佳都と別れたあと家に着いた。だけど俺は学校のカバンを自室に放り投げて、またすぐ外に出る。
それから玄関近くから古びた自転車を取ってきて、古びた鍵を差した。低くなったサドルに座って足を動かすと、自転車は変な音をたてる。目的地はいつもの、山の近くにある『Studio Nanasaki』。それは七咲先生という人が運営している小さな画塾だ。
「あっ、お兄ちゃん」
家の敷地を超える頃、近くから声がかかった。見ると、弟の薫《かおる》が小学校から帰ってきている。いまだ大きすぎるランドセルを背にしょっていて、てくてく歩いてきた。可愛い。今年で小学六年生だ。高校二年の俺とはけっこうの差がある。
「おかえり、ちょっと行ってくる」
「どこ行くの? 遊びいくの?」薫は首をかしげる。
「いや、絵だよ。絵描いてくる」
「あ! そっか、今日火曜日だもんね」
薫は納得したように「うんうん」と頷いた。全体的な動きが幼い。薫は俺と違って小柄な方だ。たぶん、お母さんの遺伝が強いんだと思う。俺はお父さんかな。
「やけに嬉しそうな顔してるから間違えちゃった」薫は笑う。
「俺?」
「うん。前は画塾に行くのすっごい嫌がってたもん。学校から帰ってきたら、いっつもお母さんに駄々こねてた。それなのに、お兄ちゃん変わったね」
薫はおかしそうに言った。確かに前まではそんな感じだったか。俺は画塾に行くのがあんまり好きじゃなかった。だってそもそも、あそこに通うようになったのは自分の意思ではなく、お母さんの命令だ。「部活に入んないならせめて」そう言って『Studio Nanasaki』を紹介された。絵なんて描いたことなかったし、そもそも好きじゃない。でもお母さんには逆らえないので従うことになった。
「うん、まあ……、大人になったのかも」
俺がそう言うと薫はまた笑った。どういう意味の笑いは分からない。時々、彼の方が自分より大人びているのではないかと思う。
「だといいね。じゃあ、楽しんできてね、お兄ちゃん」
そう言い残して、彼は家の中に入っていった。楽しんでね、そんな言葉、以前なら耳を塞ぎたくなっていたと思う。好きでもないのに絵を描きに行って、本当なら家でゴロゴロしていたいし、画塾への坂道はふつうにキツイ。
でも最近はめったにそんな風に思わない。家から帰ってきたら、条件反射みたいに外に足が向いている。
その理由は……、知ってる。でもあんまり考えたくない。一度彼のことについて考え始めると、不安になったり、変に感情的になったりしてしまう。思考のループに陥る。
俺は田舎の風景を横目に自転車を漕ぎ続けた。アニメーションみたいに、ザワザワといろんなものが過ぎ去る。でもそれらは退屈な物で、木とか、古びた家とかでしかない。この田舎は退屈でしかなかった。彼が来てくれるまでは。
数分そうしていると、山の方に続く坂道が見えてきた。自転車では相当にキツイ所だけど、不思議と嫌な気持ちは湧いてこない。むしろ、はやくここを超えて、あの画塾に行きたいと思う。
こういうところは、佳都に感謝しなきゃいけない。
ガラガラと扉を開くと、教室にはもうほとんど全員が集まっていた。美術室みたいな一室で、生徒たちが談笑している。時計を見ると、ちょうど五分前。
「おっ、泉くん」
扉の音で気が付いたのか、七咲《ななさき》先生が声をかけてきた。清潔感がある人でどこか狐っぽく、身長が俺よりも高い。若く見えるけど、実際の年齢は三十を超えているらしかった。
「こんにちは」
俺はかろやかに挨拶ができた。彼はフレンドリーだから、ここでは愛想よくなれる。
「うん、こんにちは。どう? 解放感ある?」
「え、はい? 解放感?」
七咲先生は変なことをまじまじ言う。その瞳は切れ長だけど純粋で、背丈のわりに無邪気で子供らしい人だ。俺は先生のそういうところに好感がもてる。けど、今は何を言っているのかわからない。
