緒に住むことになった。僕の家でも、君の家でもどちらでもいいけど」
「……え、え?」

 何度目か数えたくないくらいの、信じられない言葉をかけられる。

「なんで」
「さっきもいったけど、君は鬼に狙われてる。だから、僕と一緒にいないと……たぶん、相当に、マズイ。少なくとも僕が一緒にいれば、鬼は下手に手出しができないはずだ。さっきみたいに、対抗できる手段があるから」
「でも」

 とても落ち着いた声でいう。

 でも、タケルくんと一緒に暮らすのは、それはそれでマズイのでは。
 流石に本人の前ではいえないけれども。

「ひとまず、今日はこの部屋で寝るよ。数百年に一度の百鬼夜行が終わるまでの期間中――これから1年間は鬼の力が増して夜出歩くのは非常にまずい。君も、僕も」

「この、部屋で? 1年間?」
「うん。何か問題あったらいって」

 問題があったら、いって???
 タケルくんと一緒の部屋は非常にマズイのでは?

 ……流石に本人の前ではいえな……いや、いっていいでしょう、コレは!!

「だ、ダメに決まってるでしょ!!! なんで!」

「今、起きてる時は僕の霊力で隠せてるけど、寝てる時は僕でも霊力が下がっちゃう。特に夜は。それに離れちゃうと鬼に見つかりやすくなっちゃうんだ。ここに一緒にいればすぐさま僕が守れるから」 

「で、でも! 問題はそこじゃなくて!」
「気になるだろうけど、君の邪魔はしないから。僕のことはいないと思って」

 そんな無茶ぶりを!
 サラッと素で言ってくれてるんだと思う、悪意は全く感じない。嬉しくないというか、色んな感情が私の心の中を渦巻いている。

「ちなみに、断ると……どうなるの?」

「いろんな意味で保障はできないかな……力になりたいから、そのあたりは理解してほしいけど。嫁になったあと、どうなるのかはわからない……」

 確かに、あまり……これ以上は知らない方がいいかもしれない。知ると怖いから。
 背に腹は代えられない。

「そう……」

 私は黙って部屋を片付け始めた。幸いにも、一緒にというより、いなくなった兄が一緒の部屋で寝ていたから、私の部屋は二段ベッドだ。いつ帰ってきてもいいように用意してあった、兄用の着替えやパジャマを渡し、お風呂へと入ってもらう。大変な、ことになった。色んな意味で。

 私の胸中など知りもせずに、眠れない私など構いもせずに――タケルくんは2段ベッドの上で早々に寝てしまった。そんなことをいっていた私も、いつの間にか眠ってしまったけれども。

***

 事件は翌日に再び起こった。
 朝から転校生がくる、とクラスメイトの誰かがいっていたからだ。
 そうこうしているうちに、教室の扉が開けられ、先生と一緒に男子が入ってきた。音が消え――

 リーン、と鈴の音が鳴る。
 私はごくりと思わず唾を呑みこんだ。

 金髪に白い肌。ハーフのような顔立ち。
 ほとんどすべてのクラスメイトは見惚れていたけれど、私とタケルくんだけは違った。制服に身を包んでいたが、気配は”人”ではない。

「転校生……おおたけ、大嶽(おおたけ)くんだ」

 先生の目は虚ろで暗くなっている。
 すると、隣に立っていた”おおたけくん”は口を開いた。

『風花の隣の席が空いている』

 パッと私は自分の席の隣を見た。空いてなどいない、間違いなくメガネの委員長・鈴木くんが座っている。でも、大嶽くんの言葉に鈴木くんはふらりと立つと、別の空いていた席に座った。鈴木くんは先生のように虚ろな表情を浮かべたままで。

 大嶽くんは、すっと歩き、がら空きとなった私の横の席に当たり前のように座った。

『普通に戻れ』

 教室はいつも通りの日常らしいざわめきを取り戻した。
 大嶽くんは、私の席にドサッと何かを置き、私へと視線を落としている。
 机の上に、あったのは――

「これ、私のカバン……」
「よろしく、風花」
 
 大嶽くんは広角を緩やかに上げた。

 当然ながら、私は一度も名乗っていない。
 そして、『逢魔が時』に失くしたカバンを渡してくるなんて。

 間違いない、彼は”鬼”だ。
 私の考えを肯定するように、少し離れた席のタケルくんは、大嶽くんを――睨んでいた。


 二人の間に、見えぬ視線の火花が散ったように、私にはそう、思えた。