「いつまで寝てんの、ねぼすけ」
佳都に叩き起こされて、それから十分も経たないうちに、気が付けばもう俺は車の中にいた。眠気に耐えながら準備をしたらしいけど、記憶にない。
「それじゃ予定通り今日は、近くの海に行こう!」
ハンドルを握りながら、七咲先生はやたらテンションが高い。それに湊くんも「おー」と賛同するけど、横の二人は何やら不満そうだった。
「海、楽しみにしてたんじゃないの」
俺は佳都に尋ねた。だけど彼は変に睨んできて、それから全身をこちらに預けてくる。
「ずうっと寝てた人には分かんないだろうね」
「なに、なにが」
彼の頭がもたれかかってきて、ふんわりした髪からいい香りがした。花みたいな、ピンクっぽい。でもそんなこと考えていたらまた変なからかわれ方をするので、窓の外を無理やり見る。
「海、足までしか入れないんだってさ」
椿乃さんが残念そうに教えてくれた。なるほど、だから二人とも元気がないのか。思えば俺も水着は置いてきたままだけど、もともとそこまで泳ぎたいわけではなかった。
「先生が嘘ついたぁー」佳都は子供っぽく言った。
「私も楽しみだったのにな」
「……まあ、確かに俺も」
雰囲気に流されてそんなことを言っていると、七咲先生が突然、車内の音楽を大きくした。同時に発進する。
「俺だって入りたかったよ!」
先生は子供みたいに言った。湊くんが横で笑う。俺たちはそれ以上わがままを言わないようにした。
車内には洋楽が流れている。ゆっくりとした、子守歌みたいな歌。俺はまたいつの間にか眠っていて、車外を見て海に着いたのだと気づいた。先生はいち早く外に出ている。海の匂いがした気がした。
「水筒と、タオル、あと……、まあそれくらいか。忘れないようにね」
バックドアを開けて先生が言う。車内の俺たちは返事をしながら外に出た。湊くんは相変わらず先生の横にいた。
「……すごいね」
駐車場からほとんど歩かずに海が見えて、横で佳都が言った。うっとりしたような、それとも単に寝起きなのか、わからないけど俺も同じことを言った。見下ろすような形で海を見ている。服の袖を彼が掴んでいるけど、その時は何も言えなかった。海が綺麗で、些細な事は気にならない。
「……そっか」
佳都は納得したように言う。七咲先生らが海に向かって降り始めていた。周囲から彼以外の人が消える。
「僕、海が楽しみだったわけじゃないんだ」
「え」俺は驚いた。
「そんなにがっかりしたの、綺麗だと思うけど」
佳都は首を振る。そして見つめるようにこっちを見た。海風に吹かれて髪がなびいている。そしてそれは俺もそうだった。視界から前髪が消えて、ちゃんと彼と目を合わせられた。
「泉と海に来たかった。泉と、これを見たかったんだ」
からかうような口調じゃない。純粋な気持ちだと分かった。彼の袖を掴む手が下に伸びて、俺の手に触れそうになる。だけど、期待しているようなことは起きなくて、佳都はそのまま手を離した。
「泉もそうでしょ」
囁くように言って、佳都は先生らに続いていく。答えも待ってくれない。でもそれでよかった。
もしちゃんと彼に答えを求められたら、きっと頷いてしまっていたと思うから。
そうして、足だけの海水浴が始まった。
俺たちは荷物を砂浜に投げ捨てて、靴を脱ぐ。日差しは昨日にも増して強く、そのおかげで足に浸る海水が気持ちよかった。一面の夏風景に、皆興奮していた。佳都も椿乃さんもはしゃいでいて、泳げなかったことなんてもう忘れてしまっているみたい。七咲先生も湊くんを引っ張って笑っている。湊くんはあわあわした顔をして、でも嬉しそうだ。彼は先生のことが好きなんだろう。じゃなきゃ、彼がこんな合宿に参加するとは思えない。
「気持ちいいね、ほんとに夏って感じ」
長ズボンを折った椿乃さんが言ってくる。俺は頷いた。特別感のある雰囲気のせいで変にポジティブになっていた。
「泉くんは海で泳いだことある?」
「えっと、何回かはある。おばあちゃんの家に行った時に」
「私も同じ。もう相当前の話だけど」
彼女はクスクス笑う。その笑顔は無邪気だった。柔らかい目がもっと柔らかくなって、本当に愛嬌がある。きっと彼女はモテるだろう。学校は違うけどきっと――。
「えい」
そんなことを考えていると、頬に冷たい水がかかった。見ると、やっぱり佳都だ。煽るような表情を見せている。
「絶対すると思った」俺は少し濡れた髪を触った
「そ、なら避ければいいのに」
「無茶でしょ」
そう言って俺は海水に両手を浸した。そして、そのまま腕を上げていく。手のひらにキラキラしたものがいっぱいたまった。あとはこれを佳都にかけるだけだ。
「あ、僕はだめだよ。日焼け止め塗ってるから」
彼が焦ったように退く。でもそんなの虫が良すぎる。俺は彼の顔めがけて海水をお見舞いした。命中だ。