「そうそう、解放感。だって明日から学校行かなくていいんでしょ。夏休み、懐かしいなぁ」
「あ、そういうこと……」
「先生、学校は明日まであるよ」
七咲先生の誤解を解こうとすると、代わりに後ろから声が響く。肩に重みを感じた。佳都だ。
「あっ、そうなんだ。いけない、はやとちりはやとちり」
「まあ午前で終わるんだけどねー」
ふにゃふにゃした佳都が顔を近づけてくる。ほんとに彼は、全体的に距離が近い。都会の人は皆こんな風なのかと思うけど、やっぱり違う気がする。こんな人いっぱいいたら困る。
「もう来てたんだ。佳都、早い」
「僕の方がここまで近いからね。自転車も電動付きだし。泉のボロと違って」
「俺は大切に扱ってんの」
あの自転車は中一から使ってる。でもそんな自慢に佳都は興味を示さない。「そう」と気まぐれな感じで瞳を動かした。彼は流し目が似合う。なんか、猫みたい。
「でさ、先生、合宿はほんとに行けるんだよね」
佳都は肩に顎を乗せたまま話す。七咲先生は手にマグカップを持っていた。彼はいつもコーヒーを飲んでいる。
「もちろん。俺から言い始めたことだからね。ちゃんと計画してるよ」
「やった」
佳都は俺の腰をぎゅっとする。びくっと反応しそうになるけど、なんとか我慢した。七咲先生は当然気づくこともなく、コーヒーをズズッと吸っている。
「けっこう前から予定してたから、たぶん中止とかそんなことにはならないと思う」
先生は頬のあたりを掻いて、それからちょっと笑った。
「それよりも俺は、佳都くんがそんな風に楽しみにしてくれることが意外。あんまり乗り気になってくれないのかと思ってた」
「何ですかそれ、偏見ですよ」
佳都は頬を膨らませる。俺も先生の言うことには共感できた。転校してきて数か月、高1の冬頃に彼はこの画塾に入ってきたけど、仲良くなるまでの佳都はものすごく冷めて見えた。顔が良い人は真顔だと冷たいような感じがする。
「そうですよ先生。佳都は意外と子供っぽいんですから」
「そうっぽいね」
俺は日頃のお返しだと思って言ってやった。肩の方を見ると、ジト目で睨んできている佳都がいる。でもひるまない。ほんとのことだ。しばらくして、彼はニヤリと笑った。
「そんなこと言えるようになったんだ」
「事実を言っただけだけど」
「ふーん」
佳都は変な感じでそう言っていたけど、なんだか嬉しそうに見えた。それは俺からすれば嬉しくない反応なはずなのに、自然にこっちも口元がにやつく。俺はこんな風に、冗談を人に言える人間じゃなかった。嬉しい。
「それで、二人とも準備は進んでるの」七咲先生が聞く。
「僕は当然。泉はお察しの通り」
「夏休みが始まったらすぐやるし。バックもちゃんと用意してる」
「まあ時間はまだあるしね」
合宿は夏休みが始まってから三日後にある。というかその前に、そもそも合宿とは何かという話なのだけど、これは今年から始まったものだ。
ちょうど二週間程前に「合宿をやってみるんだけど、参加しない?」と七咲先生に言われた。授業が終わって家に帰ろうとした時だった。俺が「なんですかそれ」と聞き返したところ、彼は軽く説明を行ってくれた。
「予定しているところでは三日程、海の近い一帯に行ってみようと思うんだ。学生時代の友達がそこに別荘を持っててね。前、地元に帰った時に教えてもらったんだ。彼は今都会のほうにいるんだけど、最近別荘を使う時間なんてないらしくてね。デザインに関する仕事に就いてるんだ。で、俺も小さい画塾をやっていることを言ったんだけど、そしたら話が良い感じに進んでね。馬鹿にされるかなと思ったんだけど、やっぱり変わってない。いい奴なんだ。それで今回、合宿にその別荘を貸してもらおうと思って」
