夕焼け色に浸かった屋上。グラウンドから聞こえてくる、部活動に励む生徒たちの声が不明瞭に聞こえるせいで、まるで、少し前まで楽しそうに話していた自分たちの声のよう。
 しかしこの緊迫した空気が、それを否定する。
 少年は固唾を飲んで、柵の向こう、狭い足場に立っている青年と向かい合っていた。
「何をしている、危ないだろ」
 思わず慎重に注意をし、自身の発した言葉の重みに更に緊張が走る。酷い妄想が現実味を帯びてしまいそうで。
 普段は蜂蜜のように煌びやかな青年の髪が、今は風によってぱちぱちと赤が跳ね、青い瞳が暗く淀んでいる。力無く佇む彼はその赤に呑まれそうで、恐い。
 青年から見た少年は浮世離れしているはずなのにどうしてか今だけは現実的に見えた。頭部に二つ丸い耳がついたオレンジ色の髪、茶色く太いしっぽ、青い体操着は自分たちが通う高校のもので、少年が「そう」なるときの変身姿みたいなもの。
「もう手伝ってやれない。ごめんな」
 少年は激しく動揺し、耳をピクピクと動かした。
「なに、言って……」
 どんなに鈍感で、人の心がわからなくたって、さすがに今の状況はわかっているくせに。
 言い返そうと思ったが、もう口を噤むことにした、
ふと、少年の奥の扉が、そっと開かれ、ある女の子が姿を現す。
 ああ、やっぱり可愛い子だ。
 きっと黒いであろう短い髪が今は赤黒く流れ、血色のいい肌が彼女自身を美しく見せる。温かな目、細い唇……。
 青年の唇に自然と笑みが浮かぶ。
 笑っていれば自然と楽しくなるんだよ――。
 つい最近言われた言葉が、頭を掠めたそのとき、一際強い風が吹く。
 青年は風に従って、そのまま宙へ投げ出された。
 青年を呼ぶ声が、遠のいていく。
 どうか盗んでくれ。それしか残されていないから。
 願いと反し、らしくない理想的な妄想が彼自身から千切れ、見上げた空に思考を委ねる。青年は笑みを携えたまま、そっと目を瞑った。


 学校の屋上で風に吹かれ、手元の手紙が飛んでいきそうになって握り締めた。ちょうど、私を残して宙は死んだ、という文字が潰された。
 少年は夕日から視線を逸らし、回収してきたおもちゃの郵便ポストの中身を取り出して十数枚はあるだろう折り畳まれた紙を落とした。封筒にも入れず、簡易に、何ならぐしゃぐしゃにしたものもある内の一つを開いた。
「有川笑九の言ノ葉を奪ってください。こっちが頭おかしくなる」
 もう一つ開く。
「有川笑九の言ノ葉、さっさと盗め」
 もう一つ、もう一つ、と全て開き終えるが同じ内容が多かった。
 少年はため息を零した。
 いったいどうしたらいいのか。いっそ、宙の言う通り……。
 考えを遮るチャイムが鳴って、思わず飛び跳ねた。
 大きな音に心臓がどきどきと高鳴るが深呼吸をして落ち着かせると、急いで郵便ポストに手紙を片付け、屋上を飛び出した。


 校舎の廊下を赤い光が流れ、柱の影、四つの人の影が強く色付くが、もうすぐそれすらも沈もうとしている、そんな夕焼け。
 チャイムが鳴り響く。
 そういえばこの時間のチャイムが一体何を知らせるためなのか、有川笑九は考えた。目の前に鬼の形相をした女生徒三人がいるのにも関わらず。
「おい、聞いてんのか!」
「頭おかしいんだよ、いっつもへらへら笑ってさあ、宙が生きてるなんて言うんだもん」
 右にいる金髪の女生徒が引きつった笑みを浮かべる。
 間髪入れずに「生きてます」と返してやると、三人は顔を凍りつかせた。
「生きてる」
「死んだんだよ! 宙は死んだんだ! 私たちを残してさあ!」
 夕焼けに宛てられた赤い顔は悲しみと怒りに歪み、影を濃くする。
 いかなるときでも笑顔でいる笑九の顔も同じように。
 大丈夫、平気だ。
 心の中で何度も呟く。
「ムカつくんだよ、お前!」
 三人一斉に言われて、ぐわりぐわりと声が反響した。
 振り上げられた手を見て目を瞑る。
 絵空事なのは分かっている。分かっているが、でも、私は……。
 しかし、いつまで経っても降りてこない痛みが気になって、目を開けてから息を呑んだ。
