ここに越してきてから繰り返し感じる何度目かの現象に、(あん)は声にならない悲鳴を上げながら飛び起きた。

今日こそ気のせいではない。

布団をはね除け半狂乱で足をばたつかせると、膝を抱いてベッドの端に縮こまった。
ひゅっと喉はひきつり、体中の血管がわかるほど心臓は大きな音をたてる。

部屋の電気は寝る前から点けっぱなしだ。部屋の風景は昼間と何ら変わりもなく、今まで寝ていた場所にも何もない。それでも、なんとも言えない気味悪さが部屋を渦巻いていた。

そろりと視線だけを動かし、壁に掛けられた時計を確認する。

「2時……」

丑三つ時ではないか。
よりによって、どうして一番怖い時間帯に起きてしまったのだろう。いや、丑三つ時だからこその現象なのか。

サーサーとエアコンの風の音がした。
風が強い。強風にしておいただろうか。怖くて布団を被って寝たから、いつもより温度を低めにかけてあった。
おかげで部屋はきんきんに冷えているが、それだけとは思えない寒気が背中を通り抜けた。

エアコンで揺れるカーテンが恐ろしい。
安いパイプベッドはギシッと軋み、自分で立てた音に絶叫しそうになる。

つけっぱなしにしていたテレビが、深夜バラエティーを映した。やっとその存在を確かめると、何度か瞬きをした。
出演者の笑い声が聞こえる。平和なテレビの中に癒され、少しだけ緊張を緩めることができる。肺いっぱいに溜めて詰まりそうだった空気を、息を震わせながら吐いた。

しばらくすると、動かす事が出来なかった体がようやく動くようになる。布団を握りしめていた手がガチガチに固まっていた。力を入れすぎて白くなっている。手のひらはじっとりと汗をかいていた。

ワンルームの部屋は、廊下兼キッチンを通りすぐ先に玄関があった。そちらに意識を向けると、ハンドルレバーがゆっくりと揺れ、金属が擦れる音がした。郵便受けがカコンカコンと音を立てる。
鍵はかけた。チェーンも確認した。それでも恐ろしかった。

わけのわからない気持ちの悪い気配を感じ、じっと身を潜める。全身があわだっていた。

(早く、早く朝になれ)

サーサー、カチカチ、アハハハハ。
世間から切り離されたかと思うほど孤独な空間は、エアコンと時計とテレビの音。
今視線を動かしたら、見てはいけないモノを見てしまう気がした。
布団の縫い目だけを見つめ、浅い呼吸を繰り返した。

***


大学入学と共に上京し、佐藤杏が4月から住んでいるマンションは、四階の角部屋だ。
家賃が他の部屋よりも大幅に値下げされていたお得物件であった。

最近よく耳にする、殺人、自殺、孤独死。ーーーーそんなことがあった事故物件じゃないかなんて疑ったが、不動産屋はそんな経歴は聞いたこともないと言う。

「家賃が安い?まぁ築年数古いですし、エレベーターが無いのもネックなんですよね。駅からも徒歩25分で少し遠い。目の前がマンションで日当たりが悪いのも影響しているかもしれません。それと、西日がちょっと強め…かな。でも風通しは良い物件ですよ。
なぜか入居者の入れ替わりは激しいですけどね、そんな事故物件だなんてとんでもない」

40代くらいと思われる、髪を七三にわけたキツネ顔の担当者は、心外だとでも言うように顔をしかめた。首から下げた名刺には鈴木太郎『あなたのお部屋探し、お任せ下さい』と書かれている。
本名なのか。名刺のサンプルみたいだ。

この男に熱心に勧められ入居したが、杏は後悔していた。やっぱり家賃が安いところなんて選ぶんじゃなかった。もう少しだけ高くても、安心できる部屋にするべきだった。

***

「昨日も起こったんです!絶対気のせいじゃない、なんかありますよ。大家さんとか、本当は知ってるんじゃないですか?」

店舗のカウンターを訪れた杏を、鈴木太郎は頭をかきながら出迎えた。何度も同じ相談で訪れるので対応に困っていた。

「お客様が仰る時間帯の、防犯カメラもお見せしましたよね。何も映ってなかったじゃないですか」

「でも、毎晩だれかがドアを叩いたり。郵便受けをいじったりするんです。幽霊だから映らないんですよ!もうわたし怖くて怖くて…、あんな部屋に住めません。でも引越なんて簡単に出来ないし…」

杏は顔を覆って泣き出してしまう。幸い他の店員は外出していたため、それを見たのは自分だけだった。鈴木はホワイトボードを見て、しばらく誰も帰社しないのを確認するとカウンターの向こう側にいる杏に身を乗りだして声を潜めた。

「わかりました。本当はこう言うのだめなんですけど、わたしが夜お部屋にお邪魔して、心霊の証拠を掴むってのはどうです?」

「……どうやって?」

「暗視カメラとか、サーモカメラとかなら映らないですかね?趣味でそういうのたくさんもっているんですよ。心霊現象の証拠がとれれば、瑕疵物件となり、大家さんと会社が資金を出してくれて、お客様はお引越できるかもしれませんよ」

杏にとってそれは渡りに船の提案であった。
部屋に他人を、しかも男を招くなど普段であればとんでもないが、もうあの部屋で一人で過ごすことなど出来ない。誰かが居てくれれば気持も安まる。

「ねぇ、そうしましょう」と鈴木はにこにことした。
ここまで親身になってくれるのは、自分の付けた客がクレーマーになるのが嫌なのだろう。
杏は戸惑いながらも頷いた。