七咲先生は独特の抑揚で説明してくれた。正直言って、この時点で俺は興味が湧いていた。別荘で合宿、なんかワクワクする。
「まあ合宿って呼んでるんだけど、実際はただの小旅行みたいになっちゃうかも。そりゃもちろん絵は描くけどさ、せっかく知らないところに行ってもそれだけじゃつまらない。調べたところによると、海に入ることができるスポットもあるらしいし、泉たちの夏休みが始まってすぐ、あっちで祭りもあるらしいんだ。どうかな。車は俺が出すから交通費とかは大丈夫。屋台で何かを買うなら、それは負担してあげられないけど……」
先生はプレゼンテーションするように話を続ける。でも俺はもう行くことを決めていた。ここらへんの田舎は海が遠いし、祭りだってもう慣れ飽きている。夏休みにそんなところに連れて行ってくれるなら行くに決まってる。夏休みの予定なんてないし……。
行きたいという気持ちを伝えると、先生は子供みたいに笑った。「よかった」と何度も繰り返す。
「でも先生、俺の他には誰が来るんですか? 合宿っていうんだから、二人きりじゃないですよね」
「そりゃもちろん。五、六人くらいで予定してる。俺も入れててね。車の席がそれ以上はオーバーしちゃうから」
「誰が来るんですか?」
「えっとね、メモに書いてるんだ……」
七咲先生は胸ポケからメモ帳を出し、それをペラペラ捲り始めた。思えばその時から、ぼんやりとした期待があった。
「泉くんと、湊くんと、椿乃さんと、風花さん……、あと一人はまだ決まってない」
俺は名前が挙がってくる順に、脳内で彼らを思い出していた。
湊くん《みなと》。彼とはあまり話したことがなくて、というか、そもそも誰かと話しているところを見たことがない。小柄な人で、髪がけっこう長く、ボブっぽい。それがすごいサラサラしている。絵がすごく上手いのを知ってる。
椿乃さん。《つばきの》彼女とは時々話す。明るくて活発な人だから、他の生徒ともよく話している。風貌は優秀な女学生っていう感じで、実際、高校で生徒会に所属しているらしい。髪を後ろで縛っている。
風花さん――。
そこまで行ったところで、「まあ」と七咲先生が口を開いた。彼は机に頬杖をつく。
「風花さんは来れないだろうね。一応誘ったんだけど、まだ中学生一年生だし、親御さんは厳しそうだから」
「そうなんですね」
「そう、だからあと一人だけ誘うつもり」
後から聞いたところによると、このメンバー編成はランダムなものではなかったらしく、安全面に配慮したものだったらしい。つまり、自分勝手に行動せず、先生の言うことを聞いてくれそうな生徒。画塾といっても少し乱暴な生徒はいるし、これは初めての合宿だったから最初はそういう風にしたかったらしい。
「推薦候補はいる?」
七咲先生はじっとこちらを見ていた。和風の美を最大限に活かしたような人だと思う。
「……まあ、一応一人だけ」
俺は言うか迷って、結局、口に出してしまった。彼はこういうイベントは好きだろうか、もしかしたら嫌いかもしれない。でもその時は勇気を出した。
「佳都、とか、どうですか。だめですか」
七咲先生は納得したように頷いた。頬に触れている指が長くて綺麗。佳都と似ている。
「だめなわけないよ。二人とも仲いいもんね。俺もそれは考えてた」
「じゃあ――」
「でも、佳都くん嫌って言いそうだなぁ。断られたら心にくるなぁ」
先生は先生らしくなく言った。やっぱり少し子供っぽい。俺はそんな彼に言った。
「それなら俺が誘います。一回聞いてみて、だめなら報告しますから」
「いいの?」
「全然大丈夫です」
俺は親指を立てる。七咲先生は「頼んだぁ」とうなだれた。少しおおげさだと思う。だって先生はもっとめんどくさいことをしてくれてる。普通、月謝以上のことなんてわざわざしなくていいのに。
