【新聞記事①】
2018年6月1日(金曜日)
【近代の立志伝中の人 入院】
羽多江グループは、羽多江光児名誉会長(83)の入院を同グループのホームページ上で発表した。
日本有数の企業グループの創成者でありながら、宗教団体を設立し、活動家の顔を持つ羽多江氏。
人望が厚い氏に対し、全国から心配の声が寄せられている。
また、羽多江氏の後継者の選別、数十億円にものぼる遺産の行方は追って報じるとのこと。
【前書き】
こんにちは、筆者です。
今回、知人に紹介していただいた中葉さんという映像クリエイターの方の依頼で、このコンテストに参加することになりました。
中葉さんは、ある親子を探しています。
その親子とは縁戚関係になく、親子共々成人しているので、警察は協力的ではないそうです。
中葉さんはこのコンテストのことを知り、作品という形で情報提供を呼びかければ、その親子の手がかりをつかめるかもしれないと考えました。
また、探している親子は、行方をくらますまでの経緯が非常に特殊でした。
そして近年、中葉さんが改めて調べたところ、失踪当時には見過ごしていた事実が判明しました。
中葉さんは現在、その親子の安否を案じています。
次ページより、2018年に撮影された、あるテレビ番組のお蔵入り企画の詳細、それに関する資料を提示します。
なお、中葉さんによって関係者各所の許可は取得済みであること、
個人情報保護の観点から、一部の人物は仮名であることをあらかじめご了承ください。
【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ①】
以下に記すのは、『整うバラエティ 再生P!』の未放送テープを書き起こしたもの――筆者がそのテープを視聴して、小説形式に仕立てたものである。
個人の深い感情や思想、背景などはなるべく省き、ただ事実だけをフラットに書いていくつもりだ。
依頼者の中葉さんは語る。
「よく思い返せば、あの家は最初からおかしかった」
どこがおかしいのか、みなさまにも考えていただきたい。
*
2018年6月8日(金曜日)
梅雨の合間の、蒸し暑い曇天の日だった。
***市のとある住宅街で、あるテレビ番組の撮影が行われた。
『整うバラエティ 再生P!』
2020年末まで、***市北部にのみ放送された番組だ。
いわゆる『整理整頓・清掃』を扱った番組で、散らかった家に悩む家族を募集し、番組スタッフが手を貸して、家そして家族が抱える問題を解決する――という趣旨だった。
ちなみに『P』はプロジェクトのPである。
視聴率は安定していたが、コロナ禍によって取材ができなくなり、新しいものが作れず、ひっそりと終了した。
「――はい、ここが今回の依頼者、九重さんの御宅です。本日が初現場の中葉くん、どうですかー?」
ワゴン車内で、ハンディカメラが中葉さんに向けられる。
撮影しているのは、ディレクターとインタビュアーを兼任している前島さん(仮名)だ。
メインカメラとは別に小さめのカメラを手持ちし、依頼者の生の声を聞き取る。
前島さんは小さな映像制作会社の社長で、初期から『再生P!』の制作を手掛けている。
そして中葉さんは、その前島さんの会社に就職したばかりだった。
「きゃあ!」
突如、狭い車内で女性の悲鳴が響いた。
後ろの座席を振り返ると、先輩ADの後藤さん(仮名)が顔を覆っている。
「蜂、でっかい蜂が窓にひっついている! 隙間から入ってこようとしてる!」
前島さんが窓をすばやく閉めた。後藤さんがホッとして礼を述べた。
「後藤の虫嫌いは、相変わらずひどいな」
「仕方ないじゃん。苦手なものは苦手なんだから」
ひとつ結びにした金髪をいじりながら、後藤さんはブツブツ答えた。
このとき、中葉さんは内心(大丈夫だろうか……)と思ったと言う。
車を降りて、ある家の前に立った。
築三十年、木造二階建て。
荒れ果てた小さな庭には車輪のない自転車が倒れ、郵便ポストは錆びつき、格子が入ったガラス戸は手垢と雨埃で薄汚れていた。
