まぶしい闇に落ちるまで

 学校に新しくカウンセラーの先生が来ると聞いたとき、暁月(あかつき)はぼんやりと、その人に甘えに似た感情を持った。
 心の問題を扱う先生。その人は、もしかしたら暁月が子どもの頃に蓋をした感情を暴いてくれるかもしれないと思ったのだった。
高宮(たかみや)瑞乃(みずの)です。よろしくお願いします」
 担任に紹介されて顔を上げた先生は、暁月が思っていた人とは違った。
 その人はまだ高校を卒業したばかりのような、若い女性だった。てっきり保健室の先生みたいな、ベテランでどっしりした壮年の女性を思っていたものだから、拍子抜けした。
 それで、甘えるには危ういような……長いさらさらした黒髪と、華奢な手足の、とても綺麗な人だったものだから、暁月には都合が悪かった。
 高宮というらしいカウンセラーの先生は、透き通った水の流れのような声色で続ける。
「……心に(おり)のある方、私にお知らせください」
 澱と聞いて、暁月は一瞬檻と聞き違えた。学校、あるいは社会の壁の中で生きていて、これからもそこで生きていく自分。そんな自分が、檻の中の動物だと言われたようにも思ったのだ。
 最初の印象を修正しよう。……あまり好きじゃない先生だ。自分の勝手な聞き違いかもしれないが、暁月はそう思った。
 高宮は生徒を誰にも不平等にならないように見渡して言った。
「毎週水曜日の夕方三時半から五時まで、面談室でカウンセリングを実施しています。希望される生徒さんは、面談室の前の用紙に記入して箱に入れてください」
 その場は担任の先生に引き継がれて、高宮の話はあっけなく終わった。
 暁月は少し落胆した気持ちで、その日の帰路を辿った。
 カウンセリングというと精神的に弱い子が受ける印象で、目先の悩みは受験だという標準的な男子高校生の自分が、高宮の世話になるとは思わなかった。
 ……別に世話になることが目的でもないのに、がっかりするなんて変な話。
 見上げれば夕焼けが空を覆っていて、明日はたぶん曇るということ以外、先のことなど見渡せなかった。見渡したいとも思っていなくて、自分の凡人ぶりに嫌気が差していた。
 友だちも少しはいるけど、夢中になれるものがあるわけでもなく、やがては卒業して就職する。……自分の中に、澱などない。
 ふと高宮が告げた、澱という言葉を心で繰り返した。沈殿物。
 いつか水をあふれさせて、取り返しのつかないことを引き起こすもの。
 ……馬鹿にするな。自分はそんな不適合者じゃない。そう思って、頭からその言葉を黒い消しゴムで消す。
 ただ、どこかで会いたくない人ほど会ってしまうと聞いたことがある。
 日曜日、暁月は学校の外で高宮に会った。まったく意図したものではなく、偶然だった……と思う。
「こんにちは」
 高宮は生徒の顔をひととおり覚えていたらしい。暁月の姿をみとめるなり、朗らかにあいさつをしてきた。
成田(なりた)さんは、クリスチャンですか?」
 そこは教会に隣接する飲食店だった。だから暁月にそう訊ねたのは、まったく的外れでもなかった。
 暁月は波の無い声音でそっけなく答える。
「……いいえ。友達はそうですが、僕はここで飲み物を買うだけの目的です」
 高宮は暁月の態度を悪く取る様子もなく、そうでしたかと話を切った。
 高宮は微笑してさらりと謝罪する。
「休日に声をかけて申し訳ない。どうぞ、ゆっくりしてください。私はすぐ出て行くので」
 一瞬の反応だったのに、暁月が高宮によくない感情を持っていることに気づいたらしい。
 人の顔色をうかがうのが得意なんだ。カウンセラーだから当然なのかと思う。
 暁月はカウンターの高宮から離れてテーブル席についたが、元々店内はそれほど広くない。休日の午前中だから、客は暁月と高宮だけだった。
 どこか気まずい沈黙の後、席から声をかけたのは暁月だった。 
「……高宮先生は、人の心の暗い部分ばかり見て嫌にならないんですか」
 唐突に自分は何を言っているのだろう。暁月は言ってから後悔したが、高宮は別段の不快をにじませることなく返した。
「大丈夫ですよ。幸いすぐに慣れたので、合った職だったようです」
 仕事ですからとそっけなく切り捨てることもなく、人のためだからと良い顔をするでもなく。高宮の言葉は柔らかく、穏やかだった。
 けれど高宮の次の言葉は、ひやりと暁月の心をすくった。
「……私は、人が死ぬところに呼ばれる宿命みたいなのでね」
 暁月は反射的に息を呑んで高宮を見た。一瞬、二人の間に氷のような沈黙が下りた。
 性質の悪い冗談を言う人だ。暁月はからかわれたのだと思って、今度こそ話を打ち切ろうと思ったとき。
