プロローグ

 理科室に入ると、教室の中はいつもと違って不思議な雰囲気に包まれていた。
 教室は黒いカーテンで締め切られ、作業台に置いてあるランプの灯りが薄暗い教室をぼんやり照らしている。
 教室のあちこちに、幾つものフラスコが置いてあり、フラスコの中では小さな草花が茂っていた。スミレの香りもする。
 いつも無機質に感じていた理科室は、今は実験室と植物園が混在して幻想的な空間になっていた。
 ここは学校なのに、制服姿の自分たちの方がなんだか場違いに感じる。
 
 チャイムの音とともに、七星(ななせ)先生が理科室に入ってきた。
 金縁眼鏡をかけた白衣姿の七星先生は、幻想的な理科室の世界観に馴染んでいる。
「これから特別授業をします。確かに僕は殺人教師です」
 理科室中が息を飲んだような気がした。
 
 こうして、七星先生の最後の授業がはじまった。





 夜の公園は、昼間に降った雨のせいで蒸し暑かった。
 千花(ちか)月山(つきやま)先輩と手を繋いで、高台にある公園のベンチから田舎の景色を見下ろす。青白い常夜灯が点々と灯っているだけで、暗い茂みが広がっている。
 見上げると、澄んだ空に星々が煌めき、理科で習った夏の大三角形がひときわ輝いていた。
 遠くで花火が爆ぜる音がする。
「先週の花火大会、行けたらよかったなぁ。正直言うと、千花ちゃんの浴衣姿見たかったよ」
 月山先輩が呟くように言った。
「ごめんなさい、あの日は妹が熱だしちゃって」
 千花は、俯いて謝ることしか出来なかった。月山先輩は高校生になってから、勉強に部活に、忙しく過ごしている。一方で、中学生の千花は、帰宅部だし受験勉強も真剣にやっていない。だから、本来なら千花のほうが月山先輩の予定に合わせなくちゃいけないはずだ。それなのに、今年に入ってから千花の日常は家族のことで手一杯になって、それどころではなくなってしまった。そのことも、ちゃんと月山先輩に説明する気もなければ、本当は会いたくもない。

「俺も弟いるからわかるけど、でも一個下の妹でしょ。なんで千花ちゃんが面倒見なきゃいけないの。前のデートも、その前の映画もドタキャンしたかと思ったら、今日みたいに急に呼び出してくるし……もしかして俺のこと試してる?」
 千花の顔を覗き込んできた月山先輩の表情は、どこか楽しんでいるように見えた。

「そんなつもりじゃないんです。本当に……」
 あの日のことを思い出して、千花は自分が情けなくて惨めな気持ちになった。
 不意に月山先輩に肩を引き寄せられて、千花は先輩と向かい合った。千花が顔を上げると、目の前に真剣な表情をした月山先輩の顔があった。

 千花の鼓動が早くなる。
 いつの間にか花火の音が止んで、あたりは夜の静けさに包まれていた。
 月山先輩の大きな手が、千花の頬をなでて顎をつたう。

 これから私はウサギの復讐をするんだ。この人に。と千花はそんなことを考えながら、さり気なくバックに手を伸ばす。
 ーー今だけは、学校のことも家族のことも、全部全部忘れたい。

 そのとき、千花のポケットからスマホの着信音が鳴り響いた。 
「……千花ちゃん、電話きてる」
 そう言って、月山先輩はベンチから立ち上がると、千花に背中を向けたままため息をついた。
 千花がスマホを取り出すと、『***交番』の文字が表示されていた。
 


山吹(やまぶき)さん。おばあさんのこと、ちゃんとてみてあげないと駄目って言ってるでしょ。また河川敷を一人でうろついてたよ。まったく」
 太ったハムスターみたいに大柄な警察官が、うんざりしたように言った。
 おばあちゃんは背中を丸めてパイプ椅子に座り、固く口を結んでいる。
「ごめんなさい」
 千花は、深く頭を下げる。おばあちゃんのこと見ててって、家出る前に千早に言っといたのに……。
「お優しい方がね、道路の真ん中を歩いてた山吹さんを偶然見つけて交番まで連れて来て下さったんだ。ちゃんとお礼をいいなさい。えっと……お名前なんでしたっけ?」
 警察官が、身体をひねって交番の奥に声をかける。
 千花もそちらに視線を向けた。
 すると、Tシャツ姿の背の高い男の人が、困ったような笑みを浮かべて、ふらりと奥から出てきた。 
 蛍光灯の光に照らされたその人は、二十代くらいに見える。
 千花は思わず、彼をじっと見てしまった。彼の髪は薄い茶色みがかっていて、肌は透き通るように白かった。くっきりとした二重の眼は青みがかった薄い灰色をしている。千花の視線に気づいたのか、男は千花に向かって軽く会釈した。慌てて千花も頭を下げる。
 この田舎には珍しい、外国の人だろうか、神秘的な容姿は格好いいというより綺麗だと、千花は思った。

