私、安倍寧々、十六歳。
 今、人生最大のピンチを迎えています……‼︎
「おまえ、ほんと、可愛いな」
 甘い声でそう言って優しく私の頭を撫でているのは、同じ高校の藤原遥斗先輩。
 すごくカッコいいんだけど、無愛想でめっちゃくちゃ怖いって学校中の生徒に恐れられている二年生。
 笑ったところなんて、誰も見たことない。
 それなのに今は私に優しく笑いかけている。
 私をひざの上に抱いて、大きな手で顎の下をちょいちょいってくすぐる。
 うう、気持ちいい……。
「ははは、ここ気持ちいいみたいだな」
 あの目に睨まれたら、女子も男子も先生でさえ、びびっちゃうって言われてる先輩の鋭い目。その目を細めて私を見る彼は、噂とは別人だ。
「もっとやってやるよ、ほら」
 うう〜! もういいです〜。
 なんてやり取りをする私たち、なんかカレカノみたいな雰囲気だけど、実は全然そうじゃない。
 学校でもダントツ地味系女子の私と藤原先輩は、話をしたことすらない、無関係な関係だ。
 ……ていうか今はそもそも"人と人"ですらない!
 さっきから私「離してください」って言っているつもりだけど、口からはミャーミャーって鳴き声しか出せないし、なんとか逃げなくちゃってちょっと乱暴に先輩をキックしてパンチもしているんだけど、ふわふわの手と脚だから、全然効かない。
「ははは、よしよし、元気だな」
 それどころか喜ばれちゃってるみたい。
「そう怖がるなって、大丈夫だから」
 先輩の手が警戒マックスな私のしっぽをなだめるように優しくなでる。
 大きな手に撫でられると、なんだかちょっと安心しそうになるから不思議……。
 ってそんなこと考えてる場合じゃない!
 そうしっぽ!
 頭にはふわふわの耳、そしてお尻から長いしっぽが生えている今の私は、三毛猫の姿!
 どうしてこうなったかっていうのはさておき、とにかく今はなんとかして逃げなくちゃ。
 だってこのままじゃ大変なことになっちゃう〜!
 でも先輩の腕にすっぽりとおさまって、身体中を撫でられていている状況では、それができなくて大ピンチ。
 は、離してください〜!
「お前鳴き声も可愛いなぁ」
 先輩が私の両脇に手を入れる。目の前に持ち上げられて、にっこり笑いかけられて、私の胸がドキンとした。
 今まで私先輩の姿は遠くからしか見たことがなくて、顔をはっきり見るのははじめてだけど、本当にカッコいいんだ……。
 クラスの子達が、きゃーきゃー騒ぐのも納得だ。
 その顔がゆっくりと近づいてきて……。
 きゃあ〜! やややばい! 
 うっとりしてる場合じゃない!
 こ、これはもしや……!
 キ、キ、キスされそうって状況じゃ⁉︎
 も、もう、わたし。
 どうしたらいいの〜⁉︎
 ニャーン!

 すべてのはじまりは、数週間前、私の十六歳の誕生日のことだった。
 その日は、パパとママ、私の三人で家で誕生日会をした。十六歳にもなって親に誕生日会をしてもらうなんて、なんだか少し恥ずかしいけど、これが私の毎年の誕生日。
 クラスメイトたちは誕生日にコスメをプレゼントし合ったり、ファミレスに行ったりしてるのに。私には、そういう友だちいないから……。
 ステーキを食べて、プレゼントに腕時計をもらって、誕生日ケーキを食べてごちそうさまってした後、パパがいきなり真剣な表情になったんだ。
「寧々、話があるんだ。落ち着いて聞いてくれ」
 隣のママもなんだか深刻そうなのが珍しくてわたしは首をかしげた。
「あのな。実はうち、安倍家にはちょっとした秘密があって」
「秘密?」
「ああ、……実はな……その、うちの家系に生まれた女の子は、十六歳になったら、特別な体質になるんだよ」
 言いにくそうにパパが言う。
「特別な体質?」
「そうだ。つまり、その……泣くと猫に変身してしまう体質だ」
 突拍子もないパパの話に私は目をぱちくりとさせる。
「泣くと……変身? パパ……なに言ってるの? やだな、からかわないでよ。ママ、パパが意味不明なこと言ってるよ」
 ぷっと噴き出し、はははと笑ってわたしはママに言うけれど、ママは真剣な表情のままだった。
「寧々、パパの言ってることは本当なの」
 ママまでそんなことを言っている。それでも私は信じられなかった。
 だって、"泣くと猫に変身する体質"なんて、全然現実的じゃない。漫画の中じゃあるまいし。
「ど、どういうこと?」
 私は、大真面目な顔でこちらを見るふたりに向かって問いかけた。
「パパたちも亡くなったおばあちゃんに一度見せてもらっただけなんだ。ママはパパと結婚したから安倍になっただけで"安倍家の娘"ではないから、この体質ではないし」
 そう言ってパパは私にある写真を差し出した。
「口で説明してもらちがあかない。百聞は一見にしかずだ、寧々」
「え? な、なに? どういうこと?」
 戸惑いながら、私はパパが差し出した写真を見る。
 亡くなったおばあちゃんと小さな頃の私の写真だった。優しく笑うおばあちゃんの膝で嬉しそうに手を上げている私。
 そのふたりを見ただけでわたしの目に涙が浮かんだ。
 大好きだったおばあちゃんが亡くなってしまったのが一年前。
 あの時も散々泣いたけど、今でも写真を見ただけで、涙が出てしまう。
 優しいおばあちゃんは、友だちができない私の話をいつも優しく話を聞いてくれた。
 クラスメイトが口を聞いてくれなくなって学校に行くのがつらい時も、おばあちゃんと一緒にいる時は、なんかホッとできたんだ。
 おばあちゃん、大好きだったな……。
 そんなことを考える私の目からひと粒涙がこぼれ落ちる。
 ——その瞬間。
 ポンッ!
