水の竜に呑まれて消えた朱華(しゅか)を見失った炎俊たちは、もとより休憩場所にするはずだった小村に立ち寄って状況の把握に努めていた。従者に、村人も動員して周辺の捜索に当たらせているが、成果は期待できそうにない。この地に住む者たちいわく、日ごろ人や家畜が行き来して作った道を外れると、安全は保障できないとのことで、山や谷の険しさと森の深さを考えれば、探せる範囲はごく限られているということだった。

 ならば遠見で、となるのだろうが──朱華の行方は、炎俊(えんしゅん)の遠見をもってしても知れなかった。都を離れ、運河を遡った山間の地は、彼にとっては馴染みがない。そこへ、見るべき死角や暗がり、洞窟や木の(うろ)や岩の隙間が無数にあるとなれば、しらみ潰しに探すにも気の遠くなるような時間がかかるだろう。

 用意された椅子にかけることもなく、飛沫を浴びて濡れた衣のまま、炎俊は立ち尽くして遠見の目を凝らす。木々の葉の一枚一枚まで見分けることも、彼の力なら容易いのに。朱華の勝気な瞳や朗らかに笑う唇、眩く白い肌はまだ見えない。

雪莉(せつり)……」

 呼んだところで、彼女に聞こえないのは分かっている。なのに声に出して呼ぶ無駄を犯すのは、彼らしくないことだった。本当の名を呼んでやりたい、と思うことも。

(朱華と呼べば聞こえるのではないか? 本当の名なら、応えてくれるのでは──)

 埒もない考えに取りつかれていることに気付いて、炎俊は眉を寄せた。焦りと疲れによるものだろう。良くない傾向だ、と分かってはいるのだが──だが、遠見を諦める気にはなれない。

 と、炎俊の肉眼の視界に、影がふたつ、落ちた。

「炎俊、一度皇宮へ戻ろう」
「兵を引き連れて戻り、そなたの妃の捜索をする。そのほうが結果的には早い」

 影の主は、志叡(しえい)翰鷹(かんよう)、兄皇子たちだ。口々に呼びかけてくるふたりも手伝ってくれてはいたのだが、遠見は彼らの得意とするところではなかった。
 なお、佳燕(かえん)の力はさらに弱いし、芳琳(ほうりん)の怪力も、今のところは役立つ場面がない。だから、心身共に衝撃と疲労が激しいこともあって、彼女たちは別室で休んでいる。

「ですが」

 何度か瞬きをして、目の前の兄たちに焦点を合わせながら、炎俊はまたも無駄な口を聞いてしまった。
 まだ明るい戸外の、深い緑をずっと()()目には、山奥の農家の室内は、たとえ村長の家でもひどく暗く見える。いっぽうで、兄たちが纏う袍の衣装の刺繍は煌びやかで、疲れた目に金糸銀糸の輝きが刺さるようだった。

(兄上たちの言葉は正しい。恐らくは裏もないと、分かってはいるが……!)

 芳琳の誘いを受けた段階での未来見では何も起きなかったのだから、朱華を攫ったのは志叡の差し金ではない。佳燕ひと筋の翰鷹も、炎俊を陥れる動機がない。

「まだ、雪莉が見つかっておりません」

 兄たちは、純粋に朱華を案じ、炎俊を思って最善の策を提案してくれている。それを承知の上でも言い募ってしまう愚かな弟に、上の志叡皇子は丁寧に言い聞かせる。

「遠見よりも、時見を試してはどうだ。雪莉姫が無事に戻る未来は見えるか? そこに行き着くためには、どう行動すれば良い?」
「時見……未来の……」

 兄に言われて、炎俊はようやく彼が持つ力は遠見だけではないことに気付いた。唇を強く噛み、痛みと血の味によって冷静さを取り戻す。

(私としたことが。……やはり、焦っているな)

 後先を考えずに、()のことで頭がいっぱいになっていたのは、本当に彼らしくない。
 未来は人の思いと行動が織りなす複雑な文様だ。
 雪莉ではない、朱華を取り戻す未来を見つける。無数に枝分かれして絡み合う「もしも」の中から、望ましい未来に至る道筋を見分けてより分ける。そこまでできなければ未来見とは言えない。
 なのに、焦りで視野を狭めては、かえって朱華は遠ざかってしまうだろう。

 炎俊は深く息を吸って、吐いた。そうすると、心臓の鼓動もだいぶ早まっていたのも分かる。

「……不心得でございました、兄上。ご教示ありがたく存じます」

 いつもなら、呼吸をするのと同じくらいに、意識せずとも過去と未来を見回しながら生きているというのに。そうして得た情報は、兄たちとも共有すべきだっただろうに。それを失念し、怠っていたのは迂闊としか言いようがない。

「未来見は……当初は、何も起きないはずだったのです。にもかかわらず、この事態ということは──」

 彼の報告は、けれど慌ただしい足音によって遮られた。室内の様子を遠見で窺うくらいのことは、皇族には当たり前にできる。だから、皇子たちは誰ひとりとして身動ぎすることなく、転がり込んできた従者が跪くのを()()だろう。