「僕は名前を名乗るほどの者じゃないですから」
 男の人が言うと、警察官があからさまに不機嫌な顔をした。
「あー、そういったことは困るんですよ。こっちの書類上ね、お名前聞いておかないと後がめんどくさくて」
 そういうことなら、と言って男は「ナナセ ケイイチ」と名乗った。
 警察官が机の上の紙になにか書いた後、千花に向き直る。
「こちらのナナセさんが助けてくれなかったら、今頃おばあちゃんは事故に巻き込まれててもおかしくなかったんだよ」
「はい。すみません」
「まったく。ご両親は何してんの?」
「出張で海外にいるんです」
「そうかぁ……まぁ、君ももう子供じゃないんだからしっかりしてよ」
 千花は、すみませんと言って再び頭を下げた。
 ほのかに瑞々しいスミレの香りがして千花が顔を上げると、ナナセさんはいつの間にか千花の横を通り過ぎて交番を出るところだった。
 あ、まだおばあちゃんのお礼を言ってない。
 あわてて後を追う千花を、警察官が呼び止める。
「山吹さん。先に、ここに住所と名前と連絡先を書いてください。外にいる時は、今度こそちゃんとおばちゃんと手を繋いではぐれないように。何か起きたって警察は責任とれなんだからね。こっちだって暇じゃないんだよ」
 
 千花が諸々の手続きを終えて交番を出る頃には、さらに夜が更けていた。
 千花の左手は、しっかりとおばあちゃんの手を握っている。
 辺りを見渡してみても当然、さっきの男の人の姿はなかった。
「見てごらん。星が……瞬いているよ」
 交番に居たときからずっと黙っていたおばあちゃんが口をひらく。
 か細い人差し指で空をさすおばあちゃんは、無邪気な子どもみたいに目をキラキラさせていた。
 その姿は、しつけが厳しかった頃のおばあちゃんとはまるで別人で、千花の胸に冷たい切なさが広がる。
 千花も夜空を見上げて、隣りにいるおばあちゃんに問いかけてみた。
「ねぇ、おばあちゃん。もしおばあちゃんより先に、私が死んじゃったら、うちの家族はどうなっちゃうんだろう」
 おばあちゃんは答えてくれなかった。
「変なこと言ってごめん、お父さんとお母さんが帰ってくるまで私がしっかりしないと駄目だよね」
 自分に言い聞かせるように呟いて、千花は歩き出した。





 
 月曜日の朝。
 千花が学校に行くと、教室はいつもより騒がしかった。
 前の席の前山さんが「これヤバいよね」と言って、千花にスマホの画面を見せる。
 画面には、ネットニュースの記事とともに、モザイクがかかった千花の学校の画像が出ていた。
 すぐにチャイムの音がして、生徒たちがばらばらと席につく。
 教室に入ってきた副担任の福田(ふくだ)先生は、栗色のロングヘアをなびかせながら教卓につくと険しい表情で生徒たちを見渡した。 
 そして大きく息を吸う。
「週末、担任の高橋(たかはし)先生が逮捕されました。調べれば簡単にわかることだから隠さなけど、未成年売春の容疑。さらに、職務質問してきた警察官に暴力を振るって、公務執行妨害の現行犯逮捕です」
 ここで一度深呼吸をすると、福田先生は淡々と話を続けた。
「みなさんもショックでしょうけど、先生たちも裏切られた気分です。ですが私たちに立ち止まっている時間はありません。今日から新しい先生と一緒に、気持ちを切り替えて頑張りましょう!」
 福田先生が廊下にむかって手招きをする。
 すると、背の高い男の人が教室に入ってきた。
 生徒たちの視線が一斉に集まる。
 千花は思わず目を見開いた。その人は、昨日交番で会った人にそっくりだった。ただ今日は、昨日かけていなかった眼鏡をかけているうえにスーツを着ているせいか、昨日よりも紳士的な雰囲気をしている。昼間の教室でみても、やはり髪は茶色みがかっていて、肌は白い。

「おはようございます。七星圭一と申します、本日より3年1組の担任になりました。出身は北海道、趣味は実験。担当科目は理科です。よろしくお願いします」
 七星先生は一礼して、黒板に『七星 圭一』と書いた。
 福田先生が拍手をして、生徒たちもそれに続く。
「七星先生、よろしくお願いしますね。私も産休に入るまで、できるだけサポートしますので。それでは、保護者会の準備があるので私はここで失礼します」
 そう言い残して、福田先生は教室を出て行った。

「先生、質問いいですか?」
「いいですよ、海野(うみの)くん」
 サッカー部の海野が、挑発的に身を乗り出す。

「高橋先生の事件、SNSで大炎上してるんですよ。あの人が手を出したのって、ボランティアで出入りしてた施設の中学生らしいじゃないですか。あれが本当だったらエグいっすけど、実際どうなんすか?」
 教室のあちこちでキモいとか酷いとか、生徒たちのざわめきが起こる。
 そんなことを七星先生に聞いたって仕方がないのに……千花は七星先生を気の毒に思った。
 それに、SNSで炎上させているのは、たぶん海野だ。千花は海野に関して、嫌な噂を聞いたことがある。
 それは、怪我をきっかけにサッカー部のレギュラーを外された海野が、SNSの裏アカで校内のゴシップを面白おかしく投稿し、ストレスを発散しているという噂だった。誰と誰が付き合ってるとか、真面目そうな生徒が万引きしようとしていたとか、教師が不倫しているかもしれないとか……千花が目を通した限りは、どれも根拠が乏しく拡散力もなさそうだった。
 だけど、高橋先生の事件がきっかけで、今ごろ海野の投稿がバズっているかもしれない。海野のテキトーな投稿は、今では「犯罪教師が受け持っていた生徒の証言」になってしまっている。
 そんな海野に対して、七星先生は涼しい顔でにっこりと微笑んだ。