「それより先生は、なんで合宿なんて開いてくれるんですか」
「気になる?」
「はい」
「まあちょっとした夢だったんだ。俺のこと先生なんて呼んでくれる子たちと、非日常的なことをする。くだらないね。でもやってみたかった。昔は学校の先生になりたかったんだ」
「……初めて聞きました」
「言ってないからね」
七咲先生は笑って、それから少し昔話をした後、「もう帰ろうか」と言った。俺は頷く。
結局、学校で佳都に合宿のことを伝えたところ、秒で「行く」と返された。こうしたなりゆきで俺たちは合宿に参加することになった。
「僕、浴衣持っていこうかな」
佳都が自分の体を触りながら言って我に返った。彼は学校から帰ってすぐなので、もちろん制服のままだ。白い夏服が似合ってる。ただ学校の時とは違い、第二ボタンまでボタンが開かれていて、色白の胸元が少し見えた。
「無理無理。絶対かさばるから」七咲先生は笑う。
「えー、でもせっかく祭りなのに。浴衣着たいなぁ」
「絶対似合うだろうけどね」
「泉も、僕のそういう姿見たいでしょ?」
佳都が甘えたような感じで言う。首を振ってやりたい。でも自分に嘘はつけない。見てみたい。
「……さあ」
「見たいんだね。でも残念。またいつかね」
「なんで勝手に振られんの。ていうか、楽しみにしすぎでしょ」
そう言っても、浮かれている佳都の様子は変わらない。飛び跳ねるみたいに動いて、それからこっちに近づいてくる。
「それは楽しみに決まってるじゃん。理由知ってるくせに」
「海でしょ」
「違うよ」
佳都が唇を意味深に舐めた。ふっくらしたその唇を見ていると変な感じがする。理由ってなんだ。そう考えるけど、恥ずかしい勘違いしか思いついてこない。いや、彼もそれに気づいているんじゃないか。わかんない、わかんない。
「わかんないよ」
そう言った時、近くで七咲さんが話を始めた。もう授業を始めるというのだ。俺は助かったという気持ちで席についた。
それから玄関近くから古びた自転車を取ってきて、古びた鍵を差した。低くなったサドルに座って足を動かすと、自転車は変な音をたてる。目的地はいつもの、山の近くにある『Studio Nanasaki』。それは七咲先生という人が運営している小さな画塾だ。
「あっ、お兄ちゃん」
家の敷地を超える頃、近くから声がかかった。見ると、弟の薫《かおる》が小学校から帰ってきている。いまだ大きすぎるランドセルを背にしょっていて、てくてく歩いてきた。可愛い。今年で小学六年生だ。高校二年の俺とはけっこうの差がある。
「おかえり、ちょっと行ってくる」
「どこ行くの? 遊びいくの?」薫は首をかしげる。
「いや、絵だよ。絵描いてくる」
「あ! そっか、今日火曜日だもんね」
薫は納得したように「うんうん」と頷いた。全体的な動きが幼い。薫は俺と違って小柄な方だ。たぶん、お母さんの遺伝が強いんだと思う。俺はお父さんかな。
「やけに嬉しそうな顔してるから間違えちゃった」薫は笑う。
「俺?」
「うん。前は画塾に行くのすっごい嫌がってたもん。学校から帰ってきたら、いっつもお母さんに駄々こねてた。それなのに、お兄ちゃん変わったね」
薫はおかしそうに言った。確かに前まではそんな感じだったか。俺は画塾に行くのがあんまり好きじゃなかった。だってそもそも、あそこに通うようになったのは自分の意思ではなく、お母さんの命令だ。「部活に入んないならせめて」そう言って『Studio Nanasaki』を紹介された。絵なんて描いたことなかったし、そもそも好きじゃない。でもお母さんには逆らえないので従うことになった。
「うん、まあ……、大人になったのかも」
俺がそう言うと薫はまた笑った。どういう意味の笑いは分からない。時々、彼の方が自分より大人びているのではないかと思う。
