「……では、行ってまいります」
「気を付けていくのよ、雛。向こうの伯爵さまにもご無礼がないようにね」
「わかっております、お母さま。だから、そんなに心配なさらないで。わたくし淑女にはなれなかったけれど、きっと⋯⋯必ず伯爵さまの役に立ってみせるわ」
「⋯⋯幸せに、なんて言えないけれど。どうか貴方の幸せを願わせてちょうだい」
「奥さま、申し訳ございません。お嬢さま、そろそろ……」
それからはごめんね。とばかり繰り返す母を背に、声をかけてきた侍女の茉莉花に着いてリビングルームを出る。特別高等警察による家宅捜索の後、あっという間に家具がすべて取り払われてしまった家は随分と広く見えた。
廊下に引かれた重厚なカーペットだけは取り残されていて、変わり果てた家の中ですこしだけ寂しそうに埃を転がしている。天井につけられていた豪勢なシャンデリアはすでに家から追い出されていて、かわりにとつけられた裸の電球ひとつでは広い部屋や廊下を照らすには少々心もとなかった。
幼い頃、詰襟のドレスに身を包んだ如何にも厳しそうな家庭教師から身を隠した猫足のキャビネットだって、お母さまが季節の花々を飾った花瓶も、ぜんぶ。もうこの家には残っていない。
きっとお母さまはお父さまの後を追うつもりだわ。なんて父が詰襟の制服を着たいかにも軍人な特高たちに連行されてから、窓の外をぼんやりと眺めるばかりになった母を憂う。最後の言葉があれでよかったのかと悩んだけれども、考えたところで答えなどわからずただ廊下を歩くしかなかった。
憂いたところで、わたしには母と父を救う力はない。家中の家具やら豪勢なドレスや着物たちはすべて國に没収されてしまったから、獄中の父を救って母に会わせてやる資金もない。
まあ、資金があったところで國を謀ろうとした罪で捕らえられたらしい父を救い出せる確率など、ないに等しいのだけれど。
雛お嬢さま? と微々たるわたしの荷物を持ち、少し先を歩く茉莉花に名前を呼ばれるまで、自分がつい先日までお嬢さまであったことを忘れるほど最近は質素に過ごしていた。
父のやっていたことに加担していなかったとはいえ、一族郎党ということで捕らえられるかわりに謹慎期間が設けられた。それが、ここ1週間の話。
謹慎が解けた明朝、わたしたちの処分が決まり父のいない今、母とわたしは華族の地位を剥奪されることになったそうだ。そのことをお母さまは、拷問され処刑されるよりは命があるだけよかったわ。と涙を流して喜んでいた。
こうして所謂、没落華族になってしまったわたしにお嬢さまなんて呼称をつけなくていい、と朝から何度言いきかせても、茉莉花はいつもと変わらずお嬢さまと呼んでくれる。
すっかり変わってしまい、呆然とするしかなかった今日の中で唯一、そのことだけがわたしの救いとなっていた。
「……茉莉花、最後までありがとう。ごめんなさいね。お世話になったのに、あなたの仕事先ひとつ優遇出来なくて」
「とんでもございません。ですから、どうか頭をお上げください。実家に帰ってからもお嬢さまと過ごした日々を大切に生きてゆきます」
縁談も決まりましたから、とわたしに心配させないようにと微笑む茉莉花。彼女はわたしとほとんど年が変わらないのが不思議なくらいしっかりとしていたから、きっと大丈夫ね。そう気持ちに折り合いをつけ、先に玄関ロビーに着いていた茉莉花のもとへと駈けていく。
「⋯⋯寂しいわね、茉莉花」
そう呟いた声が、なにもない玄関ロビーにじんわりと響いた。わたしが駆け寄ることを見越して茉莉花が広げてくれていた腕の中に飛び込めば、温かさに思わず目頭が熱くなってしまう。
