【1話だけ大賞受賞・完結】炎華繚乱 偽の姫は予言の皇子と玉座を目指す

 黒を基調に、絢爛な装飾が施された星黎(せいれい)宮は、その名の通り、星が散りばめられた夜空を思わせる、荘重かつ美しい宮殿だ。

 東の碧羅宮は、青。南の辰緋宮は、赤。西の皓華宮は、白。そして北の星黎宮は、黒。
 皇太子候補の四人の皇子に与えられる宮は、それぞれの方位に対応する色で飾られている。宮の主の立場に相応しく、皇帝と皇后の住まいに次いで皇宮の中でも格式高く、壮麗な──とても、特別な殿舎だ。

 その特別な宮のひとつに、今は「(とう)家の雪莉(せつり)姫」が迎えられている。それも、ただひとりの妃として。相手が市井出身の炎俊(えんしゅん)皇子なのがやや危ういが、陶家にとってはたいへんな名誉である。
 陶家に仕えた(ほう)にとっては、妓楼育ちの下賎の娘を鍛え、躾けた甲斐があるというものだった。「雪莉姫」の監視役──表向きは相談役──として、彼女も星黎宮に入る気満々だったし、妃の側近兼皇子の外戚への窓口には、敬意が払われるものと疑っていなかった。

 だが──

「なぜです。なぜ、この私が()()()についていて差し上げられぬのですか!?」

 なぜか、最初の夜に星黎宮に送り届けて以来、峯はあの娘に会えていない。豪奢を極める宮の内部をじっくり眺めることが許されないのは不満だし、何より、あの生意気な娘を野放しにしておくことなど思いもよらない。

「碧羅宮へのお招きも、勝手に承諾されたと──お衣装や髪形のお手伝いをしなければならなかったし、心構えもお伝えしたかったのに……!」

 あの娘が、碧羅宮での妃たちの茶会に出席したと聞いて、峯は卒倒するような気分を味わった。
 遠見の力に加えて、あの娘の見た目の良さも機転も認めざるを得ないが、時に反抗的な顔つきをするのをかねてから懸念していたのだ。
 (そう)凰琴(おうきん)を始めとした手強い妃たちの機嫌を損ねぬよう、立ち回りには最新の注意を払わねばならないのに。陶家の姫としていかに振る舞うべきか、改めて叩き込んでおきたかったのに。

「陶妃様の身の回りのことは、何もかも私が滞りなく整えさせていただいております。ご実家の方々のお手を煩わすことはございません」

 なのに、紫薇(しび)とかいう若い侍女は、きっぱりと言い切って峯を宮の中に通そうとしないのだ。皇子に仕えるだけあって顔かたちは整って、所作も優美そのものだが、だからこそ傲慢さや冷ややかさも感じられて気に入らない。

(年寄りだと思って侮っているのか。陶家の後ろ盾は、炎俊皇子にとっても大事だろうに……!)

 峯が睨んでも、紫薇の微笑は揺らがない。皇子に仕える侍女に怒鳴りつけることなどできないのを、見透かされているのだろう。

「ですが、馴染んだ者がいなくては、雪莉様もお寂しいかと……!」
「陶妃様とは、もう親しくお言葉を交わしていただいております。年が近い者同士、気安いと思ってくださったのかもしれません」
「お若い方々だけでは目の届かないこともおありでしょう。うるさいとはお思いでしょうが、年寄りもいたほうが──」
「炎俊殿下の思し召しでもございますので。おふたりきりで過ごされたいのでしょう」

 必死の思いで食い下がっても、皇子の意向を持ち出されてはなす術がなかった。ぎり、と歯軋りして押し黙る峯に、紫薇は勝ち誇ったように──彼女にはそう見えた──微笑んだ。

「ご心配は無用です。碧羅宮ではお話が弾んだとのことで、辰緋宮と皓華宮のお妃がこの宮を訪ねてくださることになりましたから」
「まさか、そのような──」

 星黎宮に、というか、炎俊皇子にわざわざ近づこうとする妃がいるとは信じがたくて、峯は目を瞠った。

(それは、何かを企んでのことなのでは? 碧羅宮の方々は見過ごしてくださるのか?)

 あの娘が何かしでかせば、陶家にも累が及びかねない。否、むしろあの娘は報復として陶家を道連れにしようとしているのかも。何より──

(これ以上の勝手を許せば、()()が台無しではないか……!)

 疑い焦るあまり、峯は目の前の紫薇のことを束の間忘れていた。

「……ということですので、今日のところはお引き取りくださいませ。御用があれば、陶妃様からご連絡なさいますでしょう」

 思い出したのは、有無を言わせぬ笑顔で帰れ、と言われてからのことだった。

(小娘が……!)

 かつてあの娘にしたように、鞭で打って思い知らせてやれれば、と思うが──無論、できない。峯にできるのは、不信と不満と苛立ちとを、声と眼差しに込めてあて擦ることくらいだ。

「炎俊殿下が、雪莉様をそれほどお気に召してくださるとは光栄でございます。お立場も評判も考えられぬほどに、陶家の気遣いを退けるほどに独り占めされたいとは! そのようなご意向にも従わねばならぬとは、仕える方々もご苦労なさいますな!」
「私は、炎俊様に忠誠を誓っておりますので。その炎俊様が選んだ御方にお仕えすることも、心から嬉しく思っております」

 紫薇は、さらりと述べると文句のつけようもないほど優雅な所作で一礼した。嘘を言っているようには見えないが──揺るぎない声は、かえって峯に疑念を抱かせた。

(この女は例の予言を信じているのか? 皇宮の中でもまともに信じる者はごく少ないのに?)

 雪莉姫を嫁がせた陶家でさえ、大穴に賭けた、くらいのつもりであるのに。炎俊皇子に忠誠を誓う者がいるなど、にわかには信じがたかった。
 それだけではない。不審な点はまだほかにもある。

(炎俊皇子は、本当にあの娘をそれほど気に入ったのか? 外戚に陶家の力を望んだのではなく? 下々の生まれ同士で、よほど馬が合ったのか?)

 考えるほどに、何かがおかしい、と思った。だが、それらの疑問を紫薇にぶつけたところで、正直な答えが返ってくるはずもない。

「もったいないお言葉です。では──雪莉様を、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「はい、もちろんでございます」

 なので、峯はこの場では大人しく引き下がることにした。丁寧に拱手の礼をすれば、紫薇は安堵したように返礼した。

(調べねば。この女のこと、星黎宮の内情について。下賎の小娘の思い通りにさせてなるものか……!)

 陶家は栄えなければならないし、雪莉姫は高い地位に上らなければならない。……そのためには、手段を選んではいられない。

 決意を胸に、峯は星黎宮を後にした。
 碧羅(へきら)宮での茶会から数日後──佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)星黎(せいれい)宮に招く話は整った。客人を迎えるために、朱華は鏡台の前に座らされている。鏡越しに見る紫薇(しび)は、なぜかとても機嫌が良さそうだった。

星黎(せいれい)宮に、ほかの宮からお客様を迎えるなんて。こんな日が来るとは、思ってもみませんでした……!」

 流れるような手つきで朱華の髪を梳きながら、日ごろは控えめな侍女は、歌うような調子で言った。

「そ、そう……?」

 まるで、友だちがいない子供に遊び相手ができて安心したかのような、大げさな物言いに、朱華は首を捻ってしまう。

(でも、そうかな……大姐(おねえさま)がたのあの調子だと、皇子同士もそんなに仲良くなさそうだし……)

 紫薇だって、炎俊の母親や姉のような目線で言っているのではないだろう。
 主の勢力は、使用人の立ち位置にも影響するものだ。妓楼でも、誰が売れっ子だとか落ち目だとかで勢力図は変わってくる。後宮ならなおのこと、主の立場が不安定だと、使用人は肩身が狭いどころか命の危険を感じることだってあるかもしれない。

「あんなご主人で、貴女たちも大変だったんじゃ……?」
「それは──でも、皇上(こうじょう)の予言を信じておりましたから。それに、大した力もない身を、この宮に置いていただいた御恩がありますし……」

 紫薇は大きく首を振ったけれど、言い訳のように述べた言葉はかえって朱華の懸念を裏付けた。空気を読んだり方便を使ったりをしない炎俊のこと、星黎宮の使用人たちは、これまで不安な思いをしていたのだろう。

(皆のためにも、もっとしっかり、って言っておかないとね)

 後でお説教を、と心に留めてから、朱華は鏡の中の紫薇に微笑みかけた。
 お客様を迎えるための身支度は、いつもよりも時間が掛かる。この機会に、この侍女ともっと話をしておきたかった。

「ねえ、紫薇にも何かの力があるの?」
「宮女をしていた母が、さる尊い御方のお情けを受けたとのことで──といっても、本来ならとうてい皇宮に留まれるほどの力ではなかったのですが」
「ふうん……」