 大量の木の葉が目の前を横切り、開けられた窓に視線を移すと、淵に乗った少年を見つける。オレンジ頭に耳をつけ、この学校指定の体操着という摩訶不思議な風貌のその子は三人を睨んだ。
「言ノ葉怪盗参上。お前たちの言ノ葉、頂戴しに来た!」
 少年の右手に突然、一際大きな木の葉が現れると、息を吹きかけ、三人の口元に木の葉を翳した。その口から黒々とした玉が生まれ、少年が手を引くと玉は木の葉に吸い付いていってしまう。
 黒い玉が抜き取られた三人は、何も言う間もなく、力を無くしてそれぞれに寄りかかって座り込んだ。
 目の前で起きたことに驚いて状況整理をしようにもめまぐるしく、絶え間なく小さな破裂音が鳴る。少年の持っていた木の葉から黒い靄が浮き、空気に溶け、消えた。
「またハズレだ。どうなっている?」
 ハズレ、が気になったが、後方から微かな声が聞こえ、振り向いた。
 力を無くした三人が朧気な目で笑九を見上げていた。それまでの怒りが消え失せ、放心しているよう。
 笑九が屈むと、真ん中にいた女生徒が「嘘みたい」と呟く。
「私たちの内の誰かを選んでって、宙に迫ったから……呆気なく、嘘みたいに、消えちゃったんだ」
 一つの思いが涙となって落ち、濡れた瞳から恋心が溢れ出てしまう。それが合図となって、残りの二人も涙を流した。
 胸が締め付けられながら、笑九はそれぞれに視線を送り、笑ってみせた。
「大丈夫、生きてますよ。残してもいいんです。どうか、宙を、忘れないで」
 聞こえていたのか定かではないが、三人は穏やかに目を瞑った。
 笑九は安堵した笑みを浮かべて立ち上がり、少年と向かい合うが、気まずそうにそっぽを向かれ、あろうことか、そのままそそくさと歩き出したのだ。
「待ってください!」
 彼の背中を追いかけながら、脳裏に浮かぶさっきの光景。
 あれは一体何だったのか。
 それに大量の木の葉が床に散らばっている。これはどうするべきなのか。
 どんどん先へ進んでいく少年に、色んな質問をしたいが言葉が出ず、ただ一つ、笑九は声を張り上げた。
「あの、あなたはっ?」
 立ち止まって振り向いたその姿。たぬきらしい耳としっぽ。信じられない異様な姿形。改めて見てもわかる、彼は人間の形をしたなにか。
 ……でも、私は、奇々怪々、摩訶不思議、そういった存在がいることを信じている。
「言ノ葉怪盗部の怪盗だ。今は誰一人部員がいないがな」
 コトノハカイトウブ……。口腔で呟くが、聞いたこともなかった。
「知らないのか? 教えてやろう」
 少年は目を丸くしたが、すぐにふふんと笑って仁王立ちをすると、指を立てた。
「感情が宿った言葉には、人を動かす力があるんだ。その力を言霊と言う。怪盗部はそれを具現化した玉、言ノ葉を盗む部活だ」
「この学校に、そんな部活があったんだ……。知らなかった」
「非公式だからな。……そして盗まれた者は、その言葉から解放される」
 言葉から解放される、とはどういうことだろう。
 想像がつかないでいると、少年は遠くで眠ったままでいる女生徒たちに視線を送る。笑九も釣られ、彼女たちを視界に入れた途端、あ、と声を漏らした。
 笑九に向けていた殺意とも呼べる敵対心が、盗まれたことで力を失い、残された思いだけを胸に別人のような穏やかな顔になっていた。
 感情は、いわば種だ。彼女たちの種は恋心だった。温かな感情に芽が生え、すくすくと成長をしていくが複雑な感情の素、色んな言葉に枝分かれし、悲しみや殺意と言った言葉に支配された巨木として変化を成し遂げたのだ。
 そして、その一つの枝を盗んだということは……。
「盗まれた人は感情を失うってこと?」
「そうだな、言葉に囚われた感情のみを失う。だが、生きている限り、言葉は無限大に変化する。盗んでも、似た感情の素、また違う言葉を作って生まれる」
 彼女たちが、似た言葉に囚われたとき。思わず考えてしまい、悲しくなった。