「雛お嬢さま。最後に抱き締め返すことも出来ず、申し訳ありません」
侍女であることを弁え、かつわたしの荷物を持っているからこそ抱きしめられないのにそう謝る茉莉花に必死に首を横に振った。かわりにわたしから茉莉花の背中に腕を回し、強く抱き締める。そのままそっと彼女の胸に顔を埋めれば、茉莉花らしいやさしい鼓動が聞こえてきて、わたしを安心させる。
「……ごめんなさい。今だけは許して」
「ええ、もちろんでございます」
茉莉花と我が家の従事契約は今朝、わたしたちの処分とともに切られてしまった。
だから彼女は、わたしがこれからお世話になる伯爵さまの家に着いてくることは出来ないし、きっとこの先実家へ帰ってしまった茉莉花とは一生会うこともない。
年の近い姉妹みたいに愛し愛されて、気が付けば甘えてばかりだった茉莉花との今生の別れは、お母さまやお父さまとの別れよりも寂しいような気がする。
血の繋がりのない関係性に儚さを覚えたのは、はじめてだった。
それと同時に今更、寂しいという感情を寂しい以外の言葉で表せない自分がどうしようもなく不甲斐ない。
先日まで淑女教育の一環として、女学校にも通わせてもらっていたのに……しっかりと学び勉めたことを身に着ける前に、身分を堕とされ学校に通えなくなるなんて夢にも思わなかった。
そう思えば思うほど漠然とした不安が胸の中に広がって、茉莉花を抱く手の力を強めた。
「ですが大丈夫ですか、お嬢さま。なんでもお相手の伯爵さまはたしか……曰く付きと噂されるお方じゃないですか」
脳天から茉莉花が心配気に、それでいて遠慮がちにそう聞いてきた。顰められた声でもぼんやりと響いてしまうほど、なにもなくなってしまった玄関ロビーがすこし寂しい。
そう、わたしがこれから向かうお屋敷に住んでいる伯爵さまは巷で『紅の吸血伯爵』なんて呼ばれているのを何度か耳にしたことがある。
なんでも色白すぎる肌は見るものの血の気を引かせるほど冷たく、紅と称するのがふさわしいほどの鮮烈な赤色の唇は『人の生き血を啜って生きている証拠だ』なんだ、と言われていた。そこから覗く牙のような八重歯もまたそうした噂に拍車をかけている。
「華族のお嬢さまが伯爵宅で使用人をするなんて……それだけでもうすでに心が苦しくなりますのに……よりにもよってお相手が紅の伯爵だなんて……お嬢さまになにかあったら……わたし……わたし」
「……大丈夫よ、茉莉花。泣かないで」
きっと、いい人よ。大丈夫、心配しないで。
いくら紅の伯爵だって呼ばれていても、ヴァンパヰアだって言われていても、この世に吸血鬼なんているはずがないんだから。
「それじゃあ、元気でね。茉莉花」
ロビーに埋め込められるように備え付けられていたおかげで辛うじて残った大きな振り子時計が鐘を鳴らし、正午になったことを教えてくれた。そろそろ行かなくてはならない。
どれだけ別れが惜しくても、どんなに寂しくても。
「雛お嬢さま……最後にわたしの心はいつまでもあなたさまのものだということを、忘れないでくださいませ」
茉莉花に抱き着いていた腕を離すと、くすりと微笑まれた。それから鼻頭が赤くなったわたしにそっと荷物をもたせると、恭しくされたお辞儀。
「……またどこかで、会いましょう」
またもどこかもないことを知っていても、下げられ続ける茉莉花の頭にそう言って玄関ロビーを出た。
「行ってらっしゃいませ、お嬢さま」
ありがとう、茉莉花。そう返すことも出来ず、彼女の声が広くなにもなくなってしまったお屋敷やお庭に響いて消えていくのを聞きながらわたしはお嬢さまであることを、華族であることを捨てるために、門扉を自分で開け初めて自らの足で外へと出た。