 何の力か言わないのは、簡単に人に明かさないのが礼儀なのだろうか。紫薇の母君も、何やら委細ありげで立ち入ったことは聞きづらいし。
 紫薇が髪飾りを選ぶ間、朱華は次に何を言うべきか、しばらく考え込んだ。

「えっと。星黎宮も、ずっと妃が私だけってわけには行かないと思うんだけど、紫薇は──」
「とんでもないことですわ! 私には分不相応なことです」

 口では強く否定しながら、紫薇はどこまでも優しい手つきで朱華の髪に絹で造った躑躅(ツツジ)の花飾りを挿した。燃えるような花の色は、やはり彼女に似合う、と思う。

「私のような者は、これ以上生まれてはいけませんもの。私は、侍女としてお仕えするだけで十分幸せなのです」

 朱華の髪を整え終えた紫薇は、今度は彼女の正面に回って微笑んだ。次は、化粧に入るのだ。顔に触れる紫薇の指先は、ひんやりとして心地好い。

(私のような者って……ずいぶん卑下するのね。力の有無や強弱で人の価値を決めるなんて……)

 言いたいことも聞きたいことも、まだまだあったのだけれど。唇に紅筆が近づくと、口を開くわけにはいかなくなってしまう。だから、紫薇とのやり取りは中途半端なところで終わってしまった。

      * * *

 佳燕と芳琳は、ほぼ同時に星黎宮に到着した。西の皓華(こうか)宮と南の辰緋(しんぴ)宮と、それぞれ北の星黎宮との距離は違うのだろうけれど、楽しみにして時間んぴったりに参上してくれたのだろうな、と感じる。迎える朱華としては嬉しいし、おもてなしにも気合が入る。

 二台の轎子(こし)から声が響くのも、ほぼ同時だった。ひとつは淑やかに、もうひとつは弾んで軽やかに。

雪莉(せつり)様、お招きいただき、誠にありがとうございます」
「雪莉様には赤が似合うのですね。とてもお綺麗です! 辰緋(しんぴ)宮にもおいでいただきたいですわ」

 佳燕の微笑は今日も優美だったし、率直な賞賛をくれる芳琳は可愛らしい。先日とは違った楽しい会になる予感に、朱華の頬も緩む。

(辰緋宮はやっぱり赤いのかな? 南の色だものね……)

 まだ見ぬ第二皇子の宮の煌びやかさを思い浮かべながら、朱華は歓迎の想いを込めて、丁寧に拱手した。

「おふたりとも、ようこそお出でくださいました。炎俊様も、お待ちしていらっしゃいましたのよ」

 これは、お世辞なんかではない真実だ。何しろ、下々のように力を振るうのを嫌い、市井育ちの皇子を見下しているとばかり思っていた妃たちの中から、話を聞きたいという方々が名乗り出てくれたのだ。炎俊は、それこそ初めて友だちと遊びに出かける子供のように、明らかにうきうきとしていた。

(でも、()()調子で捲し立てたら、おふたりが怯えちゃいそうだから──)

 最後まで楽しく和やかな席にできるよう、一応の()は打っておいたのだけれど、果たして成功するかどうか。少し緊張しながら、朱華は客人ふたりに微笑みかけた。

「庭に、席を用意しましたの。広いところのほうが、気兼ねをしなくて済みますでしょう?」

 佳燕と芳琳を案内したのは、先日、炎俊と永州(えいしゅう)の遠見をした四阿(あずまや)だ。睡蓮の花がまだ盛りなのが理由のひとつ。そしてもうひとつは、力の使い方の話をするなら、呪の施されていない屋外が都合が良いからだ。

 さらには、ほかの皇子の妃と炎俊が会うことで、醜聞の種になってはいけない。
 帝位を狙う競争相手とはいえ、義理のきょうだいで家族同然の間柄なのだから、本来は会ったところで何の問題もないはずなのだけれど──なるべく隙を見せないに越したことはない。壁もない、傍から丸見えの四阿で不貞なんてとんでもない、ということにしておいたほうが良いだろう。

 庭が近づき、水と緑の瑞々しい香りと気配が感じられるようになったころ──朱華の背後から聞こえるふたつの足音が、少し重く、遅くなってしまった。佳燕と芳琳の、小声での囁きも聞こえる。

「……私、緊張してきましたわ」
「私も。炎俊様は、これまでは式典の時などに遠目にお見かけするだけでしたから……」

 皇族のくせに積極的に平民を登用し、妃までもこき使う気満々だという炎俊に、教えを乞おうというのだ。控えめな佳燕や、幼い芳琳が怯えるのも無理はない。
 客人の緊張を解すべく、朱華はくるりと振り向いて明るく言った。

「我が君の評判は、想像がつきますわ。恐ろしい、厳しい方だと思われていらっしゃいますのね? でも、心配はご無用ですわ。お願いしていた()()()は、お持ちしていただけましたのよね?」
「え、ええ」
「もちろんですわ……!」

 佳燕と芳琳がこくこくと頷いたところで、視界に眩しい光が差した。戸外に出たのだ。太陽の光が木々の緑を輝かせ、池の水面を渡る爽やかな風が、心地好い涼気を届けてくれる。

 麗しい風景の中、凛と立って妃たちを迎える炎俊もまた、見た目には麗しい貴公子だった。

「佳燕義姉(あね)上、芳琳義姉上。親しくお話する機会をいただき、嬉しく思っております」
「こ、こちらこそ……」
「星黎宮にお招きいただき、光栄ですわ」

 礼儀正しい微笑と口上に、佳燕と芳琳もややぎこちなく挨拶を返す。朱華がしつこく言い聞かせた甲斐あって、第一印象はそう悪くないようだ。……では、次の手を打つ時だ。

「おふたりから、炎俊様にお土産があるそうですの。ね、佳燕様、芳琳様!」

 朱華の目配せに応えて、佳燕と芳琳は侍女に携えさせていた包みを炎俊に()()した。

月餅(げっぺい)でございます。餡に南国の果物と、香辛料も使っておりますので、珍しくて華やかな味わいかと──」
「桃の(シロップ)漬けの蛋糕(ケーキ)です。辰緋宮には、桃林がございますから」

 説明しながら、ふたりの視線は不安そうに朱華を窺っていた。それぞれの宮で自慢の甘味を持参して欲しい、と言われたものの、こんなもので良いのだろうか、と思っているのだろう。でも──

「ありがとうございます。私は、甘いものに目がないのです」

 朱華が思っていた通りだった。
 炎俊は、輝くような満面の笑みでお土産の菓子を受け取った。最初の社交的な微笑とは打って変わった、心からの嬉しそうな笑顔だ。声も、明らかに弾んでいる。

「そ、そうでしたの……?」
「あの、本当に美味しいのです。お気に召すと良いのですが……!」

 怖と思って構えていた相手の、子供のように無邪気な姿を見せられて、佳燕も芳琳も自然な笑みを浮かべていた。

(厳しい皇子様が甘いもの好きだなんて、思わないもの。隙を見せると落差(ギャップ)で気を許してもらえるのよ……!)

 花街で見て覚えた手管が成功したのを見て取って、朱華は内心で快哉を上げた。炎俊に勧められて席に着く佳燕と芳琳の所作からは、ぎこちなさが消えていて──今日は、楽しい会になりそうだった。
 卓上に積み上げた菓子を摘まみつつ、炎俊(えんしゅん)()()を始めた。

佳燕(かえん)義姉(あね)上は、時見の力が弱いとか。まったく見えないのですか、それとも見えたのがいつ、どこのものごとなのか分からないということですか」
「両方、でしょうか……お恥ずかしいことですが。見えるものもぼんやりとしていることが多いですし……優れた方はいつ、どこの過去や未来を見たのか分かるものだと聞きますが、私にはそれも区別がつかなくて」

 あるいは、()()、とも言えるだろうか。
 炎俊の冷静な問いかけは医者のようだし、不安げにおずおずと答える佳燕は、重い病気ではないかと怯える患者のようだった。……膝の上にきっちりと手を揃えた佳燕に比べて、言葉の合間合間に菓子を口に放り込み、話を聞きながら咀嚼する炎俊は、医者としてはだいぶ不真面目だっただろうけれど。

「訓練としては、毎日違いがあって、身近なもの、かつ記録が取りやすいものを見るのが良いでしょう。花の蕾が開いていくのとか、朝食の献立とか。記録と照らし合わせれば、いつのものを見たのか分かりますから。未来見については、見たもののほうの記録が必要になりますね」
「はい」
「慣れれば、()()()も掴めてくるでしょう。そうすれば、より遠くの地、より離れた過去や未来を見ることができるようになっていくはず。私が会った平民出身のものたちは、そうでした」
「心強いお言葉です」

 態度はともかく、炎俊の言葉は説得力があって、朱華にとっても興味深いものだった。

(時見や遠見の力があっても、何が見えたか分からない人もいるんだ……!)