「暁月! ここにいた!」
 店に飛び込んできたのは、今の時間教会でミサに参加しているはずの友だちだった。春海(はるみ)という優しい名前を持った彼は、その性格もおっとりしていて、今のように息せき切って現れたことなどなかった。
 暁月は異変に気づいて立ち上がると、彼に問いかける。
「春海、どうかした?」
「あの、あのさ。ごめん、僕も全然落ち着いて言えるかわからないんだけど」
 春海は震えながら、恐る恐るその言葉を口にする。
流々(るる)ちゃんが……刺されて亡くなったんだ」
 クラスメイトの名前を耳にしたとき、暁月はそれが現実だと思えなかった。
 テレビやドラマの中なら聞いたことがあっても、それは一昨日まで同じ教室にいた子のことだった。
 呆然として立ちすくんだ暁月は、そのときカウンターの高宮が微笑んだのを確かに見た。
 その微笑みは、美しい所作だった。殺人という異常事態を聞いた反応とは思えないほど、優雅で洗練された一瞬だった。
 けれどそれは見間違いだったと思うほどの瞬間的な仕草で、高宮はすぐに教師としての真摯な表情で二人に指示を出した。
「二人とも、今日は帰りなさい。……私は学校に行ってきますね」
 高宮はそう言って、足早に店を出て行く。
――私は、人が死ぬところに呼ばれる宿命みたいなのでね。
 暁月は立ちすくんだまま、高宮が告げたその言葉を思い出していた。
 体の中で鳴りやまない動悸が、切迫する濁流のように感じていた。
 月曜日、クラスメイトが亡くなって迎えた週明けは、トンネルの中で迎えた朝のような日だった。
 クラスメイトは誰もがその事件を知っていながら、表立ってそれを口にする生徒はいなかった。
 倫理観や、優しさからじゃない。ただ怖かったのだと、暁月は自分自身の気持ちから、そう思った。
 朝のホームルームで、担任の先生は短く事件の説明をした。
「悲しい事件が起きました。矢野(やの)流々さんが、昨日、刃物で刺されて亡くなりました」
 息が詰まるような沈黙の中で、先生の声だけが教室に響く。
「流々さんを刺したと思われる、古谷(ふるたに)夾助(きょうすけ)さんは、今警察で事情を聞かれています。しばらくは登校できません」
 流々を刺した夾助も、同じクラスメイトだった。
 二人は付き合っていたと言われている。けれど仲のいい恋人同士で、まさか殺人が起こるなんて誰も想像していなかった。
「突然のことで、みんなどうしたらいいかわからないと思いますが……」
 どこか皆、うつろな目で先生を見上げていた。無意識に助けを求めていて、担任もそれに応える言葉を持っていないようだった。
 そのとき、教室に一人の先生が入ってきた。
 担任の横に並んだのは、高宮だった。彼女は担任と協力してプリントを配ると、生徒たちに言った。
「先生たちは、みなさんを心配しています。アンケートを作成しましたので、不安がある生徒さんは遠慮なく記入してください。秘密は守られます」
 暁月がプリントをめくると、「眠れない」「いらいらする」「涙が出る」など二十ほどのチェック項目と、自由記載欄のあるアンケートだった。
 こういう異常事態のときこそ、カウンセラーの先生の出番なのだろう。高宮がやって来たのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
 ……それともこうなることがわかっていてやって来た? 暁月は一瞬自分の考えたことがあまりに悪意的で、高宮にというより自分に嫌悪感がした。
 暁月はアンケートから顔を上げて高宮を見た。他の生徒たちはアンケートを書いていたから、ちょうど高宮と目が合った。
 高宮は何も言わなかったが、暁月の物問いたげなまなざしを穏やかに受け止めた。先生はいつでも相談を受けますよと言っているようで、暁月は最初に高宮のことを聞いたときのような、淡い甘え心を抱いた。
 だけどこんな事態だというのに、高宮に助けを求めるのは何か恥ずかしい気持ちがしていた。どうしてか高宮に、自分は弱い子どもじゃないと意地を張っていたかった。
 ホームルームが終わって、授業が始まる。受験を控えている三年生は、この異常事態でも授業を止めるわけにはいかないのだろう。
 暁月は窓から空を仰いで、今週はずっとこの曇天だろうかと思った。冬空に明るい陽射しはなく、重苦しい空気が垂れこめる。
「一発の銃声で、戦争の世紀が始まります」
 世界史の先生が、近代の転機を話している。第一次世界大戦の幕開け、その後の陰惨な歴史は子どもでも知っているが、自分たちはその終わった後の世界を生きている。