 夕焼けはすっかり落ち、青黒く世界が沈みこんだ。笑九は俯いてしまった視界の先に闇に溶け込もうとしている自身の影を見つけ、顔を上げた。
 窓にうっすらと映った自分の輪郭、その奥で、一番星が、鼓動を打っている。遠くの方で家々が明かりを灯し始め、その頼りない光に胸が締め付けられた。
 夜が訪れる。一人きりの、夜が。
 少年は踵を返して「今度こそじゃあな」と手を振った。
 小さな背中が離れていく。切なさに駆られ、走り出した。
 わかっている。けれど、認めたくない。浮世離れした願いも、浮世離れした存在になら本当にしてもらえる気がして、少年の袖にしがみついた。
 振り向いた顔が驚きに広がる。
「何だ、まだ何か」
「お、お願いっ!」
 ほとんど同時に口に出したせいで、沈黙が一瞬落ちてしまう。
 しかしすぐに少年は、指を口元へ持っていって企むように笑った。
「何だ」
 言葉にしようとして、不意に恐怖が訪れる。口を噤み、顔を俯かせた。
 何だ、早く言え、という声は聞こえているのに頭の中の言葉は萎んでいって遠ざかっていってしまう。
 その代わり、今まで言われた罵倒が鮮明に降りかかった。気持ち悪い、頭がおかしい、気味が悪い、一緒に死んでしまえ――。
 何十人にも否定された。
 それでも、信じずにはいられなかった。信じたいと思った。だって、あまりにも理解が出来ない。あのとき、彼は微笑んでいたのだ。
「あのね」
 意を決し、上げた顔が緊張した面持ちに、少年には見えた。肩まで届かない黒髪が揺れ、水色のセーラー服の胸元で拳を作り、必死な瞳が覗いてきた。
「八駒宙の、言ノ葉を盗んで」


 翌日、笑九は友達の佐原杏に昨日の夕方にあった事を話した。一限目を終えた休憩時間でのこと。
 眼鏡をかけ、俯くことが多いせいで地味に見える杏だが、肩までの黒髪は美しく、肌も白くて、切れ長の目にどきりとするときもある。常々その美貌が羨ましいと思っている笑九だが、こうして高校で出会い、友達になれたのでさえ奇跡に近いと思えた。
 杏は言ノ葉怪盗部のことを知っていたらしく、安堵した笑みを浮かべてくれた。
「よかった。じゃあ、もう笑九が嫌がらせされることはないのね」
「どうだろう。他にもいるからね」
 軽い笑い声を上げるが、杏は納得がいかないようで眉間に皺を寄せた。それから今度は視線を走らせ、顔を近づけてきた。
「八駒先輩はみんなに好かれてたもんね」
 笑九はそれには同意せず、ただ微笑んだ。
「みんなに好かれていた八駒宙」が死んでから四日が経った。
 初めて見た彼は容姿端麗だった。笑九はそれだけしか知らず、ここからは噂だが、人当たりも良く、成績優秀、運動神経抜群と、非の打ちどころがなかったそうだ。
 教師の言うことを聞かないヤンキーや、偏見で語る教師にだって一目置かれていたと言うのだから好かれていたのは間違いないだろう。
 だが一方で、彼を嫌っていた者もいた。
 その理由として、妬み。
 よくある話だ、いつの世も中傷は絶えないが、人気者になればなるほど増えてくる。宙はその対象だったと聞く。
 だが、今や彼らのおかげで、表面上だが学校に活気が戻ってきているのだから皮肉なもの。
 一方で、嫌がらせが蔓延っていた。
 その対象が笑九。彼がいなくなって以来「宙は生きてる」と言い続けているせいで彼と同学年の三年生からやっかみを買うこととなった。昨日襲ってきた女生徒たちもその常習犯で、他にも出くわせば嫌な目に遭わされた。
 その上、同級生たちも関わらなくなった。「頭がおかしい」笑九とは目を合わそうともしない。
 唯一杏が傍にいてくれ、こうして身を案じてくれるのだが、宙と、あの直前まで、会ったことがなかった笑九にそういった情報を教えてくれたのも、杏だった。中学のときの先輩だったらしく、彼女の初恋の相手でもあったのだ。
 笑九は前のめりになって、遠慮もなく口にした。
「でね、私も依頼したの!」
「ん? 何の?」
「宙の言ノ葉を盗んでって」
 言った後、少年は驚いたようだったが「少し時間がかかる、かもしれない」と言ってくれた。