「事件の件は調査中で、福田先生が話した以上のことは説明できません。それに、調査が終了したところで、部外者の僕や君たちに改めて説明があるかどうかは不明です」
 それを聞いた雪村(ゆきむら)が、勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待ってください! 僕らの受験はどうなるんですか!」
「君は学級委員長の雪村くんですね。話は聞いています、雪村くんは留学希望だとか……。このクラスのみなさんには内申点で色をつけますから先生に任せてください」
「色って、なんですか?」
「一言でいうと、点数の上乗せです」
 雪村の顔が、みるみる赤く染まる。
「え。それってズルじゃないですか! 依怙贔屓(えこひいき)なんて、まるで公平じゃない」
「依怙贔屓で良いじゃないですか。君が得をするんですよ」
「いや、そんな汚いことをして高校に合格しても、胸を張って進学できません。僕は納得できないです。みんなもそうだろ?」
 千花は雪村から目を逸らした。みんな黙っている。
「雪村くんは正義感が強いんですね。将来は、その正義感で自分の首を縛るタイプだ」
 七星先生が笑顔のまま言い放ったから、千花は耳を疑った。
 雪村も、立ったまま呆気に取られている。
 そのときホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴って、七星先生は黒板に書いた名前を手早く消した。
「一時間目は、数学です。それではみなさん、今日もはりきって行きましょう!」
 パンパンと二回手を叩いて、七星先生は笑顔を浮かべたまま生徒たちを見渡した。
「ねぇ七星先生、その派手なカラーの髪は教師としてどうなんですか? それがオッケーならウチも染めたいんですけど」
 教卓を離れてドアに向かう七星先生に、一軍女子の小泉が声をかける。
 七星先生は振り返って、左手で前髪をかきあげた。七星先生のが、自然光を浴びてきらきらと薄茶色に輝く。
「これは地毛です。肌の白さも、瞳の色も……生まれつき、かなり色素が薄い体質なんですよ、僕」
 では、と言って、軽く髪を整えると、七星先生は教室のドアを開けて出ていった。

 




「なんかさ、七星先生ってちょっと変わってるよね。何考えてるかわかんない感じが気味悪いわ。千花ちゃんはどう思う?」
 同じ飼育委員の安堂(あんどう)ムツミが、ウサギの餌箱にキャベツを補充しながら話しかけてきた。
 今日は理科の授業がなくて、授業終わりのホームルームも福田先生の仕切りであっさり終わった。
 放課後の中庭は、夕日のオレンジに染まっている。 
「どうって言われても、まだわかんないよ。高橋先生だってよく言えば熱血系だったけどヒステリックなところが嫌だったし」
 そう答えて、千花は白いウサギを抱きあげる。
 千花がウサギの頭をそっと撫でると、ウサギは千花を見つめて鼻先をひくひく動かした。
「私には、可愛いウサギたちがいてくれたらそれでいい。ウサギのために学校来てるようなもんだもん」
「いいなぁ、天然で勉強できる人は。受験戦争で悩んだりしないんでしょ」
「え? うちの生徒は、ほとんどがエスカレーターで**高校行くじゃん」
「同じ高校でも、入試の点数でクラス分けされんの。ハイレベルな大学目指すなら、高校入学の段階で特進クラスに入らないとアウト。だから結局、みんな必死なんだよ」
「ふぅん。よっぽど変な問題起こさない限り私たちは安泰なはずなのに、変なの」
 ウサギを膝に乗せて千花がベンチに座ると、作業の手をとめて、ムツミも隣に腰を下ろした。
「あぁ、なんだっけ。何年か前に、合格取り消しになった、月山先輩がいたね」
「うん、最低だよ。月山。昼休みに隠れてタバコ吸ってて、バレそうになったからって火がついたままの吸い殻をウサギ小屋に投げ入れてさ。そのせいでウサギ小屋が燃えちゃって、生まれたばかりの子ウサギが4羽も犠牲になった……合格取り消しなんて超甘いよ。だって普通に考えたら警察案件の犯罪じゃない?」
 同意するようにムツミが大きく頷く。おばあちゃんが徘徊しなければ、あと少しで、忍ばせたナイフを突きつけ、月山に蹴りを付けられたのに、と千花はそう思いながら、ムツミとの話を続けた。