「だといいね。じゃあ、楽しんできてね、お兄ちゃん」
そう言い残して、彼は家の中に入っていった。楽しんでね、そんな言葉、以前なら耳を塞ぎたくなっていたと思う。好きでもないのに絵を描きに行って、本当なら家でゴロゴロしていたいし、画塾への坂道はふつうにキツイ。
でも最近はめったにそんな風に思わない。家から帰ってきたら、条件反射みたいに外に足が向いている。
その理由は……、知ってる。でもあんまり考えたくない。一度彼のことについて考え始めると、不安になったり、変に感情的になったりしてしまう。思考のループに陥る。
俺は田舎の風景を横目に自転車を漕ぎ続けた。アニメーションみたいに、ザワザワといろんなものが過ぎ去る。でもそれらは退屈な物で、木とか、古びた家とかでしかない。この田舎は退屈でしかなかった。彼が来てくれるまでは。
数分そうしていると、山の方に続く坂道が見えてきた。自転車では相当にキツイ所だけど、不思議と嫌な気持ちは湧いてこない。むしろ、はやくここを超えて、あの画塾に行きたいと思う。
こういうところは、佳都に感謝しなきゃいけない。
ガラガラと扉を開くと、教室にはもうほとんど全員が集まっていた。美術室みたいな一室で、生徒たちが談笑している。時計を見ると、ちょうど五分前。
「おっ、泉くん」
扉の音で気が付いたのか、七咲《ななさき》先生が声をかけてきた。清潔感がある人でどこか狐っぽく、身長が俺よりも高い。若く見えるけど、実際の年齢は三十を超えているらしかった。
「こんにちは」
俺はかろやかに挨拶ができた。彼はフレンドリーだから、ここでは愛想よくなれる。
「うん、こんにちは。どう? 解放感ある?」
「え、はい? 解放感?」
七咲先生は変なことをまじまじ言う。その瞳は切れ長だけど純粋で、背丈のわりに無邪気で子供らしい人だ。俺は先生のそういうところに好感がもてる。けど、今は何を言っているのかわからない。
「そうそう、解放感。だって明日から学校行かなくていいんでしょ。夏休み、懐かしいなぁ」
「あ、そういうこと……」
「先生、学校は明日まであるよ」
七咲先生の誤解を解こうとすると、代わりに後ろから声が響く。肩に重みを感じた。佳都だ。
「あっ、そうなんだ。いけない、はやとちりはやとちり」
「まあ午前で終わるんだけどねー」
ふにゃふにゃした佳都が顔を近づけてくる。ほんとに彼は、全体的に距離が近い。都会の人は皆こんな風なのかと思うけど、やっぱり違う気がする。こんな人いっぱいいたら困る。
「もう来てたんだ。佳都、早い」
「僕の方がここまで近いからね。自転車も電動付きだし。泉のボロと違って」
「俺は大切に扱ってんの」
あの自転車は中一から使ってる。でもそんな自慢に佳都は興味を示さない。「そう」と気まぐれな感じで瞳を動かした。彼は流し目が似合う。なんか、猫みたい。
「でさ、先生、合宿はほんとに行けるんだよね」
佳都は肩に顎を乗せたまま話す。七咲先生は手にマグカップを持っていた。彼はいつもコーヒーを飲んでいる。
「もちろん。俺から言い始めたことだからね。ちゃんと計画してるよ」
「やった」
佳都は俺の腰をぎゅっとする。びくっと反応しそうになるけど、なんとか我慢した。七咲先生は当然気づくこともなく、コーヒーをズズッと吸っている。
「けっこう前から予定してたから、たぶん中止とかそんなことにはならないと思う」
先生は頬のあたりを掻いて、それからちょっと笑った。
「それよりも俺は、佳都くんがそんな風に楽しみにしてくれることが意外。あんまり乗り気になってくれないのかと思ってた」
「何ですかそれ、偏見ですよ」
佳都は頬を膨らませる。俺も先生の言うことには共感できた。転校してきて数か月、高1の冬頃に彼はこの画塾に入ってきたけど、仲良くなるまでの佳都はものすごく冷めて見えた。顔が良い人は真顔だと冷たいような感じがする。