通称、紅の伯爵のお屋敷までは最近開通した電車とやらで約30分ほどの距離があった。
初めて馬車以外で街に繰り出した。これまでドレスと合わせて履く靴でも、着物に合わせて履く草履でも、街を長く歩いたことがなく、こんなにも足が疲れるなのかと吃驚した。
駅舎が遠くにぼんやりと見えてきて、あと少しと自身の足を奮い立たせる。列車にさえ乗れれば、あとはソファーに腰掛けてのんびりと目的地が来るのを待つだけ。列車に乗るたびに、これまでの主な交通手段であった馬車の時間に換算して1時間を優に超えてしまう距離を、半分ほどの時間で行き来できるなんて時代や機械が日々進化していることを突きつけられてきた。
でも残念ながら、華族の娘としてそんな時代の先頭に立ってきたわたしはもういない。質素ながらも今はまだ鮮やかな山吹色の着物も、きっと伯爵さまにお仕えするうちに色褪せてしまうのでしょう。
そういえば、切符というものを初めて買った。
いつもは茉莉花が勝手に払ってくれていたから相場がよくわからなかったけれど、何枚かのお札が財布の中から消えたかわりに小さな紙切れをもらった時はボッタクリを疑ってしまった。
そんなこともあり、民間人ですし詰めになった列車になんとか乗り込む。当然、座ることも出来ないまま揺れに耐え続けたせいか、歩いていないのに足先がじんじんと痛みだすのを堪えるのに随分苦労した。
30分ほど揺られた後、わたしの住んでいたところよりもほんの少しだけ栄えた街に降り立った。
「……ご令嬢? 気分はどうだい」
そう背後から話しかけられたのは、慣れない人混みの中から抜け、ようやく駅舎から街へ1歩を踏み出した瞬間だった。
「……ッ」
わたくしがご令嬢に見えるですって⋯⋯?
反射的にそう返してしまいそうになって、思わず押し黙ったまま声が聞こえてきた方を睨む。
そこにいたのは……
見上げるほど背が高く、怪しげな黒いローブを頭からスッポリと被った男だった。
「……伯爵さまがお呼びだ」
それだけを言うと男は自らの影から突然、大きな馬車を引きずり出した。呆けたままのわたしを半ば投げるように中に乗せると、「……出せ」と有無を言わさずに馬車に走るよう命じる。
瞬間、風よりも早く走り出した馬車の中で背もたれに強かに背中と頭が打ち付けられてしまった。御者も馬もいない馬車が、先程乗っていた電車の数百倍速く走っていくことよりも。
地を這うような低く圧のある声といい、馬車の天井にまで届きそうなほどの長身といい、髪や顔立ちすら見せない闇深いローブを着ていることよりも、もっと……
発せられた言葉の中に「伯爵さま」のワードがなかったら誘拐を疑ってしまうこの状況が、伯爵家との出逢いになってしまったことが気がかりだった。
ただでさえ難儀だった新生活に暗雲が立ち込めて、ため息を吐き出してしまう。
「……なんだ。元気がないな、ご令嬢」
馬車の中を漂う静寂に痺れを切らしたのか、男がそう遠慮がちに話しかけてきた。
「ねえ。その呼び方、やめてくださらない?」
「ああ、すまない。こちらに貴殿の気分を悪くさせる気は全くなかった。伯爵から令嬢が来るとだけしか情報を聞かされていなかったものだから、ついな。これからは気を付けよう」
最初こそ彼の声が持つ圧のせいで、ご令嬢呼びが没落華族への当てつけなのかと思った。けれど素直に頭を垂れ謝る男の姿を見て悪気がなかったことを知る。
風を切るような、これまでに聞いたことのない馬車の音を聞きながら、向かい合うように座っている彼の方をそっと見上げてみた。
案外、悪い人でも怖い人でもないのかもしれない。