 朱華にとっては、遠見の感覚は実際の視界に映るものを見るのと変わらない。遠近の感覚は教えられずとも分かるし、首を傾げたり目線を上げたり下げたりするのと同じ感覚で、見る角度を変えることもできる。でも、どうやらそれは普通のことではないらしい。

(でも、言われてみればそうかもね。昨日と今日と明日とで、庭の眺めがそう変わるものでもないし……遠見のほうが()()を合わせるのは難しそう……?)

 芳琳も真剣に聞き入っているのを見れば、自分にはない力の持ち主の見え方や感じ方は、やはり新鮮なのだろう。今日は、思った以上に有意義な会になるのかもしれない。

「あとは、見ようとする対象への思い入れも重要です。見慣れたもの、愛着があるもののほうが見やすいようです。なので、佳燕義姉上なら、翰鷹(かんよう)兄上を練習台になさると良い」
「え、我が君様を……?」
()()も、よくご存じでしょうし」
「目印と、仰いますと──」
黒子(ほくろ)の位置とか。明確な(イメージ)を持ったうえで、()()をじっくり見よう、という意識を持つと見えやすいようです、遠見でも時見でも」

 佳燕が、耳まで真っ赤に染まった。夫君の寛容皇子の、黒子の位置を熟知する機会は、当然あるに決まっているけれど──昼日中に、義理の弟に出されたい話題では絶対にない。

(まったく、せっかく良い感じだったのに……!)

 炎俊の無神経さが発揮されつつあるのを察知して、朱華は素早く口を挟んだ。

「佳燕様は、第三皇子殿下と仲睦まじくていらっしゃるとか。お召し物も、佳燕様が選ばれるのかしら。模様なんかも目印になりそうですわね……!」
「え、ええ。翰鷹様にお話して、お願いしてみようと思います」

 幸か不幸か、頬を染めているのは佳燕と朱華だけ、芳琳はよく分かっていないようで首を傾げている。まだ幼いから、第二皇子とは夜伽とかそういう話にまだなっていないのかもしれない。

「衣だと、日によって違うだろうに。まあ、それも記録すれば良いが……」

 炎俊は、せっかく効率的な方法を提案したのに、と言いたげに呟いた。少々不満そうな表情が、けれど、すぐにぱっと晴れる。

「あとは、兄上に触れるのも良いでしょう」
「え」
「視覚以外の感覚でも覚えておく、ということです。そうすると焦点が定めやすいですし、遠見や時見の間は身体のほうがぼんやりしがちなものですから、支えにもなります」

 良いことを思いついた、と言わんばかりに胸を張る炎俊に、朱華は内心で頭を抱えた。せっかく和やかな空気が戻りつつあったのに、佳燕はまた赤面して俯いてしまった。それに──炎俊の言葉は、先日の遠見での小旅行を思い出させる。

「私、支えにされていたの……?」

 永州(えいしゅう)を遠見で覗いた時のことだ。意識と視点を彼方に飛ばしていた間、ふたりはずっと手を取り合っていたのだ。夫婦で手を繋いでの散策のよう、だなんて──甘いことを考えていたのに。今の言い方だと、炎俊は単に支えが欲しかっただけのようだ。

「私がそなたを支えていたのだ。ずいぶん強く手を握っていたではないか」

 抗議を込めて軽く唇を尖らせると、炎俊は当たり前のような顔でさらりと言った。

「な──そっちから握ってきたんじゃない……!」

 「(とう)家の雪莉姫」にあるまじき、砕けた言葉遣いで皇子に噛みついてしまったことに気付いたのは、言い終わった後だった。慌てて口を押えるけれど、もう遅い。

(やっちゃった……?)

 佳燕も芳琳も、朱華の大声に目を丸くしている。怪しまれてしまったかも、と一瞬恐れたのだけれど──ふたりの妃は、顔を見合わせるとふふ、と笑い合った。

「炎俊様と雪莉様も、仲がよろしいのですね……」

 うっとりとした眼差しで見つめてくる芳琳に、あらぬ誤解をされていることに気付く。気安い言葉遣いをしても咎められないくらい、炎俊に愛されていると思われたらしい。佳燕も、微笑ましそうに目を細めてうんうんと頷いている。

「い、いいえ、芳琳様! ちょっと、ふたりで遠見をしただけで」

 羞恥に頬を染めるのは、今度は朱華の番だった。誤解を解くべく振り回した手は、でも、炎俊に掴まれてしまう。

「遠見で、我が領地の視察をしたのですよ。こうして──近づいていたほうが話しやすいですし」

 わざわざ朱華に顔を寄せた炎俊は、たぶん、実際にやってみせたほうが分かりやすい、と思っただけだ。もちろん、そんな情緒のなさは客人にはバレていない。だから、芳琳はいっそう頬を緩ませて、ほう、と熱い溜息を吐いた。

「佳燕様も雪莉様も、とてもとても羨ましいですわ……」

 どうも、芳琳にはただの惚気(のろけ)だと思われたらしい。

(誤解……していただいたままのほうが良いんでしょうけど。は、恥ずかしい……)

 炎俊の手を振り払っても、指先の熱はなかなか去ってくれなくて、朱華の頬も熱いままだ。平然とした顔をしているのは炎俊だけ、女は三人とも何かしらの理由で赤面している、おかしな席になってしまった。

 ともあれ──朱華と佳燕の寵愛のされようを見て、芳琳はますます発奮したらしい。恐らくはまた割ってしまわないように、茶器を慎重に卓に置いた後、怪力の少女は、小さな拳を固く握って炎俊に訴えた。

「私は、見ることに関わる力ではないのですが。闘神などという物騒な力でも、女の身でも、何か我が君様のお力になれないでしょうか!?」
「もちろんです」

 炎俊が躊躇うことなく頷いたのは、お世辞や気休めではない。そういうごまかしはしない奴だと、朱華はもう知っている。
 事実、炎俊はまたしても滔々と語り始めた。

「闘神の力は、何も戦いのためだけに使うものではないのですから。例えば──」

      * * *

 佳燕と芳琳は、笑顔で星黎宮を辞去した。
 お土産にいただいた菓子を食べ過ぎた分、軽い夕餉を済ませた後──朱華は、炎俊と(ねや)に寝転がっていた。呪によって遠見の視界を閉ざされている居心地の悪さ、心もとなさにも、もう慣れてきた。……内衣(したぎ)姿で、炎俊の温もりを感じることにも。

(外からも絶対見えないらしいから。内緒話にはこれが一番だから)

 自分に言い訳しながら、柔らかい寝具に眠気を誘われながら。朱華は、悪戯っぽく炎俊に笑いかけた。灯りを落とした暗闇の中、彼の顔だけがほんのりと白く浮かび上がって見える。

「ほかの宮のお妃たちに分かってもらえて、良かったわね。私のお陰よ?」
「うん。そなたには感謝しているが……」

 炎俊の声に、戸惑うような響きが聞こえて、朱華は半身を起こした。

「何よ。文句でもあるの?」
「いや。義姉上がたは、力を使って何かすることを蔑んでいらっしゃると思っていた。これまで私が何を説いても、耳を傾けてくださらなかった──興味を持ってくださらなかったのに。朱華。そなた、どんな術を使った?」

 炎俊は真剣に疑問に思い、悩んでいるらしい。闇の中に煌めく彼の目は、驚くほど──というか呆れるほど真っ直ぐだった。

「いや……好きな人の役に立ちたいって、普通の感情でしょう?」
「では、そなたは私を好きなのか? とても、役に立ってくれている」

 言いながら、炎俊も身体を起こした。朱華を抱き寄せたのは、暗い中ではどこに顔があるかよく分からないから、目を合わせて話すためだけだろう。こいつに人並みの欲がないのは、これまで毎晩のようにぐっすり安眠することができていることからも明らかだ。

 でも、だからといって、逞しくしなやかな身体を間近に感じて、動揺しないわけにはいかない。

「ど、どうだろう……目的のため、自由になるためっていうのも、大きいけど」

 鼓動が早まり、呼吸が乱れているのを悟られるのは、恥ずかしかった。精いっぱい、口では強がってみたのだけれど──やはりというか何というか、炎俊は朱華の動揺なんて気付いた様子もなかった。