 突然、ポップコーンが弾けたみたいな音が部屋に響いた。
 わたしはビクッと飛びあがり、くるりと宙で一回転、着地して周りを見回した。
 なになに? なんの音?
 パパとママを見ると、ふたりも私と同じで音にびっくりしたみたい。でもなんだか様子がおかしかった。
 わたしを見てあんぐりと口を開けている。
 音にびっくりしたっていうより……わたしを見て驚いてる?
「おばあちゃんといっしょね」
 ママがパパに言うと、パパがわたしを見たままうなずいた。
「あ、ああ……。やっぱり言い伝えは本当だった。この体質は遺伝するんだ」
 ふたりとも、どうしちゃったの?
 わたしはふたりに問いかける。
 でも……あれ? なんか変。
 声を出したはずなのに言葉になっていない。
 代わりににゃーにゃーって聞こえてくる。
 パパとママが笑顔になった。
「あら、かわいい鳴き声!」
「ああ、おばあちゃんの時とはやっぱりちょっとちがうな。さすがは俺たちの可愛い娘だ」
 ねえ、なんの話? ふたりともなに言ってるの?
 もう一度問いかけるけど、やっぱり言葉にならなかった。
 にゃーにゃーって、なんだか猫みたいな鳴き声が……って、ね、猫⁉︎
 ままままさか⁉︎
 わたしはあわてて、自分の手を確認する。
 そこにあるのはいつものわたしの手、……じゃなくて、茶色いふわふわの毛におおわれたピンク色の肉球!
 こ、これってもしかして……ね、猫の手⁉︎
 ど、どういうこと⁉︎
 するとママが立ち上がり、パニックになるわたしを軽々と抱き上げた。
 もともと私、高校生にしては小柄だけど、さすがにママにこんなに軽々と抱き上げられるわけがない。
 ママにわきを抱えられて、だらんと宙に下がるのは、ふわふわの毛におおわれた脚! そして長いしっぽ!
 ももももしかして、わたし本当に猫になっちゃったの⁉︎
 真っ青になるわたしをよそに、ママはわたしをひざに置いてうれしそうに頭をなでている。
「それにしても可愛い。こんなに可愛い猫見たことがないわ」
「ああ、寧々は猫になっても可愛いんだな」
 ふたりとも、猫の私にデレデレだ。
「この抱き心地と大きさ。なんだか、寧々があかちゃんの頃を思い出すわね」
「ああ。あの頃の寧々は髪の毛がこんな風にふわふわだった」
 そ、そんなことどうでもいいから、なんとかしてよ、この状態!
 わたしは一生懸命、ふたり向かって訴える。でもやっぱり、にゃあにゃあとしか言えなかった。
 ママが私をのぞき込んだ。
「あら? どうしたのかしら。もしかして怒ってる?」
 怒ってないけど、なんとかして!
 パパがうーんと首をかしげた。
「なんて言ってるか全然わからないな。もうちょっとさわっていたいけど、しかたない、元に戻すか」
 ちょっと残念そうにパパが言って、おもむろに私のお腹のあたりを指でくすぐった。ちょっ……! パパなにす……く、くすぐったい……! や、やめて……ふふふ。
 思わず私が笑い出した、その時。
 ポンッ‼︎
 またポップコーンが弾けたような音がした。
 さっきの音だ!
 そう思った瞬間に、わたしはすぐに自分の手を確認した。
 今度は肉球……じゃなくてちゃんと人間のわたしの手!
 よ、よかった〜! 戻ったんだ‼︎
「ね、寧々。お、重い……」
「あ、ごめん」
 苦しそうなママの声に、私は慌ててママの膝からおりた。
 そして、ボーゼンとする。
 今起こったことが信じられなかった。
 夢でも見てたのかなって思うけど。思いたいけど、そうじゃない。
 パパとママとわたし、三人同時に同じ夢を見るなんてありえない。
「泣くと猫に変身する。笑うと元に戻るという仕組みなんだよ、寧々。元に戻った時、服はちゃんと着たままというのが救いだな」
 パパが少し申し訳なさそうにそう言った。
「……だけどどうして、家に生まれる女の子はこんな体質になるの?」
 わけがわからないままに、私はパパに尋ねた。
「それがはっきりしたことはわからないんだよ。パパがおばあちゃんから聞いたのは、安倍家(うち)に生まれる女の子には猫の呪いがかかってるって言ってたな」
「猫の呪い……?」
「なにか因縁があるみたいだ。でも呪いって言っても本当に猫に変身するだけで、命にかかわるいうわけではないんだよ。現におばあちゃんは長生きだったし。気をつけていれば日常生活に支障はない……はずなんだけど……」
 そこでパパは気まずそうに口を閉じた。
 ママも、困ったな……って感じで眉を下げていた。
 大人になったらそうそう泣くことはないから、気をつけていれば日常生活には支障はない。
 たしかに、他の人ならそうだよね。
 おばあちゃんが泣くところなんて、わたし見たことなかったし、だから当然猫になるところも見ていない。
 小さな子どもじゃないんだから、人前で泣かないように気をつけていれば、普通の生活を送れそう。
 普通ならね……。
 だけどわたしにとっては、それがすごく難しいことなんだ。
 なぜなら私、究極の泣き虫だから!
 悲しいときはもちろん、びっくりした時、怒った時もすぐに涙が出てしまう。
 小学生の頃にクラスの男子につけられたあだ名は、『泣き虫寧々』!
