その日──朱華(しゅか)は、妓楼の主が何だか綺麗な服を着た偉そうな人たちに頭を下げているのを()()()していた。
 都を見下ろす楼閣の最上階、馴染みの上客の中でも一握りの者にしか開かれない特別室は、ほんらい朱華のような子供が近寄れる場所ではない。彼女はまだ十二歳、娼妓見習いですらなくて、見せるべき芸もなければ身体つきのほうも貧相なものだから。

 でも、朱華にはそんなことは関係ない。彼女にとっては、壁も天井も、遥かな距離ですら問題にならない。彼方のもの、見えるはずのない景色が、目の前にあるように見えるのだ。物心ついた時から当たり前に()()だったから、普通の人間は違うということに気付くのに何年かかかったくらいだった。

 失せ物を探し当てて感謝されたこともあれば、お前が盗んだんだろうと殴られることもあった。知っているはずのないこと――誰と誰が密会しているとか、あるべきでない金品のやり取りとか――をぽろりと漏らしては褒められたり、口止めに菓子をもらったり、あるいはやはり殴られたりもした。

 いくつかの失敗を重ねて、朱華は学んだ。彼女の力は使()()()。とても便利だ。けれど、何を見るか、見たものを誰に言うか言わないかは慎重に考えなければ。特別室の訳ありげな客は──仕事を怠けて覗き見る価値があるだろう。

(年寄りだわ。きっと、遣いの者ね。ご主人は別にいる……妓楼で遊ぶんじゃなくて、お屋敷に招くとか? それとも身請け?)

 いずれにしても姐貴分の娼妓たちには朗報だから、それとなく伝えれば菓子でももらえないだろうか。それには、もう少し誰目当てなのかの手掛かりが欲しい。

(あの手ぶりだと、ずいぶん背丈が低いんじゃない? 子供……妾腹の娘でも売るのかしら)

 楼主と客のやり取りに()を凝らしていた朱華は、()()()視界に人影が落ちたのに気付かなかった。

「──華、朱華! またぼうっとして!」
「きゃ……?」

 だから、不意に腕を掴まれて、小さく悲鳴をあげてしまう。慌てて瞬きして、()()()に焦点を合わせると、口煩い遣り手婆が険しい顔で彼女を見下ろしていた。

「上がりなさい。お偉い御方がお待ちだよ。──お前を買ってくださると。まったく、うちには良い()がそろってるのに。よりによって気味の悪い子にあんな大枚……」

 婆がぶつぶつと呟くのを聞いて、朱華はようやく思い当たった。
 身なりの良い客が手ぶりで示していた背丈は、ちょうど彼女自身と同じくらいだった。では──客の目当ては朱華だったのだろうか。

(気味の悪い、って……私の《力》のことを聞きつけて、ってこと?)

 何となく嫌な予感を覚えながら、不穏に脈打つ心臓を押さえて朱華は階段を上った。

 結構な間、自分には普通の人間には見えないものが見えているのだ、と気付かなかったのには一応理由がある。朱華以外にも、そういう子供が花街にいたのだ。
 彼女よりも幾つか年上の()は、数日後の天気を言い当てたり、追われるような罪を犯して登楼した客を官憲につき出したりしていた。距離を越えてものを()()ことができる彼女に対して、あの少年は時を超えた視界を持つようだった。

 でも、その少年はいつの間にか姿を消した。あの《力》を悪い連中に見込まれて攫われたのでは、なんて噂も聞いた。……朱華にも同じことが起きるのかもしれない。

(面倒に巻き込まれるのは嫌よ……)

 ただでさえ、妓楼に売られた時点で彼女の人生の先行きは暗いのだから。せっかく持って生まれた人と違う《力》は、自分のためだけに、そして穏当に使っていきたい。

 これまで入ったことがない特別室で待っていたのは、はたして先ほどまで()()()していた、身なりの良い客だった。お世辞か何かを言おうとして揉み手する、楼主や婆には目もくれず、その客は朱華の頭のてっぺんからつま先までをじっくりと眺めた。

「なるほど、見た目は悪くない。磨けば光るだろう。度胸も、なかなか──だが、肝心なのは()だからな」

 そうして、その客は朱華にいくつかの()()をさせた。遊戯、と──彼女には、そうとしか思えなかったのだけれど。
 伏せた札の中から言われた絵柄のものを選んで返したり、箱の蓋を開けずに中身を言い当てたり。かと思えば、二軒隣の妓楼の軒先に、巣を作った燕のヒナの数を答えたり。
 どの出題にもすらすらと答える朱華は、楼主たちにとってはずいぶん気味が悪かったらしい。彼らの顔が引き攣り青褪めていくいっぽうで、けれど、彼女が正解するたびに、身なりの良い客は嬉しそうに笑みを深めて頷いていた。

(燕のヒナの数が、でたらめじゃないって分かるってことは──)

 この客も、朱華と同じ《目》を持っているのだ。
 朱華の顔色で、彼女が何を考えているのか察したのだろう。客はまたひとつ、頷いた。……彼女は頭の回転も試されているらしい。

 朱華の名前や年を聞くことさえないまま、客は楼主に向き直った。

「これなら問題ないだろう。──この娘を連れていく」
「あ、ありがとうございます……!」
「この娘のことは忘れることだ。我が家の名も詮索無用。さもなければ──」

 さもなければ、何が起きるのか。客は言わないことで逆に雄弁に脅しつけた。
 朱華の代金として積み上げられた金子は、確かに小娘ひとりを買い取るには過分な高さだった。とはいえ、楼主が震えていたのは喜びのためではない気がした。これまで怒鳴られたり殴られたりした相手だから、朱華としては良い気味だ、と思った。



