「俺、何で医者を続けているんだろう」
 高野篤志(たかのあつし)は病院のトイレでぼんやりと考え込むが医師としての日々に忙殺され全く思い出せない。考えても埒が明かなかったので頭を切り替える。たまには身なりを整えて洒落た店へ出かけたいと考えるが、今にも過労死しそうなくたびれきった人間がお洒落をしても全くかっこよくないのでは? そう自分に問いかける。さっきまで選択肢になかった休みたいが答えだ。
「明日は休みだしゆっくりするか。あぁ、注文したものも出来上がったって連絡来たな。散歩ついでに模型屋にでも……」
 ふあぁ。とあくびをしてまぶたを開く。そこは薄暗い森の中だった。
「疲れすぎて幻覚が見える様になってしまったのか?」
 とうとう自分も精神科案件かと尿を出し切り、男のシンボルをしまう。
「……幻覚にしちゃリアルすぎやしないか?」
 冷たい風が頬を撫でる。恐る恐る一歩踏み出す。そしてまた一歩。おかしい。今いるのはトイレの個室の筈だ。何にもぶつからない。
「おい。仕事中だぞ起きろ、俺」
 頬をつねったり叩いたりしたが、しっかり痛い。夢だろうが何だろうがこのまま立ち尽くす訳にもいかないので道らしい所を歩く。ゴツリと足に何かが当たった。足元を見ると大きめのトランクが一つ。高野には覚えがある物だった。
「いやいや。おかしいだろ」
 それは高野が模型屋に依頼していた漫画の神様が描いた漫画に出てくる天才外科医のドクターバッグを模した物。中身も偽物であるがしっかりつまっている筈である。持ってみれば思っていた以上に重い。高野も含めその天才外科医に憧れ医師になった者も多い。捨て置くわけにも行かず何も持たないよりマシだとバッグを持ち、歩いて行く。
 何か嫌な気配がする。早足で歩くがその予感は的中した「グァア!」と耳を劈くような音が響いて大きな爪が眼前に迫る。しかし高野は状況が理解できない上に腰も抜けてしまい動けない。目をぎゅっと閉じるとバサリと音がして静かになる。
「おい、大丈夫か?」
 恐る恐る目を開けるとそこには大剣を持った金髪の青年。自分より若そうである。まるでRPGに出てくる勇者のような風貌だ。他にも仲間がいるようでこちらを物珍しそうに見ている。そして目の前には自分を襲おうとした大きな翼を持った化け物が倒れていた。
「あ、ありがとうございます」
「お前、変な格好をしているな。異世界から来たのか?」
 オタクな友人がアニメやラノベが好きなのでよく話題に出た異世界。異世界へ行って無双する話。ふとそんな可能性が頭を過ったが医者として非科学的なものを信じるとは如何なものか。そこの化け物がここは地球ではないと物語っているが冷静に冷静に。念のためだ。
「ここは何処ですか? いえ、何て言う国ですか?」
「シャッテン王国だ」
 勇者が答えた。地球にそんな国はない。
「異世界から来る者はそれなりにいるのですか?」
「出会えたらラッキーと言われるくらいにはいる。異世界から来た者がいたら神の使いとして教会に連れて行かなければならない。どうせこのままじゃ化け物の餌食になるだけだ。どうだろう? 近くの街まで一緒に行かないか?」
「あ、あぁ頼むよ」

 パーティーには勇者の他に魔術師と僧侶がいた。名前を聞いたが舌を噛みそうな名前だったので事情を話し役割で呼んで良いかと聞いたら快く了承してくれた。時間が時間なので適当な場所で野宿をすることになった。
「ほー。高野は外科医なのか。じゃ、街に着いたら髪でも切ってもらおうか」
 魔術師が果物の皮をむきながらおかしな事を口にした。
「俺には髪を切る技術はないですよ」
「それはおかしいわよ。外科医は理髪師がついでにやる仕事みたいな物だもの」
 僧侶が話に割って入ってきた。この話の噛み合わなさ、高野は一つ思い当たる節があった。
「もしかしてこの世界って内科医が全うな医者だったりする?」
「そうよ。外科医なんて胡散臭いわ」
 やっぱりそうだ。ここは中世ヨーロッパみたいな所だ、魔法が発達しているものだからそうなっているのか。胡散臭いと言われ凹んだ高野は話題を変えた。
「魔術師さんはどんな魔法が使えるんですか?」
 魔術師はまってましたを言わんばかりに
「僕のとっておきを見せてあげましょう!」
 拾った石を空に投げ、杖を振った。
「……?」
 何が何だかわからないと高野は首を傾げると僧侶が耳打ちしてくれた。
「時を止めるのが得意なのよ。石が落ちて来ないでしょう?」