 それから人差し指を突き刺して忠告された。
「さっきの三人から盗ったものは嘘ノ葉と言って、私だと完璧に盗ることが出来ない。だから嘘ノ葉が生まれるのも、育つスピードも早い。しばらくは突っかかられないだろうが、気を付けるんだな」
 そういえばあれはどういう意味だったのだろう。そのときはとりあえず頷いてみせたが。
「笑九」
 眉を顰めた杏が、じとりと呼びかけてきたことで思考は停止する。
「八駒先輩の言ノ葉を盗んでってどういうこと?」
「盗んでもらえたら生きてる証拠になるでしょ。そうしたらみんなに」
 言い終わる前に、テーブルを叩く音が響いた。立ち上がった彼女が、顔を俯かせ、震えている。大きな音のせいでクラスメイトたちが喋るのをやめ、視線を集めた。
 あ、また怒らせてしまった、と思った。
「まだそんなことを言ってるの? 八駒先輩が死んでからずっとじゃない。彼は死んだんだよ。屋上から飛び降りたの。なのに、どうして生きてるって言えるの? 何を信じて言ってるの? あなたは八駒先輩の何だったの? 笑九、いい加減にして。みんながあなたに苛立ってるのは恐いからじゃない。今まで八駒先輩の傍にいなかったあなたが誰よりも八駒先輩を知った顔で信じてるのが、妬ましくてたまらないのよ!」
 興奮した息遣いで一気に捲し立て、杏は手を伸ばしてきて、笑九の胸ぐらを掴んだ。
「あなたは八駒先輩の何だったの?」
 荒い息が鼻に当たる。彼女の瞳は揺れていた。嫉妬と悲しみで揺れる瞳からついに涙が零れ落ちる。ぎゅっと唇を結んで、笑九の答えを待っている。
 杏は中学の先輩だったと教えてくれたが、笑九自身は宙との関係を「秘密」と隠した。
 言い表せなかったからだ。
 どうとでも言える関係だった。確認なんてしなかったから。ただ肌身で感じていた。正反対なのに似ていて、知らなかったことも不思議と馴染んで、鏡のように感じるのに、背中合わせで私たちはどこまでも交われない。大切なのに、いつでも切れる関係だった。
「友達」
「何ですって?」
 怪訝に聞き返してきた杏の顔を見つめ返した。
「友達だよ、ただの」
「ならどうして最初に聞いたとき、そう言わなかったの?」
 笑九は笑みを浮かべ、首を竦めてみせた。
 ついに杏は目を見開き、手を振り上げ……。
 チャイムが鳴り響く。
 授業開始のチャイムと共に、クラスメイトたちは各々自分の席に座り、その騒動の中、杏は笑九から手を離すと目も合わせずに席に座り直した。
 教師が入ってきて授業が始まる。
 教師の声を右から左へ受け流しながら、見つめた杏の後ろ姿は素っ気なく、気安く触れないでと言っているように遠く感じた。
 杏は、宙がまだ好きなのだと思い知った。
 彼が死んだと学校中に知れ渡ったとき、酷く動揺して話してきたのを思い出す。私の初恋の人が死んだの、信じられる、信じられないよね、だってあんなに優しくていい人が自殺だなんて――。手で顔を覆いながら泣いていたのをよく覚えている。
 そのときに笑九が「生きてるよ」と返したものだから、余計に混乱させる。
「八駒先輩のこと、知ってるの?」
 目に涙を浮かべながら、それでも驚いて問いかけてきた。
「うん。知ってるよ。きっと宙は死んでない」
「どうして?」
「だって、会おうって言ってくれたんだ」
 大切な言葉の一部を、大切に口にすると笑みが自然と零れ、口内で幸せが滲んだ。温かくて、無味でありながら何よりも美味しい幸福の味。
「そんなの、八駒先輩の嘘だよ……」
 笑九は首を横に振った。
 確かに、嘘をつくのが自然になっている、と言っていた。
 あのときの宙のことはよく覚えている。
――あんまり俺のことを信用するなよ。嘘をつくのが自然になってるんだ。
 スマートフォンに届いた彼からのメッセージに笑九はどきりと胸を痛める。
 自室にこもって彼とやり取りをするのが日課になった深夜。液晶画面に映ったチャット形式のアプリで話すようになって少し経ったある日、宙が忠告をしてきた。
――そうなの?
