「このように、個々では見られないが、個体が集まることで初めて見られる現象を『創発』というんだ」
担任兼生物教師である漆原恭二は、すっかり短くなったチョークを黒板の縁に置いた。指先についた白い粉を払ってから、手元のタブレットに目を落とす。
「少し応用だが、送信したプリントの十七ページ目にあるショウジョウバエの例と一緒に覚えておくように。下にあるアリとアリ塚の例も有名だが、ショウジョウバエの方が出やすいからな」
「えーなんでですかー?」
「それはわからん」
「えぇ〜先生なのにー?」
野次っぽく飛んだ質問にわざとらしく肩をすくめる漆原に、クラスが湧いた。そんないつも通りのクラスの様子を、三堂禎一は後方の席から冷めた目で眺める。
だったら、あの「遊び」とやらも創発なのかな。
ぼんやりと頭の中で呟くと同時に、思い出したくもない記憶が蘇ってきた。禎一はすぐさまそれを頭を振って掻き消す。
「まっ。真面目に答えると、ショウジョウバエは生物の遺伝子学において非常に重要な意味を持つ昆虫だからだ。時を遡れば百年以上の歴史がある。日本でいえば明治だぞ、明治。みんなはノーベル賞をとったモーガンを知っているか? 彼はな」
禎一の様子はもちろん、クラスメイトの呆れ顔にも気づくことなく漆原は通常運転の漆原コラムを話し始めた。これが始まるととにかく長い。前回は授業の半分近くをコラムで使っていたくらいだ。
禎一はノートをとっていたシャーペンを机に転がし、徐に窓側へと視線を向けた。
それが、間違いだった。
窓際の席でふんぞり返り、顔だけをこちらに向けた鈴木隆平と目があった。
授業終わったら、いつものとこ来いよ。
三白眼の意地悪な目つきが、そう言っていた。
目を逸らしたかった。
無視を決め込みたかった。
でも、そんなことをすればより酷い「遊び」を要求されることは自明だった。
禎一は一瞬の逡巡の後、小さく頷く。
チッ、と舌打ちが聞こえた気がした。禎一はびくりと肩を跳ね震わせる。
黒板の前では、未だに漆原が得意げに遺伝子学の変遷について高説を垂れていた。
窓の外は、うざったいくらいに晴れ渡っていた。
生物の授業が終わった後の昼休み。
禎一は昼食を食べる間もなく、空き教室に佇んでいた。
「お前さ、なんでさっき俺のお願いを躊躇ったの?」
窓の桟に行儀悪く腰かけた鈴木が、苛立たし気に見下してくる。
「俺さ、マジでスッゲー傷ついたんだわ。おかげでさっきの生物の授業、半分以上聞き損ねたんだけど。どうしてくれんの?」
「ほんとほんと。隆平可哀そうだったなー。後半からずっと机に突っ伏して泣いてたもんな」
「これで大事な個所聞き逃して成績落ちて大学行けなくなったらさー、お前どう責任とるんだよ。なあ?」
泣き真似をする鈴木の言葉に呼応して、井上将人が大仰に彼を慰め、安藤大樹は禎一の肩に乱暴に手を置いた。
そんなの知るか。ただ寝てただけだろう。
そう強く言えたらどれだけ良かったことか。
でも、意思に反して禎一の口はきつく結ばれたままだ。小さく震えるばかりで、肝心の声は出てこない。出てきてくれない。
鈴木はそうした禎一の反応によりイラついたらしく、近くにあった椅子を荒々しく蹴飛ばした。
「あーあ。謝ってくれたら許してやろうかと思ったけど、気が変わったわ。お前さ、今日中に漆原に告白してこい」
「ぇ……?」
そこで初めて、禎一の口から音が出た。それは掠れた、乾き切った声ともつかない音だった。
「聞こえなかったのか? 今日中に担任の漆原恭二に告白してこいって言ったんだよ。お前、年上お兄ちゃん系の男大好きだろ?」
鈴木の口の端が吊り上がる。井上と安藤は堪え切れずに下世話な笑い声を響かせた。
「そりゃナイスアイデア! 漆原って確かにそんな雰囲気してるもんな!」
「つーかさ、もしかしたら既に特攻して玉砕してるかもよ? こいつ、男も女も年上も年下もなんでも行ける口みたいだし!」
どこまでも悪意に満ちた声が、禎一の心を抉っていく。両脇で騒ぐ井上と安藤を、鈴木はへらへらと笑って宥める。
「まあまあ、そう言ってやるなよ。いまどき性的マイノリティなんて珍しくもなんともないじゃん。そして俺らはそれを理解した上で背中を押してるだけなんだ」
ひょいと身軽な所作で窓の桟から跳び降りると、俯く禎一の顔を覗き込んだ。
「だから、別に断ってもいいんだぜ?」
殊更に優しい、声だけ聞けば親身な言い方だった。
どの口が言っているのか。
禎一は下唇を噛んだ。
わかっている。コイツはスマホの録音や偶然第三者に聞かれた時の対策で、わざとこういう言い方をしているのだ。あくまでも自分たちは友達で、これは禎一のコンプレックスを知られないために空き教室で話していて、この提案も禎一の性的指向、恋愛指向を慮ってのことなのだと、そういう体で話しているのだ。
もちろん、断ればそれ相応の「遊び」や「お願い」、客観的には誰がしたのかわからない「イタズラ」をされることは間違いない。
「で? どうすんの?」
再び、苛立ちを帯びた声が飛んできた。
禎一は、頷くほかなかった。
放課後。職員室までの道すがら、禎一は高鳴る鼓動ゆえか昔のことを思い出していた。
自分の性的指向が少数派だと気づいたのは、中学生の時だった。
それまでは、普通に異性の女子に好意を覚えていた。初恋の相手は小学校三年生の時に隣の席になったショートカットの女の子だったし、その次に好きになったのは小学校六年生の時に同じ委員会に所属していた隣のクラスの溌剌としたバレーボール好きの女の子だった。
けれど、中学校にあがった辺りから、男子にも僅かながら興味を覚えることが多々あった。