「そうですよ先生。佳都は意外と子供っぽいんですから」
「そうっぽいね」
俺は日頃のお返しだと思って言ってやった。肩の方を見ると、ジト目で睨んできている佳都がいる。でもひるまない。ほんとのことだ。しばらくして、彼はニヤリと笑った。
「そんなこと言えるようになったんだ」
「事実を言っただけだけど」
「ふーん」
佳都は変な感じでそう言っていたけど、なんだか嬉しそうに見えた。それは俺からすれば嬉しくない反応なはずなのに、自然にこっちも口元がにやつく。俺はこんな風に、冗談を人に言える人間じゃなかった。嬉しい。
「それで、二人とも準備は進んでるの」七咲先生が聞く。
「僕は当然。泉はお察しの通り」
「夏休みが始まったらすぐやるし。バックもちゃんと用意してる」
「まあ時間はまだあるしね」
合宿は夏休みが始まってから三日後にある。というかその前に、そもそも合宿とは何かという話なのだけど、これは今年から始まったものだ。
ちょうど二週間程前に「合宿をやってみるんだけど、参加しない?」と七咲先生に言われた。授業が終わって家に帰ろうとした時だった。俺が「なんですかそれ」と聞き返したところ、彼は軽く説明を行ってくれた。
「予定しているところでは三日程、海の近い一帯に行ってみようと思うんだ。学生時代の友達がそこに別荘を持っててね。前、地元に帰った時に教えてもらったんだ。彼は今都会のほうにいるんだけど、最近別荘を使う時間なんてないらしくてね。デザインに関する仕事に就いてるんだ。で、俺も小さい画塾をやっていることを言ったんだけど、そしたら話が良い感じに進んでね。馬鹿にされるかなと思ったんだけど、やっぱり変わってない。いい奴なんだ。それで今回、合宿にその別荘を貸してもらおうと思って」
七咲先生は独特の抑揚で説明してくれた。正直言って、この時点で俺は興味が湧いていた。別荘で合宿、なんかワクワクする。
「まあ合宿って呼んでるんだけど、実際はただの小旅行みたいになっちゃうかも。そりゃもちろん絵は描くけどさ、せっかく知らないところに行ってもそれだけじゃつまらない。調べたところによると、海に入ることができるスポットもあるらしいし、泉たちの夏休みが始まってすぐ、あっちで祭りもあるらしいんだ。どうかな。車は俺が出すから交通費とかは大丈夫。屋台で何かを買うなら、それは負担してあげられないけど……」
先生はプレゼンテーションするように話を続ける。でも俺はもう行くことを決めていた。ここらへんの田舎は海が遠いし、祭りだってもう慣れ飽きている。夏休みにそんなところに連れて行ってくれるなら行くに決まってる。夏休みの予定なんてないし……。
行きたいという気持ちを伝えると、先生は子供みたいに笑った。「よかった」と何度も繰り返す。
「でも先生、俺の他には誰が来るんですか? 合宿っていうんだから、二人きりじゃないですよね」
「そりゃもちろん。五、六人くらいで予定してる。俺も入れててね。車の席がそれ以上はオーバーしちゃうから」
「誰が来るんですか?」
「えっとね、メモに書いてるんだ……」
七咲先生は胸ポケからメモ帳を出し、それをペラペラ捲り始めた。思えばその時から、ぼんやりとした期待があった。
「泉くんと、湊くんと、椿乃さんと、風花さん……、あと一人はまだ決まってない」
俺は名前が挙がってくる順に、脳内で彼らを思い出していた。
湊くん《みなと》。彼とはあまり話したことがなくて、というか、そもそも誰かと話しているところを見たことがない。小柄な人で、髪がけっこう長く、ボブっぽい。それがすごいサラサラしている。絵がすごく上手いのを知ってる。