 過酷な時代を生きてきたはずが、昔はよかったと言う大人たち。時々、大人たちの語る昔は幻想で、実は何もなかったんじゃないかと思うことがある。
 過去が何もない真っ白な世界だったら、いいな。それで未来だけ明るければ、誰も心の悩みなど抱えやしないんじゃないだろうか……。
 そんなことをぼんやり考えていたら、昼休みに面談室の前を通りかかった。
「あ」
 声をかけようとして、できなかった。深刻な表情で面談室に入って行ったのは、友だちの春海だったからだった。
 はっきりと暁月に話したことはないが、春海は流々のことが好きだった。流々は大人しい子で、引っ込み思案だったが、はにかむ顔がかわいい子だった。派手好きで他の女子にも人気だった夾助より、よほど春海との方が良い恋人同士になれるような気がしていた。
 ふと辺りに人気がないのを確かめて、暁月はふらりと面談室に近づいた。
 どうしてそんなことをしようとしたのかわからない。
 設備の古い面談室は、壁に近寄れば中の声を聞くことができる。春海が心配だったというより、春海と高宮が何を話すのかが気になった。
 春海の声は小さすぎて聞こえなかった。けれどそれに返した高宮の声は、鈴を鳴らすように美しく響いた。
「あなたの思いはわかりました。流々さんに、とても純粋な気持ちを寄せていらしたんですね」
 高宮は理想のカウンセラーそのものの声色で、春海に応える。
「先生はあなたの気持ちを応援したい。あなたの手にそれがやって来たのも運命でしょう」
 「それ」がやって来た? 暁月は不可思議な言葉に眉を寄せて、もっと話を聞こうと体を近づける。
 でも高宮が次の瞬間口にした言葉に、暁月は凍り付いた。
「……それであなたの悪を貫きなさい、春海さん」
 高宮はまるでこれから試験に挑む生徒に対するように、優しく励ましたのだった。
 火曜日の朝は、誰も想像していなかった情報で埋め尽くされた。
 担任から、クラスの生徒と保護者に一斉にメールが届いたのだ。
「古谷夾助さんが何者かに刺されて亡くなりました。犯人はまだ捕まっていません。近隣に犯人が潜んでいる可能性がありますので、クラスの皆さんは外出しないでください」
 学校側は保護者一人一人に電話もかけていて、決して外に出ないようにと呼びかけていた。
 流々を殺したと言われている夾助が、今度は誰かに殺された。犯人は想像が……ついていないわけではなかった。
 暁月は昨日、高宮が春海に殺人をそそのかすのを聞いた。でもまさか春海がその通りに実行したとは信じられない。
 春海は暁月が遅刻しても、借りた本を返すのをすっかり忘れていても、「全然いいよ」と微笑んで許してくれる、優しい性格の友だちだ。暴力的なところなど欠片もなくて、たとえ流々のことが好きだったとしても、誰かを刺し殺すなんて考えられなかった。
 でもそれなら、夾助が流々を刺したというのだって未だに信じられない。夾助は流々と付き合いながら、他の女子ともよく一緒にいた。そういうことで流々が嫉妬したのならともかく、逆は奇妙だった。
 ……ただ人の心は周りが考えるよりずっともろいものだと、暁月は知っている。
 暁月は空っぽのリビングで立ち上がって、玄関に向かった。
 暁月は先生からのメールで外に出ないようにと言われているが、朝出勤した父親からは何も言われていない。父親にもメールは届いているだろうが、たぶんいつものように読み飛ばしているのだろう。
 ……仕方がない。母が死んでから父の心は壊れてしまっている。暁月も、今更父に守ってもらおうとは思っていなかった。
 暁月は外に出て、春海が行きそうな場所を探した。熱心なクリスチャンの家庭に生まれた春海は、高校生にしては驚くほど欲がなく、買い食いもめったにしない友だちだった。そんな春海が、遊び場の類に行くとは思えなかった。
 無難なところで、駅や公園、図書館に堤防。でも殺人を犯した友だちが無難な場所に行くはずもない。暁月は歩きながら自分に呆れて、次第にただ通学路を歩いているだけになった。
 子どもの頃から、この通学路を春海と歩いた。その途中、「止まれ」の標識を見上げて、ある日春海が言ったことがある。
――流々ちゃんと夾助くんは、子どもができるようなこと、二人でしてるのかな。
 そのとき、暁月はこの友人も意外と男だったんだと思った。暁月も足を止めて、さほど下卑た調子でもなく返した。
――あの二人は、何となくまだの気がする。
――そうだよね。
 それに応えた春海の声も平坦で、どうしてそんなことを訊いたのか不思議なくらいだった。