――そうなの。さっきもしょうもない嘘、ついただろ。あっさり信じてくれたけど。
――うーん、でも、宇宙人の正体が未来人ってなんだか素敵だよ。嘘でも、それを考えた宙は素敵だよ。
――素敵って……恥ずかしい奴。あんまり真に受けると、危ないぞ。すぐ信用するなよ。
 そんな風に言われ、思わず笑ってしまうと立て続けにメッセージが届けられる。
――誰も信用しないくらいがいいんだ。
 人間不信だという彼の心に少し触れたあの日。
 彼が嘘つきかどうかなんて重要ではなかった。本当の言葉はいつだって、嘘の後ろに隠れていたから。
杏は信じられないと言いたげに、首を横に振った。
「八駒先輩が、特定の女の子を傍に置くなんて……だって」
「女の子、だからじゃないよ。女の子じゃなくたって、私が男だったとしても私たちは仲良くなれたと思う」
 胸に手を置いて空想する。
 仮に宙が女の子だったとしても同じだ。私はきっと素敵な彼女に近付きたくなる。こんな感情は生まれて初めてだったのだ。
「……八駒先輩と一体どういう関係だったの?」
 不可解に目を細められた奥底は、今思えば嫉妬に煮えたぎっていたのかもしれない。
 けれどようやく誰かに宙のことを話せた興奮と、それから大切にしたい気持ちが入り交じって彼女のことを考えていなかった。
 あのとき、杏はどんな顔をしていただろう。
 そのまま時間ばかりが過ぎていった。
 いつもは許してくれる杏だが、今回ばかりは尾を引き、話しかけても無視される。
 つい一週間前までは笑九を中心に回っていたクラスだったのに、今では誰一人話しかけてこない。
 そのまま四限目の体育に突入するのだが、ついに魔の手が身近に伸びてきていたことを思い知る。
 五十メートル走を測っていると、到達点で、古典的にも足を伸ばされ、勢いよく転んでしまったのだ。
 擦りむいた膝を一瞥してから振り向くとクラスメイトの二人がにやにやと笑っていた。
「気持ち悪。見ないでよ」
「愛しの八駒先輩にでも助けてもらえば? 死んでるけど!」
 笑い声が上がり、既に走り終えた者達も聞いていたため、くすくすと笑われる。
 笑九は立ち上がって二人の前に立った。
「生きてるよ。宙は生きてる」
「私たちの心の中にってか?」
 似ても似つかない笑九の声真似で返され、小さかった笑い声が一際大きくなった。その中に杏を見つける。杏は気弱に笑い、笑九と視線が合うと真顔になって口をぱくぱくさせた。何を言っているのかは分からないが、目はまだ怒っていた。
 大勢の中で杏と揉めたことがきっかけになったらしい。
 出発地点にいる先生に促され、この時間はそれで済んだのだが、教室に戻ると笑九の制服がなくなっていることに気付く。制服を探し回っている傍らでクラスメイトたちはにやにやとまたも笑っていた。
「愛しの八駒先輩が持っていったんじゃない?」
「次はあんたの生身を持っていかれるかもねえ!」
 ゴミ箱にも、机の中にも、ロッカーにも、ない。耳障りな笑い声が混在する中、別室で着替えていた男子生徒たちも戻ってきてしまって着替えるタイミングを失ってしまう。
 仕方なく席に着き、弁当箱を取り出そうとするのだが、これもまたなかった。
「弁当は中庭だよ」
 よく知った声に耳打ちされ、俯いていた顔を上げた。
 杏だった。冷たい視線で「だから言ったのに」と呟く。
「みんなをずっと傷付けてたのに気づかなかったんだね」
 冷ややかな声音で言うとさっさと前を向いて鞄から弁当を持ち出した。
 その動作を一部始終見つめた後、教室を後にし、中庭へ足を動かした。
 大丈夫、平気だ。こんなこと、なんてことない。
 階段を降りながら、笑九は初めて八駒宙と出会ったときのことを思い出す。
 蜂蜜のように煌めく髪、カラーコンタクトを入れていると聞いていた蒼の瞳、夕焼けに照らされた鮮やかな肌、大きな身体……。
 出会いは、インターネットの中だった。
 別れもインターネットだと私たちは信じて疑わなかった。実際、そうなったこともあったから。
 けれど近くにいて、会う約束をした日のことを思い出す。
――まさか同じ学校に通ってたなんてね、驚いたよ。
――私も驚いたよ。
 きっかけは些細なことだった。教師の笑い話をしていたら宙がそれに食いつき、学校名を照らし合わせたところ同じ学校だったのだ。
 酷い興奮を覚え、火照った顔で笑九は文字を打った。
――よかったら、会わない?
