どれだけの時間、暗闇に閉じ込められているのか──朱華には分からなかった。
泥水にたっぷりと浸った衣装は臭いし身体に張り付いて気持ち悪いし、体温を奪って夏だというのに寒気がする。不自然な体勢を強いられて苦しいし身体は痛いし、空腹も感じている。
でも、何よりも問題なのは、遠見で窺う外の世界では、次第に太陽が傾き、空が赤く染まり始めていることだった。彼女が封じられた長櫃を監視する者たちが、何やら荷物をまとめて移動する準備をし始めているのも見える。
(夜になったら、闇に乗じて私をどこかに運ぼうっていうのね……!?)
そして、朝になる前に彼女を呪で守られた碧羅宮なり陶家の屋敷奥に隠してしまえば、遠見や時見で見つけ出すことは不可能になってしまう。たとえ炎俊が怪しんで抗議したとしても、知らぬ存ぜぬを通されるだけだろう。
それどころか──彼にもしものことがあったらどうしよう。
朱華にこだわって判断を誤ったりはしないと思うけれど、信頼している紫薇の裏切りに気付けるかどうか。紫薇に言い包められて、危険な罠が待つ場所におびき出されたりしないだろうか。
「炎俊……!」
不安と心配のあまり、聞こえないのを承知で彼の名を呼んでしまう。
(やっと会えたのに。やりたいことも、見つかったのに……!)
何も知らなかった子供のころとは、違う。力を使って何ができるか、国をどう変えていくのか──炎俊が示した未来を実際に見たいと思い始めたところなのに。理解してくれる方たちも現れたところなのに。
偽者だと見破られて、脅されて始まった夫婦関係だったけれど。心から炎俊の力になりたいと思ったのに。
(あんな奴らのせいで……!?)
峯と凰琴。顔も知らない第一皇子。貴族や皇族の面子やら権益やらにこだわる連中のせいで、引き離されることになってしまうなんて。
「嫌……!」
小さく叫びながら、朱華はもう一度、遠見で辺りを見回した。何を期待したわけでもないけれど、広い光景を見ることができるのは、これで最後になるかもしれないから。
そして──空を横切る影に気付いて、目を瞠る。
(……え?)
鳥にしては大きく、羽ばたくわけでもない。形も何だかおかしくて。ひらひらとしたのは──布、だ。宙に薄い絹が、夕焼けに赤く染まりながら透けて、綺麗。綺麗、だけど……いったい、どういうことだろう。
(芳琳様? ……と、炎俊……!?)
華奢で小柄な芳琳が、炎俊を背負って飛んで──違う、跳んでいる。闘神の力は脚にも及ぶから、飛翔と見紛うほどに高く遠く、跳躍することができるのだろう。それは、分かるけれど。
(なんで、どうして……!?)
芳琳は、迷うことなく真っ直ぐ朱華がいるほうを目がけて駆けている。暗闇に封じられて、遠見で見つけることが難しいはずなのに、まるで見えているかのように。驚きで身動ぎした朱華は、長櫃の硬い蓋に頭をぶつけることになってしまった。
「痛──っ」
呻いたのとほぼ同時、地面が揺れた。芳琳と炎俊がすぐ近くに着地した衝撃だ。空から降ってきたとしか思えないであろうふたりの登場に、見張りの者たちが逃げ惑うのが遠見で見える。
そして。闇に塞がれていた朱華の肉眼の視界にも、光が差す。炎俊が、長櫃の蓋を開けたのだ。
「朱華!」
「雪莉様!」
傾いた陽が、ちょうど目を射って眩しかった。また名前を呼び間違えたことも、後で叱ってやらないと。でも──また彼の姿を見ることができた喜びが、何より大きい。
「炎俊──」
視界が、涙で歪むのを感じながら、朱華は叫んだ。
「後ろ! まだ敵がいる!」
いつもなら、遠見を使って前後左右への警戒を怠らないのだろうに。炎俊は、朱華だけを見て腕を差し伸べていた。その彼の背後に、逃げずに留まっていた胆力のある者が、剣を抜こうとしている。朱華が庇おうにも、狭いところに押し込められていた手足は上手く動いてくれない。
(危な──)
最悪の光景を見ることを恐れて、朱華は目を瞑った。……そこへ、鈍い音が響く。蛙を踏み潰したような、無様な悲鳴も。
「無粋ですわね! せっかくおふたりが再会できたのに……!」
恐る恐る目を開けると、芳琳が地面に落ちた剣を遠くへ蹴り飛ばしたところだった。剣の持主だったはずの男が地面に倒れているのは──彼女が投げ飛ばしたのだろうか。
(お父様やお兄様は武人だって──妹君も心得があった、ってこと……?)