「兄上がたにも、諸侯や高官にも私を好いてもらいたいものだ。そうすれば、色々と上手くいくのではないか?」

 しみじみと的はずれなことを言われて、朱華は思わず脱力した。そうして、自分の体重で炎俊を押し倒す。

「朱華?」
「あんたはまず、情緒の勉強が必要そうね……」

 苦笑しながら、朱華はぽんぽんと炎俊の頭を撫で、解いた髪を指で梳いた。まるで、子供の寝かしつけをしているような気分だった。
 (そう)凰琴(おうきん)は、自身が昊耀(こうよう)国の皇后になれるものだと信じて疑っていなかった。
 だって、彼女は第一皇子龍基(りゅうき)の第一の妃、碧羅(へきら)宮の女主人だ。皇族の中から選び抜かれた四人の皇子を競わせて次代の皇帝を決めるのが昊耀の習いとはいえ、年長の者のほうが有利なのはいうまでもない。

 彼女の夫、龍基は見目良く背高く、複数の力を備えた申し分のない皇太子候補だ。力の中には水を操る水竜もあるから、凰琴との相性も良い。彼女たちの子も強い力に恵まれるはずで、きっと碧羅宮を受け継いでくれる。──少し前までは、そんな、輝かしい未来を思い描いていたのに。

 なのに、今宵、夫の酌をする凰琴の手は、微かに震えている。
 碧羅宮の妃はひとりではなく、彼女の座を狙う女もいる。その中の誰かが、後宮の出来事の噂話の()()で、彼女の不始末を夫の耳に入れたかもしれないと思うと恐ろしいのだ。

「近ごろ、星黎(せいれい)宮が賑やかなようだね」
「……っ、は、はい……申し訳ございません……」

 とても、怯えていたから──龍基に声をかけられて、凰琴は鞭打たれたように身体を跳ねさせた。手元が狂って酒が零れてしまったのを咎めもせずに、龍基は杯を干す。

「なぜ謝る? 炎俊(えんしゅん)がやっと妃を迎え、社交の意味を知ったのなら喜ぶべきことだ。これまでは仲間外れにしているようで心苦しかった」

 夫の言葉を信じることなどできなかった。星黎宮に居座っている第四皇子、炎俊の機嫌を伺う妃がいなかったのは、凰琴の意図を受けてのこと。そして、彼女は夫の言葉や態度の端々からそのように命じられていると汲み取ったのだ。

 皇帝の予言は外れなければならない。炎俊は帝位に就いてはならない。それが、龍基の望みであるはずだった。

(お心を変えられた? まさか……!)

 ここ最近、辰緋(しんぴ)宮の芳琳(ほうりん)と、皓華(こうか)宮の佳燕(かえん)が頻繁に星黎宮を訪ねているのは把握していた。より正確に言えば、市井上がりの炎俊と、あの生意気な(とう)雪莉(せつり)を。
 芳琳も佳燕も、天遊林(てんゆうりん)では立場が弱く、孤立しがちな妃だった。
 取るに足らないと言えばそれまでだけど、でも、その取るに足らない者たちが、龍基と凰琴との意に背いた行動をしているのだ。夫は絶対に不快に思っているだろうし、だからこそ叱責を恐れていたというのに。

 青褪めて白い顔になっているであろう凰琴を見下ろして、龍基は優しく微笑んだ。

「しかし、年下の者たちだけで楽しそうだと、私のほうが仲間外れの気分になってしまう。炎俊たちが何をしているか──そなたは、知っているのかな」
「それ、は」

 これは罠だ、と凰琴は直感した。

 彼女は、星黎宮で何が起きているかあるていど知っている。炎俊が、佳燕たちに力の使い方を教えているのだと。
 でも、そう答えれば、夫の意に沿わぬ行動をする妃がいるのに統率できていないことになる。凰琴の立場では許されない失態だ。

 だからといって、知らない、とも言えない。第一皇子の第一の妃ともあろう者が、天遊林で何が起きているかを把握していないなんて。それもまた、決して許されないことだ。

 だから、彼女に残された道は──

「……もちろん、我が君様の御心に適うこと、でございましょう。炎俊様も雪莉様も、お友だちの方々も。皆様、ものの道理を弁えて、お立場に相応しい振る舞いをなさるに()()()()()()()

 あるべき状態をちゃんと理解していると、夫に伝えなければ。そして、口先だけでなく、実際に()()させなければならない。

「うむ、そうだろうな。さすがは凰琴だ。頼りにしているぞ」
「恐れ入ります……!」

 炎俊や雪莉が調子に乗っているなら、立場を()()()()()。龍基の妨げになる振る舞いはさせない──凰琴の決意表明は、夫を喜ばせたらしい。
 にこやかな笑顔と言葉で、凰琴の両肩に重圧を乗せた龍基は、機嫌良く杯を重ねてから寝台に向かった。

 夫が安らかな夢の中にいるのを確かめてから、凰琴はそっとその隣から抜け出した。そして、慌ただしく上衣を着せかける侍女に、鋭く命じる。

()()()を呼び出しなさい。今、すぐに!」

 ぐずぐずしているわけには、いかなかった。夫を失望させたら、彼女の立場も安泰ではないのだから。
 一刻も速く、炎俊たちの()()を阻止しなければならなかった。
 佳燕と芳琳を招いての勉強会のようなものは、片手に余るくらいの回数を重ねてますます楽しくなっていっている。

 佳燕は、炎俊の助言に従って訓練を重ねた結果、時見の精度が上がっているらしい。練習の過程で、夫の翰鷹(かんよう)皇子との触れ合いも増えたそうで、会うたびにこちらまで照れてしまいそうな惚気話を聞かせてくれる。

『我が君様と一緒だと、どこまでも遥かな時の流れを見渡すことができそうな気がしますの。きっと、これまでは緊張していたのも良くなかったのですね……』

 怖い大姐(おねえさま)がたの品定めの目を浴びながらでは、委縮してしまうのも無理はない。でも、今の佳燕なら、もっと自信を持って堂々と臨むことができるのではないだろうか。

 芳琳も、夫君の第二皇子との関係は良好らしい。

『闘神の力が恥ずかしい、という感覚は、殿方には気付いていただけていなかったそうですの。これまでのお詫びに、と仰ってくださって──今度、視察に同行させていただくことになりました!』

 第二皇子、志叡(しえい)殿下は、複数の妃の力関係の調整が重要であること自体は承知していたとか。朱華(しゅか)が予想した通り、幼い芳琳はまだ夜伽に侍ることができず、力も社交の場で披露するには向かない。ならば、ということで、怪力の彼女の活躍の場を、建築や治水の分野で探してくださるらしい。
 可憐な姫君が先陣を切って活躍したら、現場の職人や工夫たちも、きっと張り切ることだろう。

(きっと今日も、ご夫君がたの惚気を聞かせてくださるわ。楽しみね……!)

 朱華自身は、炎俊とは甘いやり取りはとんとない──それどころか、子供に人との接し方を教えているような有り様だから、余所の夫婦の可愛らしい様子はなおのこと聞きたいものだった。

 身支度を手伝ってくれる紫薇(しび)も、ほかの宮からの客人を迎えるのに慣れたようで、毎回、違った趣向で朱華を飾るのに熱中しているようだ。

「皓華宮から届いた贈り物です。今日は、こちらになさいますか?」

 そう言って紫薇が差し出したのは、珍しい夜光(やこう)の珠で造った(かんざし)だった。佳燕が御礼とお近づきの印に、とあつらえてくれたものだ。

「ええ。佳燕様と芳琳様とお揃いに、ってお話しているの」

 ふたりとも、ただでさえ甘いもの好きの炎俊のために、種々様々の菓子を手土産にしてくれているのに。佳燕には気を遣わせてしまった、と思う。

(私からも、何かお返しをしないとね。予算とかは、炎俊に聞けば良いのかしら?)