 聞いておきながら緊張感に押し潰されそうになった。スマートフォンを見るのが怖いくせに、まだかまだかと返事を待ったものだ。
――ネットの俺たちが?
――そうだよ。所詮、ネットだけど。
 所詮ネットだけれど、こんなに会いたいと思った人は初めてだった。「所詮」はこのリアルの世界で共に生きられないから今や諦めの言葉として使っていたが、いったいいつ以来、希望を持って使ったことだろう。
――いいよ。その代わり、会う日まで誰にも言わないこと。
――誰にも?
――ああ。情報を聞くのも、こっそり見に来るのもお互い禁止。そっちの方が会えたとき、感動するだろ?
 宙の提案で笑九は杏にも他の子にも八駒宙の情報を聞かなかった。誰かが話そうものなら離れ、興味がないふりを徹底し、やがて、会う日の直前になるのだが、心臓がはち切れそうになった。
――もうすぐで会えるね、宙。
 他にも言いたいことがあるのに、どう言えばいいのか、何を言えばいいのか、今の気持ちを表すのに最適な言葉を忘れてしまっていた。ただ、言葉にならない昂りを覚えて。
――そうだね。会おう、笑九。ネットの世界じゃなくて、このリアルの世界で。
 ずっと思い描いていた。画面に触れると感慨深い気持ちになってしまう。
 この画面の向こうの人と会いたいといつから思っていただろう、もう覚えていないが、電波を伝ってではなく、お互いを瞳で認識し、そのためなら旅に出たって、生まれ変わって鳥になっても構わなかった。そんな馬鹿げたことを考えるくらいには宙と一緒に生きたかったのだ。
 彼の言葉に惹かれた。
 彼の言葉に体温を感じて、人間を感じて、スマートフォンの画面の向こうで、表情を感じ取れた。
 私たちはそこから抜け出そうとしたのだ。インターネットではこの関係があまりにも重いから肌身で感じようとしていたのに。
 なのに、死ぬなんておかしいに決まっている。
 中庭に飛び出すと、杏の言う通り葉が伸びた草むらの中に弁当箱が捨てられていた。茶色い弁当箱が無残にも中身を飛び散らせている。
「勿体ない……」
 弁当箱を持ち上げ、母が作ったおにぎりや卵焼きが形を崩しているのを見つめる。秋という肌寒い季節が不幸中の幸いだったようだ。蟻が集っていないことを確認して、口に運んだ。
「美味しい。お母さんは天才だなあ」
 草がついても砂がついても味が衰えない。僅かに食べづらいが。
 不意に影が落ちてくる。
 見上げると、太陽を遮って青年が見下ろしてきていた。
 頭部に丸い耳をつけた青いニット帽、その下はオレンジ色の髪をして、癖毛なのか外に跳ねている。茶色い色をした垂れた目は彼の気前の良さを際立たせるが、着崩した制服がヤンキーみたいだ。
「美味しいか?」
 青年は笑九の横に座ると、落ちている卵焼きを手に取った。
「美味しいよ」
 その言葉を信じたようで口に運び、うんうんと頷いて美味しそうに食べている姿を見て、笑九は笑みを零し、おにぎりを食べ始めた。
「お母さんの作る弁当は世界一美味しいんです」
「そのようだな。私の母が作る料理も美味しいが、何せ味が濃いんだ。舌が痺れる」
「へえ、家族みんな味音痴だったりして」
「ああ、そうだな。宙は完璧だったが、味音痴というのが欠点だった」
 おにぎりを食べていた口が止まった。見開いた笑九の目を青年は見返す。
「八駒さとり。宙の双子の弟だ」
 風が吹く。笑九の短い髪が左に流れ、自然な色をした瞳が揺れる。
僅かに開いた口の横にはご飯粒がついていて、それを指摘すると、我に返って取った後、笑九は恐る恐る問いかけた。
「双子の弟、なんですか?」
「ああ」
 確かに、杏から聞いたことがある。
 宙ほどではないが、容姿の格好良さから人気があるらしい。宙からも、世話のかかる狸がいるんだ、と聞いていた。あれは弟がいる暗喩だったのか。
「じゃあ先輩」
「そうだ。さとり先輩でいいぞ」
「八駒、何の用?」
「せめて先輩をつけろ、敬語も何故外した!」
 何故か敵意たっぷりな笑九に戸惑いを覚えながら、それでも、調子を崩されないよう、咳払いをしてから持ち直した。