芳琳は、息を乱すこともなく、朱華と炎俊に向けて晴れやかに微笑んでいる。どうぞごゆっくり、とでもいうかのように。
(と、言われても……)
てきぱきと男を縛り上げ始めた芳琳を余所に呆然としていると──朱華は、温かく逞しい何かに包まれた。
「朱華……雪莉! 無事で良かった……!」
「え、ええ。あんたも……!」
炎俊に抱き寄せられたのだ、と分かったのは、彼の整った顔を間近に見上げることになってからだった。彼が髪を乱した姿も、これほど狼狽えた様子も見るのは初めてで、なぜか心臓が暴れて落ち着かないし、頬も熱くなってしまう。
「あの、紫薇が──」
「分かっている」
動揺をごまかすためにも、何があったのかを伝えようとしたのだけれど。炎俊は、遮って朱華をいっそう強く抱き締めた。
「黒幕も、知れた。今ごろは志叡兄上と翰鷹兄上が取り押さえてくださっているだろう」
「え──もう……?」
いったいどうやって朱華を見つけたかも、まだ聞いていないのに。どうしてこうも素早く的確に動くことができたのだろう。
「そなたの人徳あってのことだ。佳燕義姉上のお力添えもあったし──紫薇も、何も感じていないわけではないようだ」
首を傾げる朱華に、炎俊は素早く囁いた。そして、鋭い眼差しで、告げる。
「このまま碧羅宮に向かうぞ。龍基兄上には言いたいことが山ほどある……!」
泥水にたっぷりと浸った衣装は臭いし身体に張り付いて気持ち悪いし、体温を奪って夏だというのに寒気がする。不自然な体勢を強いられて苦しいし身体は痛いし、空腹も感じている。
でも、何よりも問題なのは、遠見で窺う外の世界では、次第に太陽が傾き、空が赤く染まり始めていることだった。彼女が封じられた長櫃を監視する者たちが、何やら荷物をまとめて移動する準備をし始めているのも見える。
(夜になったら、闇に乗じて私をどこかに運ぼうっていうのね……!?)
そして、朝になる前に彼女を呪で守られた碧羅宮なり陶家の屋敷奥に隠してしまえば、遠見や時見で見つけ出すことは不可能になってしまう。たとえ炎俊が怪しんで抗議したとしても、知らぬ存ぜぬを通されるだけだろう。
それどころか──彼にもしものことがあったらどうしよう。
朱華にこだわって判断を誤ったりはしないと思うけれど、信頼している紫薇の裏切りに気付けるかどうか。紫薇に言い包められて、危険な罠が待つ場所におびき出されたりしないだろうか。
「炎俊……!」
不安と心配のあまり、聞こえないのを承知で彼の名を呼んでしまう。
(やっと会えたのに。やりたいことも、見つかったのに……!)
何も知らなかった子供のころとは、違う。力を使って何ができるか、国をどう変えていくのか──炎俊が示した未来を実際に見たいと思い始めたところなのに。理解してくれる方たちも現れたところなのに。
偽者だと見破られて、脅されて始まった夫婦関係だったけれど。心から炎俊の力になりたいと思ったのに。
(あんな奴らのせいで……!?)
峯と凰琴。顔も知らない第一皇子。貴族や皇族の面子やら権益やらにこだわる連中のせいで、引き離されることになってしまうなんて。
「嫌……!」
小さく叫びながら、朱華はもう一度、遠見で辺りを見回した。何を期待したわけでもないけれど、広い光景を見ることができるのは、これで最後になるかもしれないから。
そして──空を横切る影に気付いて、目を瞠る。
(……え?)