 そうだな、したいよなとか、他の友だちなら冗談を言ったと思う。でも春海にはそんなことを言う気にはならなかった。彼は真面目で、もし彼の中に欲求があったとしても、表立ってそれを喜ぶような男じゃなかった。
 春海は流々と、したかったのだろうか。そう思ったきりで、それ以上話も続けなかった。
――じゃあ僕はここで。
 ふと暁月は道を折れて、通学路を離れた。いつも暁月と離れて春海が向かったところ、彼の安息の場所である教会へ。
 果たして春海はその中にいた。
 薄曇りの空から、ステンドグラスごしに灰色の光が入っていた。祭壇の下、春海は何かの宗教画のようにその人にすがりついていた。
「先生、僕を……してください」
 ……いや、抱きしめていると言った方がいいのか。春海はどこか野蛮な動物のように呼吸を吐き出して、彼女を見下ろしていた。
 女性は……高宮は、聖母のように華奢な腕で春海を抱きしめ返してささやく。
「いいですよ、隠してあげます。あなたの罪を」
 その光景を見たとき、暁月の中に鮮烈な嫉妬が湧きあがった。
 高宮瑞乃に触れた。その事実が、刃のような感情に塗り替わる。
 高宮は優しく諭すように言う。
「……運命がそれを許せば、ですが」
 自分にも理由ができてしまった。そんなことを、冷めた劣情を抱えながら思った。
 どさりと重い体を倒したとき、暁月の心はからっぽだった。
 父も母を弔ったときこんな気持ちだっただろうかと思った。体の中に空洞ができて、自分が足をついているのかさえあいまいな心地になる。
「同じにしたら、母さんは怒るかもな」
 父と暁月は違う。父は病気で母を失ったが、暁月は……自らの手で、友人の春海を刺したのだから。
 教会の裏の墓地。胸から血を流して倒れた春海を、暁月はどうしてこんなに冷静にみつめているのかわからなかった。
 けれど春海の息はもうなかった。それを後悔する感情も、暁月は持っていなかった。
 見上げれば真昼とは思えない暗い空だった。
 週明けに聞いたときは、一週間曇天のはずだった。だが空は重い雲に耐えられず、まもなく季節外れの大雨が降って来そうだった。
 暁月は手に持った刃物を、春海の方へ投げる。刃渡りも機能も平凡な包丁は、あっけなく春海の上を転がって止まった。
 春海を墓地に呼び出して、行為に及んだだけ。こんなずさんな殺人、すぐに警察に捕まる。隠れるつもりも、ない。
 そう思ったから、かえって大胆になれたのだろう。
「……最後に一度だけ、カウンセリングとやらを受けてみるか」
 今は緊急閉校しているに違いないのに、暁月の足は学校に向かっていた。
 どうしてか面談室には高宮がいる確信があって、暁月は泣く寸前のような空の下をうつろに歩き始めた。



 面談室の窓を忙しなく雨が叩いているのが、遠い世界のように聞こえる。
「よく来てくれましたね。どうぞ、掛けてください」
 そう最初に労うのがカウンセリングの決まりなのか、高宮は優しく暁月に声をかけた。
 毎週水曜日の午後三時半から五時。確かに暁月はその時間通りにやって来たが、殺人事件の起きている今にその平常はあてはまらないだろう。
 学校も生徒は登校していないはずなのに、高宮は昇降口を内から開けて暁月を招き入れた。まるで暁月が来ることが、最初からわかっていたようだった。
 面談室には初めて入ったが、四畳ほどの狭い個室だった。窓が一つ、テーブルが一つ、椅子は二つ。あとはテーブルの上に時計が置いてあるだけの、質素な作りだった。
「どうされましたか?」
 その中で高宮瑞乃だけは、芸術品のように整った存在だった。華奢な体の上に小さな頭が乗っていて、作り物めいたその綺麗な唇が言葉を話すことが一種異常のようでもあった。
 暁月は椅子に掛けると、懺悔というにはあまりに平坦な声で言った。
「……先生。僕は殺人を犯しました」
 高宮はその言葉を聞いたときも、動揺らしい色を見せなかった。どうぞ続けてというように、少し首を傾けて暁月の言葉を待つ。
「気が付けば目の前に刃物があったのです。僕は……吸い込まれるみたいに、それを手に取っていました」
「これですか?」
 高宮は机の下から何かを取り出して置いてみせる。それを見た途端、暁月は反射的に身を固くしていた。
「なんで……!」
 それは春海と一緒に墓地に捨てたはずの包丁だった。けれど血もついていなければ土にも雨に濡れてもいない、綺麗なままの姿だった。
 高宮はゆったりと微笑むと、大切そうにそれを手に握る。
「落としてしまって、ずっと探していたのです。やっと私のところに戻って来てくれた」
「落として……探していた?」