 ほとんど悪口だけど、そう言われてもおかしくないくらい、いつでもどこでもすぐに泣いていた。
 さすがに高校生になった今は、もうそこまでじゃないけれど、それでなにかあると目に涙が浮かんでしまう。
 つまり、私にとってはこの呪い。『日常生活に支障はない』どころの話じゃなくて、死活問題ってことなんだ……。
 

 キーンコーンカーンコーン。
 変な呪いが発動しちゃって三週間後の朝、予鈴が鳴るのを聞きながら、私は教室のドアを開ける。
 中ではクラスメイトたちが思い思いの場所で友達と話をしているけど、誰も私が入って来たことに気がつかないし、気がついたとしても声をかけない。
 窓際の自分の席に行くと、男の子数人が集まって話をしている。私の机にも座ってて、私が行っても話に夢中で気がつかない。
 っていうか、私がこの席だってことすら知らないのかも。
「あ、あの……」
 カバンを置きたくて勇気を出して声をかけると、ようやく彼は気がついて、「悪い」と驚いたように言って机から下りてくれた。
 そして話をしながら黒板の方へ歩いていく。
「……この席って空席じゃなかったか?」
「てか、あんな子クラスにいた?」
「失礼だな。安藤さんだよ」
 ——安倍です。
 心の中で答えてカバンを置いて私ははぁとため息をついた。
 学校にいると、ときどき自分が透明人間なのかな?って思うことがある。情けないくらい、キラキラな青春とは程遠い。
 もともと人とコミュニケーションを取ることが苦手でしかも泣き虫だった私は、小学生の時に不名誉なあだ名をつけられてから周りからも敬遠されるようになったんだ。
 そりゃそうだよね。
 なにしててもすぐに泣いちゃう友達なんてうっとうしいもん。
 それからは、怖くて自分からクラスメイトに話しかけることができなくなった。
 当然、向こうから話しかけてくるなんてことはないから、だいたいひとりで過ごしてるってわけ。
 友達がいなくて寂しいって泣いていたのは小学校の時までで、中学に上がった頃にはすっかりひとりでいるのになれちゃった。
 ひとりが好きってわけじゃないけど、誰とも関わらずにいれば泣きたくなることもないし、その方がいいよねって無理やり自分を納得させて。
 そしてそのおひとりさま生活は、高校に入っても絶賛継続中。
 ……だけど本当は少しだけ期待してた。高校に入って顔ぶれが変わればもしかしたら友達ができるかもって。
 ちょっとだけ勇気を出してみようかな?って……。
 でもそもそもどんな風に声をかければいいかをすっかり忘れちゃってて、やっぱり無理だったんだ……。
 十六歳の誕生日を迎えて変な呪いが発動しちゃった今は、ますます友達なんて作れそうにないや……。
「あ、見て見て。藤原先輩だ!」
 女子ふたりが、窓にくっついて校庭を見て声をあげる。
 すると他の女子が集まってきた。
「本当だ、今日は朝から登校なんだ。カッコいい〜」
「はあ、私あのカバンになりたい」
 つられて私も校庭を見る。もうみんな校舎に入っていて誰もいない校庭をゆっくりと歩いている背の高い二年の男子生徒だ。
 友達がいない私でも知っているこの学校の有名人。
 藤原遥斗先輩だ。
 とにかくかっこいいっていうので人気だけど、愛想が悪くてちょっと怖い。用事がないのに話かけたらすごい目で睨まれるらしい。
「ああ、私もあの目に睨まれたい」
「私も〜!」
 口々に言い合って、クラスメイトがため息をつく。
 私には理解不能。
 怖い顔で睨まれたら、すぐに泣きたくなっちゃうもん。とくに今は、絶対に関わりたくない相手だ。
 まあ、そんな心配無用なんだけど。
 みんなの視線を浴びながら、藤原先輩は悠々と昇降口まで歩いていく。まったくなにも気にしてないみたい。
 私だったら皆んなに注目されてるってだけで、泣いちゃうよ。
 あーあの強さが私に少しでもあったらな……。
 なんだかうらやましくなっちゃった。
「おーい、チャイム鳴ったぞ、席につけ」
 担任の先生が入ってきて、女子が残念そうに解散した。

 昼休み。
 友だち同士で話しながら、食堂へ向かう生徒たちと反対方向に向かって、私はお弁当を抱えて早足で歩いている。
 おひとり様にとって、昼休みってなかなかの試練。
 みんなが友達と集まってお弁当を食べてる中、ひとりぼっちで食べるなんて鋼のハートじゃなきゃできないもん。
 というわけで、私が向かっているのは、裏庭のベンチ。人が来ないから、ゆっくりひとりでお弁当を食べれるんだ。
 ベンチに座りふうっとひと息ついた私は、さっそく持っている手提げカバンからお弁当と必須アイテム文庫本を出した。
 友だちがいないと、学校って結構暇な時間が多い。
 休み時間や昼休み……。
 お話する相手がいないと手持ち無沙汰だし、なんだかみじめな気持ちになる。
 そんな時のために必ず本を持ってくることにしてるんだ。
 もともと本を読むのは好きだし、本を読んでいる間はおひとり様生活ってことも忘れられるから一石二鳥なんだ。
 今日の本は、ファンタジー!
 王女様主人公のララが、正体を隠して街で怪盗になり悪いやつに制裁する大好きなシリーズ。
 必ず相棒のフクロウ、カイと一緒なんだけど、このフクロウがめっちゃ可愛いんだ。
 ネットで買って昨日届いた最新刊をさっそく読もうと思って持ってきたんだ。
 お弁当を食べながら、るんるんな気持ちで読み進めていた私は、ドキッとしてお箸を止める。
 このシリーズ。
 いつもだいたい悪いやつをララがやっつける痛快なストーリーで、そこが大好きなんだけど、新刊はちょっといつもと様子が違うみたい……。
 え、ええ〜!
 冒頭でいきなり相棒のカイが死んじゃってる!
 まさか、そんな……。
 私は本を開いたまま啞然とした。
 そんなことってある?
 だってだって、カイはずっとララと一緒だったのに、いきなり、そんなの悲しすぎる……。
 そんなことを考えていると、私の視界がじわりと滲む。
 ポタリと一粒涙が落ちたその瞬間。
 ポンッというポップコーンが弾けた音がした!
 あ! まずい!