 あぁ、自分が医師だから石を使った魔術をお披露目してくれた訳か。しかし、地味だが凄い。水や火の魔術も使えるらしいが今はやらないと言ったので魔力の事情なんかもあるのだろうとリクエストは諦めた。
「素晴らしいですね。俺も小さい頃魔術師に憧れたものでした」
「そうだろう? そうだろう?」
 魔術師は得意げだった。
「僧侶さんは病気を治せたりするんですか?」
 医師としてとても興味深く、聞いてみたい事だった。
「病気を治せたりするのは王宮に勤められるくらいに修行を積まないと……私は見える部分の怪我を治す事だけです」
「痛みもまとめて?」
「はい。それしか出来ませんが……」
「充分凄いですよ!」
 褒められた事に慣れていないのか頬を染めて「えへへ」と笑った。
「いてて……」
 勇者が腹を摩っていた。出会った時から既に腹に違和感があるようで時折摩っていた。
「まだ痛むんですか? せめて食事を取らないと倒れてしまいますよ?」
 魔術師が注意すると「そうだな。だが食べられないものは食べられない。今日はもう寝る」とテントに行ってしまった。

 化け物に襲われ、勇者パーティーに救われとても疲れた筈だが興奮しているのか高野は眠れないでいた。虫の音に誘われ外へ出ると満天の星に輝く月。異世界でも似たような物があるのか。星座も同じだったりするのかと知識は星占いの星座くらいで特に詳しくないがそんな事を思った。月明かりの下、漸くトランクを開ける。なんとそこには本物の手術道具が入っていた。
「ご都合主義にも程がある。漫画じゃあるまいし。まるで無双しろって言われているみたいだ」
 虫の音は高野の興奮に応えるように益々強くなる。それに重なる何かうなるような音。オオカミみたいな化け物でもいるのかと耳を澄ませたがそのうなり声はテントの中からだった。
 何事かとテントへ戻ると勇者が嘔吐し、脂汗をかき、腹を抱えていた。
 横で魔術師がただ事じゃないと慌てふためいている。僧侶もテントにやってきて勇者の様子を見ると小さく悲鳴を上げた。医者としてここは助けるべきだと思う。しかし、こんなまともな医療器具が無いところで何が出来るというのだろう。だが、命の恩人を放っておくわけにはいかない。
「鎧を脱がせて」
「高野、お前が助けられるって言うのか?」
「信用されようがされまいが俺は医者だ。命の恩人が苦しんでいるというのに見て見ぬふりをしろと言うのか」
 魔術師は勇者の鎧を脱がせた。高野は服をめくり、腹部に触れる。
「何処が痛みます?」
「うぅ……」
 勇者は震える手で痛むところに指差す。そこは盲腸がある場所。
「少し押しますね」
「いだ……い!」
 診断方法の一つに触診がある。今はそれしか出来ないがやらないよりマシなのだ。筋性防御。痛みを防ぐために筋肉が固まっている。ほぼ間違いない。虫垂炎だ。
「痛がっているじゃない! 早く街に連れて行かなきゃ!」
 僧侶が高野の腕を掴み制止させる。
「こんな状態でどうやって連れて行くんですか? 街まで遠いから野宿したのでしょう? 街には治療できる医師はいるんですか? ここで治療するしかないでしょう?」
「治療って何するんだよ」
 このパーティーは仲が良いのだろう。魔術師は興奮気味に食ってかかってきた。
「手術です」
「貴方は狂っているのか?」
 魔術師は高野の胸ぐらを掴む。
「俺はあちらの世界で沢山患者を救ってきたつもりです。道具だってある。協力してください。放っておいて腹膜炎にでもなったら……」
 必死の訴えに納得したのか、それとも間に合いそうにないと一か八かの賭けに出たのか
「こいつを死なせたら貴方を殺す」
 高野は頷くとトランクを開けた。一つ問題があった。麻酔薬がないのだ。メスや鉗子に気を取られてそんな事はうっかり頭から離れてしまっていたのだ。
「……」
「手術するならはやくして!」
 僧侶はパニックを起こしかけている。
 今更後には引けない。高野は考えた。何故か手術道具がある。ならば麻酔代わりになる何かがあるのではないかと。
「魔術師さん。時を止める魔法は人間にも使えますか?」
「は? い、一応」
「二時間止められますか?」
「無理だ! 僕が参ってしまう」
 麻酔なしでは手術なんて出来ない。更に高野は考える。局所麻酔だ。ポケットからハンカチを取り出し勇者の腹部に置く。
「この範囲の時間を二時間、いえ、一時間三十分止められますか?」
「そこだけならどうにか」
