その夜、碧羅(へきら)宮の主にして第一皇子龍基(りゅうき)は、庭園に面した大庁(ひろま)で宴を催させていた。彼と妃たちだけで涼気と月と星を楽しむ、ささやかな内輪の席だ。

 酒杯を傾けながら、龍基はそれぞれに美しく着飾った妃たちを酒肴とばかりに眺めた。すると、実家の格や彼の寵愛による序列に従って並ぶ妃たちの中、筆頭にいるべき者がいないのが目立つ。

「今日は、凰琴はいないのかな」

 誰にともなく問いかけると、序列の二番目のものがすかさず応えた。

「はい。大姐(おねえさま)は、ご実家にてご用があるとのことで。──我が君様にお土産があると伺っておりますわ」
「それは、楽しみだな」

 実のところ、凰琴の不在に気付き、彼女の()()の中身を察したからこその宴なのだが。

(多くを言わずともよく働いてくれる。できた女だ)

 機嫌良く杯を干すと、彼の歓心を買いたい妃がすぐにまた酒を満たしてくれる。すべてが思い通りに運んでいる心地好さが、酒をいっそう美味に感じさせた。

 凰琴が(とう)家と接触している気配には、とうに気付いていた。つまりは、雪莉(せつり)姫を炎俊(えんしゅん)などに嫁がせたのは陶家の本意ではなく、間諜(スパイ)として送り込んだだけなのだろう。
 ならば、辰緋(しんぴ)宮や皓華(こうか)宮の妃を巻き込んでの目障りな動きも、一時だけのこと。炎俊が皇宮で勢力を伸ばすことなどあり得ない。そもそも、父帝の気まぐれな予言だけによって星黎(せいれい)宮を得た者、市井育ちの者が皇子扱いされることがあってはならない。

 龍基の意向を汲んだ凰琴は、良きように計らってくれるのだろう。陶家も、ものの道理が分かっている。娘を委ねるなら第一皇子がもっとも()だと理解しているはずだ。つまり──

(凰琴の土産は、雪莉姫なのだろう?)

 強い遠見の力を持つだけでなく、美しい姫だと噂には聞いている。碧羅宮は、ますます賑わい栄えるだろう。龍基も、いっそう帝位に近付くというものだ。

「間もなく、この碧羅宮に新たな妃がひとり、増えることになるだろう。そなたたちは仲良くやっていけるな?」

 立ち上がり、杯を掲げて妃たちに問えば、華やかな衣擦れと笑い声が返ってくる。彼女たちの杯にも酒が注がれ、甘い酒の香りが花と化粧の香りと混ざって夜に立ち上り、妖しい空気を(かも)し出す。

「はい、我が君様」
「喜んで」

 妃たちの答えが揃ったところで、龍基は乾杯を呼び掛けるつもりだった。

「もちろんで──」
「お楽しみのところ失礼いたします、龍基(りゅうき)兄上」

 だが、全員が言い終える前に、無粋な声が割って入った。
 おろおろと止めようとする侍女や宦官を振り切って、泥に汚れた見苦しい姿で宴席に現れたのは──

「……炎俊」

 弟と呼ぶのもおこがましい、下賎な出自の者が、彼の宮を(おか)している。
 不快と苛立ちに龍基の声は尖り、夫の不機嫌を察した妃たちからは、怯えと不安の入り混じった溜息が漏れた。彼女たちが落ち着きなく身動ぎすると、ゆったりとした袖が酒器を倒し、そこここから玻璃(はり)が割れる音がする。酒の匂いも、いっそう強まった。