 友だちとお揃いのものを贈り合うのも、朱華にとっては初めてのこと。ふたりに似合うものを、と考えるとどうしようもなく胸が弾む。

「おふたりにも本当の名前を教えられないのは、申し訳ないわね……。仕方のないことなんだけど」

 ……ほんの少しだけ残念なのは、暗闇で光を放つという、青白い夜光珠の簪が、雪の結晶を(かたど)っていることだ。雪莉、の名前から考えてくれたのだろう。その名前の姫君はもう亡くなっていて、偽者がその名を使っているだなんて、佳燕は知る由もないのだ。

「ご心中はお察し申し上げます。でも、あの……貴女様は、表向きには陶家の雪莉様でいらっしゃいます」

 溜息を洩らした朱華に、紫薇はどこまでも優しく言い聞かせた。

「ええ。……紫薇は、ずっと(ほう)の婆の相手をしてくれてるのよね。うるさくてしつこいでしょうに……申し訳ないし、いつも感謝してるのよ」

 炎俊が黙ってくれているだけで、決して露見してはならないことだとは、朱華も承知している。今も朱華にあれこれと指示しようと接触を試みる峯──陶家の手先を、紫薇が通さないでいてくれるだけで十分だと思わなければならない。

「もったいないお言葉でございます」

 鏡越しに礼を言うと、紫薇は慎ましく目を伏せた。
 雪の結晶をどこに挿すかでしばらく試行錯誤しているようだ、と朱華は思ったのだけれど。紫薇は、何か違うことで悩んでいたらしい。鏡に映る彼女の唇が強く結ばれた、かと思うと、意を決したようにおずおずと開かれた。

「あの。ご実家のご意向を、知りたいとはお思いにならないのですか……? 炎俊様は、不要との仰せなのですが。あの方は、その、そういう機微が不得手でいらっしゃいますから……」



3-7

 紫薇(しび)の歯切れ悪いもの言いに、朱華(しゅか)は眉を寄せた。

「何? あの婆、そんなにしつこいの? 何か……脅されてたり、とか……?」

 思えば、(ほう)に会わなくて済むなら好都合と、紫薇に任せきりにしてしまっていたかもしれない。名家の一員であることをこよなく誇りに思っているらしいあの婆のことだから、侍女への当たりがきつくてもおかしくない。

(ただでさえ、私の手綱が外れて苛立っているんでしょうし、ね)

 気付いた上で目を凝らせば、鏡に映る紫薇の表情は強張っているようにも見えた。いくら落ち着いているように見えても、朱華といくつも変わらなさそうな若い女性に、海千山千の峯の相手は辛かったのかもしれない。

「……陶家が私に言うのは、さっさと懐妊しろとか、炎俊(えんしゅん)を帝位に近づけるためにあれをしろこれをしろ、って辺りだと思うの。聞くまでもないし、正直言って聞きたくないことでもあるけど」

 たぶん、聞くまでもないと思っているのは炎俊も同じだ。無駄が嫌いな彼のことだから、分かり切ったことを聞く必要はないと断じているのだろう。
 一般論を言うなら、それでも会って機嫌を伺っておくべき相手というのはいるけれど──陶家については、朱華もわざわざ会いたいとは思わない。でも──

「……紫薇が大変なら、一度私が会ってみる? ほかの宮の方々とも仲良くなったし、()()()()だって言ってやる?」

 陶家の望みは、要は自家の「雪莉姫」が皇后になること、だ。峯は、そのための()を授けようとしているのだろう。

(でも、そんなの要らないわ。心配無用、余計なことはするな、って釘を刺してやっても良いかも……!)

 卑劣な策を巡らせるまでもなく、炎俊は自分の力で帝位を掴めるはずだ。朱華には未来を知る遠見の目はないけれど、傍で見ていれば信じられる。
 碧羅(へきら)宮で、凰琴(おうきん)や取り巻きたちも不穏なことを言っていたし──陶家も、一度は予言を真に受けて「雪莉姫」を妃として差し出したのだから、動じず見ていろ、と言っておきたい。

 朱華の胸に、闘志の炎がめらめらと燃え上がりかけたのに気付いたのか、紫薇が狼狽えた声を上げた。

「い、いえ……! そのようなことをして、朱華様にもしものことがあれば、炎俊様に申し訳が立ちません……!」
「そう? 本当に大丈夫?」

 殴り込みに行くのを縋りついて止めようとするかのような慌てように、朱華は少し苦笑した。

「もしものこと、だなんて大げさね。陶家の連中が『雪莉姫』に何かするはずないでしょう?」

 今の朱華は、炎俊の寵愛を受けている、ということになっている。もはや、陶家にいた時のように鞭で折檻したりなんてできないのだ。

 もちろん、妓楼上がりの平民の小娘を自家の姫として扱うなんて、不本意に違いないだろうけれど。それでも、ややこしいけれど朱華は表向き雪莉姫なのだと、ほかならぬ紫薇が言ったばかりだ。

「ええ……そう、でした」

 それを思い出してくれたのか、紫薇はぎこちなく微笑むと目を伏せた。

「余計なことを申しました。本当に……少しだけ、心配になっただけなのです」
「なら良いけど……」
「申し訳ございません。手が止まってしまっておりました。すぐにお支度をいたしましょう」

 紫薇の話題の打ち切り方は、少し強引にも思えた。けれど、すっぴんで客を迎えるわけにもいかないのも確かだから、朱華は大人しく化粧されるのに任せた。
 ただ、紅筆が唇を塞ぐ前に、言っておきたいことがある。

「貴女も、私を本当の名前で呼んでくれるのね。嬉しいわ」

 紫薇も、炎俊と同じく彼女のひみつを分かち合う大切な仲間のひとり。朱華と呼んでくれるのも、心配してくれるのも、とても嬉しいことだった。
 その日の集まりも、妃たちの華やかな笑い声が弾けて庭の花にいっそうの彩りを添えた。

「佳燕様、素敵な贈り物をいただき、ありがとうございました……!」
「とんでもない。雪莉様も芳琳様も、とてもよくお似合いですわ」
「せっかくの夜光の珠なのですから、暗いところでもつけてみたいですわね。蛍を見る会などいかがでしょう?」
「まあ、素敵……!」

 佳燕は、名前の通りに(ツバメ)の簪。珠を薄く削って造った翼の細工は繊細で、髪の色を透かすほど。青白い球の色が、佳燕の艶やかな黒髪を引き立てるようだ。
 芳琳の簪は、芳しい花にちなんで桂花(キンモクセイ)だ。小さな花を(まり)のように集めた飾りは華やかかつ可愛らしく、芳琳の初々しい雰囲気によく似合っていた。

「炎俊様、雪莉様のお姿はいかがでしょう?」
「うん? うん。似合っているのではないか、雪莉」
「ふふ、お菓子ばかりに夢中になっていては嫌われてしまいますわよ?」

 佳燕も芳琳も、最初のころは炎俊に対してとても構えた様子だったのに。今なら、冗談めかしたやり取りもできるようになったらしい。言われた通りに朱華を褒めた炎俊に、佳燕は満足そうに頷いている。

(甘いものを食べてるところを見ると、子供みたいだものねえ)

 特に佳燕から見ると、本当に弟のように見えるのかもしれない。そして、年下の芳琳のほうも、炎俊にだいぶ慣れ親しんでくれたようだ。

「炎俊様! 実は、我が君様からご伝言がございますの」
志叡(しえい)兄上から? 義姉(あね)上がたをお招きしていることに対して、何かお咎めでも?」

 例によって土産の菓子をしっかりと手に取りながら、炎俊は真面目そのものの面持ちで尋ねた。

(そ、そういえば、おふたりのご夫君がたは面白くなかったりするのかしら。炎俊に嫉妬したりとか……?)

 炎俊にとっては目上にあたる、第二皇子を怒らせてしまったのかと、朱華の背に冷や汗が浮いた。でも──芳琳は、輝くような笑顔のまま、ふるふると首を振った。

「その逆ですわ! 志叡様は、ここのところ私がやけに楽しそうだと──ですので、仲間に入れて欲しいとの仰せなのです!」
「仲間……? あの、皇子殿下を星黎宮(ここ)にお迎えするということになりますか……? それとも、辰緋(しんぴ)宮にお招きいただけるのでしょうか」

 お叱りの伝言でなかったからといって、完全に安心することはできなかった。
 気軽におしゃべりを楽しめるのも、仲良くなった妃同士だからこそ。皇子様のおもてなしなんて、朱華の手に余る。かといって、辰緋宮には芳琳以外にも怖い大姐(おねえさま)がたがいるはずで。

 朱華の顔が強張ったのに気付いてくれたのだろう、芳琳は、今度は彼女に向けて首を振った。

「もちろん、雪莉様にご心労をおかけするつもりはありません。皓華(こうか)宮の翰鷹(かんよう)様と佳燕様もお招きして、船遊びでもいかが──ということなのですが……!」

 芳琳のきらきらとした眼差しを受けて、佳燕は軽く首を傾げた。

「とても嬉しいお誘いですわ。翰鷹様にもお伝えしますが……」

 佳燕がすぐに頷かず、朱華と炎俊を視線で窺ってきた理由は、分かる。

 皇族ともなると、兄弟だからといって気軽に遊びに出かけて良いのだろうか、と思ってしまう。それは、手続きとか護衛とかの問題だけではなくて。四つの宮を預かる皇子たちは、特に──

(皇太子の座を争う競争相手、なのよね……?)

 弟たちを集めておいて何か──とまで考えるのは、行き過ぎかもしれないけれど。ただでさえ悪目立ちしている炎俊に、何かしら釘を刺すとか嫌味を言っておくとか、とにかく楽しくない目的があったりはしないだろうか。

 朱華の疑問と不安を読み取ったのだろう、芳琳は力強く頷いた。

「ご懸念は承知しております。ですから、心行くまで時見でお確かめくださいませ。我が君に企みなどないこと、お分かりいただけると思いますので……!」

 炎俊に訴える真剣な面持ちからは、幼くても後宮の権謀術数の中で生きる妃のひとりなのだと伝わってくる。芳琳の必死さと真摯さも見えるからこそ、朱華としては裏のないお招きだと信じたいのだけれど。

(そうか、時見なら……!?)