 と思った時はもう遅くて猫に変身しちゃってた。
 ふわふわのしっぽが視界に入ってきて慌てて周りを見回す。
 よかった〜誰にも見られてないみたい。
 って、いやいやいや。
 よかったじゃないよ。
 あーあ、やっちゃった……。
 膝に乗せていた文庫本とお弁当が土の上に落ちたのを見て私はため息をついた。
 学校で変身しちゃったのはこれがはじめて。
 こうならないように、持ってくる本は厳選してたのに。
 絶対に泣かないように、シリアス展開なものや、感動系は避けて、なるべく楽しいものを選んでた。
 それなのに、まさかこの本でいきなりこんな展開がくるなんて。
 不意打ちだよ〜。
 とはいえ、そんなこと言っている場合じゃない。
 誰も見てないうちに早く元に戻らなきゃ。
 私はまたキョロキョロと周りを見回した。
 猫から人間に戻る方法は、笑うこと!
 家にいる時に変身しちゃったら、ママかパパのところへ行ってくすぐってもらうことにしてる。
 でも外にいる時に万が一変身しちゃった時はそれができないから、そんな時のために私は元に戻るための練習してあるんだ。
 目を閉じて頭に思い浮かべるのは、私一押しのお笑い芸人『平成プリン』!
 どっちかっていうとあまり知られていないマイナーな芸人さんなんだけど「プリプリプリンって、なんでやねーん!」っていう意味不明のネタが私のツボなんだ。
 全然意味わかんないのに、どうしてか笑っちゃう。
 その動画を頭の中で再生して……。
 ——と、そこで。
 みゃーご。
 唸り声が聞こえてきて目を開く。
 みゃーご!
 不思議に思って振り返って、私はビクッと身体を震わせた。
 後ろにいたのは太っちょの大きな黒い猫。
 顔に大きな傷があって、片目が潰れてる。すごく強そうで、もう一方の目で私を鋭く睨んでる。
 ゆっくり、こっちに向かって歩いてくる。
 みゃーご!
 まままさかこの猫、私に向かってなにか言ってる?
 みゃーご!
 だけど残念ながら、私には全然わからなかった。
 この呪いについては、パパもママもおばあちゃんから詳しく聞いてないみたいで、まだわからないことが多いんだ。
 だけど今わかったことがひとつある。どうやら身体が猫になっても、猫の言葉がわかるわけじゃないみたい……
 ふむふむ。
 って、そんなこと考えている場合じゃない!
 言葉はわからないけど、どう考えても目の前の黒猫は、私に好意的とは言えないよね。
 てか、めっちゃ怒ってない……?
 にゃーご!
 ややややばいよ。
 相手はたかが猫だけど、だけど私も猫なんだもん。
 しかもどう考えても、向こうの方が身体が大きくて強そうだし。
 私、猫の喧嘩なんかしたことないから全然強くないし。
 いやそもそも、人間でも喧嘩なんかしないんだけど……!
 そんなことを考えているうちにも黒い猫はどんどんこっちに近づいてくる。
 うわぁ……。
 近くで見るとますます大迫力……。逃げなくちゃって思うのに、身体がすくんで全然動かなかった。
 ああ、もうダメ。
 これは絶対に無傷では済まない。
 てか、猫の姿の時に怪我をしたら、元に戻るとどうなるんだろ?
 今にも飛びかかってきそうな黒猫を見つめながら、私がそんなことを考えた時。
「なに弱いものいじめしてるんだ、フク」
 頭上から聞こえる低い声に、黒猫がピタッと足を止める。すると大きな手が黒猫の首をやさしく押さえる。
「相手はチビじゃねーか。お前の相手じゃないよ。見逃してやれ」
 びっくりなことに、さっきまで明らかに怒ってたフクって呼ばれた黒猫が大きな手にすりすりと頬ずりをしはじめる。ゴロゴロと喉まで鳴らして目を細めて手と声の主を見た。
 私もつられて視線を上げて、ギョッとした。
 手の主はうちの学校の男子生徒。ここは学校の裏庭なんだから当たり前と言えば当たり前。
 つけてるネクタイが二年生の色だけど、友達がいない私でも見覚えのある顔だった。
 朝、女の子たちにキャーキャー言われてた藤原先輩だ。
「確かにここはお前のテリトリーだけど、ちょっとくらいいいだろ?」
 先輩は言い聞かせるみたいにそう言って黒猫を優しく撫でられている。
 しばらくすると黒猫は納得したみたいに、にゃあと鳴いて茂みの方に去っていった。
 それにしても意外。
 先輩って学校中の生徒に恐れられているけど、猫に対しては優しいんだ。
 何はともあれ、とりあえずは助かった!
 私はホッと息を吐いた。
 とにかく怪我しなくて済んだのはありがたい。
 あとはそこらへんの茂みに隠れて、元に戻りさえすれば……。
 そう思って私はくるりと方向転換、その場を立ち去ろうとしたけど。
「待てって」
 言葉とともに首を掴まれて、ひょいと持ち上げられてしまう。
 にゃ、にゃに⁉︎ 
 ……じゃなくて、なに⁉︎
 ふわっと身体が浮く感覚にびっくりして私は思わず目を閉じる。
 次に目を開いた時には、先輩の膝の上だった。
「へぇ、可愛いじゃん」
 そう言って安倍先輩は、学校中の誰も見たことがない笑みを浮かべて私を見た。
 そして私を好きなように撫でまくる。
 ぎゃあ〜!
 ややややめて〜!
 ジタバタとして逃げようとするけれど全然ダメだった。
 私の両脇に手を入れて持ち上げられられて、先輩のカッコいい顔が近づいてきて、大大大ピンチ!
 わ、私、ファーストキスもまだなのに〜!
 ……なんて思ったけど、先輩は私の頬に頬をすりすりしただけだった。
「ふわふわだな、お前。いい匂い」
 せ、先輩こそなんかいい匂いです……。
 て、そうじゃなくて!
 とにかく、どうにかして逃げないと、お昼休みが終わっちゃう。
 私はまた必死に手足を動かした。は、離してください〜!
「わっ……! お前、こら暴れるなって。はなしてやってもいいけど、お前、今俺から離れたらやばいぞ」
 先輩が相変わらずガッチリと私を掴んだままそう言った。
 やばい?