「はい。道具も時々意思を持つものです。この子はとても正義感が強くて……「悪を貫く」意思にあふれているんですよ」
 高宮の言葉を、暁月は何一つ理解できない。高宮が得体の知れない化け物のように見えてきて、さっと体に震えが走った。
 高宮は澄んだ黒々とした瞳で、ふいに暁月の中を見透かすように目を細めた。
「あなたの心にもありますね。……澱が」
 ガタンと音を立てて、暁月は席を立った。……早くこの異常者から離れなければ。彼女の言葉は理解できなくても、体は防衛本能に従って動いてくれた。
 高宮はそんな暁月に、先生はあなたを攻撃するつもりはないですよと言うように言葉をかけた。
「いいんですよ。澱のない人の方が珍しいのです。水があふれてしまわなければ、平常に人生を終える」
 けれど高宮は悠然と椅子に掛けたままだった。刃物を手に握っているという異常行動さえなければ、生徒に向き合う先生として少しも欠けたるところはなかった。
「……僕の人生は、これで終わるんですか」
 ふいに暁月は、理不尽な運命に直面したように吐き捨てていた。
 春海を刺した行為は、周到に練ったものでも闇に葬るように画策したものでもない。この面談室に来たのだって、自首する前に立ち寄ったに過ぎなかった。
「先生さえやって来なければ、誰も死ななかったのではないですか」
 まるですべての憎悪をぶつけるように言ったのも、暁月は自分の言葉とは思えなかった。
 けれどそのとき、高宮は美しくまばたきをした。それはいつか暁月が見惚れた、繊細な所作だった。
 高宮はくすっと、少女のように微笑んで言う。
「観察対象に観察されるというのも、なかなか不思議な心地がするものですね」
 暁月はとっさに馬鹿にされたのかと思った。けれど高宮はすぐに微笑みを収めて、先生らしい冷静な教育者の目で暁月を見上げる。
「短い間に何人ものカウンセリングをさせてもらいました。でも……時間を守ってやって来たのはあなただけだった。立派です」
 高宮はまっすぐに暁月を見据えて率直にほめると、つと手を伸ばした。
「……だから、あなたには少しだけ時間をあげましょう」
 暁月は彼女のそこからは手が届くはずもないのに……一瞬高宮に、頭を撫でられたいと思った。
 やはり自分は彼女に甘え心を抱いているのだ。そう恥じるように思ったとき、高宮は手元の置時計を手で叩いた。
 リン……と鈴のような音を立てて、時計が止まった……ように見えた。
 暁月の目の前がぐにゃりと歪んで、立っていられなくなった。足元が消えたような気配に、床にしりもちをつく衝撃を思って、とっさに目を閉じた。
 けれど暁月に衝撃はいつまで経ってもこなかった。それどころか、小さな喧噪の中に包まれていた。
 暁月がそろりと目を開くと……そこは教室だった。
「高宮瑞乃です。よろしくお願いします」
 教壇の上、担任に紹介されて顔を上げたのは、初めて会ったあの日の高宮瑞乃だった。
 そこは暁月が平常すぎて嫌気が差していた、始まりの日のホームルームだった。
 教壇の上の高宮は、記憶の中と違わず、作り物めいた繊細な面立ちで微笑む。
「毎週水曜日の夕方三時半から五時まで、面談室でカウンセリングを実施しています。希望される生徒さんは、面談室の前の用紙に記入して箱に入れてください」
 その言葉も聞き覚えがある。一言一句までは覚えていないが、おそらく以前聞いた言葉と同じだろう。
 もしかしたらと思って辺りを見回せば、クラスには流々も、夾助も、春海も席についていた。
 暁月はこれが現在なのだと思い直す。信じられないが……時間は、殺人が起こる前に戻っている。
 どうして、どうやって。その理由や仕組みを解くより、暁月にはまだ平常な倫理観が生きていた。
 ……今ならまだ、殺人を止められるのでは。ふいに芽生えたその使命感は、平凡な自分を諦観していた暁月に波紋を投げかけた。
 それは昼休み、面談室の前で立ち止まっていた流々を見たときのことだった。暁月は水があふれるように、流々に声をかけていた。
「矢野さん、何か悩み事?」
 暁月と流々は中学校からクラスが一緒になったことはあったが、あまり二人で話したことはなかった。
「成田くん……?」
 だから暁月が声をかけたとき、流々は不思議そうに大きな目で見返してきた。
 流々はいつも元気な女の子たちの陰に隠れて目立たない。けれど面倒なクラス委員の仕事を嫌うこともなく、おしゃべりをすることもなく、いつも静かに掃除をしている子だった。
 ……そんな姿を知っていると、刺されて亡くなるなんてあんまりだと強く思う。
 暁月は多少の不自然さを承知で、思い切って言葉を続ける。