「……チッ、伯爵《あるじ》なら事前に情報くらい知らせとけっての」
そう思ったのも束の間、影よりも暗く黒いローブの下から聞こえてきた舌打ち。
前言撤回。
急速に温度の下がった馬車の中、目の前の男から目を逸らし小さく震えた肩を自らの手で抱いてなんとか恐怖に耐えるしかなくなってしまい、またもやため息を吐くはめになった。
「……着いたぞ」
ここが伯爵邸《ネジロ》だと教えられた瞬間、馬車の揺れが止まった。
相変わらず表情は愚か、顔すら見せない真っ黒い男が窓に引かれていたカーテンを勢い良く開く。シャッと気持ちの良い音がして目に飛び込んできたのは、影よりも黒くそびえたつ教会のような建物と、門から館までを誘《いざな》う真紅の薔薇が咲き乱れた美しい庭だった。
「……なんだか、まるで」
とその言葉の続きを口にするよりも早く、わたしの方を振り返っていた男の口元がニヤリと妖しく歪められる。
「さあ、お手をどうぞ。ご令嬢さま」
先に馬車から降りていた男が振り向きざまに手を差し出してくる。その手にも艶のある黒い手袋が嵌められており、彼の正体を見ることは出来なかった。
「……あら、ありがとう。では、お言葉に甘えて」
かわりに差し出された手にありがたく自分の手を重ねれば、意外にも生きている人間らしい温かさを布越しに感じられる。握るのではなく、そっと包みこむような支えられ方からして、いくら妖しげな男でも、紳士《ジヱントルマン》であることがわかった。
「……降りたな。じゃあ、こっちだ」
そう言った男は真紅の薔薇が咲き誇る庭を目指して歩くどころか、門すら潜らずに、さも当然と言ったような顔で自らの影のなかへと沈んでいった。上手く状況が理解できないわたしを置いて、彼の身体が半分ほど影に取り込まれた時、はたと目が合う。
「……なにをボーッとしているんだ? 伯爵さまに会うにはこの道しかないぞ」
いや、正確にはフードで見えないのだから目は合っていないはずだった。けれども、強烈な痛いほどの視線を感じてそろりと男の影の近くへと歩み寄る。
「……赤子みたいだな、ご令嬢さまは」
そんな言葉を最後に黒い男が影からわたしに手を伸ばし、真っ暗な闇の中へ引きずり込んでいった。暗くてなにも見えない。けれども、黒い男のものだろうか。不思議とやさしい鼓動に包まれて堕ちていくから怖くない。
男の影の中は目の前すら見えない暗さからは想像が出来ないような、やさしさとあたたかさを持っていた。男の言葉通りに赤子に戻ったさまな、懐かしさをおぼえる。そのまま長く緩やかな滑り台をゆっくりと降りていく感覚に身を任せた。
「おい、目を覚ませ。⋯⋯ったく、緊迫感のない。とんだご令嬢さまじゃないか」
「良いではないか。おもしろい、吾輩の足元で眠った人間は初めてだ」
「いや、伯爵さま。肝のすわり具合に俺は若干引いているんだが」
「きみは吾輩のかわりになんでも言ってくれるな」
「は、俺はあなたさまのものでありますから」
次に意識がはっきりとしたのは、随分と騒がしい声が耳元で聞こえてきたせい。
「おや、目が覚めたようだね」
重たい瞼をそっと押し上げると、高く真っ白な天井が目に入った。ふかふかとまではいかないが、明らかに高そうな手触りがする絨毯の上に自分が寝かされている事に気が付き、慌ててその場で上半身だけ起こして周りを見渡す。
シャンデリアにぼんやりと照らされた室内は、せっかくの二面採光できっと陽当たりの良い部屋なはずなのに、上飾りとテールがついた荘厳なカーテンがきっちりと締められているせいでどこか薄暗い。壁に沿うさまに設置された棚の中には所せましと分厚い背表紙の本が並んでいる。深く息を吸えば、古い紙の匂いが鼻孔をくすぐる。思わず、お父さまの書斎を思い出してしまう香りだった。
