【奇妙な点①/いるはずなのにいないもの】


 すぐには意味を飲み込めず、いきているむし、と、くりかえしてしまった。

「未編集テープの中で一度でも目にしましたか? 冒頭の俺たちの社用車内で、窓に蜂がいるって騒動以外に、生きている虫」

 それは……と思い返す。
 一度も見なかった気がする。

 ――でも、あの……テレビとかによく、芸能人や一般人の散らかった家屋の掃除企画がありますけど、見たことありませんよ?

「それは編集で消しているんです。虫なんて映したら視聴者からクレームが殺到しますから。場合によっちゃ撮影前に殺虫剤で殺しますし。
 現場はね、どこも家庭内害虫だらけです。ゴキブリ、クモ、ハエ、ムカデ、ヤスデ、ダニにシロアリにシバンムシにチャタテムシ……」

 試しに、YouTubeでゴミ屋敷専門業者が配信している清掃動画を検索してほしいと言われた。
 サムネイルにでかでかと『※ゴキブリ注意』とあり、該当するシーンの前には数秒の注意喚起が挟まれている。

「ゴミ屋敷の映像を見たらまず思わないですか。『虫とか絶対やばそう』って。
 でも画面の中には出ない。それがもう既におかしいって、ああ撮影前の一工夫や編集で排除されてるんだなって思ってくださいよ。
 だから実際の現場で小バエ一匹も飛んでいないのは、……異常です」

 中葉さんが断言した直後、店内のキッチンから小さな悲鳴が起こった。
 どうやら虫が出たらしい。
 古いけれど掃除が行き届いていて、害虫対策も万全であろう店舗でも、虫は出るのだ。
 にも関わらず、食べカスや油汚れだらけの不潔な家が……

 ――そういえば後藤さんもまったく騒がなかったですよね

 車窓の外側に蜂がひっついているだけで騒ぎ立てた後藤さん。
 けれど九重さん宅での作業中は、テキパキと動いていた。
 プロ根性だと気にも留めていなかったが……

「後藤さんは、本当にひどい虫恐怖症でした……道端のアリですら無理で、他の現場では害虫の気配がするだけで逃げ出してましたよ。
 だから未編集テープを提出したんです。映像に手を加えていないのに虫が一匹もいないことを、知ってほしかったんです」

 ふいに、中葉さんが視線を床に落とす。

「あれだけ物があったのに、ホイホイも虫除けスプレーの類いは見当たらなかった。いるはずのものがいないし、……あるはずのものがないんですよ、あの家は」

 ――あるはずのないもの?

 中葉さんは原稿をめくり、あるページを抜き出した。
 【妹の日記②】の部分である。

「さち乃さんの、6月19日――亡くなる前日の日記です」

 その日の分は白紙だった。
 その前日、6月18日はこう綴られている。

〝6月18日(月曜日)
 イヤだけど。許せないけど。
 出ることにする。
 ママと話をする。
 何度も言っている、協力してほしいってことが何なのかわからないけど。
 このままじゃ、あたしも同じ、部屋に閉じこもって逃げるようなやつになってしまう。
 それだけはイヤ。
 あたしはあいつとは違うんだから。〟


 この後、おそらく再び母親のなつ子さんと衝突したのだろう。
 傷心のあまり家を出ていき、さち乃さんは公園で……

「俺も最初はそう考えましたが、ノートの表面をよく見ると、書いた痕跡があるんです。19日の日記が」

 中葉さんはバッグからクリアファイルを取り出す。

「19日に書いた日記のページ、破られているんです。うっすらと筆跡が残っていました。古典的ですが、それを鉛筆でこすってみたら……現物は持ってこられませんでしたが、これを」

 クリアファイルに挟まれたのは、開いた状態の小さなノートの写真だった。
 次ページに筆圧で写った一文を鉛筆でこすって浮かび上がらせている。





 ――あたしはこんなことのために生まれたんじゃない

 殴り書きだった。苦しみをすべて紙面にぶつけるような。

「……これも、よく見るとおかしな文章なんです」

 中葉さんが噛みしめるように言った。

「一連の流れを鑑みれば、さち乃さんが言う『こんなこと』は、『ひきこもりのかず彦さんの面倒を一生見続けること』になりますよね」

 ――はい。それで大喧嘩になりましたし。

「そのとき、さち乃さんは『あたしはお兄ちゃんのために生まれたんじゃない』と言いました。
 もう既に感情に名前をつけているんですよ。
 だから、改めて母親と話し合って、同じようなやりとりになっても、また『兄のために生まれたわけではない』って書くんじゃないでしょうか」

 ――そう……ですかね

 この推察には、先ほどの虫の件ほどの説得力はなかった。
 無理やりな理屈……とも判断できる。
 だが、否定はしきれない。

「妄想に近い想像ですが、なつ子さんとの話し合いで、さち乃さんは『兄の面倒を一生見続けること』以外で、『兄の面倒を一生見続けること』以上に忌避感のあることを要求されたのではないでしょうか……」

 ――それで自殺した、と……?

 そう重ねると、中葉さんは、
「自殺なのかな……」
 と、ぼそりと本音を落とした。

 まさか、という気持ちになった。
 さち乃さんが自殺でないとするなら、もしや母親のなつ子さんが手にかけた?
 ありえない、というより、ありえると思いたくない。
 映像でしか知らないが、なつ子さんの人物像とズレる。
 家族のために再生したいと願う姿は、うわべだけではなかった。それくらいは見てわかるものだ。

「あるはずなのにないものは、もうひとつあります」

 写真をしまって、中葉さんがまた原稿の束に手を伸ばす。
 【テレビ番組:『再生P!』の未編集テープ⑩】の部分だ。

「撮影最終日に、かず彦くんの部屋を掃除したときに映っていました」