 意外な言葉に私が首を傾げると、先輩は、猫の私相手に丁寧に話をしてくれる。
「さっきの黒猫はこの辺りのボスなんだ。縄張り意識が強くて新入りはとりあえずボコらないと気がすまない。さっきは俺がいたから引き下がったけど、俺と離れてもしまた見つかったら、次こそ無事にすまないぜ」
 え? ……そうなんだ。
 私はジタバタするのをやめて先輩を見た。
 じゃあやっぱり本当にピンチだったんだ。
 さっきの黒猫、すごく腕が太かった。爪も鋭かったし。
「今は俺に抱かれとけ。わかったか?」
 思わずコクリと頷くと、先輩が瞬きを二回。そしてぷっと噴き出した。
「お前……! 言葉がわかるみてえじゃん。おもしれーやつ」
 しまった!
 私はぎくっと肩を震わせる。
 猫なのに話が通じるなんて、変だと思われたかな?
 でもまさか中身は人間だなんて思わないだろうけど。
「だけど俺も昼休み終わるしな……」
 先輩はそう言って考え込んだ。
 そう、私だって困る!
 もうすぐ予鈴がなっちゃうよ〜!
「かと言って、このまま逃がすのは危険だし」
 いえいえ、お気遣いなく。離してくれたら、今度こそ黒猫に見つかる前に戻ります。
「……まぁいっか、命の方が大事だよな」
 呟いて先輩が私を抱いたまま立ち上がる。
 え? どういうこと?
 わけがわからなくて目をパチパチさせる私の頭を先輩の大きな手がなでた。
「お前、家で飼ってやるよ」
 え⁉︎
 予想外すぎる言葉に私はギョッと目を剥いた。
 家で飼うって……先輩のペットになるってこと?
 け、結構です‼︎
 私、人間なので!
 一生懸命お断りするけど、口からはにゃーにゃーって声しか出ない。
 でもとにかく言わなくちゃ。
 お世話になりました。やっぱりそのあたりに放っておいてください。
 あとは自力でなんとかしますので!
「ははは、そうか。お前やっぱり言葉がわかるんだな。嬉しいか」
 逆!
 逆です!
 だけど全然通じない。
 先輩は私の頭をわしゃわしゃ撫でて歩き出す。どうやら午後の授業をさぼって家に帰ることにしたみたい。
 本当に意外。
 出会ったばかりの猫のためにここまでするなんて……。
 じゃなくて!
 このまま連れていかれちゃうなんてまずいよ!
 だけど、私の力で先輩の腕から抜け出せるわけなんてなく、私はそのまま先輩に連れ去られてしまった。 

 私、安倍寧々、今人生最大のピンチを迎えています……!
 学校の裏庭で、藤原先輩の膝に捕まった時にも、大ピンチだって思ったけど、今はもっと大ピンチ。
 学校の裏庭で凶暴な黒猫から私を救ってくれた先輩は、どうしてか私を家で飼うって言い出して、私を先輩の家に連れて帰った。
 私は内心で先輩のお母さんかお父さんが猫を飼うなんてダメって言ってくれるのを期待したんだけど……。
 どうやら家には誰もいないみたい。
 そして今。
 先輩に抱っこされた私がいるのはなんとお風呂場。
「まずは風呂か。野良だしな」
 て、呟いた先輩に連れてこられたんだ。
 お風呂……ってことは身体を洗われちゃうってことだよね?
 裸になるってことだよね⁉︎
 いやそもそも猫の姿の時は裸なんだけど、それだけは絶対に拒否しないと。
「ちょっと待ってろ」
 脱衣所に優しく下されてすかさず逃げようとするけど、ドアがぴったりと閉じている。
 それでも私はドアに向かって出たい出たいとアピールした。
 もう、みゃーみゃーを通り越してふーふー!って警戒マックスな私に、お湯の温度を調整してタオルを準備していた先輩が手を止めた。
「あー、やっぱり水は怖いかー」
 そう言って困ったような表情になった。そしてなにかに気がついたように「あ」と呟いて、スマホを手に取る。
「いきなり風呂はよくないのか……」
 どうやら猫を拾った時にどうしたらいいのかを調べたみたい。
 ドアにくっつく私を抱き上げてお腹の辺りを鼻をつける。
 きゃあ!
 恥ずかしくてわたわたちゃう私を至近距離で見てニッと笑う。
「やっぱりお前野良のくせに全然臭くないな。てか、すっげーいい匂い」
 切れ長の目に見つめられて私の心臓が飛び跳ねた。
「じゃ、風呂はまた今度にするか」
 そう言って先輩は、私を抱いて2階に上がる。
 よ、よかった〜!
 まだまだまずい状況なのは違いないけど、とりあえずお風呂は免れた……。
 部屋に着くと先輩はベッドに私を優しくおろす。
 私はキョロキョロと周りを見回した。
 男の子の部屋なんてはじめてきた。
 ベッドと机があっていろいろ置いてあるけど、意外と片付いてるなぁ……って、ぎゃあ!
 私は慌てて先輩から背を向けた。
 だって先輩、き、着替えてるんだもん。
 しばらくすると、ひょいと持ち上げられてベッドに寝そべる先輩のお腹の上に乗せられた。
 先輩はもうトレーナーに着替えてる。
 あーびっくりした。
 ホッとして私は先輩のお腹にペタンとなる。なんかあったかくて気持ちいいふぁっとあくびをして目を閉じる。
 なんか疲れちゃった……。
 先輩に黒猫から助けてもらってから、ジェットコースターみたいにいろんなことが起こって、ずっとジタバタしてたから……。
「眠いか? 寝ていいぞ」
 低い声が身体全体から聞こえてきて、大きな手でなでられる。
 私はもう一度あくびをしてから目を閉じた。
 そうしようかな……。
 ここまで来たら簡単には離してもらえそうにないし、こんな状態で元の姿に戻るわけにいかないしね……。
 体力温存ってことで……。
 先輩は大きな手で、私を撫でながらスマホを見ている。
 スマホでなにを見てるのか、私からは見えないけど、どうやら動画を見ているみたい。
 スマホから男の人の声と笑い声が聞こえてくる。
『俺な〜わからへんことあんねん』
『なんや急に。でもまぁいいわ、聞いたろか』
 ⁉︎
 聞き覚えのある声に私は耳をピンと立てた。
 これってもしかして、わたしのイチオシ芸人、平成プリンのネタじゃ?