一抹の寂しさを感じる前に、棚から目を逸らす。そしてかわりに部屋の中央に設置された大きな机と椅子に目を向けた。その瞬間、椅子に腰かけたままこちらをじっと見つめてきていた男と目が合う。誰が何と言わずとも、その男性こそが伯爵さまであるとわかった。八重歯は見えなかったが、人間に備わる第六感のようなものがそう教えてくれた。そうして思わぬ形で見つめてしまった伯爵さまの瞳は硝子玉のように透明で、シャンデリアの淡い光さえよく反射する銀鼠色をしていた。
綺麗、思わずそう思ってしまった。恐ろしい、怖いと噂を聞いた時に感じた印象など微塵も感じなかった。ただただ綺麗、そう思ってしまった。没落したとは言っても生きてきた数10年は華族であったのだから、綺麗なものなんて両手に収まりきらないほど、お母さまとお父さまに見せてはもらってはいたけれども。わたしの人生の中を埋め尽くす綺麗を一掃してしまうほど、彼の瞳は綺麗そのものだった。そんな瞳に射抜かれ、目を逸らすことも出来ぬまま固まってしまう。視界の端に見える瞳とお揃いの銀鼠色の髪の毛は、後れ毛の一本も許さないかのようにぴっちりとまとめられている。そのせいで生真面目で恐ろしいほど綺麗な男性、それが伯爵さまの第一印象だった。
「ご令嬢、いつまでそうしているつもりだ? 仮にも旦那さまの前だぞ」
突然、先程の黒い男が隣に跪いてきて、片手でわたしを立ち上がらせた。その後は床にひかれた絨毯に接していた部分をはたかれ、伯爵さまと向かい合う形で置かれたソファーに座らされる。あまりの要領の良さになす術もなくされるがまま。大ぶりな花の柄があしらわれた、ふわふわとした座り心地のソファーに腰を沈ませることしか出来なかった。いち使用人として来たというのに黒い男も不思議なことをするものだ。落ちぶれたわたしを本来伯爵さまの大切な客人が座るようなソファーに座らせるなんて。
「まったく。愛いな、吾輩の妻は」
一瞬、聞き間違えなのかと自分の耳を疑ってしまった。
「⋯⋯ええっと、僭越ながら伯爵さま。今なんとおっしゃいましたか?」
「吾輩の妻よ。此度、吾輩がきみを娶ることになったのだ。聞いてなかったのかい?」
あまりにも身に余る申し出にその場に卒倒しそうになる。きっとソファーに深く腰を沈めていなければ、危うく倒れていたわ、絶対。聞いてるも聞いていないも、わたしはただ伯爵さまの使用人として、この家にお世話になるとしか聞かされていなかったはずだ。とりあえず、ゆっくりと深呼吸をしてなんとか飲み込みがたい現実を受け入れようとする。思わずもう一度自分の耳を疑ってしまいたくなったけれど、同じ文言をもう一度口にするのは憚られて、かわりにおずおずと口を開いた。
「⋯⋯まずは使用人から始めさせていただいても?」
「なぜ、と吾輩が問うのは野暮かな」
ほんのりと眉尻を下げた伯爵さまにそう問われて、いいえと首を横に振る。
「わたくしは御國より没された身でありながらも、今もなお命があり寝食ができ働く場が保証されているのです。ただそれだけでも充分すぎるほどのあり余る贅沢をさせていただいていると自負しております。ですから、これ以上の贅沢を頂戴しては罰が当たってしまいそうで恐ろしいのです」
ほう、と伯爵さまが唸る声だけが部屋の中に響く。銀鼠色の硝子玉がよく見えるほど、伯爵さまは目を大きく見開いていた。驚きとなにか他の感情が入り混じったような、不思議な顔をしている。
「そうか。では、吾輩が恐ろしいわけではないな」