 身なりの良い金持ちの、そして仔細ありげな客は、何も言わずに朱華を妓楼から連れ出した。
 身の回りのものをまとめるように言われることもなかったけれど、売られるということはそういうものだろうと思ったから、朱華は何も尋ねなかった。彼女の身柄は、もはやこの客、あるいはその主のものだった。所有物が勝手に口を開くのは、たぶん歓迎されないだろう。

「さて、お前は何をどれだけ知っているのだろうね」

 だから朱華は、居心地が悪いと思うほど柔らかな座席の馬車に乗せられて、窓の外を街並みが流れていくのを眺めながら、ただ聞き手に徹していた。

 朱華が生まれたこの昊耀(こうよう)の国は、天に(よみ)された皇帝のもと、長きに渡って栄えている。
 広大な帝国を支えるために、天は昊耀の開祖に幾つかの《力》を与えた。彼方の出来事を見通す遠見、来るべき災害や外敵の襲来を予見する時見。水を御す水竜の加護は治水を大きく助け、戦場にあっては闘神の《力》は並の将兵を寄せ付けない。

 昊耀の皇帝は代々《力》を受け継ぎ、そして時代が下るにつれて仕える諸家にも婚姻によってその恩恵が分け与えられてきた。そして今では、《力》の継承こそが昊耀の皇族と貴族に課せられた最大の義務になっている。子が父母の《力》を必ず受け継ぐとは限らないけれど、その可能性はかなり高いとされているから。

 各家の姫君たちが後宮に召されることで、下賜された《力》は再び皇室と交わる。新たに《力》を持った御子を育む。そうして、昊耀の国は今日まで繁栄を続けているのだ。

(胡散臭いお伽話ね……()()()だっていたのに?)

 朱華自身と、花街から消えた少年と。揃って偉い人のご落胤だったなんて信じられない。《力》とやらが血筋に関係あるとしても、絶対ではないのではないか、という気がする。それなら、天からの賜り物という話はずいぶん怪しい気がする。もちろん、わざわざ口にすることはないけれど。

 話を聞く間に、馬車は花街を抜けて、豪奢な邸宅が立ち並ぶ界隈に至っていた。聞かされた話を踏まえると、彼女は皇室の尊い血を分け与えられた名家に買われたらしい。市井では気味が悪いと言われる《力》も、貴族の間ではありがたがられるものなのかも。《力》を持つ子供を買い上げて何をするのか──想像は、つく気もするけれど。

 やがて馬車は、美しい彫刻や磨き上げられた石材で飾られた、華麗な門の前で止まった。馬車の扉を開けた使用人の手を借りて、ゆったりした仕草で下車しながら、朱華を買った客は深く溜息を吐いた。

「我が(とう)家の雪莉(せつり)姫も、それは美しく気立て良く、何より強い遠見の目を持っておられたのだが──」

 今や陶家の一員だと知れた乗客は、そこで言葉を切った。もったいぶるのがこの男の癖らしい。けれど、教えられるまでもなく、その姫君がどうなったかを朱華は知ることになった。

 門に入り、磨き上げられた龍の彫刻が躍る影壁(えいへき)を越えると、邸内は服喪の白に染まっていたからだ。家中で高貴な人が亡くなったのだと、一目瞭然だった。
 後宮に入れるべき姫君が亡くなった。それは確かに、名家にとっては一大事なのだろう。

 使用人の先導を受けて屋敷の奥へと足を向けながら、客は独り言のように呟いた。

「お前は今日から雪莉姫だ。陶家に妓楼上がりの娘を入れるわけにはいかぬ。そのような娘が後宮の妃になるなど許されぬ。露見すれば皇室に対する詐欺にあたり、不敬の大罪にも問われるであろう。誰にも、生まれながらの高貴な姫君と疑われぬように振る舞わなければならぬ。できるな?」

 できるか、という問いかけではなく、失敗は許されないと分かっているな、という確認だった。それなら、朱華の答えはひとつに決まっている。

「ええ。もちろん」

 堂々と、自信たっぷりに頷いてやる。朱華と同じ目を持っている相手は、どうせ彼女の表情も()()いるに違いないのだ。ここで怖気づくていどの度胸なら、遅かれ早かれ始末されることになるのだろう。

(思っていたより悪い話じゃないわ。私はお妃様になれるかもしれないってことね!?)

 勝手に他人の名前で呼ばれるのは、大したことではない。娼妓なんて、どうせ客によって好き勝手な名で呼ばれるものだ。
 礼儀作法だのの躾が厳しいことは想像がつくけれど、願ってもない。怒鳴られるのも殴られるのも、妓楼でだってよくあったことだ。
 皇室への罪、というのは、怖くないわけではないけれど──要は、誰にも文句を言われない地位に上り詰めれば良いのだろう。

(良いわ。やってやろうじゃない!)

 貴族の豪邸の、磨き上げられた廊下を使い古した沓で踏みしめながら、朱華は決意した。天の加護とやらはさておき、彼女の《力》は彼女だけのもの。彼女自身のために使って良いはずだ。否、使ってやる。

 こうして朱華は、新しい人生を歩み始めた。