 芳琳に言われて、炎俊は軽く目を伏せた。どこかぼんやりとした顔つきになるのは、今、ここではない、少し先の未来を見ているからだろう。もしも、刺客に襲われるとかの可能性があれば、炎俊には分かる。志叡皇子も当然それは分かっているから、見え透いた目名はしないだろう、とも期待できる。

 しばらくして、炎俊は目を上げた。焦点を結んだ目が芳琳と、それに朱華を順番に捉えて、微笑む。

「……確かに、楽しそうな催しになるようです」
「炎俊様。では……!?」

 勢い込んで問いかけた芳琳に、炎俊はしっかりと頷いた。

「兄上たちに雪莉を紹介しなければ、とも思っておりました。ぜひともお招きにあずかりたいと、志叡兄上にお伝えください。もちろん、翰鷹兄上ともご一緒できればとても嬉しく思います」
「はい。炎俊様の時見と併せて、お伝えいたしますわ」

 危険がないと保証されたからだろう、佳燕も晴れやかに微笑んだ。

「最初の遠出は、兄上の発案になってしまったな。まあ、いずれふたりきりで行く機会もあるだろう」

 炎俊は、朱華に広い世界を見せてくれると言ったのを覚えていてくれたのだ。そうと気付いて、朱華の頬が熱くなる。

「うん……ええ……!」

 煌びやかでも高い塀に囲まれた後宮を出て、(そと)の空や風を味わえる。それも、佳燕や芳琳や──炎俊と一緒に。

(そうよ。本当に……楽しそう……!)

 具体的に思い浮かべると、じわじわと期待と喜びが込み上げてくる。朱華に時見の力がなくて、かえって良かった。何が見られるか、何が起きるかの楽しみを、当日まで取っておくことができるのだから。
 三つの宮の間で慌ただしく書簡が行き交い、行楽の日取りは滑らかに決定された。

 いよいよ夏の盛りを迎える季節ということもあって、舟遊びの納涼の会にしよう、ということになった。

 行き先は、都の近くを流れる運河だ。天遊林(てんゆうりん)からは、皇子たちは騎上して、妃たちは轎子(こし)に乗って船着き場を目指す。皇宮から現れた壮麗な行列に、商人も旅人も皆、畏まって道を開けるだろう。
 そして、第二皇子志叡(しえい)の整えた船に乗り込んで、まずは流れに逆らって上流を目指す。民の暮らしを眺めたり、仙境さながらの山間(やまあい)の景観を堪能した後、帰りは運河の流れに乗って船を駆けさせて、疲れを感じる前に皇宮に戻る──と、大ざっぱにはこのような計画になる。

 もちろん、船上では人の目や耳を気にすることなく歓談することができるし、それぞれの宮の厨師(ちゅうし)は、腕によりをかけた料理や菓子を用意してくれるだろう。水辺や山に咲く花や住む鳥は、天遊林の丹精された庭園とはまったく別の趣があるだろうし、通り過ぎる農村の住人と話がつけば、新鮮な野菜や果物を味わうこともできるかもしれない。深窓の姫君である佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)はもちろんのこと、妓楼と(とう)家に閉じ込められて育った朱華(しゅか)にとっても、初めての体験が詰まった日になるのは間違いない。

(──つまりは、とても楽しみということね!)

 第二から第四皇子と、その妃たちが揃って出かける、その当日──心が弾むあまり、朱華は化粧を終えた紫薇(しび)の指先が頬から離れるや否や、跳ねるように椅子から立ち上がっていた。子供のようなはしゃぎように、紫薇がおっとりと苦笑を浮かべる。

「朱華様──どうぞ、お気をつけになって。崩れにくい髪形にはしましたが、大事な(かんざし)を水に落としたりなさいませんように」
「お淑やかに、ということよね。分かっているわ……!」

 今日も、妃三人はお揃いの夜光の珠の髪飾りをつけて行こうと約束している。佳燕が心を砕いて贈ってくれたものを、出かけた先で失くしてしまうわけにはいかない。

「今日もとてもお綺麗ですわ。二の君様も三の君様も、見蕩れられることでしょう。もちろん、炎俊(えんしゅん)様はしっかりと守ってくださるでしょうが」
「三の君様──翰鷹(かんよう)様は佳燕様ひと筋なんでしょう? 二の君様も、どうもきっちりした方みたいだけど」

 紫薇の褒め方も心配も大げさで、朱華は笑って首を振った。翰鷹も志叡もすでに妃がいるから無用の心配だろうし、そもそも弟の妃を奪うなんて醜聞だろう。

「……でも、仲睦まじいところを見せておいたほうが良いのかしら、ね? ()()炎俊も妃を娶って、しかも上手くやってるんだ、って」

 妃たちの間では、正論ばかりの炎俊は怖がられ嫌われているようだった。兄君たちも、煙たがっていてもおかしくない。人並みに夫婦生活を送れるということ、社交では朱華が支えることを見せておけば、今後のためにもなるかもしれない。

(恥ずかしいけど……頑張らないと……!)

 佳燕様や芳琳様を見れば、些細な仕草や言葉の端々から、ご夫君がたを心から愛しているのが伝わってくる。あのふたりを見習って、炎俊を慕い、案じる健気な姫君を演じなければ、と。朱華は拳を握って気合を入れた。でも──

「……はい。それがよろしいかと思います」
「紫薇?」

 紫薇の相槌に、妙に力が入っていない気がして、ゆるゆると拳を下ろす。よく見ると、忠実な侍女の整った面は、憂いに沈んでいるようにも見える。

「ごめんなさい、はしゃぎ過ぎちゃったかしら。貴女も来られれば良かったのに……」
「もったいないお気遣いです。私は、喜んで留守番を務めさせていただきますので」

 炎俊と朱華が出かける間、紫薇は星黎(せいれい)宮を守ってくれるという。陶家やほかの宮からの遣いが来たとしても、上手くごまかしてくれる、ということだ。

 当然のように、にこやかに引き受けてくれたから、疑問を抱くことなく当日を迎えてしまったけれど──

「本当に……? えっと。今からでも一緒に──炎俊に頼めばどうにかならないかしら」

 紫薇も同行したかったのかもしれない、と思って、朱華はおずおずと提案した。でも、紫薇は静かに首を振る。

「実は──私、時見の力を上手く制御することができないのです」
「制御、できない……?」
「朱華様や炎俊様、生まれながらに強い力を持ち、しかも呼吸と同じように操る方々には想像もできないのでしょうが」

 いつもと変わらず穏やかで上品な紫薇の微笑に、どこか暗い翳りを浮かべて、紫薇は語った。

 紫薇の持つ時見の力そのものは、強い。何年も何十年も隔てた場面を見ることもできるほどに。
 でも、()()見るかを選ぶことができない。むしろ、見たくないもの、恐ろしいことのほうが彼女の視界を襲うのだとか。

 親しい人の老いた顔に、恐ろしい病や怪我に見舞われる姿。いつかの時代の戦いや、毒を呑んで倒れた者や、無念を抱いて死んだ者。嵐でも火事でも、大勢の人が玩具のように流されたり燃えてしまったり──

「時たま、そういう者が生まれるのだそうです。嫌なものを見るたびに泣いたり叫んだりして暴れるものですから、多くは閉じ込められるか打ち捨てられて一生を終えるのです」

 紫薇が侍女として隙のない振る舞いをすることができているのは、厳重な呪で守られた皇子の宮にいるからだ。星黎(せいれい)宮の中にいる限り、過去や未来の災いの光景が彼女を襲うことはない。

「──ですから私は星黎宮(ここ)を出ては生きていけません。だからこそ、炎俊様も私を信用してくださっているのです」

 そういえば、紫薇は庭園でのお茶会にはいつも姿を見せいなかった。今さらながらに気付いて絶句する朱華に、紫薇は小さく笑って目を伏せた。

「楽しい日ですのに、おかしなことを申してしまいましたね。どうぞお気になさらずに」
「紫薇……」

 だから置いて行っても構わない、だなんて思うことはできなかった。だからといって、安易な慰めや同情はかえって紫薇を傷つけるだろう。朱華は、必死に言葉を探した。

「何か、お土産を探すわ。話もいっぱい聞かせてあげる。貴女が良ければ、だけど! ……迎えてくれる人がいるということは、嬉しくて安心するものよ。きっと、炎俊もそう思ってると思う」
「朱華様」

 紫薇が軽く目を見開いたのが、不快や戸惑いによってではないか、とても怖かったのだけれど──やがて、彼女は柔らかく微笑んだ。

「……ありがとう、存じます」
 皇子の妃たちは、下々に素顔を晒すものではないのだそうだ。だから、皇宮を出て都の通りを抜ける間、朱華(しゅか)の視界は轎子(こし)に備えられた御簾(みす)によって遮られていた。ちなみにこの御簾にも防ぐ呪が施されているとのことで、遠見や時見によって覗き見されることはないということだった。

 というわけで、朱華が自由に周囲を見回すことができたのは、乗り込んだ船が岸辺を離れた後のことだった。
 御簾と呪文、二重の目隠しを取り去って、朱華は広々とした視界を味わった。遠見の力のお陰で、日ごろから壁も天井も彼女にとっては障害にはならないのだけれど、実際に青く晴れた空の下で外の空気を味わうのは爽快な気分だった。

(もう動き出してる──風が気持ち良い……!)