小学校の時とは違い、筋肉質で背が高くなったクラスの男子にドキッとしたことがあった。
肩幅の広い眼鏡をかけた秀才の先輩に勉強を教えてもらった時に心臓の鼓動が否応なく速くなっていたことがあった。
母校である小学校の前を通った時、ランドセルを担いだ小学校高学年くらいの男子の無邪気な笑顔に見惚れたこともあった。
学期の途中でクラスにやってきた教育実習生の男子大学生と体育でペアになり、顔や体がカアッと熱くなったこともあった。
一方で、これまで通り同い年の女子に好意を覚えることもあった。その時期は、心の底からホッとした。自分は正常だと言い聞かせることができた。
しかし、禎一は高校一年生の時に隣の席になった男子生徒にどうしようもない恋心を抱いた。その男子生徒はとても優しくて、内気で臆病な禎一のことをいつも気遣ってくれていた。その優しさに、禎一は心底惚れた。ここまで人を好きになったことなんてないほどだった。
気持ちを伝えたいと思った。
でも、そんなことはしてはいけない。
普通、男子は女子に、女子は男子に恋愛的な感情を覚えるものだ。創作物で楽しむことはあっても、冗談で絡み合うことはあっても、心の底から性的な感情を向けることはまずありえない。
いや、頭では知っていた。世間にはそうした性的マイノリティの人たちがいることを。しかし、まさか自分がそれに該当しているなんてことは想像したことがなかった。
誰にも相談できなかった。友達はもちろん、親や教師にも言えなかった。
胸中には確実に、膿が溜まっていった。
そうして、事件は起こった。
「なんかさ、最近の禎一って距離近すぎない?」
夏休みに入る帰り際に、唐突にその男子生徒から言われた。
禎一は驚いて男子生徒の顔を見た。
男子生徒は気まずげに、どこか嫌悪感を抱いたように眉をひそめて苦笑していた。
何言ってんだよ、そんなわけないだろ。
へらへらと笑いながら、そうした言葉を発するべきだと禎一はわかっていた。そうしないと、これまで通り彼とは一緒に過ごせないことを禎一は察した。
しかし、言えなかった。冗談交じりの否定なんて、言いたくなかった。内気だからか、禎一の心はどこまでも正直だった。
沈黙を、男子生徒は肯定と受け取ったみたいだった。
男子生徒はそれ以上何も言わずに、逃げるように帰っていった。
「ハハハッ! お前さ、やっぱりそうだったの?」
そこへ侮蔑するような笑い声が響いた。
心湧き躍る夏休みを前にしてクラスメイトの大半が帰った教室には、禎一のほか数名の生徒と、鈴木が残っていた。
「俺さ、この前見ちゃったんだよね。三堂の検索画面。んで、その内容をあいつに教えてあげたんだよ」
鈴木は嘲笑を浮かべて、禎一の机の上にあったスマホを指差した。
禎一は慌ててスマホを仕舞おうとしたが、その前に鈴木はいち早く取り上げた。
「ちょ、返して!」
先ほどまで、禎一は黒板に書かれた夏休み明けのスケジュールを写真に撮っていた。その最中に意中の男子生徒から声をかけられたため、スマホの画面はロックが解除されたままだった。
「え〜なになに。『全性愛 対策』、『全性愛とは』、『同性愛 対策』、『バイセクシュアルとは 同性愛とは』……」
小柄な禎一がスマホを奪い返そうとしても届くはずはない。
禎一は片手間の空いた時間に、自分の異常な性的指向について調べるようにしていた。少しでも情報を集め、「普通」に生きるための対策を立てようと、性的マイノリティについてネットで検索しまくっていた。それが仇となった。
次々と読み上げられていく検索履歴に、近くにいた井上や安藤も話に入ってきた。いかにも興味津々といった様子で画面を覗き込んでいた。
バックグラウンドで起動していたメモ帳や写真フォルダまでも見られ、あらかた読み終えた彼らは心底忌避するような視線を禎一に向けた。
「やっぱお前、ヤベェな」
そこからの日々は地獄だった。
このことをみんなにバラされたくなかったら言うことを聞けと脅された。目に見える直接的な暴力こそなかったが、裏ではあらゆる要求や陰湿な嫌がらせをされた。
よくパシリに使わされた。「釣りはいらねーから」と十円玉を三枚投げつけられた。
筆箱を隠された。昼休みに、トイレのゴミ箱の中に中身ごとぶちまけられているのを見つけた。
登校すると内ばきがびしょ濡れになっていたこともあった。
「男でも女でもイケるとか、マジ気持ち悪いよ。お前」
「俺たちには発情しないでね? ほんと鳥肌モンだから」
「いや~わかんねーよ。井上のやつとか結構こいつにいろいろしてるから、ドMだったらワンチャンありそーじゃね?」
「やめろよ! きっしょい! つーかそんだけおっ立ててんのに、こいつドーテーくんでしょ?」
「そうそう。あ、悪口とかそういうんじゃないからな? 三堂禎一だから、ドーテーな」
「マジウケる」
誰もいないところでの悪口なんて日常茶飯事だった。最初こそ抵抗していたけれど、その度にエスカレートしていく要求や嫌がらせが苦痛で諦めた。
そんなことが一年以上続いた。
そして今、顔立ちの整った担任の漆原に告白してこいと要求され、叶えにいくところだ。証拠として録音を強制され、結果がどうなったかを含めてメッセージで送るようにも言われた。元々内気で人と話すのが苦手なだけに相談できる仲の良い友達もおらず、もはや逃げ場はなかった。
「ふう……」
考え事をしているうちに職員室の前に辿り着いた。もうとっくの昔に諦めていた。ひとつ深呼吸をしてドアを開ける。
まず、職員室独特の匂いが禎一の鼻を衝いた。強く感じるのは、コーヒーの香り。