事前に中葉さんが見せられた資料写真によると、この家は大量の必需品、不用品、廃棄物が混在する『なかなかの大物』らしい。
ピンポーン
番組のオープニングを撮り終えた後藤さんが、玄関チャイムを鳴らした。
その後ろには中葉さん。アルバイトの雑用係・上町さん(仮名)、下村さん(仮名)。殿で前島さんがカメラを回している。
映像には映っていないが、メインカメラマンや音響係、照明係、アシスタントなど、他に数名のスタッフもいたそうだ。
引き戸が軋んだ音を立てて、開いた。
中から、小型犬を抱いた40代後半の女性が出てきた。
「あ、初めまして……!」
手入れの行き届いていない髪に、毛玉だらけの黒いセーター。擦り切れた黒いジーンズ、ポケットに穴が空いているエプロン。
怪我をしているのか、左手の薬指全体に包帯を巻いている。
依頼者の家主、九重なつ子さん(47歳)だ。
夫と離別し、息子のかず彦さん(24歳)と娘のさち乃さん(18歳)と暮らしている。
「初めまして! 『整うバラエティ 再生P!』の特攻隊長、後藤です。今日は九重さんのおうちを片づけにきました!」
後藤さん番組用のキャラクターで挨拶する。
「どうかお力添えください……! わたし、家族を再生させたいです……!」
深々となつ子さんは頭を下げた。
その後ろから、緊張した面持ちのさち乃さんが出てきた。
娘のさち乃さんは高校生。茶髪で健康的に日焼けした肌の少女だ。
カメラが、玄関すぐ隣にある部屋の窓を映す。
黄ばんだカーテンの隙間から、かず彦さんがスタッフ一行を覗き見していた。
かず彦さんは、中学を卒業して以来、家から一歩も外に出ていない。
いわゆるニートのひきこもりだった。
【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ②】
九重家の間取りを簡単に説明しよう。
まず玄関を入ると、すぐ左にかず彦さんの部屋だという和室がある。
廊下を進むと、右手に洗面所とトイレ。
そこを過ぎると、大きな窓がある茶の間に出る。
茶の間の向こうは台所で、勝手口がある。
最奥は浴室で、その隣には2階に続く階段がある。
2階はふた部屋。なつ子さん・さち乃さんの私室と納戸があった。
3人暮らしには十分な広さだが、物の量が3人暮らしのそれではなかった。
「あ、通りにくくてすみません……道、作りますね……!」
なつ子さんが、床にあるモノやゴミを慣れた調子で足でどかす。
「ど、どうぞ……! 汚いところですけど……!」
と、謙遜にならない謙遜を口にした。
玄関は、ふたつの大きな靴箱に占領されていた。
それでも仕舞いきれない靴が三和土に散乱していた。かず彦さんとさち乃さんが幼児期に履いていたであろう子供用の靴も混じっている。
狭い廊下には新聞紙とチラシと雑誌を紐で縛ったものが点在。しかし、紐がゆるいためまとめきれず、はみ出ている。
茶の間のちゃぶ台には食べ残した食事。当日のものだけでなく、明らかに数日前のものもある。
筆記用具と箸とフォークと耳かきが同じマグカップに入れられ、開封して少しだけ残ったふりかけの袋が散らばり、ごはん粒が床にこびりついていた。
ペットボトルを洗ってラベルを剥がし、あとは捨てるだけのはずのゴミ袋がいくつも転がっている。
食材の残骸がベッタリと付着するプラゴミも、ゆうに20袋はあった。
中葉さんは、真っ黒に腐ったバナナを踏んで転んでしまった。
安っぽいプラスチックの引き出しに積もったホコリを吸い、上町さんと下村さんが咳き込んだ。
犬用のゲージの上に濡れたバスタオルが置かれ、愛犬家だという前島さんが眉をひそめていた。
脱衣所は汚れ物と干したものと乾いたものが混在し、台所・浴室はカビとサビだらけで水垢でぬめっていた。
1階だけで、ゴミ箱は大小合わせて14個あった。
ゴミ屋敷の見本のような家。
それが中葉さんの最初の印象だった。
*
「こんなの、人間の住むところじゃないですよ。だから強硬手段をとって、母にも相談せずに番組に応募したんです」
きれいに染めた茶髪をかきあげ、さち乃さんは前島さんのインタビューにそう答えた。