「ほらここ。ミミの背中の傷は、火事のとき子ウサギを庇ってできた火傷の痕だよ。ホント、許せないよね」
 膝からおろすと、ミミは元気そうに芝生を走り仲間たちの群れに加わった。
 そんなウサギたちを、千花とムツミが並んで眺める。
「この学校に来なければ、ミミは辛い思いしないですんだ。だいたい、この子達にとってウチの中庭は狭すぎるんだよ。近所の小学校が統合で、廃校することになったからって、大人たちが簡単に引き取ってさ、無責任すぎる」
「確かにね、だけどこの子達はもう野生で生きられないから、癒しパワーをもらってる私たちがお世話でお返しするしかない」
 ムツミがベンチを立って、箒を手にとる。飼育小屋にむかうムツミの背中が眩しくて、千花は目を細めた。

「うん。だけどこの気持ちだって、私たちのエゴなんだと思う」
 ムツミが振り返って一瞬、千花を睨む。そして、ため息をついて千花に歩み寄り、千花に右手を差し出した。
「千花ちゃんは考えすぎだよ。そんなに色々考えて、疲れない?」
 あ、これは「その話つまんないから、もういいよ」って意味だ。
 千花は俯いてゴクリと唾をのんだあと、顔を上げてムツミの右手に手を伸ばした。
 千花の手がムツミに届く前に、今度は千花の腕をムツミが掴んでぐんとひっぱる。
 驚いた千花が「わぁ!」とあげた声で、ウサギたちが一斉に穴を掘り始めた。



 部活に行くムツミと別れて、一人で玄関に向かう廊下を歩いていると、反対側から七星先生が歩いてくるのが見えた。
 本来なら、千花から駆け寄って昨日のお礼を言うべきなのかもしれない。だけど、千花は学校でおばあちゃんの話をしたくなかった。しかも、たくさんの生徒や先生が行き交う廊下で、家族の話を誰かに聞かれるのは絶対に嫌だ。
 すると七星先生の方から、千花に声をかけてきた。
「山吹さん、ついて来てください」
 
 2階の角にある理科準備室に、千花は初めて足を踏み入れた。収納から溢れている書類や薬品や実験器具などが雑多に散らかる部屋は、倉庫なのか書斎なのかよく分からないけど、クーラーが効いていて涼しい。
 七星先生に促されて、千花は柔らかいクッションの椅子に座った。
 七星先生の方は、木箱を立てて、そこに腰を下ろしている。部屋の壁際には、七星先生が椅子がわりにしている箱と同じものがいくつも積み重なっていた。
 
 七星先生は、実験で使うアルコールランプに火をつけて台にセットすると、千花に向き直った。
 ランプの台の上には、水が入ったビーカーが準備してある。
「コーヒー、緑茶、ハーブティー、どれにしますか?」
 洗い場の横に、コーヒーミルや急須が置いてあるのが見えた。
「いらないです。私、早く帰らないといけないので」
「そうですね、では単刀直入に聞きます」
 千花は、膝に乗せている両手を強く握った。

「山吹さんは、おばあさんと二人暮らしですか?」
「いいえ」
「そうですよね。家庭状況表を見たら、お父さんとお母さん、妹さんもいるはずです」
 七星先生がそう言ったあと、別にいけないことを聞かれているわけではないのに、なぜか千花は後ろめたさを感じて、黙ってしまった。

「お父さんとお母さんは、共働きですね?」
「……はい。今、二人とも海外出張に行ってます」
「わかりました。正直に答えてくれてありがとう。正直に言うと、山吹さんの今の状況は、厚生労働省が規定したヤングケアラーに当たると思ったのです」
「ち、違います! うちは普通の家庭です!」
 大声を出してしまったことに自分自身でも驚きながら、千花は椅子を立った。
 足元に置いていたリュックを掴んで、急いで出口に向かう。

「待ってください、山吹さん。こんな話があります」
 千花は足を止めて、七星先生を振り返った。

「渡り鳥の白鳥は、地図もないのに遠い距離を道に迷うことなく行き来する習性があります。彼らは、太陽の位置や、星座の位置、地球の磁場を道標にして飛行しているんです。僕はね、人間にも、白鳥と同じような能力があるんじゃないかと考えているんです」
 真面目な表情で話す七星先生の側で、ビーカーのお湯が沸騰しはじめた。
 
 千花は、何も言わずに走って理科準備室を出て、後ろ手にドアを閉めた。
 自分を落ち着かせるように、大きく息をはいたあと、誰もいない廊下を歩く。
 理科室の前の廊下には大きな棚があり、立派な鉱物標本が展示してある。
 水晶(すいしょう)翡翠(ひすい)蛍石(フローライト)瑪瑙(めのう)柘榴石(ガーネット)蒼玉(サファイヤ)……と、手のひらサイズの宝石鉱物が几帳面に並んでいる。
 廊下を歩きながら、千花はふと、見慣れないものがあることに気づいた。

 千花のちょうど目線の高さ、上から二段目の棚に、幾つものフラスコが置いてある。フラスコの中には、小ぶりの草花が入っていてプランターとして使っているようだ。

 千花は棚に近づいた。
 手前のフラスコに目を凝らすと、クローバーのように丸い深緑の葉が重なり合っているのが見えた。
 自己紹介の時に、七星先生が「趣味は実験」と言っていたのを、千花は思い出した。
 七星先生の優しく見える笑顔の裏には、危険な本性が隠れているかもしれない。
 千花は、ものすごく嫌な予感がした。
 卒業まであと半年、なるべく七星先生と関わらないようにしよう。
 そう胸に誓って、嫌な予感を振り払うように、千花は走り出した。
 