それからしばらく遊びまわって、俺は休憩をとることにした。砂浜にちょこんといる湊くんの横に座る。
「何描いてるの?」
彼は手にスケッチブックを持っていた。鉛筆を手に何かを描いている。そういえば合宿だったなと俺は思い出した。
「先生」
湊くんは呟いた。見ると、佳都たちとビーチバレーをしている先生の姿がデッサンされてある。ここからは少し距離があるのに、表情までしっかり描かれていた。
「やっぱり湊くん、上手いね。俺はそんな風に描けないな」
「……そうでもないよ。ふつうに下手くそだし」
「でもそれ、すごい上手いじゃん」
「これは……、先生だから」
彼は照れたように俯いた。先生だから、上手く描けるということだろうか。湊くんは本当に七咲先生が好きだ。
「そう、なんかいいな。頑張ってね」
俺はそう言って、ビーチバレー組を眺めていた。佳都が笑ってはしゃいでいる。
「泉くんも頑張って」
ぼんやり佳都を眺めていると、湊くんが呟いた。名前を覚えてくれてたのかと驚いた。それに頑張るって何を。
「ちゃんと見るのを拒んでたら、だめだよ」
湊くんはそう言って立ち上がった。七咲先生のほうに駆けていく。「ちゃんと見る」、最初は絵についての助言かと思った。でも違う気がする。彼は深いところまで理解しているんじゃないか。
それからもう何時間経ったころか、海に反射する光がオレンジ色に変化していった。海に来てからの時間は短かった。楽しいことはすぐに終わる。俺たちはそろそろ帰る準備を始めた。
「楽しんでくれてよかった」
そう笑う七咲先生に続いて、生徒たちは車に向かう。途中ふと振り返ると、やっぱり夕日がきれいだった。無意識に前を行く佳都の手を引きそうになったけど、やっぱりやめた。俺らしくない。
「綺麗だね」
その代わりのように、背後から椿乃さんが言った。俺は頷く。どこかのアニメのワンシーンみたいで、変にノスタルジックな気分になる。
「また来たいね」
彼女は微笑んだ。そう思う。でも俺は何も言わなかった。そういう言葉を交わしたいのは、彼女とじゃない。
そうしてまた例の別荘に帰ってからは、前日と同じように皆と過ごした。ご飯を食べて、お風呂に入って、絵を描く。早いものでもう二日目が終わった。明日は祭りだ。眠くなって、皆布団に入る。途中、今日海に入らなかった理由については「奥村さんに止められたんだ、危ないってさ」と七咲先生は言っていた。そして電気がまた消える。
佳都に叩き起こされて、それから十分も経たないうちに、気が付けばもう俺は車の中にいた。眠気に耐えながら準備をしたらしいけど、記憶にない。
「それじゃ予定通り今日は、近くの海に行こう!」
ハンドルを握りながら、七咲先生はやたらテンションが高い。それに湊くんも「おー」と賛同するけど、横の二人は何やら不満そうだった。
「海、楽しみにしてたんじゃないの」
俺は佳都に尋ねた。だけど彼は変に睨んできて、それから全身をこちらに預けてくる。
「ずうっと寝てた人には分かんないだろうね」
「なに、なにが」
彼の頭がもたれかかってきて、ふんわりした髪からいい香りがした。花みたいな、ピンクっぽい。でもそんなこと考えていたらまた変なからかわれ方をするので、窓の外を無理やり見る。
「海、足までしか入れないんだってさ」
椿乃さんが残念そうに教えてくれた。なるほど、だから二人とも元気がないのか。思えば俺も水着は置いてきたままだけど、もともとそこまで泳ぎたいわけではなかった。
「先生が嘘ついたぁー」佳都は子供っぽく言った。
「私も楽しみだったのにな」
「……まあ、確かに俺も」
雰囲気に流されてそんなことを言っていると、七咲先生が突然、車内の音楽を大きくした。同時に発進する。
「俺だって入りたかったよ!」
先生は子供みたいに言った。湊くんが横で笑う。俺たちはそれ以上わがままを言わないようにした。
車内には洋楽が流れている。ゆっくりとした、子守歌みたいな歌。俺はまたいつの間にか眠っていて、車外を見て海に着いたのだと気づいた。先生はいち早く外に出ている。海の匂いがした気がした。
「水筒と、タオル、あと……、まあそれくらいか。忘れないようにね」
バックドアを開けて先生が言う。車内の俺たちは返事をしながら外に出た。湊くんは相変わらず先生の横にいた。
「……すごいね」
駐車場からほとんど歩かずに海が見えて、横で佳都が言った。うっとりしたような、それとも単に寝起きなのか、わからないけど俺も同じことを言った。見下ろすような形で海を見ている。服の袖を彼が掴んでいるけど、その時は何も言えなかった。海が綺麗で、些細な事は気にならない。
「……そっか」
佳都は納得したように言う。七咲先生らが海に向かって降り始めていた。周囲から彼以外の人が消える。
「僕、海が楽しみだったわけじゃないんだ」
「え」俺は驚いた。