鳥にしては大きく、羽ばたくわけでもない。形も何だかおかしくて。ひらひらとしたのは──布、だ。宙に薄い絹が、夕焼けに赤く染まりながら透けて、綺麗。綺麗、だけど……いったい、どういうことだろう。
(芳琳様? ……と、炎俊……!?)
華奢で小柄な芳琳が、炎俊を背負って飛んで──違う、跳んでいる。闘神の力は脚にも及ぶから、飛翔と見紛うほどに高く遠く、跳躍することができるのだろう。それは、分かるけれど。
(なんで、どうして……!?)
芳琳は、迷うことなく真っ直ぐ朱華がいるほうを目がけて駆けている。暗闇に封じられて、遠見で見つけることが難しいはずなのに、まるで見えているかのように。驚きで身動ぎした朱華は、長櫃の硬い蓋に頭をぶつけることになってしまった。
「痛──っ」
呻いたのとほぼ同時、地面が揺れた。芳琳と炎俊がすぐ近くに着地した衝撃だ。空から降ってきたとしか思えないであろうふたりの登場に、見張りの者たちが逃げ惑うのが遠見で見える。
そして。闇に塞がれていた朱華の肉眼の視界にも、光が差す。炎俊が、長櫃の蓋を開けたのだ。
「朱華!」
「雪莉様!」
傾いた陽が、ちょうど目を射って眩しかった。また名前を呼び間違えたことも、後で叱ってやらないと。でも──また彼の姿を見ることができた喜びが、何より大きい。
「炎俊──」
視界が、涙で歪むのを感じながら、朱華は叫んだ。
「後ろ! まだ敵がいる!」
いつもなら、遠見を使って前後左右への警戒を怠らないのだろうに。炎俊は、朱華だけを見て腕を差し伸べていた。その彼の背後に、逃げずに留まっていた胆力のある者が、剣を抜こうとしている。朱華が庇おうにも、狭いところに押し込められていた手足は上手く動いてくれない。
(危な──)
最悪の光景を見ることを恐れて、朱華は目を瞑った。……そこへ、鈍い音が響く。蛙を踏み潰したような、無様な悲鳴も。
「無粋ですわね! せっかくおふたりが再会できたのに……!」
恐る恐る目を開けると、芳琳が地面に落ちた剣を遠くへ蹴り飛ばしたところだった。剣の持主だったはずの男が地面に倒れているのは──彼女が投げ飛ばしたのだろうか。
(お父様やお兄様は武人だって──妹君も心得があった、ってこと……?)
芳琳は、息を乱すこともなく、朱華と炎俊に向けて晴れやかに微笑んでいる。どうぞごゆっくり、とでもいうかのように。
(と、言われても……)
てきぱきと男を縛り上げ始めた芳琳を余所に呆然としていると──朱華は、温かく逞しい何かに包まれた。
「朱華……雪莉! 無事で良かった……!」
「え、ええ。あんたも……!」
炎俊に抱き寄せられたのだ、と分かったのは、彼の整った顔を間近に見上げることになってからだった。彼が髪を乱した姿も、これほど狼狽えた様子も見るのは初めてで、なぜか心臓が暴れて落ち着かないし、頬も熱くなってしまう。
「あの、紫薇が──」
「分かっている」
動揺をごまかすためにも、何があったのかを伝えようとしたのだけれど。炎俊は、遮って朱華をいっそう強く抱き締めた。
「黒幕も、知れた。今ごろは志叡兄上と翰鷹兄上が取り押さえてくださっているだろう」
「え──もう……?」
いったいどうやって朱華を見つけたかも、まだ聞いていないのに。どうしてこうも素早く的確に動くことができたのだろう。
「そなたの人徳あってのことだ。佳燕義姉上のお力添えもあったし──紫薇も、何も感じていないわけではないようだ」
首を傾げる朱華に、炎俊は素早く囁いた。そして、鋭い眼差しで、告げる。
「このまま碧羅宮に向かうぞ。龍基兄上には言いたいことが山ほどある……!」