 幅広い運河の真ん中を進めば、船上の人の姿を岸からはっきりと捉えることはもはや不可能だ。だから、朱華を始めとした妃たちもその侍女も、顔を隠すことなく堂々と景観を楽しむことができる。

 貴人が行楽や宴を楽しむための船だから、甲板は広く取られている。何なら、歌舞を演じさせることもできそうなくらいの空間に、今は仮の柱が立てられ、陽射しを避けるための、厚い織物の覆いがかけられている。
 その、即席の日陰に佇む人影こそ、第二皇子の志叡(しえい)と第三皇子の翰鷹(かんよう)だ。煌びやかな刺繍の(ほう)が彼らの身分を教えていたし、芳琳(ほうりん)佳燕(かえん)が、それぞれの夫の隣についたから、どちらがどちらか分かる。

 そして、朱華もまた、彼女の夫である炎俊(えんしゅん)と並んで、目上の皇子たちに挨拶をすることになった。

「兄上がたへのご紹介が遅れました。こちらが我が妃、(とう)家の雪莉(せつり)です」
「第二皇子殿下、第三皇子殿下へのお目通りが叶い、まことに光栄に存じます」

 星黎(せいれい)宮で何度も練習してきた通りに、丁寧な礼と共に口上を述べる。船の上にいるとはいえ、幸いに水の流れは穏やかで、みっともなくよろけたりふらついたりせずに済んだ。

「そなたが雪莉姫か。我が妃たちから、噂はよく聞いていた」
「お、恐れ入ります……」

 例によって、遠見で見られていることを前提に、指先の合図で朱華の顔を上げさせたのは、辰緋(しんぴ)宮の志叡皇子。快活な笑みにも典雅な雰囲気を湛えた、怜悧(れいり)な印象の貴公子だ。

(噂はかねがね、ってこと……? 芳琳様に余計なことを吹き込んだとか、思われていない……?)

 辰緋宮には、芳琳以外にも複数の妃がいるとか。彼女たちは、妹分の芳琳が星黎宮に出入りしているのを好ましく思っていないかもしれないし、それを夫君に告げ口したのかもしれない。

(やっぱり、釘を刺すために呼び出されたの……?)

 緊張に、朱華の笑みは少し強張ってしまったのだけれど──志叡皇子の声も表情も柔らかいものだった。

「畏まる必要はない。何を考えているかだいたい分かるが──芳琳の顔が明るくなったのを見て、そなたたちの集まりが気になるという者も出てきている」

 志叡皇子も、遠見や時見の力を持っている可能性は高い。そもそもたった四人の皇太子候補のひとりであるからには、優れた才を持つ御方のはずだ。そんな彼が、興味深げにしげしげと覗き込んできたものだから、朱華の背は冷や汗に濡れ、声も揺れた。

「さ、さようでございますか」
「近々、仲間に入れて欲しいという打診もあるかもしれぬ。無論、おかしな企みを抱いてはいないか、こちらでも確かめた上で送り出すつもりだ」

 志叡皇子は、何だか朱華の気苦労が増えそうなことを言うだけ言うと、傍らの翰鷹皇子に目配せした。次はお前の番だ、ということらしい。

 兄皇子に代わって進み出た翰鷹皇子は、精悍な顔立ちの殿方だった。華奢な佳燕と並ぶと、がっしりとした体格がいっそう際立つ。日よけの覆いなど要らなさそうな、太陽の輝きが似合う爽やかな笑顔が、朱華に向けられる。

「そなたたちには、一度礼を言わなければならぬと思っていた。佳燕があれほど思い詰めているとは、知らなかったのでな」
「まあ……」

 翰鷹皇子に肩を抱かれた格好で、佳燕は少しだけ苦笑していた。きっと、何度も訴えてはいたのに翰鷹皇子は取り合ってはくれなかったのだろう。
 単に寵愛されるだけでなく、夫君のために力を使って支える──朱華と炎俊がそんな在り方を示したからこそ、佳燕も翰鷹皇子に強く主張することができるようになったのだ。

(もっと早くに気付いて差し上げても良かったのに……)

 時見の力が弱いこと、にもかかわらず翰鷹皇子の寵愛を独占していることで、佳燕は肩身の狭い思いをしているようだった。
 佳燕は怒っていないようだけれど、夫君としては気が利かないことだったと思うと、朱華の目には呆れが浮かんでしまっただろうけれど──翰鷹皇子は、気付かないようで軽く肩を竦めた。

「佳燕を娶りたいと実家の(はく)家に申し出たら、皇太子候補になれば考える、と言われたのだ。だから皓華宮を得て万事丸く収まったと思っていたのに。後から、ほかの娘も、だとか言い出すし、ほかの家もうるさいから困っていた」
「あの──佳燕様おひとりのために皓華宮を……?」

 でも、さらりととんでもないことを言われて朱華は目を瞠って口元を抑えた。
 皇太子候補になれるのは、数多の皇族の中から選び抜かれた、たったの四人だけ。佳燕を妃にしたい一心でその座を掴むなんて。そういうつもりだったなら、ほかの妃を迎えるつもりがなかったというのも、一応は分からなくもない。

「佳燕様は、本当に翰鷹様に愛されていらっしゃるのですね……」
「翰鷹兄上は、才の割にやる気がないと思っておりましたが。そのようなご事情でしたか」

 朱華だけではなく、炎俊も驚きの声を漏らしていた。ただ、その内容がとても失礼だったから、朱華は素早く声を上げた。

「炎俊!」
「構わぬ」

 窘めるというよりは、子供や子犬の悪戯を咎める時の口調だったかもしれない。それくらいに、慌ててしまったのだけれど──翰鷹皇子は、おおらかに笑うだけだった。

「そういうことだから、佳燕と穏やかに暮らすことさえできれば、私は誰が皇帝になっても良いのだ。兄上がたのいずれかにお譲りするつもりだったが、恩返しと思えば炎俊でも良い」
「翰鷹。そなたは帝位を何だと思っている」

 翰鷹皇子の放言はさすがに()()()()()()にもほどがあったらしく、年長の志叡皇子からも苦言があった。けれど、第三皇子に渋面を見せたのも一瞬のこと、朱華と炎俊に向き直った時には、志叡皇子の顔は笑顔に彩られていた。

「まあ、たまにはこんな機会があっても良いだろう。互いに何を考えているか、会わねば分からぬものだ」
「はい。私も、兄上がたには嫌われていると思っておりました」

 炎俊は大真面目な顔で頷いたけれど、これもまた率直過ぎる発言だ。朱華はまたも、()()を制御しようと炎俊の袖を引いた。

「ちょっと、炎俊!」
「何だ、雪莉?」

 朱華は慌てているのに、炎俊は何が悪いのかまったく分かっていない様子だ。

「何だ、って──」

 怪訝そうな、そして真っ直ぐな目に見つめられて絶句してしまう朱華の耳に、上の皇子たちの笑い声が届く。

「わけの分からぬ奴、とは思っていたかもしれぬ」

 翰鷹皇子が言えば、志叡皇子も大きく頷いた。とても力が入った頷きように、これまでの炎俊の振る舞いが察せられる気がして、朱華は頭が痛くなる。

「だが、芳琳の話を聞いてみれば、なかなか面白いことをやっているようだったからな。何も手の内のすべてを明かせとは言わぬが──」
「いえ、何も隠すつもりはございません」

 ほら、またしても、だ。炎俊は兄皇子の言葉を途中で遮るという非礼を犯して、朱華の心臓を跳ねさせた。佳燕も芳琳も、驚きと不安の眼差しで彼を見つめる。ただ──翰鷹皇子と、当の志叡皇子は、興味深げな面持ちで末の弟を試すように眺めていた。

 例によって周囲の反応には無頓着に、炎俊は堂々と述べた。

「私の望みは、力ある者が正しく力を振るい、昊耀(こうよう)の国を栄えさせること。兄上がたにご賛同いただけるなら、たいへん心強く思います」

 志叡皇子と翰鷹皇子は、意味ありげに視線を交わすと、頷き合った。兄弟の間で何を通じ合ったのか──翰鷹皇子は、にやり、と笑った。

「妃だけではなく、そなたもなかなか面白いな……?」
「そうでしょうか」
「ああ、そうだ。今日はもっと面白いところを見せてもらおう」

 腑に落ちない表情で首を傾げる炎俊に、志叡皇子も笑いかけた。つられるように笑った妃たちの声を、風がさらっていく。

(何だか、良い雰囲気みたい……?)