続いて、最近の三年生の学力の話や受験の話、ひいてはそれぞれが受け持つクラスの話など、そこいらで放課後らしい教員同士の雑談が交わされているのが聞こえた。
その中で、禎一が属する二年一組の担任教師である漆原はひとりパソコンに向かっていた。誰とも会話をすることなく黙々と作業をしているらしい。時おり手元にあるプリントやタブレットに目を落としつつも、キーボードを叩く手は止めない。隣の席ではそれぞれ二組、三組、四組の担任教師が輪を作って話をしているというのに、彼は目もくれずに一心に画面と向き合っている。
どことなく、禎一は緊張が解けていくのを感じた。
集団の輪から外れている、とはまでは言えないにしろ、少なくとも「普通」から一歩距離を置いている今の彼には親近感を覚えた。それだけで、話しかけに行くハードルが一気に下がった。
「どうかしたの?」
「うぇ!?」
そこへ、いきなり顔も知らない教師に声をかけられ、びくりと肩が跳ね上がった。職員室の入り口に立ったまま中を眺めている禎一を不思議に思ったのだろう。何も回答の準備をしていなかった禎一は、再び緊張が身体を締め上げていく感覚に陥った。
「え、え、ええと、あの……その……」
どもるだけで何も答えない禎一に、教師の視線が不思議から不審へと変わっていくような気がした。あくまでも気がしただけで、禎一の視線は徐々に下がって目を合わせられなくなっていたので、実際にそうなのかはわからなかった。
「どの先生に用事があるの? 呼んできてあげるから」
声は優しい。声だけ聞けば、優しさしか感じられない。寄り添ってくれているのだ。
……本当に?
心の中では、「なんだこの挙動不審な生徒は?」などと思っているのではないだろうか。
そうしてやがては苛立ちが募り、「さっさと用件を話せ」と詰め寄ってくるのではないか。そう思うと、手足を強張らせていた緊張が喉元から口へとせり上がってきて、禎一は声を発することができなくなった。
「おそらく、僕でしょう」
唐突に、爽やかな声が聞こえた。
聞き慣れた声だった。ついさっきまで、教室に響いていた声。
ハッとして顔を上げると、柔和な笑顔を湛えた漆原がすぐ近くに来ていた。
「彼は僕のクラスの生徒ですので」
「ああ、そうなんですか。じゃああとはよろしくお願いしますね」
見知らぬ教師はホッと息をつくと、そのまま足早に職員室の奥へ引っ込んでいった。その一連の所作にも、禎一の心は酷く痛んだ。
「さて、ああは言ったけど、僕に用があって来たってことでいいのかな?」
漆原の問いかけに、禎一はこくりと頷く。
「そうか。ここじゃ出入りの邪魔になるし、奥の相談ルームに行こうか」
再度禎一が首肯すると、漆原は先立って職員室の中に戻っていく。禎一は慌てて後を追い、その後ろにピッタリとついた。
職員室の奥の方には、生徒の身の上の話や進路の話などをする時に使われる小部屋がいくつかあった。漆原はそのうちの一番窓側の部屋の前に行き、「使用中」の札をかけてから中に入った。
机がひとつと椅子が四脚だけある簡素な小部屋。扉が閉まると、職員室の喧騒が遠ざかった。
「さ、座ってくれよ」
先に腰かけた漆原は朗らかに笑って、正面の椅子を勧めてくる。禎一は素直に、その指示に従った。
「それで、僕に何の用かな?」
何事もない、世間話をするみたいな調子で漆原は尋ねた。
そこで改めて、禎一は自分がなんのために職員室に来たのかを思い知ることとなった。
自分よりも十歳は年上の生物教師、漆原に告白する。
緊張しないわけがなかった。
この緊張はいったいどこから来ているのか、自分でもわからなかった。
鈴木たちに脅されているという恐怖から来ているのか。
社会的に見て受け入れられるはずのない、教師に告白するという背徳感から来ているのか。
突然に素っ頓狂なことを言い出すだけでなく、自分の性的指向すらを知られて、漆原からいったい何を言われるのかという怯えから来ているのか。
あるいは、あるいは、あるいは……。
ぐるぐるぐると行き場のない思考が禎一の中に渦巻いていた。答えなんて出るはずもない。
部屋に入ってから一分以上経っても言葉を発しない禎一に対し、漆原も何も言わなかった。おそらく、既にただ事じゃないことは察せられているだろう。ここに来て「やっぱり何もありません」なんて言って退出するわけにもいかない。そもそも今ここで告白をしなければ鈴木たちからどんな嫌がらせをされるかわかったものではない。最悪の場合、クラス中に禎一の性的指向が晒される危険だってある。それだけは、なんともしても避けたかった。
「あ、あの!」
「ん?」
禎一は意を決して、漆原の顔を見た。
まず、大きくて人懐っこい瞳が目に入った。吸い込まれるような、澄んだ黒い瞳。こちらの心にまでゆっくりと歩み寄ってきて、そっと寄り添ってくれるような安心感すら覚えた。
それだけではない。マッシュヘアーながら教師らしく耳を出した清潔感のある髪型、身につけている服もキレイ目の爽やかなビジネスカジュアル調であることも好ましい。さらに今日の生物の授業でもあった冗談やいじりに華麗に対応する様から、男女問わず人気があるのも納得できた。
ただひとつ、禎一は気づいた。
これだけ男女問わずに好感を抱かれる特徴を持っていながら、これまで禎一は漆原に好意を持ったことはなかった。なんとなくそれすらも自分が「異常」であることの証明に思えてきて、禎一はもうどうにでもなれと口を開いた。
「僕は、先生のことが好きです!」
言った、と思った。
想像以上に声が響いて、禎一はハッとして辺りを見渡した。
窓もドアも閉まっている完全な個室。あれほど騒がしい職員室の喧騒すらくぐもってよく聞き取れないのだから大丈夫だとは思うが、一抹の焦燥感と不安に禎一は駆られた。