⚪︎


「あいつ、訳ありで一年も休んでたんだって」
「なにそれ、全然説明なかったじゃん」
 海野の取りまきの吉沢(よしざわ)が、すかさず返す。
「ヤバいこと隠してるから説明なんてできないんだろ。俺、またとんでもない爆弾ネタつかんじゃったわ」
 海野がわざとらしく言うと、席についている千花の横を通って、和泉が男子のグループに駆け寄った。
「なになに? 絶対言わないから、私にも教えてよ、海野」
 すると、男子グループの笑い声がいっそう大きくなった。
 朝からずっと、教室の後ろの方で海野たちがやけに大きな声で話している。
 海野たちの騒ぎを聞きながら、千花はホームルーム前の時間を使って昨日やり残した宿題に取り組んでいた。
 家のことをやって、おばあちゃんの様子も見ていたら一日があっという間に終わってしまう。途切れ途切れの勉強時間では、勉強に集中することができなくて宿題も手につかなかった。
 こんな事でさえ、自分のペースを乱されていく息苦しさを、千花はこの半年ずっと感じている。

 チャイムが鳴って、七星先生が教室に入ってきた。
「先生、質問でーす!」
「海野くん。まだ挨拶もしていませんよ」
「挨拶よりも、もっと、めちゃくちゃ重要な事です」
 挑発的な海野に、七星先生は涼しい微笑みを向ける。

「ほぉ、なんですか」
「先生って、ここに来る前、一年間休んでたんですよね?」
 一瞬間、沈黙が流れた。
 そのあとすぐに、七星先生は出席簿を開いて視線を手元に落とした。
「そんな事ですか、大したことじゃないですね。それではホームルームを初めます」
「あ、はぐらかすんだ。どうなっても知らないよ、七星先生」
 海野が、意味ありげに七星先生を睨みつける。
 千花は、何が起きているのか理解できないまま、海野と七星先生を交互に見た。
「出欠をとります。はい、阿部くん。井上さん……」
 それから七星先生は何事もなかったように、いつも通り出欠をとりはじめた。
 
 


 ⚪︎


 家に帰ると、またおばあちゃんがいなかった。
 千花は慌ててリュックを置くと、妹の千早にあてて、走り書きのメモを残して再び外に飛び出した。
 外はもう、日が傾きかけている。

 そういえば……。
 千花は河川敷にむかうことにした。こないだ、交番で保護されたときも、確か河川敷におばあちゃんがいたと、お巡りさんが言っていた。もしかしたら、河川敷になにかあるのかもしれない。
 千花はふと、七星先生が話していた白鳥のことを思い出した。
『人間にも、白鳥と同じような能力があるんじゃないかと考えているんです』

「おばあちゃんも同じような感じかな。もしかして」
 誰にも聞こえないくらい小さい声で、千花は思ったことをそのまま独り言にしてみた。



 夕方の河川敷は9月の焼けるような夕日に包まれていた。
 時折、夏の名残のぬるい風が吹くと、それに合わせて、河川敷の芝はサラサラと揺れた。河川敷の歩道を小走りで走っていると、何人かのジョギングしている人とすれ違った。千花は走りながら、いつもみる大きな川と、その大きな川をまたぐ、大橋をぼんやりと見て、どうして、私がこんなことしなくちゃいけないんだろうって思った。

 少しして、河川敷の芝に座っているおばあちゃんが見えた。そして、おばあちゃんの隣には、スーツ姿の人がいた。
 誰かと話していて、また、誰かに迷惑かけているんだ。まったくもう。と千花はうんざりした気持ちになった。 

「おばあちゃん!」
 千花は大きな声で呼んびながら、走るスピードを早めて、おばあちゃんの方へ駆け寄った。
 すると、スーツの人がおばあちゃんより先に私の方に振り向いた。スーツ姿の人は、七星先生だった。

「え、七星先生」
「山吹さん、やはり来てくれましたね。これが白鳥ってことです」
 七星先生は、最初からおばあちゃんのことがわかっていたように言ったので、千花は、はっとした。

「七星先生、白鳥ってそういう意味だったんですね?」
「そうです。山吹さんのおばあさんは、ただ闇雲に歩いていた訳ではありません。ちゃんと迷わずに来ていたんですよ。おばあさんにとって、特別な場所に。ですよね? 山吹ハナノさん」
 そう言って、七星先生は、おばあちゃんに語りかけた。

「星が瞬いて、本当に綺麗だねぇ。トシさん、まだ来ないのよ。一緒に星を見ようって言っていたのに……」
「人を待たせる人のほうが、洒落た人ですから」
「そうなのよ。トシさんは、いつも私のことを待たせるの」
 ははは、と七星先生が笑うと、おばあちゃんも一緒になって笑った。千花はそんな二人の姿を見て、一気に肩の力が抜けてしまった。