「その……今日来たばかりの先生より、見知ってるクラスメイトの方が話しやすいこともあるんじゃないかって。家、同じ方向だろ。もしよかったら、歩きながら話そうよ」
 暁月は、何だか頼み込むように言ってしまった。でも彼女が面談室に入って高宮のカウンセリングを受けるのは、殺人のレールに乗るような気がして恐ろしかった。
 流々は手に取っていたカウンセリング用紙を置いて、一息分だけ暁月をみつめた。
 流々は、淡い声でそっと答える。
「一緒に下校は……夾助くんと約束があるから、できないけど」
「あ……そ、そうだよな。ごめん」
 暁月はいつも流々と夾助が一緒に下校していることに気づいて、自分の提案が突っ込みすぎだったと反省する。
 でも流々は小さな声で、はにかむようにお礼を言った。
「ううん。……ありがとう」
 暁月はその優しい表情にこくんと息を呑む。けれどそれは一瞬のことだった。流々はその柔らかい表情を陰らせて、どこか寂しそうに言う。
「心配してくれて、うれしかった。そうだね、今日来たばかりの先生に相談するのは、ちょっと慌てすぎだよね」
 流々はカウンセリング用紙をトレイに返すと、暁月に「授業だね。行こう」と告げる。
 暁月は、まちがったことをしたつもりはなかった。刃の持ち主だという高宮。彼女から逃れるのは、殺人から彼女を遠ざけることになると思っていた。
 けれど暁月の中には、何かを掛け違えたような違和感があった。
 違和感をひきずるように迎えた土曜日、暁月は駅前で春海と待ち合わせをしていた。
 二人で志望校の参考書を見に行く予定で、ついでに駅ビルで何か食べてこようと約束していた。
 ……けれどこれから殺人が起きるなんて、春海にどう言っていいかわからない。
「暁月、だっけ」
 駅前のベンチに座っていた暁月に、ふいに声が掛けられる。
 振り向けば、隣に夾助が座っていた。
 先生に注意されても直さない茶髪、右耳に目立つピアス。夾助は派手なグループのリーダー的存在で、友だちも少ない暁月とは今まで話したこともなかった。
 正直、暁月は夾助が苦手だった。粗野で不真面目、悪い連中とつるんでいる噂もあって、関わり合いになりたくなかった。
「ありがとな」
 そんな夾助から唐突に礼を言われて、暁月は驚いて彼を見返した。
「え……?」
「流々のこと。相談に乗ってくれようとしたって聞いた。あいつは一人で抱えるタイプだから、気にかけてもらえてうれしかったみたいだ」
 夾助は優しい表情で流々のことを話した。それが意外で暁月が何も言えないでいると、夾助は横目で暁月を見て苦笑する。
「俺は慰め方っていうと、ラブホテルに引っ張り込むくらいしか思いつかなかった。あいつはそうしても、きっと大人しくついて来ちまうんだろうけど」
 夾助はふいに夢見るような目で虚空をみつめて言った。
「カウンセリングを受けてよかった。……高宮先生は、もっと他の方法を教えてくれた」
 瞬間、暁月の背筋に冷たいものが走った。
 本来流々が受けるはずだったカウンセリングを暁月が阻んだために、夾助が受けることになった。
 ……それは本当に、良い未来を連れてくるだろうか?
 暁月は思わず非難めいた声色で夾助に言う。
「……高宮先生からは、距離を置いた方がいいよ」
 夾助は案外素直にうなずいて返す。
「そうだな。来たばかりの先生だもんな。……でも俺の心を的確に暴いてくれた」
 夾助はどこか宗教的な崇拝のような目で、どこか遠いところを見てつぶやく。
 ふいに夾助は冬の外気に息を吐き出して、駅の改札口を見上げた。
「……俺、さ。いつもここでこうやって流々を待ってるんだ」
 夾助は独り言のように、恋人のことを口にした。
「俺はいつだって真っ先に抱きしめようって、待ち構えてるのに。あいつはいつも最後にしか出てこない。俺はそれが心配で心配で……狂うくらい、ずっと待ち続けてる」
 夾助は両手を組んで、祈るように愛の言葉を告げた。
「愛してるんだ。あいつが他の奴と話してるだけでずっと苦しかった。……だから」
 ……一瞬、夾助の瞳に暗黒が宿る。
 暁月がそれに息を呑むより前に、夾助は顔を上げて明るく声を上げた。
「流々! こっちだ!」
 駅前の人混みで待ちわびた一人をみつけて、夾助はうれしそうに駆け寄っていく。
 夾助が腕を広げて流々を抱きしめるのを見ながら、暁月は何か不可思議な渦に取り込まれて行くのを感じていた。
 月曜日、暁月は登校せずに春海の家を訪ねていた。
 春海は玄関まで迎えに出ると、暁月を招き入れて言う。
「しばらくここにいていいよ。……夾助くんが捕まるまで」