対して、漆原は驚いた様子を見せつつも無言だった。表情は変えずに、ただ真っ直ぐに禎一のことを見ていた。
「僕は、先生のことが好きです」
聞こえなかったはずはないが、禎一はもう一度言った。すると、そこでようやく漆原は頷いた。
「うん。聞こえてる」
抑揚のない、平坦な声だった。揶揄うでも戸惑うでもない、感情の読めない声。それが、余計に不気味だった。
「だから、その……僕と付き合ってくれませんか?」
「付き合うというのは、恋人になってほしいという解釈で合ってるかな」
「その通りです」
禎一の心臓は今にも破裂しそうだった。早く断ってくれと思った。それから困った顔で諭すなり、声を荒らげて怒るなりして早く話に区切りをつけてほしかった。
漆原は「ふむ」とひとつ頷いてから、また口を閉ざした。
おそらく、漆原の頭の中ではいろいろな推測が錯綜していることだろう。
生徒が告白してきたがどう断ればいいのか。
男子生徒が男性教師に告白をしてきたということは性的指向がそうだという意味になるが、どう言えばいいのか。
そもそもどうしていきなり告白をしてきたのか……などなど。
けれど、本当にそうしたことを考えているのかと疑いたくなるほどに、漆原の表情は変わらなかった。
そうして、一分とも十分ともつかない長い沈黙の末に、漆原は答えた。
「いいよ」
聞き間違いかと思った。禎一はぎょっとした。
「何をそんなに驚いているの。君から言ってきた申し出だろうに」
「い、いやいや。先生、僕は本気ですよ?」
本気ではないが、冗談でも了承なんてしてほしくなかった。その意味を込めて禎一は訊いたが、あろうことか漆原は深く頷いた。
「わかってる。だから僕もこうして真面目に答えてるんだ」
「いやいやいや」
信じられない。意味がわからない。頭の中が混乱したのは禎一の方だった。
しかし、そこではたと思った。
もしかすると先生も、自分と同類なのではないかと。
「あの……」
訊いてみたかった。
もしそうなら、自分はひとりじゃない。
けれど、他でもなく自分のポケットでボイスレコーダーが起動していることを思い出し、禎一は口を噤んだ。
「ただし、条件がある」
そこで、禎一の続きに被せるように漆原は言った。視線を逸らしかけた禎一は、再び漆原の方を見る。
「条件?」
「そうだ。まず校内校外を問わず不用意に近づかない。教師と生徒だからな。卒業までは一線を引いてもらおう」
「わかりました」
禎一は頷く。
驚くほど真面目な条件が提示された。いや、そもそも性別はどうあれ生徒からの告白を受け入れている時点で真面目ではないが。
「そして次に他言無用。これは僕と三堂だけの秘密だ」
「……はい」
これも当然だ。もっとも、約束をしたその日の夜には破らなければいけないのだが……。
「最後に、三堂には生物部に入ってもらう」
「え?」
最後に来た意外な条件に禎一は目を丸くした。生物部。なんでまた。
不思議そうに首を傾げる禎一に、漆原は言葉を続けた。
「生物部の顧問は僕だ。部員は何名かいるが、今ではすっかり幽霊部員でな。活動らしい活動はしていないんだ。付き合っているのに、校外でも全く接触しないというのも嫌だろう? 生物部は会うための理由付け、いわゆる足場だな」
「なるほど」
そこまで聞けば道理だった。生物部の部員と顧問という関係ならば、校内外問わずよく会っていても説明がつく。幽霊部員しかいない廃部寸前の部活ならなおさら一対一でも怪しくはならない。もちろん、どんなふうに接しているか、というのはあるだろうが。
「守れるか?」
漆原は静かに尋ねてきた。
そこには揶揄っている様子も馬鹿にしている様子もなかった。
ただありのままに、当然のごとく提案している。そんな雰囲気があった。
「はい」
こうして、禎一と漆原は付き合うこととなった。
禎一と漆原が恋人同士となった日の週末。
禎一は学校の最寄り駅にある銅像の前に佇んでいた。
「最悪だ……」
傍に誰がいるわけでもないのに呟く。呟かずにはいられなかった。昨日はあまり寝られず、寝返りを打っている間に外が明るくなっていた。
あの日。禎一が漆原に告白した日の夜、禎一は鈴木が作った簡易グループトークで急かされ、事の次第をボイスレコーダーの音声とともに報告した。
>>は? 成功した? マジで?
>>きっしょw 漆原もゲイかバイなのかよw
>>つーか性別以前に教師と生徒が付き合うのは完全にアウトだろ笑 漆原も終わったな笑
せせら笑う吹き出しが次から次へと画面に表示されては流れていく。よくもまあここまで侮蔑や軽蔑といった誹謗中傷の言葉が出てくるものだと感心するほどだった。
それと同時に、禎一の胸中には漆原に対する申し訳なさと罪悪感が去来していた。
漆原がもし禎一と同じ性的マイノリティであった場合、そして彼が本当に禎一のことを好ましく思っていた場合、禎一は噓告白という形で漆原の気持ちを弄んでいることになる。
そもそも性的指向の多寡以前に、純粋な人の気持ちを踏みにじることは最低の行為だ。謝って、はいそうですかと済むものではない。多かれ少なかれ相手方に不信感を与え、傷つけてしまう。
ましてや、ただでさえ受け入れられるのが難しい性的指向が偶然合致していたとしたら、表面に現れなかったにせよ漆原の喜びは相当なはずだ。自分に置き換えてみれば痛いほどわかる。まさに奇跡なのだ。だからこそ、今の状況は禎一にとって好ましくなかった。針の筵に座っているとはこのことかと、禎一は頭を抱えた。
>>んで、これどーするよ? 学校に報告しちゃう?