 目を開いてチラリと見ると、先輩は画面を見つめて笑ってる。
 途端に私は嬉しくなった。
 もしかして先輩も、平成プリン好きなのかな?
 そうだったらすごくびっくり!
 私今まで平成プリン好きな人に会ったことないんだもん。
『え〜プリンとかけまして、強面のお兄さんと解く』
『なんやいきなり、まぁええわ。聞いたろか』
 スマホから聞こえてくるネタは私が大好きなネタだ。
『その心は?』
『カラメルないわけないやろー』
『プリプリプリーンってなんでやねーん!』
 お決まりのネタが聞こえてきて、私の口元に笑が浮かぶ。
 本当このネタ意味わかんない。
 でもおかしい。
 私がふふふと笑ったその瞬間。
 ——ポン‼︎
 先輩の部屋に、ポップコーンが弾けたような音が響いた。

 私、寧々、人生最大のピンチを迎えています……!
 もー何回目?って感じだけど今度こそ本当に大ピンチ!
 猫の姿で藤原先輩のお腹の上でくつろいでいた私。
 先輩が観てた平成プリンのネタを聞いて思わず笑って、人間の姿に戻ってしまったんだ。
 ポンッてポップコーンが弾けた音を聞いて、しまった!って思ったけど時すでに遅し。
 私はベッドに寝そべる先輩の上に乗っかっている。
 視界に入るのはふわふわのしっぽ……じゃなくて人間の私の手。
 やっちゃった……。
 当然先輩は目を剥いて私のことを見てる。
「は?」
 声を出したまま、それ以上はなにも言えない感じ。
 私は真っ青になった。
 まずいまずいまずい。
 なにか言わなきゃって思うけど、なんの言い訳も出てこなかった。
 だったらとにかく逃げなくちゃ!
 先輩がフリーズしてる間に、私はそろりそろりとベッドから下りる。
 そしてさささと、ドアの方に移動した。
 でもさすがになにも言わないまま帰るのは気が咎める。
 来たくて来たわけじゃないけど、人のお家に上がっておいて、挨拶なしは私の常識ではあり得ない。
「あ、あの……驚かせてしまってすみませんでした。お、おじゃましました」
 ドアノブに手をかけて私は早口でそう言った。
 そしてドアを開けようとしたその時。
「おい!」
 鋭い声とともに目の前に大きな手がドンと突かれる。さっと差した黒い影。
 恐る恐る振り返ると、私は背の高い先輩とドアの間に挟まれていた。
「お前誰? どうやって入った?」
 低い声で先輩が私に問いかける。
 猫の私を見てたのとは正反対の怖い目と不信感マックスの声に私は震え上がり、口をぱくぱくさせる。
「あの……。えーっと」
「ちゃんと説明しろ」
 全然事情を知らなくて、ついさっきまであんなに驚いてたのに、先輩って立ち直り早いんだ。
「聞いてんのか? コラッ」
 私の方は、もう頭がパニックだ。
「言えってほら。お前なんなの?」
 鋭い目で睨まれて問い詰められても、なんにも答えられなかった。
 ぎゃー怖い怖い怖い。
「えーと……」
「ああ?」
 眉間に皺を寄せた先輩に凄まれて、あまりの恐怖に私の目尻に涙が浮かぶ、その瞬間。
 ——ポンッ‼︎
 また変身しちゃった。
 猫の私はドアにへばりついたまま、みゃーみゃー泣いた。
 怖いよう。
 もう家に帰りたい。
 なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないのー!
 先輩は泣く私を、眉を寄せて見下ろしていた。
「お前、さっきの猫……?」
 あーあ、ダメ押しの変身で私イコールさっきの猫だってバレちゃったみたい。
 猫の姿になったからか、さっきよりは怖くない目で私を見る先輩と私は沈黙する。
 そこへ。
『プリプリプリン知ってまっか〜?』
 スマホで再生されたままの平成プリンのネタが響きわたる。
『プリプリプリンってなんでやねーん!』
 ちょっ……今それどころじゃないんだけど……!
 平成プリンに突っ込みながら、私はふふって笑ってしまう。
 本当にこのネタ最強。
 って思った次の瞬間。
 ポンッ!
