迎えた放課後。足早に校舎から出た僕は、邪念を追い払おうと必死だった。
「観音菩薩、慈悲深き者なり。あらゆる苦難を取り除き、心を安らげる存在なり……」
「待て待て」
「今、観音経を唱えてるんだから邪魔しないでくれ」
羽澄の制止を無視して、経文を繰り返す。大体僕は、デートをすることを許可した覚えはない。それなのに帰りのHRが終わった後、隣のクラスの羽澄がわざわざ迎えにきたもんだから、周りはまた妙な空気になっていた。
「観音大士、常に慈悲を施し……」
羽澄に、流されてはいけない。風紀委員長としての役目と責任を再確認させていたら、「久弥ー!」という甲高い声がした。こちらに向かって大きく手を振っている女性の背丈はすらりと高く、まるでモデルみたいに美人だった。
「もう遅いよ!」
「悪い、悪い」
(もしかして、羽澄の彼女だろうか……)
学校では滅多に女子と話さない羽澄だけど、この人には心を許しているように見える。
なんだ、そっか。彼女がいたのか。別にいても不思議じゃないし、僕には関係ないことなのに、なぜか胸の奥がモヤモヤしてきた。
(……僕にキスしようとしてきたくせに)
「ねえ。ひょっとしてきみが、噂の風紀委員長くん?」
女性が突然、僕の顔を覗き込んできた。とっさに「は、はい」と返事をすると、意外な言葉が返ってきた。
「やっぱり! 弟の久弥がいつもお世話になってます♡」
「お、弟?」
「そう、うちの姉ちゃん」
羽澄に改めて紹介されると、確かにふたりの顔には共通点があり、雰囲気もどこか似ていた。どうやら羽澄はお姉さんに僕の話をしているようで、とても気さくに話してくれた。
(彼女だなんて、僕はなにを早とちりしてたんだ……)
途端に恥ずかしくなり、また心を落ち着かせるために観音経を唱えなければと思っていると、お姉さんは路肩に停めていた車の中からケージを取り出した。
「はい。私はこれから夜勤だからよろしくね」
羽澄にケージを手渡した後、お姉さんは颯爽と車で走り去っていった。ケージの中でなにかが動いていると思えば、ふわふわの生き物がいた。
「羽澄、その子は……?」
「ああ。うちで飼ってるアンゴラウサギの蘭丸」
普通のウサギよりも全体的に大きく、顔を埋めたいほど長い毛に覆われていて、大袈裟じゃなく本当にぬいぐるみのようだった。
「反則的に可愛すぎる……!」
「だろ。今から蘭丸の毛をカットしに行くから付き合って」
「そんなの、行くに決まってる」
蘭丸は毛が長いぶん、定期的な手入れが必須のようで、駅前にあるうさぎ専門店に通い、カットだけじゃなく爪切りなどもお願いしているそうだ。
店に着いてすぐ担当のトリマーさんに蘭丸を預けて、グルーミングをしてもらうことになったが、慣れている羽澄とは違い、僕はその間ずっと気が抜けなかった。
「ら、蘭丸は大丈夫なのか?」
ガラスの向こうでは、蘭丸が大人しくカットしてもらっている。トリマーさんは時折、蘭丸の頭を優しく撫でてくれていたが、まるで我が子を見守っているような気持ちだった。
「心配しなくても大丈夫だよ。むしろ蘭丸は俺よりあのトリマーさんに懐いてるから」
羽澄の言うとおり、カットは三十分ほどで終わった。トリマーさんの手から戻ってきた蘭丸は、さらにふわふわさが増していた。その愛くるしい姿に悶えていると、羽澄から蘭丸を差し出された。
「抱っこしてみる?」
「いいのかっ!?」
「うん。多分制服に毛が付くと思うけど」
「いい。むしろ大歓迎だ」
羽澄から蘭丸を受け取り、綿菓子のような体を優しく包んだ。耳の下から背中にかけてなめらかに手を滑らせると、その柔らかい感触に思わず微笑みが溢れる。
「あ~……癒される」
「可愛いな」
「うん、本当に蘭丸可愛すぎる」
「俺が言ってんのは、いんちょーのことだよ」
「や、やめろよ。蘭丸が聞いてるだろ」
「可愛いものには何回でも可愛いって言っていいだろ」
羽澄は「な?」と蘭丸に同意を求めていた。
可愛いと言ってもらえることに悪い気はしないけれど、もしかして羽澄は僕のことを蘭丸と同じような感じで褒めているんじゃないだろうか。そうだとすると、僕を欲しいと言ってきたのだってペットとしてという意味の可能性も出てきた……。
「なんでテンション下がってんの?」
店を出た帰り道。羽澄が持っているケージの中で、蘭丸は静かに眠っていた。
「さ、下がってない」
「あ、ひょっとしてデートだって言っておいて、蘭丸のカットに付き合わせたから怒ってる?」
「そんなことで僕は怒らない」
平静を装うために、僕はメガネをくいっと人差し指で上げた。
最近の自分は、ちょっとおかしい。いい意味で僕は感情に振り回されないタイプだから、なにが起きてもいつだって冷静さを維持できていた。それなのに羽澄といると、いつもの僕を見失いそうになる。
「いんちょーってさ」
「な、なんだよ?」
「なんで目悪くないのにメガネかけてんの?」
「……え?」
「そのレンズ厚みないし、伊達かなって思ってたんだけど、違う?」
たしかに僕は、羽澄の言うとおり視力は悪くない。わざわざ伊達メガネをかけている理由には、少し重めの家族事情が絡んでいる。
僕には、七歳上の兄がいる。兄は神童と呼ばれていたことがあるほど優秀で、家族の誇りだったし、僕にとっても憧れの人だった。けれど、就職活動に失敗した兄は、その後全てのことにやる気を失い、現在は家に引きこもっている状態だ。
兄に期待していたぶん、両親の失望は相当なものだったようで、それを埋めるために期待をかけられたのが僕だ。
間違ったことをしてはいけない。正しくいなければいけない。僕は両親の希望になるため一念発起し、模範的な行動を心掛けるようになった。その手段のひとつとして使っているのが、このメガネだ。
気休めかもしれないが、メガネをかけることで背筋が伸びるし、期待に応えられる自分でいられるような気がしている。
「僕にとって、メガネは鎧なんだ」
「なるほど。だから、いんちょーはつねに戦闘態勢ってわけね。でも、裏を返せば鎧なんてすぐ外せるってわけだ?」
避ける暇もなく、羽澄にメガネを奪われた。
「な、なにするんだよ、返せ!」
「ダメ」
「くっ……」
背伸びをして奪い返そうとしたら、バランスを崩してしまった。不可抗力のまま羽澄のほうによろけてしまい、片手で抱き留められた。
「ラッキー」
「なにがラッキーだ。メガネを返せ」
「鎧をまとってるいんちょーもいいけど、今みたいに隙があるいんちょーも俺は好きだよ」
羽澄はそう言って、僕にメガネをかけてくれた。それがどういう意味の『好き』なのか、思わず聞いてしまいそうになる。
「いんちょーは、俺のこと好き?」
羽澄の前だったら、僕は鎧を脱げる。だけど、ここで絆されてしまったら、今まで守ってきた『僕』が消えてしまいそうで怖くなった。
「不良は、嫌いだ」
振り絞って言った後、僕は羽澄の目を見ることができなかった。