「ええ、もちろんでございますわ。恐ろしいだなんてひとときたりとも思っておりません」
「そうか、そうか。それはよかった。昨今、吾輩が吸血鬼である、なんて噂が出回っているから怖がらせてしまったのかと思ったが。謙虚なだけとは驚いた」
ソファーに身を沈めたままのわたしの元へ、伯爵さまがゆっくりと立ち上がって近付いてくる。つい先ほど卒倒しかけたからか、ソファーから立ち上がろうにも上手く足腰を動かせず、動けば動くほどソファーに深く沈んでいってしまう。そんなわたしをよそに優雅に目の前までやってきた伯爵さまは、わたしと目線を合わせるかのように跪いた。白い詰襟と揃いの真っ白なズボンが絨毯についている。こんな没落華族を相手になにをやっているの、と叫びたくなる衝動を抑えながらソファーの隣に立つ黒い男に助けを求めようと顔を向けようとした。
しかし顔を背けるよりも早くするりと白い手袋をつけた指先がわたしの顎先に伸びてきて、逸らそうとした顔を一瞬で侯爵さまの目の前に戻されてしまった。白い詰襟の襟の部分だけ金色だなんて素敵だわ、と目の前に迫った伯爵さまの顔からなんとか思考を逸らす。そんなわたしに伯爵さまはただひとこと「雛」とやさしい声色で言った。もう呼ばれることなどないと思っていたわたしの名前。そんな声で呼ばれたら、伯爵さまに顔を向けざるを得なくなる。なんでしょう、と返すかわりに伯爵さまの銀鼠色の瞳をじっと見つめ返した。
「やはり、吾輩に娶らせてはくれぬか」
「ですが、これ以上罰当たりなことなど」
「罰など当たらせないと約束しよう。吾輩はな、きみを気に入っているのだ。さあ、今日から吾輩のために生きてはくれないか。決して悪いようにはしないさ」
首を横に振り続けるわたしにそう言い切ると、伯爵さまはようやく顔を離してくれた。
これで諦めて引き下がってくれたかしら。仮にわたしが身に余るほど幸せになったかわりにお父さまやお母さま、茉莉花が不幸になるのならば、わたしは慎ましくただ生きていければそれ以上なにも望まない。そう心に決めて家を出てきたわけですし、伯爵さまのお役に立つことで少しでもお母さまたちの幸せを願う権利くらいを頂ければそれでいいと思っていたのに。婚礼だ、なんて。
けれども、どうやら想定していた何倍も伯爵さまは諦めが悪いようで、今度はわたしの手をやさしく取ってきた。伯爵さまが未だ跪いたままなことと、流れるようにわたしの手の甲に彼の唇がそっと押し当てられたことに声にならない悲鳴を上げてしまう。あまりの衝撃に今度こそ卒倒するかと思った。いや、3秒間くらいは確実に意識が飛んでいた気がする。心臓が信じられないほどの速さで鼓動を打ち始めて、呼応するかのように頬が内側からじわりじわりと熱く火照っていった。
「ならば、取引をしようではないか」
なにも耳に入ってこないまま、とりあえず手だけでも引き抜けないか試みる。けれどもすぐに力強く手を握られ、引き抜くことは叶わなかった。
「逃げないで、聞いてくれ。一旦、きみの気が済むまで使用人の真似事をするのを許そう。なにも今すぐ婚礼を挙げようとは言わないさ。そうだな、後は今ならきみのお父さんの罪を出来るところまで軽くするよう進言もしよう。どうだ、きみにとって悪くはないだろう?」
「⋯⋯代償はなんでしょう」
取引というものは甘く誘われれば誘われた分だけの代償がつくことを幼い頃から、両親に教わってきた。だからこそ華族はかんたんに取引をしてはならない、と。必ず、相手は自分のなにを求められるのかを先に聞きださなければいけない、そうわたしに授けてくれた親に感謝した。まさかこんなところで役に立つ、なんて夢にも思っていなかったのだけれども。