着ている制服はクリーニングに出したばかりのようでピシッと整えられていた。
さち乃さんの背景で、中葉さんたちがゴミをひたすら捨てている。
後藤さんの指示のおかげで、足の踏み場や作業スペースができてきた。
「恥ずかしくて家に友達を呼べません。お風呂も洗濯機も汚いから、毎日近所の銭湯とコインランドリーに行ってます……え? そうです、あたしだけです。当然だよね、ママ?」
さち乃さんが、なつ子さんに尋ねた。というより同意を強要した。
なつ子さんは白プードルのピピちゃんを抱いて、スタッフと要るもの・要らないものの確認作業をしていた。
「うん、そうですね、さっちゃん……!」
エヘヘ、となつ子さんは笑った。
さち乃さんは気に食わなさそうに舌打ちした。
「まあ、ゴミ屋敷じゃなくても友達なんて呼べませんけど。……アイツがいるせいで」
さち乃さんが睨みつけた先は、兄のかず彦さんの部屋だった。
*
「かずくんと、さっちゃんには、申し訳ないなっていつも思っています……!」
エヘヘ、となつ子さんは恥じ入るように左手をほおに当てた。
薬指の怪我に障るのか、「痛た……」と洩らす。
ピピちゃんを抱っこしながらの作業なので、ひどくやりづらそうだ。黒い服も白い毛だらけである。
「わたしが夫に愛想を尽かされたせいで、片親になっちゃって……! 実家の両親も他界して、親戚もいないから頼れる人もいなくて……! なるべく不自由させないよう頑張ってきたんですけど……!」
なつ子さんは茶の間を見回した。
壁には一昨年のカレンダー、額縁入りの家族写真に遺影。兄妹が幼い頃に描いたお絵描き、大量のメモ、スーパーで配られるレシピなどが隙間を埋めるように貼られてある。
腰までの高さの本棚には、重要書類と保険や宗教の勧誘パンフレットが雑多に押し込まれていた。
「わたしがお片づけ苦手なせいで、迷惑ばかりかけちゃってま……」
「ママ! またお菓子こんなに買ってきたの!?」
なつ子さんの言葉をさち乃さんが遮った。
さち乃さんは大容量サイズのキャラメル袋を抱えて、母親になじった。
「このお菓子、あたし先週5袋買いに行かされたよ? なんでまた買ってくるのよ! いらないでしょ!」
「それ、かずくんが好きだから……!」
「またお兄ちゃん? もういい加減にしてよ!」
「ごめんなさい、さっちゃん。すみません……!」
番組スタッフがいるにも関わらず、怒りと苛立ちを露わにするさち乃さん。
娘に対して敬語で謝るなつ子さん。
中葉さんは思わず彼女たちに目を向けたが、後藤さんに注意されて黙々と作業に戻った。
だがその後藤さんも、チラチラと親子のやりとりを気にしながら台所の下収納を掃除している。何年も前の天ぷら油がこぼれ、ギトギトとした汚れがひどかった。
「ワン!」
さち乃さんの勢いに怯えたのか、ピピちゃんが軽く吠えてなつ子さんの腕から逃げ出した。
前島さんの股下を通り、茶の間を出ていく。
「ピピちゃん! ダメよ!」
なつ子さんがあわてて立ち上がり、犬を追う。カメラも追いかける。
玄関すぐ傍の襖――かず彦さんの部屋――が空いていた。ピピちゃんがそこへ入り込もうとする。
「ダメぇえええええ!!」
なつ子さんは叫んで猛突進し、犬を抱き上げた。すばやく襖を閉める。
「ダメ! ダメよ! かずくんの部屋に入っちゃダメ!」
さっきまでの態度が嘘のような剣幕だった。
怒られたピピちゃんは「クゥン……」と鳴いて、おとなしくなった。
困惑したのか前島さんが、カメラを四方に動かす。中葉さんと後藤さんがやってきた。
――ドン!
中葉さんがギクリとするほどの、大きな物音。
かず彦さんの部屋からだ。彼が床を拳で叩いた音のようだ。
「あ……かずくん、ごめんなさい。騒がしくして……! ピピちゃんも近づかせてないから……!」
母親が謝る。
「……」
息子は何も答えない。
ややあって、なつ子さんが襖を軽くノックした。
「かずくん、入ってもいいですか? ……開けますよ……!」
襖を少し開けて、呼びかける。
「かずくん、……嫌だって言ってたけど、一緒にお片づけしませんか……! スタッフさんたちも協力してくださるって……!