 和やかな宴の雰囲気を、一瞬にして不穏に塗り替えた炎俊は、龍基の非難の眼差しを跳ね返して、強い視線で彼を射貫いてくる。

「我が妃が、凰琴義姉(あね)上に()()()()世話になったとか。兄上もご承知のことだったのか否か、お伺いしたく……!」

 そういえば、炎俊は腕に女を抱えていた。こちらも泥まみれで見苦しいあり様だ。乱れた髪に辛うじて残った夜光の珠の(かんざし)が、蛍火のように仄かな光を放っている。
 はっきり言って、触りたくも近寄りたくもない惨状だったが──よく見れば、なかなか可愛らしい顔だちはしているようだ。きちんと洗って衣装や化粧を整えさせれば、まあ閨に入れても良いだろう。

「妃……陶家の雪莉姫のことか? その御方が?」

 凰琴は、何かしくじったらしい。この場にいない第一の妃に対して舌打ちをしたい思いを堪えながら、龍基は努めて穏やかに問いかけた。
 彼自身は何も知らない、という顔をしなければならないと、咄嗟に計算したのだ。

「はい。陶雪莉でございます。……このような姿でお目にかかる無礼を、どうかお許しくださいますように……!」

 口では謝罪しながら、その娘の目は炎俊に負けず劣らず、激しい怒りに燃えていた。口調の激しさ、声の鋭さも夫同様だ。……生意気で、気に入らない。

「でも、致し方のないことですの。我が君様と舟遊びをしていたところ、()()水の竜に呑み込まれて攫われたものですから! 龍基殿下のお妃の、凰琴様がなさったことです!」

 雪莉姫は、実家の思惑に背いて炎俊につくことを選んだらしい。炎俊の容姿に惹かれたのか、父帝の予言を信じているのか──いずれにしても、愚かな娘だ。

 龍基は、わざと大きなため息を吐いて呆れと不快を表した。

「……証拠は? 水竜の力を持つ者は凰琴に限らない。勝手な憶測で我が妃を貶めようというのか」

 炎俊を快く思っていない者は多い。時見や遠見で見た、あるいは直に会ったと主張したとして、取り合う者はそういないだろう。

(怒りに任せてこれほどの無作法を働くとは愚かな。話を聞いた者の心証を、勝手に悪くしてくれるというわけだ……!)

 凰琴は、後でじっくりと叱らなければならない。雪莉姫に姿を見せた上で取り逃がすなど、無能にもほどがある。
 だが、雪莉姫を助けた上で凰琴をも捕えるのは、炎俊ひとりでは不可能だ。ならば、たとえ苦しくとも、知らぬ振りを通す余地は十分にある。龍基はそう踏んだのだが──

「あいにく、義姉(あね)上ご本人からも伺っています。兄上のために、炎俊を排除しようとしてのことだと……!」

 炎俊と雪莉姫の背後から、新たに現れた人影ふたつを見て、龍基は目を剥いた。

志叡(しえい)翰鷹(かんよう)

 弟たち──それも、炎俊などとは違った歴とした皇太子候補のふたりが、龍基を鋭く見据えていた。まるで、長兄ではなく炎俊と雪莉姫に味方するかのように。

 予期せぬ事態に絶句する龍基に、翰鷹がふ、と皮肉っぽい微笑を浮かべる。

「我らも炎俊と一緒だったのです。龍基兄上をお誘いしなかったのは思えば非礼でしたが、仲間外れの意趣返しにしてはあまりにひどいのではありませんか?」
「何を、馬鹿な……!」

 仲間外れ、などとは戯れに凰琴に言っただけだ。格下の妃たちと炎俊が集まって何をしようと、知ったことではなかった。ただ、皇宮に相応しからぬ卑しい者が増長するのが目障りだっただけで。

 だが、志叡と翰鷹までもが炎俊と交流していたとなれば、話が変わる。

(いったい、いつからだ!? いつの間に……!?)

 弟たちの()()()について問い質したかった。だが、妃たちの手前、無様に狼狽える姿を見せることもできない。ただでさえ、彼女たちの疑問や不安の眼差しが絡みついて、鬱陶しいというのに!