「きみの命だ、雛。決して吾輩のために死ねと言っているわけではない。これから先のきみの人生すべてを吾輩に委ねてくれないか。そして毎晩、きみの甘美な香りがする血をくれるだけでいい」
「わたくしの血に、それほどの価値があると」
「あくまで吸血鬼の吾輩にとっては、な」
そう言った伯爵さまはやさしく目を細めて微笑んだ。瞳も声色もやさしいのに、どこか有無を言わさない雰囲気が彼の周りを漂っていてわたしは頷くしかなかった。わたしの身と血でお父さまを守ることが出来るのなら、きっとそれはわたしが欲することなど許されないと思っていた、贅沢な願いを叶える一助になり得ると気が付いてしまったから。わたしに断る理由などなくなってしまったのだ。もうこの際、伯爵さまが紅の伯爵だろうと本当に吸血鬼であろうと、どちらでもよかった。
「⋯⋯血、などでよろしいのならば。喜んで、命でもなんでも差し出しましょう」
「ならば、今からでも結納の議を済ませてしまおうか」
「いえ、そこはやはり使用人からでお願い致します」
持ち出された取引が本当に効力を持つものなのか、しっかり見極めるその日までわたしは伯爵さまに嫁入りなど絶対に出来ない。伯爵さまに絆されたりなどしない。わたしだけ先に幸せになるなど、幸せになるのなら家族全員でと決めたのですから。だからこそ、隣でしっかり約束が果たされるのを確認してからではないと伯爵さまに嫁ぐことはできない。
「っふ。とんだ強情なご令嬢だ。これは伯爵さまの負けだな」
「仕方がない。今日のところは婚約者で我慢するとしよう」
黒い男に鼻で笑われたからか、求婚を断られたからか。伯爵さまは眉尻を下げたまま、頬を膨らまして少し拗ねたような素振りを見せた。
どくん、と心臓が大きく音をたてる。なぜでしょう。困り顔をしながら子どもみたいに拗ねている様子が、少し本当に少しだけ伯爵さまに似合わない可愛さを感じて頬が緩んでしまう。絆されないと心に誓ったのに。どうしましょう。まだ握られたままの手を、解きたいとは思えなくなってしまった。伯爵さまの拗ねた顔のせいなのかしら。絆されるわけにはいかないのに、わたしは案外弱いのかもしれない。彼が与えてくれるやさしさと彼の可愛さに。
いや、伯爵さまに対して可愛いなんて感情を抱くのは不敬になるのではないかしら。そう思い直して、なんとか伯爵さまに絆されてしまう前に思考を切り替える。それからわざとらしく咳払いをひとつして、ゆっくりと口を開いた。
「それでは改めて、わたくしはなんとお呼びしたらいいでしょうか?」
まだ使用人兼婚約者の身で旦那さまというには恐れ多いし、つい先日までお嬢さまと呼ばれていたわたしがご主人さまと呼ぶのもどうにも気が引けてしまう。
「なんとでも呼んでくれ。人間は脆い……すぐに世話係などではなく吾輩の妻になる方がいいと思うだろうからね」
「そうですか……では、旦那さまと呼ばせて頂い」
「待てッ! なんだ、その……さっきは断ってきたくせに。いや、えっと……まるで吾輩の妻になったかのような呼び方は! 吾輩が自惚れてしまってもいいのか」
勢いよくわたしの言葉を遮っていった伯爵さまの顔を見ながら、また心臓が嫌な音をたて始める。綺麗な瞳も鋭い八重歯も剥き出しにして、焦りを隠しもせず言葉をまくしたてる彼。可愛いですわ……。いえ、青白い頬がルージュよりも紅くなっているところ、なんて別に可愛くなどないんですから。そう、平常心よ。と心を落ち着けてから、口を開く。
「……では、ご主人さまと呼ばせて頂きますね?」