 ……暁月はまた、流々が夾助に刺されて亡くなったという情報を受け取った。
 自分は殺人を止められなかった。教会の隣の店で春海からその報を聞いて、暁月は無力感に肩を落とした。それを見て、春海が自分の家に来るように勧めたのだ。
 情報は以前と違うところもある。殺人を犯した夾助は行方不明で、学校は休校になった。その違いは、もしかしたら暁月が流々のカウンセリングを邪魔したからかもしれない。
 春海の両親は温かな人たちで、小学生の頃からたびたび暁月を家に迎え入れてくれた。理由は、暁月の家庭環境にあった。
 春海は自室に暁月を通すと、気づかわしげに問う。
「お父さん、何か言っていた?」
「ううん、何も。普通に朝、出社したよ」
 ……暁月の父は休校になってもいつもと変わらない。暁月が落ち込んでいるのもたぶん何も気づいていない。
 春海は暁月の反応を寂しそうに見ていた。暁月は友人に心配をかけたままというのも恥ずかしくて、参考書に目を戻す。
「勉強でもしよ。受験生なんだし」
 春海は眉を寄せたまま、そうだねと相槌を打った。
 殺人が起こって家から出られない自分たちができることは、勉強くらいしかないのが空しかった。
 裕福な家庭に育った春海の部屋は、二人でテーブルを囲んでも少しも狭いとは感じない。本棚にも豊富に参考書が並べられていて、勉強するには不自由ない。
 暁月はここに籠っていることにも意義はあると思っていた。前の時間では今日、高宮が春海に殺人をそそのかす。
 ……春海が学校に行かなければ、高宮から春海を守れる。そして春海が高宮を抱きしめたりしなければ……自分だって春海を刺したりしないと、思う。
 どうしてあんな道具があるのだろう。参考書をみつめながら、暁月は春海を刺した刃物を思い出していた。
 あの刃物が目の前に現れたとき、取り憑かれたような気分になった。何かを裁きたい、そんな使命感に燃えた。自分ではどうにも止められなかった。
「……き、暁月」
 この殺人の連鎖は、あんなものを持ち込んだ高宮のせいだ。人の手ではどうにもできない曇天を恨むように、高宮を恨んだとき。
「高宮先生のカウンセリング、受けた?」
 暁月は突然の雨に打たれたような、肌が粟立つ衝撃を受けた。
「な、に……」
「今朝、高宮先生から一斉にメールがあっただろう? 今回の事件を受けた生徒の心のケアのために、オンラインでカウンセリングを実施しますって」
 春海は手元のパソコンを操作しながら何気なく言った。
 そういえばと暁月は前の時間で、月曜日にあったことを思い出す。高宮が生徒に配った緊急アンケート。
 ……休校に変わったことで、生徒に直接話すカウンセリングに変わった?
 暁月は今日まだパソコンを開いていなかった。それが幸いだったと思う間もなく、暁月は息せき切って言う。
「受けちゃだめだ! 高宮先生と話しちゃいけない!」
「あ、暁月?」
 暁月は思わず、すがるように春海に不安を打ち明けていた。
「あの先生はおかしい! カウンセリングだけで人を殺させるなんて、人間じゃない!」
「ど、どうしたの、暁月……落ち着いて」
「春海、信じて! あの先生は人殺しなんだ! このままだと春海も人殺しにさせられる。……それで、僕も春海を……!」
 一度降り始めた大雨のように、まるで狂人のように言葉を吐き出すのをやめられない。暁月はじわりと目がにじむのを感じた。
「だめだ、春海……死ぬな……!」
 泣く、と思ったとき、暁月の肩が温かいものに包まれた。
「……わかった」
 春海が暁月の背中を抱いていた。その直接的な温もりに、暁月は息を呑む。
 春海はしっかりと暁月の正気の糸をつかむように、目をのぞきこんで続ける。
「暁月を信じるよ。先生は、人殺しなんだな? じゃあ高宮先生のカウンセリングは受けない。暁月にも会わせない」
「春、海……」
 春海は安心させるように微笑んで続ける。
「ここは安全だ。……僕が先生から守るよ」
 その言葉を聞いたとき、暁月は教会で見た聖者のステンドグラスを思った。
 暁月はクリスチャンではないけれど、ずっと、何か聖なるものから……そう言ってもらいたかったのだと思った。
 春海は暁月が落ち着くのを待ってから、席を立って戸棚から何かを持ってくる。
「睡眠薬だよ。……暁月は何か辛いことがあったんだな? 起きたら話を聞くから、これを飲んでゆっくり眠るといい」
 差し出された錠剤を、暁月はぼんやりと受け取った。
 春海の言う通り、自分の神経は今ひどく高ぶっていて、休息を必要としている。
 そういえばここのところ深く眠れていない……そう思いながら、錠剤を噛んで飲み干していた。