 また私は人間に戻った。
 ドアにへばりついたままの私を見て、先輩が呟いた。
「……どういうしくみ?」
 さっきよりはちょっと声が優しかった。
 さっきは完全に不審者を見る目だったけど、私の正体が猫だとしたら、少なくとも私が自分の意思でこの部屋に忍び込んだわけじゃないってわかってくれたみたい。
「えーと、泣くと猫になるんです。そして笑うと元に戻ります」
 もう誤魔化しても無駄だよね。観念して私が言うと、先輩は首を傾げる。
「泣くと猫に、笑うと元に戻る……?」
 そこへまた平成プリンのネタが炸裂した。
『プリプリプリンってなんでやねーん!』
 私が口元を緩めると、スマホがあるベッドの方を振り返る。私が元に戻った原因がわかったみたい。
「てか俺、平成プリンで笑ってるやつにはじめて会ったんだけど」
 その言葉に、一瞬ふたりの間になんともいえない空気が流れる。
 あんまり人気ないけど、平成プリン面白いよね?ってお互いに確認し合ったような気がした。
 でもすぐに先輩は咳払いをして眉を寄せた。
「何年? 名前は?」
 ぶっきらぼうに強い調子で尋ねられて私はまたビクッとした。
 目に涙が浮かびそうになったのに気がついたのか先輩がちょっと早口で付け加えた。
「あー俺言い方キツイって言われるけど、べつに怒ってねーから! ただ聞いてるだけ」
 また猫になられたら困るって思ったみたい。
 その言い方も私からしたらまだ怖いけど、何回も猫になるわけにいかないからぐっと我慢した。
「1年の、安倍寧々です」
「なんであんなとこで猫になってたんだ?」
「お弁当を食べながら、本を読んでたら悲しい展開になっちゃって……それで」
 泣くを我慢しながら私は先輩の質問に答えた。
「本を読んで?」
 先輩がちょっと呆れたみたいに私を見る。
 その顔には、泣くと猫になるくせになんでわざわざ学校で泣くような本を読んでたんだ?と言いたげだった。
「そもそもなんで猫に?」
「それは、よくわからなくて。私のお家にかかった呪いなんだって親からは聞きましたけど」
「呪い?」
「信じてもらえないかもしれませんけど」
「いやこの目で見たんだから、信じるもなにもない」
「す……すみません」
「だからべつに怒ってるわけじゃないから」
 先輩がそう言って黙り込んだ。
 その視線はやっぱり不機嫌そうで、怖くて私は目を逸らす。
 でも、これで義務は果たしたはず。
 また泣いちゃう前に帰らなくちゃ。
 でもその前にこれだけは言っておかなきゃってことがある。
 私は恐る恐る口を開いた。
「あのー……」
 先輩がくいっと眉を上げた。
「できればこのこと……」
 呪いについて家族以外の人には秘密にするとパパとママと決めた。
 珍しがられると嫌だし、危険な目に遭うかもしれないし。
「誰にも言わないでもらえると……」
 恐る恐るそう言うと、先輩がちっと舌打ちをして私を睨む。ビクッと肩を揺らす私に向かって吐き捨てた。
「んなめんどくせーことしねーよ!」
「え、……本当ですか?」
 意外な言葉に、私は思わず問いかけて、また睨まれてごにょごにょ言う。
「ありがとうございます……」
 相変わらずめっちゃ怖いけど、私にとってはありがたい。
 そうとわかれば、もう話はおしまいだ。
「あの、じゃあお邪魔しました」
 私がそう言ってドアの取手に手をかける。開けようとするけれど、先輩の手がドアを押さえた。
「おい、勝手に帰ろうとすんな。俺の話は終わってない」
「え……?」
 俺の話?
「お前こそどうなんだよ?」
「どうって……?」
 先輩がなにを言いたいのかわからなくて私はドキドキしながら首を傾げる。
 怖い顔で睨まれて冷や汗がたらり。
「お前は内緒にすんのかって聞いてんだよ」
 凄まれて、私は目をパチパチさせた。
 え? 私が内緒にする?
「えーっと……なにを?」
 わからなくて首を傾げる。
 先輩が頬を歪めた。
「だから俺が猫のお前に……」
 言いにくそうに言葉を濁すのに、ようやく私は先輩がなにを言いたいのかに気がついた。
「あ、先輩が猫にはすごく優しいってことですね!」
 思わず口に出してしまい、じろりと睨まれて口を閉じた。
 でも正解だったみたい。先輩は否定しないで睨んでる。
 うう……怖い。
 内緒にするって約束しなきゃ、このまま力ずくで口を封じられそうな雰囲気だ。
 そんなことにならないように私は慌てて首をブンブンと横に振った。
「わ、私も……い、言いません。今日のことは絶対に」
 そもそも先輩が猫に優しいって誰かに言うためには今日のことを言わなくちゃいけない。そんな自分の首を絞めるようなことはしないよ。
「本当に、誓います!」
 先輩が疑わしそうに目を細めた。
「信用できねー」
「え、そんな……大丈夫です。絶対に秘密にします」
「女子の秘密は秘密じゃねー、しかも勝手に話を盛って広めるからタチがわりぃ」
 忌々しいって感じで先輩が舌打ちをした。
 すっごい偏見って思うけど、考えてみたら仕方がないかも。
 クラスの女の子たち、先輩と直接面識はなさそうなのに、しょっちゅう先輩のことについて噂してるもん。
 中学の卒業式には、告白する女の子の列ができたとか。
 隣の学校の生徒と喧嘩したとか。
 教育実習生の先生と付き合ってるなんていう耳を疑うような内容もあったな。
 先輩が疑心暗鬼になるのは当然かも。
「だ、大丈夫です、言いません。先輩には親切にしてもらいましたし、そんな恩を仇で返すようなことは……」
 絶対にしませんと言おうとして私はハッとして口を閉じる。
 先輩の表情がますます険しくなったからだ。どうやら"親切にしてもらった"ってあたりが火に油を注いだみたい。
 それこそ先輩が気にしてるところだもんね。
 どうしよう。
 このまま信じてもらえないと、家に帰れないよ。
 私は一生懸命考えて口を開いた。
「先輩が信用できないのはわかりますが、私本当に大丈夫です。今日のこと誰かに話したくても、と、友達がいませんから!」
 家に帰りたい一心でそう言うと、先輩が瞬きをしてちょっと驚いたような表情になった。
「言う相手がいませんから、本当に大丈夫です」
 重ねて私がそう言うと、先輩が眉を上げた。
「へぇ、お前みたいな真面目そうなやつもダチいらない派なんだ」
「い、いらないわけじゃないです。欲しいけどできないんです」
 友だち欲しいけどできないなんて自分で言ってて悲しいけど、とにかく先輩に納得してほしくて私は洗いざらい話をする。
「私、すごく泣き虫で……。なにかあったらすぐ涙が出ちゃうんで小学生の頃にうっとしいって言われて、仲間はずれになってから、ずっとひとりで……友だちの作り方忘れちゃった感じです……はい」
 突然、過去の話まで持ち出した私に、先輩はしばらく沈黙する。
 そしてふっと笑った。
「泣くと猫になる呪いがかかってるのに、泣き虫って。最悪じゃん」
 猫じゃない私にはじめて先輩が笑ってくれて、私の胸がドキンとした。
 いやいやバカにされてるみたいなもんなんだから、ドキドキしている場合じゃない。
 でもこれで先輩に納得してもらえるはず。
 ホッとする私を見つめながら、先輩はしばらく沈黙する。
「あのー…」
 あまりにも不自然な間に、私が口を開くと、先輩がなにやら意味深に笑った。
「いいこと思いついた」
 なんか嫌な予感がする。
「俺がお前のダチ1号になってやるよ」
「……へ⁉︎」
 意外すぎる言葉に私の口から変な声が漏れた。
「だから俺がお前の友だちになってやるって言ってんだよ。欲しいんだろ? 友だち。なんでそんなもん欲しいのか俺には理解できねーけど」
 突拍子もないこと言い出した先輩に私は啞然とする。
 もちろん友だちは欲しいけど、誰でもいいってわけじゃない。
 先輩と私なんて、ばったとハリネズミくらい種類が違うって感じがする。共通点は生き物ってだけなのに、友だちになんてなりようがない。
 それなのに、驚いてなにも答えない私をよそに先輩は話を進める。
「ついでに学校でボディーガードもしてやるよ。また泣いて猫にならねーように」
 ええ! そんなの結構です。
 今日がイレギュラーだっただけで、普段は静かな生活だし。
 むしろ先輩と友達になったら逆に危険。はっきりいって余計なお世話です!