「お前のことはよく聞く。私は身内だから余計にな。単刀直入に聞くが、どうして宙は生きていると思う?」
 聞いているのに、笑九は散らばったおかずをさっさと口に詰め込み始めた。両頬をぷっくり膨らませた姿はリスか、さながら食い意地の張った子どもだ。
 それを飲み込んでから立ち上がると見下ろしてきた。
「宙と一緒に生活してたなんて羨ましいことこの上ない!」
 なるほど、私にやるものは何一つないという意思表示だったらしい。敵意ではなく対抗心だったようだ、と感心したが、さとりは思い直して立ち上がった。
「そんなことを聞きに来たんじゃない。だいたいお前だって羨ましいだろ! 以前、すまーとふぉんを見つめるあいつがあまりにも嬉しそうだったから聞いたことがある、大切な奴と連絡を取っているんだって笑っていたんだからな!」
 ムキになって言い返すが、みるみる赤くなっていく顔を前に口を噤んだ。
 その表情は宙がそのときに見せた顔とよく似ていた。
 うるさいやつだし食い意地も張ってるし、まるで正反対のように感じたが俺たちはよく似ていて、いつの間にか大切になっていたんだ――。
 宙はそんな風に言っていた。そのときは、それよりも小さな電子機器でどうやって話せるのかが気になって、そっちに話が行ってしまう。
 あのときもう少し詳しく聞いていたら、なにか違っていたのだろうか。
「夢を見るんだよね」
「夢?」
 不意に、笑九はぽつりと呟いた。胸元で握った手の中は、なにか大切なものでも入っているかのようで、視線はさとりの奥、どこか遠くへ飛んでいた。
「宙から、メッセージが来る夢。知ってる? 連絡が来る夢って正夢になるんだって……。それにね、これを見て」
 笑九は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、宙とのチャット画面を開いた。宙がいなくなってから、毎朝一方的に送っている挨拶が並んでいる。
 さとりに画面を見せ、メッセージを象る吹き出しの横を指差した。
「見て、既読、の文字がついてるでしょ」
「ほう、本当だ」
「これはこの画面を開かなきゃ付かないんだよ。宙の死体を見た瞬間、宙、と送ってみたの、反射的にね……」
 笑九はスマートフォンを愛おしそうに撫でて続けた。
「なのにね、既読がすぐについた。おかしいでしょ? 会う直前まで私たちはこれで話してたから宙がスマートフォンを持っていたことは明らか。屋上から地上までの高さを、ポケットに入れていたとしてもスマートフォンが耐えられるとは思えない。けど、目の前には死んだ宙……。私は、私はね、私がずっと見てきた宙を信じることにしたの」
 それが、インターネットの中だけの宙だとしても。
 八駒宙と初めて会えたのは遺体になってからだった。
 正確には約束していた屋上へ着いた瞬間、彼が落ちる直前に目が合い、約束した逢瀬を交わした。
 その一瞬は全身の毛が逆立ち、体温がぶわりと迫り上がるほどに興奮した。
 しかし一気に血の気が引く。
 遠くで、聞いたことのない音が聞こえた。
 笑九は宙がいなくなったこととその音に釣られ、下の階に降りてスリッパのまま玄関から外へ飛び出した。
 それからは簡単に宙の元へ導かれる。部活動に励んでいた生徒たちが少し離れた先で群がっていたから。
 赤い水たまり、花びらのように飛び散った肉片、身体はあらぬ方向へ曲がり、まるで玩具みたいに……。
「なるほど。どうしてそれを他人に言わない? 皆お前がおかしいと言っているぞ」
 遠慮ない言葉が意識をこの場に戻らせた。笑九は苦笑いを浮かべた。
「言っても駄目だった。他の誰か、例えば彼の身内がスマートフォンを持っていたんじゃないかって」
「でも直前まで連絡を取り合っていたのだろう?」
「そうだよ。ただそれよりも、死体という決定的証拠の方が大きいんだよ」
 ふむ、と唸り、さとりは黙り込んでしまった。
 笑九はさとりに話した夢を思い返していた。宙がいなくなってから毎日見るものだから、思い返すのも簡単で、シチュエーションはそれぞれでどの夢も他愛のない、いつものメッセージ。
