「合宿の準備もうできた?」
 ふいに耳元で声が聞こえて、俺は変な声をあげてしまった。手元には教科書類が握られていて、帰宅準備の真っ最中だった。
 「なにその声」
 後ろからクスクス笑い声が聞こえてくる。覚えのある、高く透き通った声質だった。無意識に頬が熱くなる。俺はドキドキする心臓を隠すように振り返った。
 「……佳都《けいと》が急に話しかけるから」
 「そんなに驚くとは思わないじゃん」
 彼は口元に手をあてて笑っている。色白の細い指が綺麗だった。
 「できるだけ小さく言ったんだけどな。泉《いずみ》、意外とビビりなんだね」
 「耳元で囁くからでしょ」
 俺の視線は右に、左にと動き続けた。完全に気を抜いていたから、まだ佳都と話をする準備ができていない。耳元にはまだ吐息の感覚が残っている気がするし、そのせいで耳の先が熱かった。
 「ごめんごめん」
 佳都はそう言いながらもニヤニヤしている。
 「やっと声かけられたから嬉しくて。ちょっといじわるしてみたくなっちゃった。僕と今日話すの、初めてだって気づいてる?」
 佳都は自身のふんわりとした髪を撫でながら、近くの机に腰かけた。教室にはもうほとんど生徒は残っていなくて、遠くから野球部の声がぼんやり聞こえた。クーラーが点いているので窓は閉まっている。
 「そりゃわかるよ」
 俺は再び帰宅準備を始めた。いつものようにカバンの中に教科書を詰めていく。そんな単調作業を繰り返していると、だんだん精神が安定してきた。火照った耳も冷めていく。
 「その理由はわかってる?」
 佳都は耳に髪をかけながら尋ねてくる。彼は華奢で脚がスラっと長いから、そんな一動作も映えて見えた。少し長くウェーブがかった髪もおしゃれな感じで、その間からは綺麗な顔が見える。パッチリとした目が印象的で、同性からしても綺麗で可愛いというのがわかる。俺はこれまで、彼の表情を超える同性、また異性を見たことがない。
 「ねぇ、聞いてんの」
 いつの間にか見入ってしまっていて、佳都の細い眉が鋭くなった。俺は慌てて我に返る。
 「えっと、今日はちょっと忙しかったとか? それで今までこっち来れなかったとか」
 佳都とは学年は一緒だけど、クラスが違った。俺は一組で、佳都は二組。だけどクラス間の物理的な距離は短いので、彼はよく一組に遊びに来る。十分休みや中休み、日によって頻度は違うけど、今日は珍しく0回だった。
 「違う。違うけど――」佳都は不満そうな顔を見せる。「もし仮にそうだったとして、ならなんで泉は何もしないの」
 「どういうこと?」
 「だから――」
 佳都はぐいっと近づいてきた。間近だと長いまつ毛がはっきり映る。
 「僕の方から行けない状態になってるんだったら、どうして泉のほうから来てくれないの。十分休みでもなんでも時間あるじゃん」
 「そう言われても……」
 俺は少し上目遣いな彼から目をそらす。二人の身長差はだいたい五センチだ。でも佳都が小さいわけではなく、俺の方が同年代よりも少しだけ高いのだった。それなのに会話やなんやらをリードするのはいつも彼のほうで、身長とは逆の構図になっている。
 「なに、僕よりももっと重要なものでもあるの? そっちに時間使って、こっちのことは知らんぷりなんだ」
 「違うって」
 あたふたして髪を触った。重い前髪が視界に覆いかぶさる。
 「俺、違うクラスに行ったりするの苦手だから、佳都のとこ行くのためらっちゃって。嘘じゃないよ。休み時間は、えっと、本読んでた」
 「へー、僕じゃなくて本ね」
 「だって」声が裏返った。
 「佳都人気者だもん。俺みたいなのが呼びに行ったら、絶対不自然じゃん。みんな変に思うだろし……」
 「そんなの関係ないじゃん」
 「佳都は自分のことを分かってないんだよ」
 必死でそう言った。でも彼は不思議そうな表情をしていて、もっと顔を近づけてきた。
 「僕ってどんな風なの」
 「だからそれは……」
 「泉は僕のことどんな風に思ってるの」
 丸っこい瞳が近づいてきて、ふくっらした唇がなまめかしく動く。俺の手が無意識に自身の顔を隠した。また頬が熱くなる。「どんな風に思ってるか」なんて、自分だってよく分からない。でも彼と話しているときはいつも緊張する。教室でも、廊下でも、画塾でもどこででも。自分から話しかけになんていけるわけない。
 「ふっ」突然、吹き出すように圭人が笑った。
 「質問に答えないと。なんで赤くなってるの?」
 彼の手が伸びてきて、細い指で耳を触れる。瞬間、ゾクッとした感覚が伝った。
 「も、もう」俺は無理やり体を離す。「もういいでしょ。自分でも分かってるでしょ」
 「分かんないよ。教えてよ。どんななの」
 佳都は離れてもまた近づいてくる。それが続いて鬼ごっこみたいなものになってしまったけど、途中、彼の手も火照っていることに気づいた。
 「とにかく、俺からはいけないよ。恥ずかしい」
 「僕のこと意識してんの」
 佳都が冗談っぽく言った。そう、同性同士の冗談。そう分かっているのに俺は何も言えなくなってしまう。口を開いても、頭の回転が追いついてこなかった。これじゃ図星バレバレみたいだ。
 「……なにその顔」佳都が呟く。
 「女の子みたいだよ。マジなの」
 「もう帰る!」
 俺は慌ただしくカバンを手に持って、逃げるように教室の外へ歩き出した。後ろからまた佳都の笑う声がして、足音がついてくる。彼といる時はいつもこんな風になってしまう。まるで全部見抜かれてるようで、いやだ。