>>いや、いっそクラスのグループトークに投下しね?
>>そりゃいいw クソ笑えるw
>>あ、でもそうなるとドーテーとの約束破ることになるな
>>えーもうパシリとかできねーのは反対
>>つかさ、証拠としてはまだ弱いんよな
しかし、画面の向こう側にいる鈴木たちには禎一の気持ちなんぞわかるはずもない。下品で利己的な会話が途切れることなく続いている。
そしてそれは、沈黙を貫いている禎一に突然向いた。
>>おいドーテー! お前さ、次の休みに漆原をデートに誘ってそこで恋人っぽいことしてこい! 俺ら動画撮るから!
無慈悲で、無情な要求が画面を滑る。続け様に囃し立てる吹き出しとスタンプが現れた。
嫌だ。
そう返したかった。
入力欄に打った。けれど、指が震えて、送ることはどうしてもできなかった。
その結果、放課後の理科室でひとり次の授業の準備をしていた漆原を訪ねて約束を取り付け、今に至る。
「最悪だ……」
もう一度独り言ちる。
デートに誘った時も、漆原は何の疑いも質問もせずにただ「わかったよ」とだけ答えてきた。授業ではあれほどコラムを饒舌に語るくせして、こういう時は言葉少なく接してくるらしい。意外過ぎる一面だった。
そもそも、デートで恋人ぽいことなんていったい何をしたらいいのか皆目見当もついていなかった。禎一は自分の性的指向のせいもあり、これまで好きになる人はいれど告白することも付き合うこともなかった。今日が全て初めてだ。一先ず普通の教師と生徒ならまず一対一で行かないであろうカフェに行くことにしているが、その先は何も考えていない。
すぐ近くにある時計台へと目を向ける。かなり早く来過ぎたせいもあり、待ち合わせの時刻までまだ二十分程度あった。
「そういえば、なんで制服着用なんだろう」
漆原に待ち合わせの場所と時間を確認した時、ひとつだけ条件を出された。
それが、制服を着用してくることだった。
その時はデートに誘うという緊張でそこまで頭が回らなかったが、よくよく考えてみると意味がわからなかった。そもそも学校近くの駅で制服姿の生徒とデートの待ち合わせなんて完全にアウト要素しかない。いったい何を考えているのだろうか。
「それはね、部活動っぽく見せるためだよ」
「わっ!?」
突然、背後からささやき声が聞こえてきて、禎一は反射的に飛び退いた。その反応に、声をかけてきた張本人、漆原はからからと笑う。
「いや~ごめんごめん。ついうっかり聞こえちゃって。どう? 驚いた?」
「あ、当たり前です!」
驚いたどころじゃない。心臓が飛び出るかと思った。
ふうふうと肩で息をする禎一を見て、漆原はまた短く笑った。
時節、漆原にはこうしたお茶目な一面がある。どこか子どもっぽいというか、大人にはない柔らかさがあるのだ。そこもまた、他の先生よりも頭ひとつ抜けて人気な理由のひとつなのだろう。
しかし今の禎一は、漆原のそうした「とても良い教師」という地位も名誉も信頼も何もかもをどん底に突き落とす罠へと誘っている。脅されているとはいえ、間違いなく自分の意思で、誘導しているのだ。
「あのせんせ――」
反射的に「今日は帰りましょう」と提案しかけたところで、ぶるりとポケットのスマホが振動した。こっそりと取り出して見てみれば、鈴木たちが禎一たちの姿を視認したという内容が通知欄にあった。
>>最高の動画が撮れてるよ~w
そして、最悪の内容も表示されていた。
もう今さら帰ったところでどうにもならないような気がした。
「さあ、行こうか」
相変わらず爽やかなベージュのトレンチコートをはためかせて、漆原は先に歩き出した。禎一は慌ててその後を追った。
二人が向かったのは、待ち合わせ場所から少し歩いたところにある裏通りのカフェだった。
レトロな雰囲気がオシャレで、店内には落ち着いたジャズのBGMが流れている。ほどほどに混んだ店内はまさに、土曜日のお昼過ぎといった空気が流れていた。
禎一は一先ず同じ高校の生徒らしき人がいないのを確認してから、店員の案内に従って中ほどにあるテーブルについた。鈴木たちから事前に指示を受けた通り、出入り口が見える椅子には自分が座り、その真正面に漆原が座るようにした。これで、鈴木たちが入ってきても漆原に気づかれることはない。
「へえ、いい雰囲気のお店だね」
漆原は上機嫌にメニューを開いては写真を撮り、店内の木組みに感心してはまたも写真に収めていた。その表情は実に楽し気で、普段教壇に立つ彼のイメージとは違い新鮮に感じられた。他の生徒に見られるとか、そうしたことを気にする素振りすらなく、実に堂々としていた。
純粋な笑顔を浮かべる漆原に心を痛めつつも、禎一は努めて平静を装って口を開く。
「ここは、僕がたまに本を読みに来るカフェなんです」
「なるほどね。三堂は本が好きなのか。どんな本を読むの?」
「そうですね。わりと青春恋愛ものとか好きです。なんていうか、悩みつつも足掻いて成長していく主人公たちの物語を読んでいると、元気が出てくるんです」