「そんなにがっかりしたの、綺麗だと思うけど」
佳都は首を振る。そして見つめるようにこっちを見た。海風に吹かれて髪がなびいている。そしてそれは俺もそうだった。視界から前髪が消えて、ちゃんと彼と目を合わせられた。
「泉と海に来たかった。泉と、これを見たかったんだ」
からかうような口調じゃない。純粋な気持ちだと分かった。彼の袖を掴む手が下に伸びて、俺の手に触れそうになる。だけど、期待しているようなことは起きなくて、佳都はそのまま手を離した。
「泉もそうでしょ」
囁くように言って、佳都は先生らに続いていく。答えも待ってくれない。でもそれでよかった。
もしちゃんと彼に答えを求められたら、きっと頷いてしまっていたと思うから。
そうして、足だけの海水浴が始まった。
俺たちは荷物を砂浜に投げ捨てて、靴を脱ぐ。日差しは昨日にも増して強く、そのおかげで足に浸る海水が気持ちよかった。一面の夏風景に、皆興奮していた。佳都も椿乃さんもはしゃいでいて、泳げなかったことなんてもう忘れてしまっているみたい。七咲先生も湊くんを引っ張って笑っている。湊くんはあわあわした顔をして、でも嬉しそうだ。彼は先生のことが好きなんだろう。じゃなきゃ、彼がこんな合宿に参加するとは思えない。
「気持ちいいね、ほんとに夏って感じ」
長ズボンを折った椿乃さんが言ってくる。俺は頷いた。特別感のある雰囲気のせいで変にポジティブになっていた。
「泉くんは海で泳いだことある?」
「えっと、何回かはある。おばあちゃんの家に行った時に」
「私も同じ。もう相当前の話だけど」
彼女はクスクス笑う。その笑顔は無邪気だった。柔らかい目がもっと柔らかくなって、本当に愛嬌がある。きっと彼女はモテるだろう。学校は違うけどきっと――。
「えい」
そんなことを考えていると、頬に冷たい水がかかった。見ると、やっぱり佳都だ。煽るような表情を見せている。
「絶対すると思った」俺は少し濡れた髪を触った
「そ、なら避ければいいのに」
「無茶でしょ」
そう言って俺は海水に両手を浸した。そして、そのまま腕を上げていく。手のひらにキラキラしたものがいっぱいたまった。あとはこれを佳都にかけるだけだ。
「あ、僕はだめだよ。日焼け止め塗ってるから」
彼が焦ったように退く。でもそんなの虫が良すぎる。俺は彼の顔めがけて海水をお見舞いした。命中だ。
それからしばらく遊びまわって、俺は休憩をとることにした。砂浜にちょこんといる湊くんの横に座る。
「何描いてるの?」
彼は手にスケッチブックを持っていた。鉛筆を手に何かを描いている。そういえば合宿だったなと俺は思い出した。
「先生」
湊くんは呟いた。見ると、佳都たちとビーチバレーをしている先生の姿がデッサンされてある。ここからは少し距離があるのに、表情までしっかり描かれていた。
「やっぱり湊くん、上手いね。俺はそんな風に描けないな」
「……そうでもないよ。ふつうに下手くそだし」
「でもそれ、すごい上手いじゃん」
「これは……、先生だから」
彼は照れたように俯いた。先生だから、上手く描けるということだろうか。湊くんは本当に七咲先生が好きだ。
「そう、なんかいいな。頑張ってね」
俺はそう言って、ビーチバレー組を眺めていた。佳都が笑ってはしゃいでいる。
「泉くんも頑張って」
ぼんやり佳都を眺めていると、湊くんが呟いた。名前を覚えてくれてたのかと驚いた。それに頑張るって何を。
「ちゃんと見るのを拒んでたら、だめだよ」
湊くんはそう言って立ち上がった。七咲先生のほうに駆けていく。「ちゃんと見る」、最初は絵についての助言かと思った。でも違う気がする。彼は深いところまで理解しているんじゃないか。
それからもう何時間経ったころか、海に反射する光がオレンジ色に変化していった。海に来てからの時間は短かった。楽しいことはすぐに終わる。俺たちはそろそろ帰る準備を始めた。
「楽しんでくれてよかった」
そう笑う七咲先生に続いて、生徒たちは車に向かう。途中ふと振り返ると、やっぱり夕日がきれいだった。無意識に前を行く佳都の手を引きそうになったけど、やっぱりやめた。俺らしくない。
「綺麗だね」
その代わりのように、背後から椿乃さんが言った。俺は頷く。どこかのアニメのワンシーンみたいで、変にノスタルジックな気分になる。
「また来たいね」
彼女は微笑んだ。そう思う。でも俺は何も言わなかった。そういう言葉を交わしたいのは、彼女とじゃない。
そうしてまた例の別荘に帰ってからは、前日と同じように皆と過ごした。ご飯を食べて、お風呂に入って、絵を描く。早いものでもう二日目が終わった。明日は祭りだ。眠くなって、皆布団に入る。途中、今日海に入らなかった理由については「奥村さんに止められたんだ、危ないってさ」と七咲先生は言っていた。そして電気がまた消える。