「春海は、さ……」
 春海のベッドを借りて横になるうち、心地よい眠気が訪れていた。
 ベッドサイドで、春海は微笑んで優しく言う。
「僕はいずれ牧師になるって言ったろ? ……迷える子羊を守るのが使命なんだ」
 暁月はまぶたを閉じて、うん、と力なく返事をする。
「……そう信じておいて。愛しているよ、暁月」
 友人だった男の愛の告白を、暁月は動かない体で聞いていた。
 高宮はいつか、人の心の澱と言った。
 暁月が春海の中のそれに気づいたのは、暁月の生命活動が糸のように細った後のことだった。
 春海の両親は、教会に附属する病棟を経営している。……治る見込みのない、多くが植物人間となった患者専用の病棟だ。
 暁月はその病棟のベッドに横になったまま、ベッドの脇に立つ父と春海をぼんやりと見ていた。
 春海は暁月の父に、よく出来た友人の顔で言う。
「お父さん。暁月くんのことは心配要りません。ずっと……僕がここで面倒を見ますよ」
 暁月に着けられた人工呼吸器の音だけが病室に響いていた。
 暁月はもう正常な思考もできないほど力を失っていたが……微かに、父に立ち去ってほしくないと願った。
 劇薬を飲ませて暁月をこの体にした、春海の罪を暴いてほしい。聖者のような仮面をつけた悪魔を刺して、暁月の無念を晴らしてほしい。
 けれど暁月がそう願おうにも、暁月にはもう物を言う能力はない。
 父は何も言わずに立ち去っていった。父の現実はもうずっと前から夢の中で、過酷な現実を暴く気力はないとわかっていた。
 父が立ち去って二人きりになった後、春海はそっと暁月の手を取った。
「これで僕だけのものだ」
 春海は幸せそうに笑うと、暁月の手に頬を寄せて言う。
「好きな人は独り占めしたいだろう? 夾助くんも僕と同じ人種だと思ったのだけど、彼はさっさと好きな人の後を追ってしまった。愛が足らなかったんだね、かわいそうに」
 違う。お前の愛が異常なんだ。暁月はわずかに残る嫌悪感で思ったが、悪魔に正常な倫理を説いても意味がないのだろう。
 春海は息をついて、どこか夢見るように言う。
「高宮先生のカウンセリング、受けてみたかったな。あの人は聖母に似て綺麗だものね。もし僕が迷える羊のままだったら……先生に助けを求めたのかな」
 けれど前の時間では、春海はこんな異常者じゃなかった。春海が歪んだのは……暁月が自らの運命を春海に託してしまったから。
「まあいいか。愛する人はもう一生、僕の手の内に。おやすみ、暁月……いい夢を」
 春海は暁月の頬にキスをすると、ざわつくような笑い方をして去っていった。
 暁月は自分でまぶたを閉じることもできないまま、体の勝手な生理現象で涙を流していた。
 悔しかった。自分にもう少し勇気があったのなら。殺人の連鎖を恐れて、助けを求めてはいけない悪魔にすがってしまわなければ。
 ……心に澱があろうと、自分だったら最後まで醜く生きてやったのに。
「困りましたね。何度時を流しても、あなたの澱が暴けない」
 ふいにまぶたをそっと閉じられた。暗闇に沈んだ暁月の世界に、鈴のように澄んだ声が響く。
「私はその時間で一番の悪を……あなたの澱を洗うためにやって来たのに。あなたの澱は今も心の深くに潜んで、触らせてくれないなんて」
 それは高宮の声だった。まぶしい闇の中に包まれるようにして、彼女はそこにひっそりと存在していた。
「……僕を殺すためにやって来たと言うんですか」
 暁月からは、声ではなく響きのような音が放たれた。高宮はそれに、優雅にうなずいて返す気配があった。
「一度目の時間でも、二度目の時間でも、あなたは最期に私に殺されるはずだった」
「先生にはできたでしょう。今だってできるはず」
 暁月がいぶかしげに言い返すと、高宮はふと微笑んだ。
「そう。とても愚かなことです。……恋のカウンセリングを受け続けた私が、まさか恋をするとはね」
 暁月はぐっと息を呑んだ。体温がかぁっと熱くなった気がして、つっかえながらつぶやく。
「ば、馬鹿馬鹿しい。殺人の道具の持ち主の、異常者の先生が」
 高宮はくすくすと楽しそうに笑った。こんな闇の中でなければ、子どもがじゃれあうような笑い方だった。
「私はあなたに興味がある。ひどい病のように、焦がれている」
 見えないはずなのに、暁月はそれが高宮の美しい所作だとわかった。
 彼女は手を差し伸べて、自分の左手首の腕時計に触れた。
「……さあ、私のところまで。落ちてきてください」
 リーンと、いつかの置時計のような音が響いた。同時にぐにゃりと辺りが歪む。
 暁月は全身が深い海に落ちるように、時の中に投げ出された。