「おお、いいねいいね。僕も昔はよく読んだよ。最近だとどんなのが流行ってるか教えてくれないか」
「いいですよ」
それぞれが紅茶とコーヒーを注文したあと、禎一と漆原は趣味の話に花を咲かせた。特に二人はジャンルこそ違えど読書や映画が共通の趣味で、今やっている青春アクションものをちょうど見たばかりの者同士だとわかった時は話が盛り上がった。
でも、話が盛り上がれば盛り上がるほど、漆原が楽しそうに笑えば笑うほど、禎一の心に漂う罪悪感の影は色濃くなっていった。
そもそも生徒と教師で付き合っていること自体がダメなのだ。お互いのためにも今すぐにでも別れた方がいいのは確実だった。
「三堂、どうかしたか?」
「え?」
悩んでいたのが表情に出ていたのか、運ばれてきたコーヒーをひと口飲んでから漆原が訊いてきた。
いきなりの問いかけに戸惑い、禎一は咄嗟に以前脳裏に浮かんだ疑問を口にする。
「ええと、その……漆原先生は、どうして僕と付き合ってくれたんですか?」
漆原は虚を突かれたように呆けた。
「これはまた突然だな」
「いや、だって……僕、男で生徒ですよ? 普通、疑問に思うでしょう」
「ふむ」
漆原はもう一度コーヒーに口をつけた。美味しそうに飲んでいた先ほどとは違い、今度は何か考えをまとめるようにゆっくりと唇を濡らしている。
「三堂。僕の座右の銘はね、『体で以て識れ』なんだ」
「はい?」
いきなり何の話だ。
「意味は至って単純明快。実際に体感することで物事の本質を知るということだ。何事も経験してみないとわからない」
お客様アンケート用のボールペンで、ナプキンの後ろに自身の座右の銘とやらを書きながら漆原は説明する。
「恋愛だってそうだ。その人が自分に合っているか否かなんて、付き合ってみないとわからない。僕は今フリーだし、男で生徒だから、という理由だけで頭から断るのは僕の性分じゃないんだ」
「だから、僕の告白を受けた、と?」
「そういうことだ」
禎一はあんぐりと口を開けた。これはまた想像の斜め上の答えだった。
「そんなこと……信じられません」
でも、禎一は首を横に振る。
「付き合ってみないとわからないというのは、前提として相手が恋愛対象になる可能性があって初めて成立します。普通の男の人は、女の人と付き合うのが前提にあります。教師だって、普通は相手が生徒だっていう考えが先にきて、付き合う付き合わないなんて発想にはそもそもならないと思います」
頭の中に、鈴木の声が反響していた。
自分のコンプレックスを揶揄する声。
なにかと因縁をつけてくる声。
馬鹿にするような笑い声。
――やっぱお前、ヤベェな。
常識から外れた異端者だと、見下す声。
「もし先生が、本当にそんな性分だけで僕と付き合っているのなら……先生、めちゃくちゃ変だし、ヤバいですよ」
歓談が周囲に満ちている中、力ない声が禎一の口から漏れた。
言ってしまったと思った。
鈴木たちに弄られて、ずっと胸の内に秘めていたからか。繰り返し思い出して、濃縮されてしまったからか。
自分が言われて嫌だったことを、禎一は無意識のうちに口にしてしまっていた。しかも、長々と理由を添えてだ。
漆原は何も言わない。
気まずい空気が立ち込める。
早く謝らないとと、禎一はすぐさま口を開いた。
「変だから、なんだ?」
しかし、先に言葉を発したのは漆原だった。
「変でヤバいのは重々承知している。でもいいじゃないか。その普通とやらを形作っている社会もまた、かなり変だぞ。矛盾だらけで、狂ってる。そんな社会に生きてるんだから、多少変でもいいじゃないか」
どこか言い聞かせるような、静かな口調で漆原は答える。禎一は呆気にとられていた。
「そ、そうかもしれませんが、簡単に割り切れることじゃ……」
「ああもちろん、そんな単純じゃないのもわかってる。だからうまくやれる範囲で、分かり合える範囲でやっていけばいいんだよ。ダメなら逃げる。それでいいじゃないか」
「それは、そうかもしれませんけど……」
禎一が口籠ると、漆原は半分ほどに減ったブラックコーヒーにミルクを入れ、ゆっくりとかき混ぜた。その間に、禎一はもう一度思考をまとめる。
「えと、失礼ながら先生は、同性愛者だとか両性愛者とかではないんですよね?」
「んーさあな、わからないな。これまで恋人にしてきたのはみんな女性だったが、ただそれだけだ。男性ならどうだろうかと、考えたことはある」
「どう、とは?」
「……そのままの意味だ」
漆原は小さく肩をすくめると、どこか自虐的な笑みを溢して残ったコーヒーをひと息に飲む。
先生……?
微かな疑問を投げかける前に、漆原はパンと手を合わせた。
「それに、だ。そもそも人間の性的指向なんてものも、一概に括れるものではないんだぞ? キンゼイも言っているだろう。人間の性的指向は連続体だと」
「へ?」
ん? 先生?
「キンゼイの研究によれば、人間の性的指向はグラデーションになっていてな、なんでも」
「ちょちょちょ、待ってください。誰ですか、それは」
あれ? なんだか話が変な方向に逸れてきた?