椿乃さん。《つばきの》彼女とは時々話す。明るくて活発な人だから、他の生徒ともよく話している。風貌は優秀な女学生っていう感じで、実際、高校で生徒会に所属しているらしい。髪を後ろで縛っている。
風花さん――。
そこまで行ったところで、「まあ」と七咲先生が口を開いた。彼は机に頬杖をつく。
「風花さんは来れないだろうね。一応誘ったんだけど、まだ中学生一年生だし、親御さんは厳しそうだから」
「そうなんですね」
「そう、だからあと一人だけ誘うつもり」
後から聞いたところによると、このメンバー編成はランダムなものではなかったらしく、安全面に配慮したものだったらしい。つまり、自分勝手に行動せず、先生の言うことを聞いてくれそうな生徒。画塾といっても少し乱暴な生徒はいるし、これは初めての合宿だったから最初はそういう風にしたかったらしい。
「推薦候補はいる?」
七咲先生はじっとこちらを見ていた。和風の美を最大限に活かしたような人だと思う。
「……まあ、一応一人だけ」
俺は言うか迷って、結局、口に出してしまった。彼はこういうイベントは好きだろうか、もしかしたら嫌いかもしれない。でもその時は勇気を出した。
「佳都、とか、どうですか。だめですか」
七咲先生は納得したように頷いた。頬に触れている指が長くて綺麗。佳都と似ている。
「だめなわけないよ。二人とも仲いいもんね。俺もそれは考えてた」
「じゃあ――」
「でも、佳都くん嫌って言いそうだなぁ。断られたら心にくるなぁ」
先生は先生らしくなく言った。やっぱり少し子供っぽい。俺はそんな彼に言った。
「それなら俺が誘います。一回聞いてみて、だめなら報告しますから」
「いいの?」
「全然大丈夫です」
俺は親指を立てる。七咲先生は「頼んだぁ」とうなだれた。少しおおげさだと思う。だって先生はもっとめんどくさいことをしてくれてる。普通、月謝以上のことなんてわざわざしなくていいのに。
「それより先生は、なんで合宿なんて開いてくれるんですか」
「気になる?」
「はい」
「まあちょっとした夢だったんだ。俺のこと先生なんて呼んでくれる子たちと、非日常的なことをする。くだらないね。でもやってみたかった。昔は学校の先生になりたかったんだ」
「……初めて聞きました」
「言ってないからね」
七咲先生は笑って、それから少し昔話をした後、「もう帰ろうか」と言った。俺は頷く。
結局、学校で佳都に合宿のことを伝えたところ、秒で「行く」と返された。こうしたなりゆきで俺たちは合宿に参加することになった。
「僕、浴衣持っていこうかな」
佳都が自分の体を触りながら言って我に返った。彼は学校から帰ってすぐなので、もちろん制服のままだ。白い夏服が似合ってる。ただ学校の時とは違い、第二ボタンまでボタンが開かれていて、色白の胸元が少し見えた。
「無理無理。絶対かさばるから」七咲先生は笑う。
「えー、でもせっかく祭りなのに。浴衣着たいなぁ」
「絶対似合うだろうけどね」
「泉も、僕のそういう姿見たいでしょ?」
佳都が甘えたような感じで言う。首を振ってやりたい。でも自分に嘘はつけない。見てみたい。
「……さあ」
「見たいんだね。でも残念。またいつかね」
「なんで勝手に振られんの。ていうか、楽しみにしすぎでしょ」
そう言っても、浮かれている佳都の様子は変わらない。飛び跳ねるみたいに動いて、それからこっちに近づいてくる。
「それは楽しみに決まってるじゃん。理由知ってるくせに」
「海でしょ」
「違うよ」
佳都が唇を意味深に舐めた。ふっくらしたその唇を見ていると変な感じがする。理由ってなんだ。そう考えるけど、恥ずかしい勘違いしか思いついてこない。いや、彼もそれに気づいているんじゃないか。わかんない、わかんない。
「わかんないよ」
そう言った時、近くで七咲さんが話を始めた。もう授業を始めるというのだ。俺は助かったという気持ちで席についた。