お母さんもさっちゃんもいるから……ね……!」
息子は何も答えない。
「じゃ、じゃあ、お昼ごはん食べましょうか? 昨日のお肉、まだありますよ……!」
「……」
「お肉は嫌? そうですよね、かずくんいっぱい食べてましたけど、2日続くと脂っこすぎますよね……! 焼きそばと炊き込みごはんなら用意できますよ……!」
「……おかしいよ、それ」
ボソッと、かず彦さんが返事した。
「焼きそばと炊き込みごはんとかバランスおかしいよ栄養的にも食べ合わせ的にも」
抑揚のない早口だった。
マイクが、後藤さんの「えぇ……」と洩らす声を拾った。
すると、前島さんが前に出た。
「かず彦くん、こんにちは〜。『再生P!』の前島です、初めまして〜」
気安い態度で前島さんがかず彦さんに呼びかける。
「君のおうちを整えにきたんだ。少しでいいから、お話、聞かせてくれないかな?」
決して強要するような物言いではなかったが、かず彦さんは枕を投げつけてきた。
「キャッ!」
なつ子さんが驚いて後ずさる。
廊下に出た枕は長年使ったものらしく、ヨダレと皮脂でシミだらけだった。
中葉さんは「枕からカビの臭いもした」と語っている。
「……ほっておいて……」
絞り出すような声だった。
中葉さんは襖の隙間から、中を覗き込んだ。
かず彦さんががっくりと項垂れているのが見えた。
かず彦さんは痩躯で、枯れ木のような佇まいだったと中葉さんは語った。
【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ③】
同日夕方。
初日の撮影が終了し、前島さんがハンディカメラの電源を落とした。
埃だらけになった中葉さんたちが作業着のツナギを脱いだときだ。
中葉さんが九重家の庭先で、あるものを見つけた。
「これ、動物の死骸……?」
「ああ、こりゃあネズミだな。結構多いぞ。いち、に、さん、……うわ、あっちにもある」
雑草が鬱蒼と生えている庭のあちこちを、前島さんが指さす。
「猫にでもやられたのか? にしては多いな」
「ちょっとそんなの教えないでよ。ウジがわいてると思うだけでゾクゾクする」
後藤さんが逃げるように車に乗り込んだ。
【中葉さんとの会話①】
2024年秋。
市内の喫茶店にて、中葉さんと対面で打ち合わせをした。
事前に、撮影初日の出来事(テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ①〜③)を書き起こした原稿を送っていたので、出来栄えを聞いてみた。
――初日の出来事を書き起こしてみましたがいかがでしょうか?
「よく書けていると思います。ありがとうございます。あの日のこと、ありありと思い出せました」
――よかったです。
「なんでも注文してください……って言いたんですけど、実は今年はじめに所属していた事務所が倒産してしまって、正直に言いますと懐が厳しいんです。
個人で映像制作の仕事も受けているんですけど、映像クリエイターっていま多いでしょ。ほとんど依頼がなくて」
――お構いなく。
注文した飲み物が来る間、中葉さんはプリントアウトした原稿に目を通した。
真剣な表情で赤ペンでラインを引き、付箋を貼る。
ため息混じりに言った。
「改めて読むと……やっぱりこの家、おかしいですよね」
――それはそうですが……
――この類の、機能不全に陥っている家族は決して珍しくないですよ。
「……いや、そうじゃなくて」
中葉さんは、鋭い目つきで尋ねてきた。
「本当に、気づきませんか?」
何をですか、と聞いても答えてくれなかった。
未編集テープの映像がすべて書き起こしになってから話したい、と返された。
【妹の日記①】
6月8日(金曜日)
『再生P!』の人たちが来た。
タレントの人とか来るのかなとか期待したけど、フツーにスタッフだけだった。
アイドルのショウくんが来たらいいのに。
それであたしを連れ出してほしい。
この家から。
あたしを解放してほしい。
ママとお兄ちゃんから。
6月9日(土曜日)
『再生P!』の人たちはゴミだけ片づけていった。
人手ってちょーすごい。見る見るうちにトラック1台分のゴミが出ていった。
ペットボトルとかあとは捨てるだけなのに、どうしてゴミ捨て場に持っていかなかったんだろう。
ジブンでも不思議。
デカいゴミ袋見ていると、持っていく気がなくなるんだよね。
やる気ってゆーか、力がなくなる。
無力感ってゆーか、虚無っちゃう。
何をやっても無駄なんだ……って気持ちになる。
なんでこんなふうになるんだろ?