 目を覚ますといつだってスマートフォンを開く。
 宙から連絡が来ていることを願って。
「何回か、連絡をやめようと言われたことがあったの」
「ほう? どうして?」
 目を瞑ると、そのときの感情が自然と浮上した。
「恐かったから」
「恐かった?」
「私たちは私たちを必要とするあまり、お互いがいない人生を考えられなかった。でも、五年後は? 十年後は? 私たちの出会いはネットだったの。ネットの関係をそこまで続けていって、今よりもずっとのめりこんでしまっていたら、このリアルの世界で上手く生きていけないんじゃないかって。宙が言ったの」
 まだお互いが遠い街に住んでいると信じていたときだ。
 会うことを考えなかったわけではない。しかし会ったところで数日。またインターネットの世界に戻ってしまうのだから、恐怖は付きまとう、と言っていた。
「だから何回か連絡をやめた。でもね、彼から連絡が来る直前に、同じ夢を見たの。だから」
「だからまた来る、すなわち生きてるってことだな」
 笑九は頷いた。
 真剣みそのものの瞳には嘘がなく、さとりが頷き返すと笑九は再び座り直した。さとりも釣られて横に座るが、少し距離を取られてしまう。
 そのことを突っ込もうとしたが、彼女の顔が神妙で、何も言わずに空を見上げた。
「ここ数日でたくさん言われたよ、お前は頭がおかしいとか、気持ち悪いとか、ストーカーだろとか、挙句、入学してすぐに友達になった子にも嫌われちゃった……。でもね、みんなが言ってることもわかるよ。みんな、私とは反対なだけ。リアルの世界で宙と生きてきたから」
 風が吹き、太陽を見上げるが彼女から目を逸らすように雲に隠れた。
「だからこそ、信じたいの」
 不吉な予感とは裏腹の屈託ない笑みが向けられ、意表を突かれてしまう。
「悪あがきにも見えるけどね」
 そう言うわりにはやはりどこか楽しそうだ。悲しみなんか微塵も感じず、不思議な強さに宛てられ、笑みが零れてしまう。
「むしろ、なんでさとりは否定しないの? 身内なのに」
「最初からそのつもりはない」
 本心だった。
 ただ、謎に立ち向かう恐怖がいつも付き纏っていたのも事実で笑九のように言葉にすることが出来なかった。例えば母の泣き顔を見た日には、彼の喪失を突き付けられ、信じざるを得なかったのだ。
 謎はある、だがそれを解き明かしたとして、何になるだろう。両親の悲しみを煽るだけになってしまう可能性も高く、何より、今のどっちつかずな気持ちでいれば自身を守ることが出来た。
 だが、歩み寄りたくなった。傾きたくなった。宙が生きているという希望へ。
「それに、お前の言うことと関係があるのか断定出来ないが一つ決定的証拠を教えてやろう。……宙のすまーとふぉんが、あの日以来、見つかっていないんだ」
 笑九に視線を移すと、驚いた表情を、瞬く間に、嬉しそうに、ぎゅっと口をしぼませて目を細めた。
 喜びや切なさ、赦されたような、そんな笑み。
「やっぱり……」
 ぽつりと呟き、笑九はスマートフォンを握りしめる。
 宙はそこにいないのに、彼がそこにいるように感じてしまう。まるで一人きりには見えない、寄り添った彼らを想像出来てしまった。
「さて、そろそろ休憩時間も終わるだろ。じゃあな、有川笑九」
 さとりは立ち上がると、我に返った笑九に手を振った。
 慌てて笑九も立ち上がり、歩き出す彼の背中に手を振る。
「うん、バイバイさとり。ありがとう」
 言った直後、笑九はふと気が付く。
 彼に名前を教えただろうか。さとりの名前は聞かされたが、果たして自分のことはどうだったか。
 スマートフォンに視線を向けると、やはり通知は来ていない。
 それでも良かった。さとりへの疑問など消えてしまうほどに、既読の文字が今は嬉しくてたまらない。信じていることが着実に裏付けられていっている。それだけで良い。少しずつ、確証に変えて、みんなに証明したいから。
 予鈴が鳴ってしまう。慌てて弁当箱を片付けると走り出した。