 と、志叡と翰鷹は、さらにもうひとり、華奢な人影を龍基の前に押し出した。

「我が君様、あの、私……っ」

 青褪め、震える声でよろめき出たのは、凰琴だ。引き攣った表情も美しく、化粧や髪形が崩れているわけでもなく──炎俊や雪莉姫のように泥に塗れているわけではない。
 だが、汚らわしい、と思った。この女は、もはや言い逃れのできない罪人だ。罪人との関わりは、彼の立場や未来に拭い難い汚点となるだろう。

(私に触れるな。近寄るな!)

 こんな愚かな女が彼の妃である()()()()()。凰琴の悪だくみを、彼が知っていた()()()()()。そう、自分にも周囲にも信じ込ませるために、龍基は縋りつこうとする凰琴を払いのけた。

「──何ということをしたのだ、凰琴! 皇子とその妃に狼藉を働くとは!」

 凰琴が倒れると、髪に挿した飾りがしゃらしゃらと鳴って耳障りだった。

「兄上……」
「我が君っ」

 それに、弟たちが呆れたように呟くのも、凰琴が喚くのも。うるさいそれらの声を黙らせようと、龍基は手を振り回し、いっそう声を張り上げた。

「私は何も知らぬ。その女が勝手にしたことだ。罪を問うならそなたたちで好きにせよ!」
「ちょっと……それはないんじゃないの?」

 なのに、雪莉姫は生意気に彼に意見してくる。自身に正義があるかのように、非難がましい目で見てくるのが鬱陶しい。

「黙れ、小娘! ……お前のせいだろう!?」

 この娘さえ、大人しく言うことを聞いていれば良かったのだ。凰琴が勧めるままに炎俊を裏切っていたなら、碧羅宮に迎えてやったのに。いつ失脚するか分からない第四皇子よりも彼の妃になったほうが()だっただろうに。この娘がものの道理を分かっていなかったのが、何もかもの原因だとしか思えなかった。

(せめて、この女だけでも……!)

 その名の通り、龍基も水を操る水竜の力を持つ。ちょうど、宴席のすぐ傍にあった池の水を使い、宙に竜を作り出す。向けて竜の顎を吼えるように開かせると、雪莉姫が引き攣った悲鳴を上げる。

「え──また!?」
「私の力は凰琴よりも強い! 逃がさぬぞ!」

 苦しい言い逃れを考えるよりも、元凶であるこの女に止めを刺したかった。そのほうがよほど簡単だから。
 炎俊が雪莉姫に駆け寄って抱き締めるのも、ちょうど良い。ふたりとも息の根を止めてやれる。水竜の力で龍基に敵う者はこの場にいない。志叡や翰鷹がどれだけ騒ごうと、無駄だ。

 龍基は笑い、水の竜を操った。巨大な顎が炎俊と雪莉姫に迫り、ふたりを呑み込もうとする──

「見苦しいぞ、龍基」

 が、思い描いたことは実現しなかった。

 溜息混じりの低い声が響いたかと思うと、()()()()()()が、彼の竜の首もとに噛みついていた。龍基が抗おうとしても、叶わない。虎の牙は、剣も矢も効かないはずの液体の竜にしっかりと食い込み、食い千切る。

「妃の監督不行き届きを認めた上に、弟の妃に当たり散らすとは」

 竜を作っていた水が弾け、酒や料理、繊細な絹や金銀や玉の飾りに降り注いだ。

(何ごとだ……なぜ、私の竜が? 私より強い、水竜の使い手が……!?)

 頭から水を被り、目を擦っては激しく()せながら、龍基は必死に考えた。こんなことができるのはいったい何者か──混乱の極みにあっても答えは明白なはずだったが、認めたくなかった。

「……父上……?」

 なのに、空気を読まない炎俊はあっさりとその答えを口に出した。彼らの父、昊耀(こうよう)国を統べる皇帝が、息子たちの諍いの前に臨御(りんぎょ)したのだ。