「なに、知らないのか。よし、若干分野は違うが、ここは高校生物担当兼生物部顧問の出番だな。まずキンゼイ・スケールから説明を――」
「お待たせしました~」
いつも以上に饒舌な漆原コラムが始まろうとしていたところへ、タイミング良く店員が追加で注文したケーキを運んできた。
助かった。
禎一がホッとひと息ついている間に、漆原の興味はテーブルに置かれたベイクドチーズケーキへと移っていた。目を輝かせて写真を撮り、崩れないよう丁寧に切り分ける様はやはり、十歳以上離れている教師にはとても見えない。
変でもいい、か。
そんな漆原を見つめながら、禎一は小さく笑う。
全く、考えたこともなかった。
普通でいなければいけないと、ずっと思っていた。
普通じゃない自分は集団の異物で、どこまでも罵られ、謗られて生きていかなければいけないのだと思っていた。
「まあでも、すぐには難しいかな……」
「ん? 何か言ったか?」
「ああ、いえ」
それでも、漆原のように完全に割り切るのはまだ難しい。無邪気にケーキを頬張っているくせして、考えはしっかり大人なんだなと禎一は失礼にも尊敬していた。
それに、やはりもしかしたら先生も……
「はーい、こちらお待たせしました~」
そこへ、禎一が頼んだいちごタルトも運ばれてきた。
自分も記念に、写真撮っておこうかな。
アラサーの大人にしてははしゃいでいる漆原に触発されたのか、禎一の心も幾分か温かく盛り上がっていた。久しぶりに覚えたこの楽しさをもったいなく感じて、ふと浮かんだ感情だった。
禎一はポカポカとした気持ちのまま、スマホを取り出した。
>>おい、こっそり漆原の写真を撮れ
けれど、そんな多幸感はバナー表示された鈴木からのメッセージですぐに霧散した。
……そうだった。自分には、このデートを楽しむ資格なんてない。
漆原の言葉で忘れかけていた。禎一は漆原に嘘告白をし、騙しているのだ。
胸のあたりが痛んだ。不思議と、嘘告白をして受け入れられた直後よりも、さらに痛んだ。
無視しようか、と一瞬考える。でも、すぐに鈴木たちの威圧的な視線が蘇ってきて、背筋が冷えた。
禎一は緩んでいた口元を引き締め直し、カメラアプリを起動した。
まず、彩りよく飾られたいちごタルトと紅茶で一枚。
漆原も感心していた天井の木組みで一枚。
そしてそのままの流れで、ケーキを頬張っている漆原を一枚……――。
「え!? ど、どうしてあなたがここにいるのっ!?」
その時だった。撮影ボタンを押そうとした直前、いきなり店内に女性の叫び声が響いた。
驚いて顔を向けると、そこには四十代前半くらいのパリッとしたスーツの男性と、二十代後半くらいのどことなく露出の多い格好をした女性が、戦慄の表情を浮かべて別のテーブルで食事をしている男女に絡んでいた。
「どうしてはこっちのセリフだ。佳世、やはりお前、浮気してたな?」
「な、ち、違う! 彼は、ただの、取引先の……!」
「ほお。取引先の男とお前は腕を組んで街中を歩くのか? 休日に家族をほっぽらかしてショッピングを楽しむのか?」
「そ、それは……!」
周囲からの好奇の視線をものともせずに、話はどんどんと進んでいく。
どうやら、驚嘆の声を最初にあげた二十代後半の女性は佳世という名前で、テーブルで女性と食事をしている男性の妻であるにもかかわらず、仲良くなった取引先の男性と浮気をしていたらしい。ちなみにテーブルについている女性は男性の姪とのことで、男性側には一ミリも落ち度はなかった。騒げば騒ぐほど、話が進めば進むほど浮気をしていた佳世という女性の旗色が悪くなっていく。
店内にいた客はもちろん、店員でさえ呆気にとられて興味深げに見物していた。そしてそれは鈴木たちも同じようで、あれほど通知欄を埋め尽くしていたメッセージがピタリと止んでいた。
「さて。行こうか」
「え?」
そろそろ言い合いに決着がつきそうになり、店内にちらほらと喧騒が戻り始めていたところで、事態を静観していた漆原が席を立った。そのまま伝票を手にとると、呆然としていた店員を我に返らせ、手際よくお会計を済ませた。
このタイミングで?
そんな疑念を訊く間もなく、漆原は席に戻ってくるやまだ食べかけにもかかわらず禎一の袖を引いて立ち上がらせると、荷物をまとめて出入り口へと促し向かわせた。
口論は店内の中央で繰り広げられており、出入り口に注意を向ける者は誰もいない。
もしかして、鈴木たちがいるのに気づいたのか?
その結論に辿り着いた頃には、禎一は漆原に背中を押されて今まさにアンティーク調のドアから出ていくところだった。
「あ! あんたは――」
ドアが閉まる。
あれほど姦しく耳を衝いていた怒声が、一気に遠ざかった。
尻目に店内の様子をうかがえば、逃げ出そうとしている佳世という女性を男性が引きずり戻しているところだった。口論はまだまだ続きそうだ。
「いや~災難だったなあー」
他人事のように漆原は呟き、ひとつ伸びをした。その顔は晴れ晴れとしており、客同士のいざこざを聞かされて不快だなどという感情は微塵も現れていない。
「あの、僕まだ、ケーキ食べかけだったんですけど」
「ああ、ごめんごめん。次はちゃんと食べ終わるまで待つからさ。この通り許してよ」
さして気にもしていない不満を禎一が口にすると、漆原は大仰に頭を下げてきた。やはりその口ぶりにも、どこか余裕が見て取れる。
なんだろう、この違和感。
禎一は首を傾げた。
前を歩く漆原の足取りは、先ほどよりもなんとなく軽い。
何かが頭の片隅に引っかかっていた。けれど、それが明確な形を結ぶ前に漆原がこちらを見て言う。
「ちょっと呆気ないけど、今日はここで解散にしようか」
「え?」
これまた唐突に出てきた言葉に、禎一はポカンと口を開けた。そんな禎一の反応を見て、漆原は困ったように眉を下げる。
「ごめんね。実はさっきカフェを出る時、鈴木たちの姿を見たんだ」
「あ……」
やはり、気づかれていたのか。
「まあ見た感じさっきのいざこざに興味津々って感じだったし、僕らのことは気に留めてないと思う。ただ用心に越したことはないからね。この埋め合わせは必ずするからさ」
漆原は残念そうに言うと、再び頭を下げてきた。今度はわざとらしい感じはない。禎一としても脅されたとはいえ騙しの片棒を担いでいただけに、そこまで言われると引き下がざるを得なかった。
「……わかりました。次回、楽しみにしてますね」
「ああ、必ず」
漆原の表情には、いつの日かに見たのと同じ柔和な笑みが浮かべられていた。
>>クソおい! なんなんだよ!