「おばあちゃん、帰るよ。おじいちゃんは、もう来ないんだから。それにまだ夕方で星なんか見えないよ」
「山吹さん、ハナノさんは今、心の目で星を捉えているのです」
「はあ……」
 千花は七星先生が何を言いたいのか、わからなかった。

「つまり、私が言いたいのは現実の目に映ること、すべてが真実という訳ではないということです」
「――先生、どうしておばあちゃんがここにいるってわかったんですか?」
「前に交番に連れて行ったときも、同じ場所でハナノさんが星を眺めていたからですよ。今日、私は歯医者にいくために学校を早退しましたが、そんなこと、どうでもよくなりました。だからこうして、ハナノさんと話をしていたんです。まさか、山吹さんが来るとは思っていませんでしたが。さて、一緒にご自宅にお送りしますね。ハナノさん、星、綺麗でしたね。帰りましょうか」
「はい! 帰りましょう、帰りましょう」
 おばあちゃんは七星先生に促される形ですぐに立ち上がり、七星先生を置いて、家の方へ歩き始めた。


 
 おばあちゃんと七星先生、千花の三人で家まで戻った。
 そして、おばあちゃんを家に入れたあと、七星先生から「ちょっと近くでお話しましょう。山吹さんのおばあさん、家に居る分なら安心でしょうし」と言われて、千花と先生は近くの公園まで、移動し、公園のベンチに腰を下ろした。

「山吹さん。高橋先生か福田先生に、ご家庭のこと相談しましたか」
「前に、高橋先生に一度だけ。そしたら、君の家は富裕層だから自分で解決しなさいって言われました。世の中には君より先に助けないといけいない学生がたくさんいるんだ、とか言われて……。私、自分が恥ずかしくなっちゃって、それから誰にも相談できなくなりました」
「ひどい。ベテランにもなって、そんな世間知らずだから足元を掬われるんだ」
 七星先生がぼそっと言った。
「え?」
 千花が思わず聞き返すと、七星先生は千花に微笑みかけた。
「山吹さんの、これからの話をしましょう。ご両親はいつまで海外に?」
「ちょうど1週間後に帰ってきます」
 千花の返事に頷くと、七星先生は鞄から名刺を出して千花にくれた。
「わかりました。では、何かあれば、すぐに連絡してください。裏に電話番号が書いてありますので。ご両親には学校を通してきつく言っておきます。本来なら児相に通報してもいいくらいなんですけど……今後また同じような状況にならないようにするので、先生に任せてください」

 七星先生は玄関の前まで千花を送り、「また明日、学校で」と言って笑顔で去っていった。




⚪︎
 

 教室に入ると、いつも以上にザワザワとしていた。
 教室の後ろで、一軍も二軍も関係なく集まっている。
 人だかりの中心は、今日も海野だ。
 どうせまた、誰かのあら探しをしているんだろう。本当に暇そうで、むしろ羨ましいくらい。
 そんなことを思いながら、千花は宿題を進める。
  
 チャイムが鳴って、七星先生と、副担任の福田先生が入ってきた。
「殺人教師が入ってきたぞ!」
 おどけた声で海野が言うと、福田先生は舌打ちした。
 教室は、朝から最悪な空気になっている。
 え、なにがあったの……?
 千花が教室の後ろを見ると、ホームルーム開始の時間を過ぎているのに、半分以上の生徒がまだ海野を中心に集まっていた。
 今まで、こんな光景を千花は見たことがない。

「あなたたち、さっさと席に座りなさい! 怒るわよ!」
 福田先生が怒鳴って、出席簿を教卓に叩きつけた。
 福田先生の剣幕でようやく生徒たちが席についてゆく。

「うちの教師、また炎上しちゃいましたね!」
「海野くん! あとでちゃんと説教してあげるから、黙ってなさい!」
 福田先生は、すごい形相で海野を怒鳴りつけた。
 朝からずっとニヤついていた海野の顔が引きつっている。
「うっわ、あれパワハラじゃん。うぜぇな、次のターゲットは福田にするか……」
「ねぇ海野くん、あの七星先生の情報って本当なの?」
 雪村が怯えるように海野に聞くと、海野は「うるせぇよ、ガリ勉」と一括して、考え事をするように腕を組んで黙り込んだ。
 もしかして、七星先生が誰かの炎上に巻き込まれているの?

 七星先生が福田先生に歩み寄った。
「福田先生、大丈夫です。僕の口から全部、説明します」
「だけど、七星先生。あんまりです」
 福田先生はしゅんとした声で言って、七星先生の後ろに下がった。

 七星先生が、殺人教師……? あり得ない。
 千花の心臓がばくばくしはじめる。

「それでは、場所を変えましょう。理科室で、真実の全てを説明します。移動してください」
「え、なんでだよ」と何人かの生徒が言ったあと、また教室がざわつきだした。
 海野がなぜか高笑いをしていて、千花はそんな海野のことを嫌悪した。







 千花が理科室に入ると、理科室の中はいつもと違って不思議な雰囲気に包まれていた。
 教室は黒いカーテンで締め切られていて、まるで光の屈折の観察実験をしたときのようだった。