「炎俊殿下。星黎(せいれい)宮より、急ぎの使者が参っております。(とう)妃様のことで、と──」

 それに、その従者の背後に、華奢な人影がいることも。 

「炎俊様! 何があったかは伺いました……!」

 ……星黎宮で留守を守っていたはずの、紫薇(しび)だ。志叡皇子と翰鷹皇子が眉を顰めるほど、青褪めて震え、額を冷や汗で濡らしている。時見の力を制御できない彼女のこと、いつかの時代のおぞましい光景を見てしまっているのだろう。

 日ごろの穏やかな微笑は見る影もない、狼狽えて乱れた所作で、紫薇は皇子たちの前に平伏した。

「しゅ──雪莉様が、何者かに攫われたと……あの、犯人と思しき者から手紙が届いておりましたので。だから……だから急ぎ、駆けつけて参りました……!」

 紫薇が、震える手で握りしめて差し出した書簡を、兄たちは広げて読みたかったかもしれない。だが、炎俊には無用のことだった。この侍女がこの場にいるというだけで、彼にとっては十分だった。

「紫薇。そなたは、ここに来ていたのだな」
「は……?」

 ぽつり、と漏らすと、紫薇はおずおずと顔を上げた。そして、すぐにまた俯こうとするが──非礼を恐れてのことでは()()と分かっているから、炎俊は目を逸らすことを許さない。

「未来を見極めるのは難しい。関わる者が何かを考え、何かをするたびに移ろう幻のようなものなのだから。……一度見ただけで安心するはずがないだろう」

 彼も床に膝をつき、紫薇の顎に手を添えて強引に上向かせる。ひ、と引き攣った声が漏れるのにも構わず、兄たちにも聞こえるように声を張り上げる。中断させられていた情報共有の続きにもなるだろう。

「星黎宮に、雪莉()そなたがいなくなる未来が見えた。遠出の間に何かしらの企みがあるのだろうとは察したが、いつどこで、何が起きるかを見極める時間がなかった。……ゆえに、様子を見ることにしていたのだ」

 長い一日、それも、慣れない遠方での出来事を()()()未来見するのはあまりにも手間がかかる。だから、一日の最後に焦点を当てて、()()()()()()見るのが炎俊の流儀だった。

 微笑んで出迎える紫薇。疲れたのか、彼が気に障ることを言ったのか、唇を尖らせる朱華。寛いだ姿で菓子を摘まむ朱華。……平穏な未来もあった中で、がらんとした星黎宮にひとり佇む彼自身の姿も、確かに見えていたのだ。

「──我らには言っておけ、馬鹿!」

 隣にいた翰鷹皇子が大きく息を吸う気配がした、かと思うと、耳と頭を揺さぶる大声で怒鳴られた。紫薇がまだ理解し切れていない様子で虚しく目と口を開閉させているのに比べると、皇族だけあって話が早い。

「……雪莉も同じこと言うでしょう」

 兄からの一喝に、炎俊は苦笑して頷いた。またも、朱華を別の名で呼ばなければならない心苦しさを舌先に感じながら。

(あの者もきっと怒って、ひどく怒鳴る。うるさいほどに)

 耳に刺さる高い声が、懐かしくてしかたなかった。皇宮に入って以来、一応は皇子である彼に、あれほど真っ直ぐに感情をぶつけ、物怖じせずにはっきりと口を聞く者はひとりとしていなかったのだ。

「申し訳ございません。志叡兄上と翰鷹兄上が信用できるとは思ってもいなくて──それに、甘く見ていました。私はともかく、雪莉までもが狙われることはないだろうと。優れた力を持つ彼女を害そうとする者はいないだろうと。それに──」

 彼女が目の前で攫われて、これほどに怒りと悔しさを感じるとは。合理的な行動ができないほどに、彼女の不在に心を乱されるとは。

「……紫薇。そなたが裏切った理由は想像がつく。私の頼りなさゆえだろう」
「裏切った、なんて。私、そんな……っ」

 顎に沿えた手に力を込めると、紫薇は悲鳴を上げた。炎俊には闘神の素質はなく、並みの男ていどの力だというのに大げさだ。あるいは──彼は、よほど恐ろしい目つきや表情をしているのだろうか。

 不思議に思いながら、炎俊は紫薇の目を覗き込み、低く囁いた。

「そなたは、安全と安心が欲しかっただけだろうとも。……だが、彼女を巻き込むのは許せぬ」
「──ひ」

 とたんに、紫薇はいっそう激しくがたがたと震え出した。制御できない時見が見せるいずれかの未来で、炎俊はよほど残酷な仕打ちを彼女にするのかもしれない。朱華が無事に戻らなかった未来なら、もしかしたら。

「恐れるな。そなたは口を割る必要さえないのだ。ただ、見せておくれ。そなたに命じたのは何者か、彼女はどこにいるのか──」

 望まぬ未来を遠ざけるため。朱華を取り戻すため。炎俊は遠見の目を凝らした。紫薇が見たはずの黒幕の姿、そして、彼女の居場所を突き止めるために。