帰宅し、ちょうど自室に入ったところで、それまで沈黙を貫いていたスマホが振動した。同時に、禎一の身体もびくりと跳ね上がる。
>>ドーテーくんよ、てめえいつカフェから出ていったんだよ
>>どさくさに紛れて逃げてんじゃねーよ
>>クラス中にばらしてもいいんだぞ? お前のクソキモい性癖と、あのすかしたゲイ生物教師とのツーショットを投下してな
>>いいね~それ。やっちゃう?
>>どうなんだよ、ドーテー
>>無視してんじゃねーよ
先ほどまでの沈黙がまるで嵐の前の静けさを表しているかのように、スマホの画面には大量の罵詈雑言と誹謗中傷というメッセージの嵐が吹き荒れていた。
禎一は早鐘を打つ胸の辺りを押さえつつ、震える指先でどうにか返信を打つ。
>>ごめん! 先生に、行くぞって言われて!
すぐに既読が三つついた。
>>だったらそれを言えよ
>>変態で無能とかマジで社会のゴミだな
>>お前、この失態どうすんの?
すぐに矢が飛んできた。
無機質な文字の鏃は、深々と禎一の心に突き刺さり、癒えない毒となって蝕んでいく。
何も返せなかった。
目の前がぐらついた。
うまく、空気が吸えなかった。
返信欄で点滅するカーソルを放心状態で見つめていると、また吹き出しが画面に現れた。
>>ドーテーくんさ、漆原とキスしてこいよ
緑の背景に白色の文字で表示された文言に、禎一は息を呑んだ。
キス? 漆原先生と?
鈴木が投下したメッセージに、すぐさま井上と安藤が反応する。
>>いいね~それ! 今度こそ写真か動画に収めてやろうぜ!
>>俺も賛成! さすがに今日のあれだけじゃまだ弱いもんな!
画面の向こう側で、ゲラゲラと下品な笑みを浮かべている三人の顔が思い起こされた。どんな価値観でも馬鹿にせず、ややズレた思考ながらも真面目に向き合ってくれた漆原とは、雲泥の差だった。
どうしよう。
禎一は悩んだ。
先ほど、漆原の在り方を尊敬した。心の底から好ましく思えた。
もしここで了承してしまえば、また自分は漆原を騙すことになってしまう。
デートに誘って、無理やりキスをして、その場面を鈴木たちに撮らせて……。
その先に待ち受けているであろう絵面まで想像したところで、最悪だと思った。真面目に向き合ってくれた漆原を裏切るなんて、したくなかった。
>>言っとくけど、拒否権なんてねーからな
>>今から約束とりつけろよ
>>彼氏ならできんだろ?
>>彼女かもしれんけどw
>>ワロタ
けれど、『でも僕は』まで打ったところで、話はまた勝手に進んでいった。
>>わかった
打ちかけた文字を消し、そう返すしかなかった。
禎一は徐に電話アプリを起動すると、顧問の連絡先として教えてもらった「漆原先生」の名前をタップし、迷いつつも電話をかけた。
『もしもし?』
漆原はワンコールの後すぐに出た。まるで恋人からの連絡を心待ちにしていたみたいじゃないかと、独り苦笑する。
「先生、今大丈夫ですか?」
『ああ、大丈夫だ。家にいるからな』
「えと、今日の埋め合わせのことなんですけど」
そこまで言ってから、ハッとした。ほとんど流されるようにかけてしまったせいで、その先はまったく考えていなかった。当然、言葉に詰まる。
数秒の沈黙が流れた。それを破ったのは、漆原の方からだった。
『もう決めるか? んーそうだなあ。ここは生物部らしく、水族館にでも行くか?』
「え?」
思いがけない言葉に、禎一は驚いた。
『ちょうど部活動報告でレポートを書いてもらわないといけなくてさ。いつもは適当な幽霊部員捕まえて適当に書いてもらうんだけど、せっかくなら三堂に海の生物について観察して書いてもらおうかなって』
スマホの向こう側で漆原の笑い声が聞こえる。実に楽しそうだ。
「まあ、それくらいは構いませんけど」
『よし、じゃあ決まりな。時間なんだが、来週からテストの準備やらで忙しくてさ。明日とかどうだ?』
「え、明日ですか?」
また急だ。
禎一は「少し待ってください」と一言入れると、スマホを耳から離してメッセージアプリを起動させる。また勝手に決めただなんだと鈴木たちから言われるのも嫌だったので、もたつきつつも禎一は漆原から明日水族館に行こうと言われた旨を報告した。
>>最高じゃん
>>空いてる空いてる
>>わかったって言っとけ
どうやら三人の機嫌は直ってきたらしい。禎一はホッと安堵の息をついてから、スマホをまた耳に当てがった。
「お待たせしました。大丈夫です」
『おーそうか。じゃあ今日と同じ時間に同じ場所で待ち合わせな。制服で来ることを忘れないようによろしくー』
どこまでも呑気な声を響かせてそう言うと、漆原は通話を切った。
また、裏切ってしまった。
カフェで覚えていた充実感は、すっかり消え失せていた。