「なんだかそれも……わたしがきみのことを犬かなにかだと思っているようではないか」
一瞬、伯爵さまの『吾輩』が消えたのと同時に、また彼の頬が恥じらう乙女のように紅く染まっていった。胸の奥の奥の方から伯爵さまを愛でたいなんて不躾な感情が湧いてくるのを必死に抑えるために、必死に次の候補を絞り出す。
「……では、伯爵さま?」
「うむ、それでいい」
「わかりました。それでは伯爵さまと呼ばせて頂きます」
なんとか自分の感情を抑えて、無事に伯爵さまの呼び方を決めることが出来て、ほっと胸を撫でおろす。
「まあ、いつかきみにはぜひとも貴方と呼んで」
「んで、ちなみに俺は陽炎だ」
カゲ、と伯爵さまの呆れた声が聞こえる。続けて小さな声で「今、良いところだっただろう」と黒い男、改め陽炎に悪態をついているのが聞こえてくる。伯爵さまと陽炎は仲がよろしいのね、なんて。くすりと思わず漏れてしまった小さな笑い声に、二人とも静かにゆっくりと頷いてから微笑んでくれた。
「それじゃあ、俺は長旅で疲れているはずのご令嬢をそろそろお部屋に案内してこようかな」
「ああ。任せたぞ、カゲ。じゃあ、きみはゆっくりと休んでいてくれ。明日の朝から、吾輩が止めても使用人の仕事をするのだろう?」
「はい。ありがとうございます」
仕方がない、と眉尻を下げて微笑んだ伯爵が手を握ったまま、わたしの耳元に突然顔を近付けてきた。ふっとやさしく息をふきかけられてくすぐったい。身をよじって逃げようとしても力強く握られた手から逃れることが出来ない。そんな状況のまま、
「じゃあ、今夜きみのお部屋にお邪魔するからね。また、あとで」
忘れたとは言わせないよ、婚約者さん。と伯爵さまが耳元で笑う。またわたしが声にならない悲鳴をあげたところで、満足したのか、くすくすと笑いながら伯爵さまが離れていく。ずっと握られていたままだった手さえも離れていってしまうことになぜだか寂しさをおぼえて、必死に頭を横に振って寂しさを頭の中から振り落とそうとした。茉莉花がいたら、きっと血相をかえて「お嬢様、お止めくださいませ」なんて止めに来ていたと思う。だけれど、わたしだって必死だった。丁寧に守られてきたわたしがひとりで絆されずに、守ってくれていた大切なものを守りきることに。
「雛のお父さんには随分お世話になったから……せめてもの罪滅ぼしにきみを幸せにさせてほしい。なんて言ったら雛は怒ったと思うかい?」
「いやいや、伯爵さま。笑わせないでくれよ。ご令嬢が誰のためにあなたさまとの婚約をのんだとお思いで」
だからわたしが頭を振っている間に、二人がそんな会話をしていたなんて知る由もなかった。
「じゃあな、ご令嬢。ここでゆっくり伯爵さまを待っていてくれ」
そう言ったきり、陽炎は部屋を出て行ってしまった。雑に屋敷にある各部屋の紹介をしてくれたけれど、あまり内容が入ってこなかった。きっとそんなわたしの様子を察して、すぐに部屋を出て行ってくれたのかしら。陽炎の気遣いに感謝するとともに、ようやくひとりになれたなんて解放感に包まれる。同時にどっと肩に重たくのしかかってきた疲れにため息を吐いた。一体だれが没落華族から一瞬で伯爵さまの婚約者兼使用人に転ずる、なんて夢物語が現実になると思ったでしょうか。
けれどなんとか命も、衣食住も、仕事も、婚約者もすべて揃った状態で伯爵さまのもとにお世話になれたのだから、ここでしっかり伯爵さまのお役に立てるようにご奉仕していかなくちゃいけない。
そうでしょう、お母さまお父さま。
わたくし、また二人にお会いできるようにしっかり生きていきますから。だからどうか心配なさらないでね。



