「あっ、あれだ」
 七咲先生が嬉しそうに言って、前方を指さした。見ると視界の奥の方に、オレンジ色の光がポツポツと灯っている。屋台だ。俺は胸がわくわくしてくるのを感じた。周囲には歩行者の数も増えてきている。
 「何買うつもりなの」
 独り言みたいな声が聞こえて、横に佳都が歩いていた。空は薄暗くなってきているので彼の表情はあまり見えないけど、前を向いていることだけは分かった。思えば、今日ちゃんと話すのは今朝ぶりだ。
 「りんご飴、かな」
 「好きなの?」
 「うん。祭りに行くときは絶対買う。店によって違うから分かんないけど、パイナップルとかも食べたい」
 「ふーん」
 「佳都は買いたいものとかあるの?」
 彼は髪をゆっくり撫でて耳にかけた。いつもより暗い気がする。周囲には人数がどんどん増えていって、浴衣を着ている学生グループも多くいた。ちょうちんの光が近づけば近づくほど、人の声がごったがえす。
 「りんご飴」
 心のこもっていない声で彼が言った。ちらっと佳都の表情を伺う。でも平然としていた。
 「僕もよく買うんだ。家族で行った時とかに」
 「……そうなんだ。一緒だね」
 「うん、そう。一緒。だからさ」
 佳都は一拍置いて、俺の袖に触れた。ドキッとした。海辺ではなんともなかったのに、周りに大勢の人がいると恥ずかしくなる。振りほどきたかったけど、彼の様子を思うとそんなことできない。
 「後で、りんご飴一緒に買いに行こう。ね、わかった」
 「べつにいいけど……」
 「絶対だよ。覚えてて」
 俺は頷いた。でも、なんで彼がそんな約束をしてくるのかは分からない。事前に言っておかなくたって、皆でまわるんだから関係ないのに。りんご飴の屋台があれば皆で買えばいい。
 でもそんな考えを伝えるはずもなく、佳都はその間に前に歩いていってしまった。先頭には七咲先生がいて、後方には奥村さんがいる。生徒がはぐれないようにしているのだろう、ただ皆スマホを持っているので心配はない。
 「いい匂いするね、焼きそばかな」
 椿乃さんが笑っている。「そうじゃないかな」と俺も笑った。
 だんだんちょうちんの光が近づいてくる。祭りが始まるんだ。

 「じゃあ、もしはぐれた場合はここに集合! スマホで連絡も忘れずに!」
 周囲の騒ぎ声に負けないよう、七咲先生は大きな声で呼びかけた。俺たちはいくつかの屋台を超えて、露天通りの途中にある小さな神社に入っている。普段は人なんて誰も来なさそうな場所だけど、今日は祭り。多くの人が食べたり、話したりする場所にしていた。
 「それじゃあまず、食べ物から買いに行こうか。お腹も減ってるだろうし、早く買わないと売り切れる」
 「なら僕、焼きそば食べたい」
 湊くんが精いっぱい手を挙げた。彼も財布を手に持っていて、いつもより浮かれているように見える。
 「私も食べたい! お腹ペコペコだし」
 「わかった。まずは焼きそばを目指そうか」
 そういうことで、俺たちは神社を出ることにした。ここに来るまで焼きそばの屋台は無かったので、もっと奥に行く必要がありそうだ。先生が先頭、次は湊くん、椿乃さん、そして俺と佳都、最後に奥村さんという順番で歩く。
 「りんご飴、まだなかったね」
 俺はゆらゆら輝いている露天通りを見ながら言う。佳都も人の流れをぼんやり見ていた。
 「だね。まあどこかにはあるでしょ。りんご飴がない祭りなんてありえない」
 「うん。想像したくもない……」
 祭りの雰囲気も相まって、俺は積極的に話しかけた。ちょっと薄暗いおかげで緊張が少ないし、なんか変にドキドキもする。でも佳都はそんな様子じゃない。祭りで、せっかく二人で並んで歩いているのに、何にもしてこない。いつもみたいに俺を困らせるようなことをしてくれればいいのに、何にもしてくれない。今なら素直になれる気がするのに。
 「ねえ」
 短い声がした。佳都が言ったんだ。喜んで顔を向けるけど、それは俺に向けられたものじゃなかった。
 「奥村さんは先生はどういう関係なの?」
 彼はちょっと後ろを向きながら話す。こんないい状況なのに、俺じゃなくて奥村さんと。
 「学生時代の友人だよ。私たち、芸大に通ってたの。そこで知り合って」
 「へぇ、七咲先生学校通ってたんだ。知らなかった」
 佳都は愛想よくリアクションをとる。彼は誰にでもフレンドリーだ。誰にでも。奥村さんは笑っていた。
 「言ってないんだ。画塾の先生やってるんだから、それくらい教えてあげてもいいのに。でもなんか、七咲くんっぽいね」
 「先生は学生時代どんな感じだったんですか?」
 「どうだろう……? うまく言えないけど、友達はすごい少なかったね」
 「そうなんですか、まあでも、先生自由人っぽいですもんね」
 二人は楽しそうに談笑している。周囲では楽しそうな音楽とか、美味しそうな匂いばっかりが漂っていた。それなのに俺は少し焦っている。平然を保とうとしているのに、心の奥がズーンと重くなっていく。こうじゃない。もっと、もっと、なんでいつもみたいに話しかけてくれないの。女々しいことを思いながら佳都を見る。彼はこっちを見てくれない。思えば二人で話す時はいつも、彼のほうから話しかけてもらっていた。俺はいつも受け身で、佳都からの行動を待っていて今もそうだ。彼みたいな人が気にかけてくれていることは奇跡みたいなものなのに、それをいつの間か普通と感じていた。
 俺からも、こっちからも行動を起こさないと――。
 「あった! あったよ、皆!」
 そうして二人の会話に混ざろうとした時、七咲先生が叫んだ。周囲には波みたいに人がいて、背の高い彼は手を振っている。
 「財布だしとかないと」
 佳都はそんなことを呟きながら歩いていった。俺もそれに続く。人混みを掻き分けて、できるだけ早く彼に追いつきたかった。