6月10日(日曜日)
わかった。
何をやっても無駄って気持ちになる理由。
お兄ちゃんが引きこもりになった頃、さんざんそんな思いをさせられたからだ。
お兄ちゃんに。あのゴミクソゴキブリ野郎に。
あたしもママも、なんとかしようとした。
中学校を卒業して、高校も入学する前に中退して、一階の和室にひきこもった。
原因は絶対に話さなかった。
どうにか事情だけでも話してほしいと、何回も頼んだ。
それが無理なら、せめて元気を出してほしいって思った。
「お兄ちゃんが大好きだから、またいっしょに遊びたい」って、あたしは頼んだのに。泣きながら。
ぜんぶ、無視された。
ぜんぶ。
ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ無駄だった。
あんなやつ、大嫌い。
あんなやつを甘やかすママも、大嫌い。
6月11日(月曜日)
過去のイヤな記憶のせいで、ぜんぜん眠れなかった。サイアク。
次の『再生P!』の撮影は15日だから、それまでにちょっとでも物を捨てて、減らさなきゃ。
でも、掃除するのはあたしばかりだ。
それどころかママは最近、ヘンに忙しそうだ。
あのおばさんと、よく電話してるし……
やけに焦った声で電話していた。今日も。
6月12日(火曜日)
ぜんぜん協力してくれないから、イラっとしてママの財布からお金を抜き取った。
今月のお風呂代とランドリー代、制服クリーニング代もサロン代ももうもらっているけど。
ムカついたから。
1万円とってやった。
あのお荷物のおやつ代よりよっぽどユウイギに使ってやる。
【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ④】
撮影2日目。
どんよりとした曇り。気温も高いようで、中葉さんたちは作業前から汗まみれだった。
この年のこの地域は全体的に空梅雨の傾向で、湿度が異様に高くて飲食物がすぐにダメになってしまったと、中葉さんは当時のことを話した。
2日目は、主に2階にある大型家具・収納を出していく。
合間にインタビューも挟まれた。
「これはパパの……あ、別れた夫のコレクションラックです……! 結構いい物なんですよ……っ!」
中葉さんたちが、二階の廊下を圧迫していたガラス張りのラックを搬出する。中に何も飾られておらず、空っぽだったのですぐに完了した。
数年分の埃が舞う中、納戸にあった脚の取れた椅子、天板が割れたテーブル、ゴムが破れた二輪用タイヤなどを運び出す。
さち乃さんの部屋にあったシールだらけのカラーボックスも処分することになった。
「よくお兄ちゃんとふたりで、シール貼って遊んでましたね、さっちゃん……!」
にこやかに話しかけるなつ子さんに、さち乃さんはプイッと顔を背けた。
1階から犬の激しい鳴き声。なつ子さんが階段を下りて、ピピちゃんのもとに向かった。
前島さんがさち乃さんに、「お母さんのこと、好きじゃない?」と尋ねた。
「……好きとか、嫌いとかじゃない……」
さち乃さんがうつむく。
「お兄さんのことは?」と前島さんが続ける。
「だいっきらい」
間髪入れずに妹は答えた。
しかしその目線は、キャラクターシールだらけのカラーボックスにまっすぐ注がれていた。
「なつ子さんの部屋はどうします?」
後藤さんが指示を仰いだ。
さち乃さんは「えーと」と思案しながら、ためらいなく母親の部屋のドアを開けた。後藤さんたちが軽く戸惑う気配が伝わった。
6畳ほどの洋室だ。
なつ子さんの私室は、他の部屋と打って変わって、物が極端に少なかった。
布団も収納にしまっており、小さなローテーブルと座椅子、一段カラーボックスくらいしかない。
壁の高い位置に棚が備えつけてあり、数冊の本とガラス製のオブジェが飾られている。
化粧品や、おそらく衣服も最低限しか持っていないのだと推察された。なつ子さんは1週間前と同じ服装だったし、化粧っ気もない。
中葉さんは、(子どもを優先しすぎて自分のことまで気が回らないんだろう……)と同情を覚えたという。
その後、2階に戻ってきたなつ子さんも自分の部屋は特に手を入れなくて良いと笑った。その後、鍵をかけた。
2階の清掃が完了し、一行はぞろぞろと階下へ下りていく。
中葉さんは、薬指の怪我が痛そうななつ子さんに代わってどんどん不用品を外に出した。
あとは、かず彦さんの部屋を残すばかりになった。
【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ⑤】
かず彦さんの態度は、変わらず頑なだった。
「かずくん……ちょっとだけでいいんです、出てきてくれませんか……っ?」
「……」
「顔だけでも見せてくれたら、お母さんもさっちゃんも皆さんも、すっごく嬉しいんですけど……っ!」
「……」
「ダメですか……っ?」
エヘヘ、となつ子さんは力なく笑った。
親子のやりとりを、スタッフたちは固唾を飲んで見守っている。
だが、ふいにカメラが後藤さんに向けられた。後藤さんがカメラ目線になって――前島さんの無言の要求を察して、口を開いた。
「かず彦くんさぁ、もういい加減にしたらどうかな?」
金髪の頭を掻いて、後藤さんはうっとうしそうな声音で言った。
「いつまでも子どもみたいに黙り込んで、そんなカビだらけの部屋に引きこもっていたら、いつか誰かがどうにかしてくれるって思ってるの?」
襖の向こうで、声を呑む気配がした。
「っていうかお母さんがどうにかしてくれるって思ってる? 何年もニートでヒッキーな自分のままでいても、家族が守ってくれるって信じてんの?」
後藤さんのキツい物言いに、中葉さんはハラハラしたという。
実は中葉さんは、元引きこもりだ。
大学受験に失敗し、人間関係でトラブルが続き、自室から一歩も出られなかった時期があったそうだ。
その後、家族や周囲の助けを借り、アルバイトから始めて、なんとか社会復帰を果たした。
だからかず彦さんの状況や心境が痛いほど理解できる。
……かつての自分に言われているようで胸が苦しくなった、とのことだ。
「でも、そんなわけないよね」
一転して、後藤さんは口調を和らげた。
「かず彦くんも薄々わかってるんでしょ? このままじゃダメだって。
だったらさぁ、いま変えようよ! 怖いだろーけど部屋から出て、家から出ようよ!