「わかりました。合図したら時間を止めてください」
 手術はテント内で行うことにした。清潔を保ちたいので荷物は外へ出し、手は魔術師の魔術で出した水で洗う。明かりはトランクにあったライト付き眼鏡。手術道具は煮沸消毒の上使用。
「手術を開始する」
 まさかこんな森の中で手術するなんて思いもしなかった。魔術師に合図を送り、時間を止めて貰う。時間を止めたことによって痛覚も止まったのか勇者はおとなしくなった。念のために腹部をつねる。このまま続行しても問題なさそうだ。虫垂炎の手術なんて久しぶりだ。検査も出来ず異世界でしかも野外で。心臓が爆発しそうな緊張感。今までどれだけ便利な環境に救われていたのか痛いほどわかる。たかが虫垂炎の手術だって言うのに。あの憧れた天才外科医ならもっと上手く立ち回るだろう。そんな事を考えながら手を進めると目的の場所を見つけ一安心した。腹膜炎を起こしていない。虫垂を同定し、栄養血管を縛る。次に虫垂を根元で縛り切除。元にいた世界での悩みなんてどうでもよくなった。今はただこの勇者を救いたい。ただその一心で手を動かす高野だった。
「ね、ねぇ」
 落ち着きを取り戻したのか僧侶が声をかけてきた。
「何ですか?」
「時の魔術を解除したら痛いんじゃないですか?」
「……」
 頬をつねれば数秒は違和感が残る。親知らずを抜けば痛み止めが処方される。術後の痛みについて失念していた。
「お、おい! 痛みでどうにかなってしまうのでは?」
 手を止めた高野を見て魔術師が怒り始める。当然だ。仲間の腹を切られた上に死ぬかもしれない恐怖もあるのだから。
 麻酔の件はどうにかなった。ならばこの障害もどうにかなるはずだ。辺りを見渡すと僧侶を目があう。
「見える傷なら治せる。痛みも消せると言いましたね?」
「は、はい」
「例えば切り落とした腕を元に戻すとかは出来ますか?」
「そんな高等な術は使えません!」
「それでいいです」
「臓器の回復お願いします」
 切除した箇所を指差すと僧侶は詠唱した。それはキラキラして幻想的だった。光がある程度収まった所で患部を確認する。切除した所は綺麗に回復されていて特に問題はなさそうだ。次は腹を閉じる。
「お腹の回復お願いします」
「はい!」
 手術の痕跡も跡形もなく消え去った。
「手術終わりました。魔術解除してください」
「はぁ、はぁ……疲れた、ぁ」
 魔術師は緊張の糸が切れたのか膝から崩れ落ちた。
「そ、それで手術は……」
「明日には目を覚ますでしょう」
 成功したなんて軽々しく言えないのだ。虫垂炎と言えばある事を確認しなければならいからだ。
 翌朝、勇者は目を覚ました。思いっきり手を空に伸ばし伸びをした。
「お腹の調子はどうですか?」
 勇者は昨晩の事を思い出したようで服の裾をめくり腹を確認した。
「傷が、ない?」
「えぇ、皆で協力したので。ですが、三日は安静にしてくださいね」
「この森の中でか?」
「私が、伝書鳩で馬車を手配します! なので明日の夜にはここから出られると思います」
 僧侶が詠唱すると光る鳥が出てきて要件を伝える。ポッポーと鳴くとバサバサと飛んでいった。
 僧侶が言ったその日の夜には馬車がやってきて勇者を乗せる。運良く化け物にも出会わず無事に街へ着いた。教会へ行く前に宿へ泊まり勇者の様子を見る。
 手術から三日後。
「勇者さん。質問に正直に答えてください。おならは出ましたか?」
「え? 手術の翌日には出たけど? それより飯はまだ食べちゃ駄目なの?」
 予想外だった。麻酔ではなく魔術で代用して、縫合もまた代わりに回復魔法を使ったからか、高野は摩訶不思議な奇跡を理解出来なかった。
「えぇと、まずはお粥から食べていきましょうね」
 栄養を補う点滴が出来ずに水分補給しかさせられなかったためいきなり肉は恐ろしかった。通常通りの指示をした。
「勇者さんは完治しました」
 そう伝えると二人は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「あぁ、良かった良かった」
「ありがとう。ありがとう」
 その言葉に高野は思い出した。自分は命を救ったその先にある感謝の言葉が好きで医者を続けていた事を。
 じーん。と心が温まり感動していた所、勇者が水を刺した。
「こんなに腕の良い外科医ならきっと上手いはずだ。俺の髪、切ってくれないか?」
「俺は理髪師じゃない!」
 まだまだ理解されるには努力が必要だと高野は思った。