 ……なんてことは当然言えなくて、私は口をパクパクさせる。
 それをどう捉えたのか、先輩が笑った。
「いい案だろ? その代わり条件がある」
 全然いい案に思えないし、それに条件をつけられてもって思うけど、やっぱりなにも言えなかった。
 それになんだか嫌な予感。
「お前、時々俺の前で変身しろ。そんでその間は俺のペットになれ」
「な……! ペット……ですか?」
 掠れた声で問いかけると先輩は頷いて、眉を寄せた。
「せっかく猫を飼えると思って喜んだのに、お前がそれを台無しにしたからだ」
 台無しにって、私が人間だったから?
 せっかく私を飼おうと思ってたのにそれができなくて残念……てこと?
 でもそれ私のせいじゃなくない?と思ったけど、もちろんそんなことは言えない。
「先輩……猫好きなんですね。でもあのべつに私じゃなくても……あの黒猫も先輩のこと好きみたいだったし……」
 先輩に変な取引を諦めてもらいたくて私は言う。
 先輩が眉を寄せた。
「そうしたいけど、なんか俺、猫に怖がられるみたいで、触らせてくれねーんだよ。フクだけは度胸があるから触れるけど、あいつはあのあたりのボスだからテリトリーから出たがらない」
 残念そうにするのがおかしくて、私は思わず口もとに笑みを浮かべる。
 先輩が怖いの、猫にもわかるんだ。
 でもすぐにじろりと睨まれてあわてて笑いを引っ込めた。
「そ、それは残念ですね」
「でもお前は触られてくれた。こんなに鈍臭いやつ、野良ではやってけないから飼ってやろうと思ったのに。ぬか喜びさせやがって」
 先輩が忌々しそうに私を見た。
 いやいやそんなの言いがかりだよ。
 私は飼ってほしいなんてお願いしてないし。
 そもそもお断りしたし。
 猫語だから先輩に伝わらなかっただけで……。
「だからお前、責任とって猫として俺のペットになって触らせろ」
「そ、そんな……」
 触らせろ、なんて不穏な言葉に私は慌てて首をブンブンと横に振った。
「それはちょっと、む、無理です……! わ、私は、に、人間なので!」
 ありったけの勇気を振り絞って拒否をした。
 怖いけど言わなくちゃ。
 ペットになるなんて、それだけでも無理なのに、相手が先輩なんて怖すぎて嫌すぎる。
「本物の猫にお願いしてくださ……」
 けど。
 バンッとドアに手をつかれて口を閉じた。
「それができねーからこうして頼んでるんだけど?」
 全然頼んでるって感じじゃなく凄まれて私は震え上がる。
 思わず涙が出そうになるけど、お腹に力を入れてどうにか我慢した。
 先輩が大の猫好き。
 てことは、ここで変身したらよくないことになりそうで。
 怖いから視線を逸らして、一生懸命反論する。
「でででも……! そんなの普通じゃないですよ」
「そもそもお前が普通じゃないじゃん」
「そ、それは……だけど」
「お前、この状況で断れる立場だと思ってんの?」
 不穏な言葉に目を上げて先輩を見ると、先輩は不敵な笑みを浮かべてる。
 うわぁ、悪い顔。
「お前のその秘密黙っててほしいんだろ?」
 どうやら頼むのは止めて脅すことにしたみたい。
 痛いところを突かれて私はぎくっ肩を揺らす。
 それを言われたらもうなにも反論できない。
 固まる私の肩を先輩がポンポンと叩いた。
「そんなに難しい仕事じゃないって。お前泣くの得意なんだろ?」
 泣くのが嫌なんじゃなくて、ペットになるのが嫌なんですけど!って心の声はもちろん口にできなかった。
 完全に取引は成立したって感じで先輩は満足そうに笑ってる。
 私は目の前が真っ暗になるのを感じていた。
 この先私、どうなっちゃうんだろって思ったら、じわりと目尻に涙が浮かぶ。
 ポンッ!
 また猫になっちゃった……。
 ドアにもたれかかりしょんぼりとする。
 先輩が嬉しそうにわたしの方へ手を伸ばした。
 怖い顔で睨まれて脅されていた私は咄嗟にびくっとするけど、私を抱き上げる先輩の手はものすごく優しかった。私を腕に抱いて大きな手で頭を撫でる。
「女子って話してるだけで意味不明に泣いたりしてうっとおしーって思ってたけど、俺、お前だけは泣かせたいわ」
 そう言って満足そうに笑う先輩を見上げながら、私は耳をしゅんとさせる。
 ああ、今日は本当についてない……。
 猫の呪いを知られちゃっただけじゃなくて、こんなことになっちゃうなんて。
 つい数時間前までは、まったく関わりなかったカッコいいけどものすごく怖い藤原先輩。
 それなのに、今はその先輩のペットになったなんて。
 もうわけがわからない。
 これから私。
 どうしたらいいの〜⁉︎
 ニャーン。