ご家族だけじゃない、私たちだって協力するからさ!」
後藤さんは面倒見のいい姉御肌を見せつけて、かず彦さんを励ました。
微かにすすり泣く声。
ところが、後藤さんがさらに言葉を重ねようとしたとき。
「やめてください……!」
なつ子さんが後藤さんを止めた。
「かずくんを責めないでください……責めるなら、どうかわたしにしてください……!」
後藤さんに懇願したあと、なつ子さんは鼻にかかった声で息子を慰めた。
「かずくん、大丈夫だよ。無理にお部屋から出なくても、いいんだよ……!」
直後、
「ァアアアアアアアア……ッ!」
と、金切り声ともうめき声ともつかない叫びが響いた。
「もうやめてくれやめてくれやめてやめてやめろ」
「うんざりだもううんざりなんだうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざりうんざり」
決して大声を上げず、読経のようにかず彦さんはそうくりかえした。
「お母さんはいつもそうだ」
「耳触りのいい言葉ばっかり並べ立てるくせに」
「ぼくとの約束、へいきで破る」
足音がして、上町さんたちと庭の掃除をしていたさち乃さんが駆けつけてきた。青ざめた顔で。
「約束……っ?」
なつ子さんが首を傾げた。
「部屋には入らないでって約束したのに、入った」
「え……っ?」
「せ、先々週、この人たちが来るずっと前だったのに、ぼくの部屋に入ったじゃないか。ぼくがおしっこをしている間に」
さち乃さんが両目を吊り上げた。
「あんたの布団を換えてたんだろ。あんたいっつも布団敷きっぱなしだから、絶対にカビが生えてるだろうってママがわざわざ買ってきたんだ」
「そんなの頼んでない」
「黙れゴミクズ。ガキみたいなこと言うんじゃねーよ」
さち乃さんの声は震えていた。
「さっちゃん、お兄ちゃんにそんな口きいちゃいけませんよ……!」
「うるさいな。こんなやつお兄ちゃんでもなんでもない!」
母親の注意が火に油を注ぎ、さち乃さんは耳まで真っ赤になった。
「だいたいママがお兄ちゃんを甘やかすからこんなことになってんじゃん。
親なら子どもの将来を考えなよ。力づくで部屋から引きずり出して、働かなきゃ追い出すくらい言いなよ」
「そ、そんなこと言えないよ……!」
「なんで? ひたすら優しくするのが親の愛情だとか思ってんの? ハッ、ウケる」
満面に嘲りを乗せて、娘は母親を糾弾する。
番組スタッフは誰ひとり口をはさまない。はさめるわけがない。
なつ子さんは娘と襖――の奥にいる息子――を交互に見て、おずおずと告げた。
「かずくん。大丈夫。大丈夫だからね。何があってもお母さんとさっちゃんは、一生ずっと、かずくんの味方だからね……!」
そう言葉をかける母親の横顔に、さち乃さんの表情は固まった。
「……ハァ?」
泣く寸前のようだったと、中葉さんは付け加えた。
「……それって、ママが死んだ後も、あたしにお兄ちゃんに面倒を見ろってこと……?」
「ふざけんな」
「ふざけんなよ」
さち乃さんは叫んだ。
「あたしはお兄ちゃんのために生まれたんじゃない!」