 肩の力を抜いて、朱華も頬を緩めた。
 風は、彼女の結った髪から零れた後れ毛も撫でていく。水面を滑る船が立てる波の音、空を舞う鳥の影や鳴き声。草や花や水の香り──緊張が解けたからか、水辺の麗しい光景が、五感で感じられるようになる。

 すでに仲良くなった方々と、初めて会った方々と。今日はきっと、たくさんの思い出ができるだろう。
 都を離れてしばらく運河を遡ると、周囲の風景は山がちになっていった。水の流れは曲がりくねり、刻一刻と趣を変える眺めは、朱華たちの目を驚かせ、また、楽しませてくれる。

 目の前にまで岩肌が迫る狭い場所があったかと思えば、また開けて。一面に咲いた躑躅(ツツジ)の花で燃えるような絶景の次は、鬱蒼と茂った木々の枝が頭上を翳らせることもある。険しい崖を軽やかに跳び跳ねる羚羊(カモシカ)に、列をなす羊の群れを追う農民に──ひとつひとつの情景も見応えがあるし、遠見と違って音や匂い、肌の感覚でも非日常を味わえるのはとても楽しい。

 でも、ここ最近、力の使い方を学び、考えてきた朱華たちにとっては、また違った感想が真っ先に出てくる。

 甲板に(しつら)えた卓を囲んで、開放的な気分で茶菓を楽しみながら。絵画に描かれる仙境(せんきょう)のような渓谷を見回して、朱華はしみじみと言った。

「こんな山の中まで、よく運河を造ったものね……」

 今日は皇子一行の行楽とあって、前後左右にほかの船の姿は見えない。けれど、日ごろは食料や商品を載せた船が行き交って、地方と都を繋ぎ、また、周辺の地域に豊富な水をもたらしているのだ。

 大地を掘り、山を割って水路を通し、しかもそれを維持する──気の遠くなるような大事業を想像すると、目眩がしそうだ。大きく頷いた佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)も、きっと同じ思いだろう。

「水を操る水竜と、闘神の怪力があればこそ、だそうですわ」
「時見と遠見も欠かせなかったでしょう。雨や増水に備えたり、表面からは見えない地盤の様子を確かめたり」

 昊耀(こうよう)の国は天から授かった力によって栄えてきた──言葉の上では知っていても、彼女たち自身がその力を持ってはいても、具体的にどうやって力が使われて来たのか、皇宮を出ないと分からないこともあるようだ。

 妃たちのすぐ横では、皇子たちがもっと専門的な政策についての議論を戦わせている。夫たちから受ける刺激もあって、こちらの話題も勉強会のような趣が出ている。

「……ということは、建築だとか土木だとかの勉強も必要になるのかしら」
「ええ……たいへんなこととは、思いますけれど」
「でも、お勉強で力の弱さを補えるなら、私にとっては心強いことですわ」

 船に乗って運河を進み、大いなる自然を穿(うが)ち、制御した壮大な工事の規模を思えば、明日の天気が見えるかどうかで言い争うのは本当に馬鹿馬鹿しいしどうでも良い。先ほど志叡(しえい)皇子が言ったように、朱華たちの集まりに興味を持ってくれている妃が本当にいるなら、お茶会でのあのぎすぎすした雰囲気も、もっとどうにかならないだろうか。

 皇子たちの卓を横目で窺えば、時々笑い声が弾けたりして和やかな雰囲気だ。……碧羅(へきら)宮では、炎俊はだいぶ嫌われているし、平民を登用するという方針は反発されていると感じたのだけれど。生母の位も恐らくは高く、どこからも文句が出ない「皇子様」であるはずのふたりは、そんなこともないようだ。

(話せば分かる方たち、だったのかしら。大姐(おねえさま)がたは、政のために働かせられるなんてとんでもない、って感じだったけど)

 ということは、男の世界と女の世界では受け止められ方が違うのだろうか。まだ会っていない第一皇子、碧羅宮の主である方は、どうなのだろう。

雪莉(せつり)様。次の村で休憩するそうですわ」
「特産品は刺繍と織物だそうです。楽しみですわね……!」
「え、ええ」

 考え込んでいた朱華は、佳燕と芳琳の笑顔への反応が遅れてしまったけれど──

(刺繍と織物! きっと、都にはあんまり出回っていないんじゃない……!?)

 数回瞬きする間に、良い考えが浮かぶ。これは、紫薇(しび)へのお土産を手に入れる絶好の機会だ。どんな場所でどんな人たちが作っているかも併せて伝えれば、一緒に出掛けた気分になってもらえないだろうか。

「侍女にお土産を約束してきましたの。何か小物でも見つかると良いのですが」
「まあ、雪莉様はお優しい」
「その侍女はきっと喜びますわ」

 ふたりの頼もしいお墨付きを得て、朱華の頬にも笑みが浮かぶ。

「はい。いつもとてもよくしてもらっているので──」

 でも、彼女が最後まで言い切ることはできなかった。

「きゃ──」
「な、何……?」

 船が大きく揺れたのだ。
 卓上の茶器が落ちて割れ、零れた茶が甲板を汚す。菓子の皿もひっくり返って大惨事だ。──というか、卓そのものも危うく揺らぐほど、朱華たちが座っていた甲板が縦になるのではないか、と思うほどの激しい揺れだった。

「佳燕! こちらへ!」

 佳燕ひと筋の翰鷹皇子が、いち早く手を差し伸べて愛妃を腕の中に確保した。志叡皇子も炎俊も、彼に続く。ただ、席次の関係と、立て続けの揺れによって、朱華はすぐに炎俊の手を取ることができない。

「殿下がた、お妃がたはどうぞ中へ。──晴れているのに、何だ、この波は……!?」

 船を操舵する水夫の奏上も、甲板に転がりながらのことだった。従者も侍女も、帆柱や船縁に縋ったり甲板に這いつくばったりしてどうにか揺れをやり過ごしている。振り落とされたものがいないようなのは不幸中の幸いだった。

 彼女自身も必死で身体の均衡を保ち、炎俊に手を伸ばしながら──朱華の脳裏に、不穏な直感が閃く。

(まさか、水竜の……?)

 水を自由に操る力があれば、嵐でもないのに船を揺り動かすことはできるだろう。水竜の力を持つ名家といえば──(そう)家。碧羅宮の皇子の第一の妃の、凰琴(おうきん)の実家。

(でも、炎俊の未来見だと今日は大丈夫だって……!)

 企みがないと確かめた上で、彼は志叡皇子の招待を受けたのに。炎俊の力が、凰琴だろうとほかの皇子や妃だろうと後れを取るとは思えないのに。

(どうして!?)

 朱華が心の中で叫んだ時──船がひと際大きく、揺れた。同時に、船縁を越えるほどの高い波が、飛沫を上げて太陽を翳らせる。

 ……違う、()()はもはや並ではない。大きく鎌首をもたげた蛇、あるいは竜。それを造り出したであろう力の名の通り、透明な水の竜が、向う側の景色を透かせながら、(あぎと)を開く。ご丁寧に牙までも備えた大きな口が、朱華に迫る。

「──朱華!」

 次の瞬間、朱華は水の竜にぱくりと食いつかれていた。
 炎俊の、珍しいほど必死の顔が、差し伸べられた手が、水の向こうに歪んで見える。応えようと口を開けば、水が流れ込んで()せてしまう。喉と鼻を襲う痛みと息苦しさに涙が出るけれど、それも竜の体内に溶けていく。

(……駄目じゃない。本当の名前を、人前で呼んじゃ──)

 こんな時でも炎俊を窘める言葉が浮かんだのは、たぶん、現実逃避のようなものだった。彼はまだ朱華に呼びかけ、何かを叫んでいるようだけれど、水の壁に阻まれて聞こえない。

 そもそも、彼女を咥えた水の竜は、船を離れてどこかへ泳ぎ去ろうとしているようだった。

 その間も、もちろん呼吸をすることはできなくて。苦しくて──朱華の意識は、すぐに闇に呑まれた。