 薄暗い教室で、雑貨屋さんに並んでいるようなランプが各作業台に置いてある。
 教室のあちこちに、幾つものフラスコが置いてあり、フラスコの中では小さな草花が茂っていた。
 いつも無機質に感じていた理科室は、今は実験室と植物園が混在して幻想的な空間になっている。
 千花は椅子に座って、じっくりと教室を見渡した。

 おとぎ話の世界に迷い込んだような不思議な気持ちになる。
 ここは学校なのに、制服姿の自分たちの方がなんだか場違いに感じた。
「なんだろう、いい匂いがする」
 誰かが呟いた。
 千花は目を閉じて深く息をする。
「……スミレの香り」
 教室の中に、スミレの香りが漂っている。
 それと……クラスメイトの話し声に混ざって、静かな雨音が微かに聞こえる。
 
「なんだよこれ、電気ついてないじゃん」
 教室に入ってきた海野の声で、千花は、はっとした。
 雪村が電気のスイッチを何度か押したあと、天井を見上げる。
「理科室中の蛍光灯が、抜き取られてる」
「はぁ? なんのために」
「さぁ、なんかの実験でしょ」
 チャイムが鳴って生徒たちが席につくと、すぐに七星先生が理科室に入ってきた。
 金縁眼鏡をかけて白衣を羽織っている七星先生は、理科室のメルヘンな世界観に馴染んでいた。

「皆さんがリラックスできるように、僕なりに環境を整えてみたのですが、いかがでしょうか」
「ランプの灯りだけじゃ暗すぎだし、そもそも、説明に必要なんですか?」
 七星先生の問いに、いち早く雪村が答えると「雪村くん、心配ご無用です。今日はノートも教科書も使いませんから」と、七星先生が返した。
 
「これから特別授業をします。確かに僕は殺人教師です」
 理科室中が息を飲んだような気がした。

「知っている人もいるかもしれませんが、海野くんのSNSアカウントで炎上している現状がある以上、おそらく、僕の授業は今日が最後です。つまり、皆さんの担任でいられるのも今日が最後。ですから、これから残りの時間を使って特別授業をします。僕からの、少し早い卒業の贈り物として受け取ってください」

 
 千花は両手を揃えて膝に乗せ、七星先生の話に真剣に耳を傾ける。
「我が国の義務教育は中学卒業までです。これから高校受験、そのあとは大学受験、そして就職試験、と、あなた達の頭の中には、なんとなくレールのようなものが見えているのかもしれません。ですが義務教育が終わる中学卒業をもって、あなたたちは自分の人生を自らの意思で選び、自分で責任を持たなければいけません。そのことを、しっかり胸に刻んでください」
「今更偉そうに言われても、全然響かないんすけど。それが、あんたの過去となにが関係あんの」
「海野くん、気が早いですね。君はSNSの毒におかされているようだ。山吹さん、コブラの毒は何時間で人間の身体を殺すと思いますか?」
 千花はまさか、自分に話が振られると思ってもみなかったから、急に心臓がどきんとした。あわせて、理科室にいるクラスメイト全員の視線を一気に感じ、急に顔が熱くなった。

「その人の体重によるかと……」
「うん、やっぱり面白い回答をしてくれましたね。それは確かに正解です。つまり、コブラに噛まれて何時間かすると毒で人は死にます。しかし、その状況によっては、時間に差があったりして、その後の生死をわけるということです。ありがとう、山吹さん」
 千花はようやく、クラスメイトからの視線から開放されて、ほっとした。そして、こんなへんてこりんな回答でよかったのだろうかと、少しだけ後悔した。

「2年前、僕のクラスで殺人事件が起こりました。それは朝のホームルームが終わった直後のことです。生徒が生徒を刺殺しました。いじめの復讐です。僕は担任として、感知することができなったのです。――教師失格だ」
 理科室中がざわめいた。

「あの事件、七星先生のクラスだったんだ」
「衝撃なんだけど」
「やばっ、鳥肌たった」
「ずっとニュースでやってたよね。あの事件」
「ってことは、先生は殺してないってこと……?」
「だったら、海野が投稿した内容と違うじゃん」
 ざわめきの結論が、一気に海野に向くのを千花は感じた。確かに、先生はなにも悪いことをしていないし、おばあちゃんのことも助けてくれて、そして、私自身のことも助けてくれようとした。七星先生が犯罪に手を染めるわけがないと、千花は思った。

「俺が暴かなかったら、みんなあのニュースのことなんて忘れてただろ? 事件があったクラスの担任は間違いなく七星だった。確かに話は盛ったけど、それの何が悪いんだよ! だいたい、惹きの強いこと書かないと、誰も俺の投稿みないじゃん! だから、ゲスい噂にしか食いつかない野次馬のお前らが悪いんだ!」 
 理科室は急に静かになった。少し前に、七星先生が海野に追い詰められたときと、形勢が逆転している。
「ダサいよ海野。ついでに、高橋先生が売春してたとかいうのも、あれもデマなんじゃないの? そのへんも合わせて、ちゃんと謝ってよ」
 和泉が「あーやまれー」とコールをし始めて、みんながそれに続いた。謝れコールが10回くらい繰り返される間、海野はずっと黙って下を向いていた。
「やめさい」
 七星先生が静かに言うと、不思議とコールは鳴り止んだ。