 無事人数分やきそばを買えたので、俺たちは露天通りの端に寄った。そこには学生や大人たちの輪がたくさん見える。
 「さぁ食べよう、冷めないうちに」
 七咲先生がいち早く輪ゴムを外している。それを真似るように湊くんも焦っていて、なんか親子みたいだ。俺は割り箸を割る。
 そしてさっそく麺をすすると美味しかった。この味は祭りでしか食べたことがない。
 「あのさ、泉くん。お願いがあるんだけど」
 ずるずる食べていると、横に椿乃さんがいた。皆は各々、何かに腰掛けたり、立ったままであったりしている。
 「なに?」
 「今すぐっていうものじゃないんだけどね、後での話なんだけど……」
 彼女は少しつっかえながら話す。よく見ると髪型が違った。髪を下ろしている。
 「ここに来てすぐに、キーホルダーを売ってる屋台があったの。まだ最初の最初だから言いずらかったんだけど、私すごいそれが買いたくて……、でも今更言ってもさ、あそこまで皆で戻るのめんどくさいじゃん? ね、だから」
 「あぁ、いいよ。わかった。後でついていけばいいんだね」
 「そう! ごめんね、泉くん背が高いからさ、はぐれないと思って」
 「だね。その時になったら言って」
 焼きそばを食いながら言う。彼女は「ありがとう」と何度も言っているけど、俺の意識は違う場所にあってぼんやりしていた。人影をいくつか超えて見える、佳都の表情。彼はまだ奥村さんと話している。時々笑って、可愛らしく口角をあげていて――。正直に言うと変な気持ちだった。いや、嫌な気持ちだった。佳都が笑うたびに意識がぶれる。奥村さんに嫉妬してるわけじゃない。俺以外に向いている彼が嫌だ。学校でも画塾でもいつも俺に、俺ばっかりに話してくれるのに、なんで今日に限って。今朝のあれが悪かったのか。俺があんな風に拒んだから? 嬉しいって言えば違ったか。でも恥ずかしかった。多分本気で、ほんとに佳都のことをおもってるから。
 「先生、次は焼き鳥買いに行こ」
 湊くんが七咲先生を引っ張っている。その姿が昨日のことを言葉を思い出させた。やっぱり彼は気づいていたのか。

 それからは文字通りお祭り騒ぎだった。湊くんに操縦される七咲先生に続いて、焼き鳥、イカ焼き、かき氷、チョコバナナ……とその他諸々。財布の中身は減っていき、代わりに手元がゴミでかさばっていった。相当露天通りも進んでいったけど、まだ佳都と約束したりんご飴はない。俺は必死でりんご飴の屋台を探していた。見つかればきっと、彼と話をできる。いつものように、いつも以上に。それなのにない、どこにもない。そのまま、もう花火の時間が近づいてきて、一度あの神社に戻ることになった。
 そしてお祭りはクライマックスを迎える。

 「泉くん」
 階段に腰かけていると声がかかった。一瞬嬉しさが爆発して、それからすぐに戻った。佳都は俺に「くん」なんてつけない。
 「七咲先生から許可もらった。もうじき花火始まるからはやくってさ。今からいける?」
 「……あぁうん。いいよ」
 俺は重たい体を起こした。空はもう真っ暗だ。神社の中には人がたくさんで、でも佳都は近くにいない。
 「ぱっぱと行っちゃおう」
 だからもうどうでもいいと思った。ここにいるくらいなら、どこかを歩いていたい。そう思っていたのに――。
 「泉」
 透き通った声がした。心臓が飛び跳ねる。俺をこんな風にするのは彼しかいない。見ると、やっぱり佳都が立っている。
 「そろそろ行くよ、りんご飴。花火始まるから」
 佳都は淡々と言った。俺の気持ちなんて少しも知らずに、何でもないように声をかけてくる。でもそれが死ぬほど嬉しかった。
 「あ、あのねごめん、佳都くん。私たち今から――」
 「行くよ、泉」
 佳都は近づいてくる。椿乃さんの声が聞こえてないわけないのに、聞こえてないように振る舞う。
 「……佳都、俺、椿乃さんと行かなくちゃいけなくて、キーホルダー、買わなきゃで」
 「うん。そうなんだ」
 「だから……」
 「そっち行くの?」
 佳都は無邪気に聞いてくる。でもそれは質問になってなかった。彼は、俺がそんなことするわけないって気づいてる。俺が椿乃さんを選ぶわけないって気づいてる。佳都の綺麗な瞳が近づいてきて、囁いた。
 「そんなわけないでしょ」
 彼が手を差し伸べる。細くて色白で、でもちゃんと男っぽい。
 「ほら、行くよ」
 佳都が急かすように言う。俺は一瞬のためらいもなく彼の手をとった。椿乃さんには悪かった。約束したのに、一度了承したのに、でもそんなの全部どうでもよかった。代わりは七咲先生に頼めばいいし、なにより、俺は佳都を選びたかった。