「スミレは、花壇に植えてはいけない花だと言われています」
 ふいに、七星先生がフラスコの一つを手に取って話し始めた。
「特にツタスミレ。ツタスミレは名前の通り(つた)のように地を這うように枝を伸ばして育ち、あっと間に増殖する。おまけに日陰でも、まめに水やりをしなくても、たくましく育って、毎年、可憐な花を咲かせるんです。ただし、それと引き換えに、まわりの植物は栄養分をスミレに吸い取られて、場所も占領されてしまう。しかも、スミレは根を抜いても、無数の細かい種が、土にまぎれやすい。そして、その種がまた新しい根を生やすんです。言葉も同じですよね。強い言葉の影響力で、その周辺が荒れ地になってしまうことがある。いじめも炎上も、同じです。そして、殺人も……」
「意味わかんねぇよ」
 さっきまで黙っていた海野が席を立って、理科室の中央まで移動した。

「いじめは、いじめ。殺人は殺人だ。じゃあ、先生。弱者がどうして、弱者なのかを教えて下さい。集団いじめを受けたばかりで、バカな俺に、わかりやすいように教えて下さいよ」
 海野がそう言い終わるのと、合わせて、七星先生はフラスコを台に置き、海野の向かって歩き始めた。薄暗い理科室のなかで、七星先生が胸ポケットに右手を入れていることに、千花は気付いた。あっという間に、七星先生は海野の前にたどり着いた。

「海野くん。それは、たくましさを人生のなかで重視しているかどうかの違いだと思います」
「へえ、たくましさね」
 海野がそう言った直後、理科室のドアがガラガラと音を立てて開いた。

「え、高橋先生……。どうして」
 福田先生がか弱い声でそう言った。びしょ濡れの高橋先生はなにも言わずに、理科室の中をゆっくりと歩き始めた。歩くたびに、濡れた靴がきゅっと音を立てる。一歩ずつ、一歩ずつ、きゅっと音を立てる。
 七星先生も、海野も、そして、理科室にいる全員が雨に濡れ、びしょ濡れの高橋先生を見ている。

「売春先生じゃん。きっも」
 海野はそう言って、笑った。その瞬間、高橋先生は走り出した。きゅっと張り詰めた音が何度も聞こえる。
 そして、高橋先生はあっという間に海野に飛びかかろうとした。

「やめてください!」
 七星先生は海野に飛びかかり、海野にかぶさる形になった。だけど、高橋先生は走るのをやめず、そのまま、その二人にぶつかった。

 三人が、それぞれ床に倒れ込んだあと、理科室はまた静かになった。
 そして、千花は気がついた。七星先生の横腹が赤くなり始めていたことに。




◇エピローグ 
 

 千花は、病室のドアをそっと開けた。病室は個室で消毒のツンとした匂いがした。

「先生、起きてますか」
「山吹さんか」
 七星先生はベッドに横になったまま、弱々しく微笑んで返事をした。

「お家は大丈夫ですか?」
「――お父さんとお母さん、ようやっと帰ってきました。あと、復讐もやめました」
「……それはよかったです」
 復讐はお父さん、お母さんにではない。これは過去にウサギを傷つけた月山を殺そうと思っていたことだ。だけど、それが不毛なことって気づかせてくれたのは、七星先生だった。だから、千花は、ウサギの復讐には触れず、わざと、お父さん、お母さんを根に持っていることにして、言葉の意味をそっと含ませた。

「私のことなんかより、先生の身体が大事です。まだ、痛みますよね」
 千花はそう言うと、七星先生は、千花のことを茶化すように、自分の左脇腹をさすった。

「確かに痛むよ。人生って、奇妙なものだ」
「まさか、高橋先生が海野くんに殺意を向けるなんて思いませんでした」
「僕もだよ。だから、人生は面白い。そうだ、そのうち、学校の花壇も色とりどりになるでしょう」
「えっ?」
「卒業する頃にはわかるさ。僕はまた、休職だろうけどね」
「はぁ」
 千花はなんのことを言っているのか、わからず、とりあえず、相槌だけ打つことにした。雲が切れたのか、急に病室の窓から、光が射し込み、七星先生が光の中に入った。

「もし、高橋先生が来なかったら、僕が海野くんのことを殺していたかもしれませんね」
 いつものように優しそうな、笑顔を浮かべて、七星先生はテーブルに置いてあった金縁眼鏡をゆっくりとかけた。
 千花は思わず、七星先生から視線を逸らし、壁かけのラックにかかったジャケットの右側を凝視した。







 卒業の日。
 花壇が、深緑の丸い草にびっしり覆われていた。
 その草の合間から、小ぶりの白い花が咲き、花の中心に向かって花びらが紫色に色づいている。
 ツタスミレが満開になり、色とりどりになった花壇を、千花はスマホで写真を撮った。

 その花壇で、犠牲になった植物のことなんて、まったく思い出せない。
 そんなことを考えながら、千花は振り返り、校門の方へ歩き始めた。