「このように、個々では見られないが、個体が集まることで初めて見られる現象を『創発』というんだ」

 担任兼生物教師である漆原(うるしばら)恭二(きょうじ)は、すっかり短くなったチョークを黒板の縁に置いた。指先についた白い粉を払ってから、手元のタブレットに目を落とす。

「少し応用だが、送信したプリントの十七ページ目にあるショウジョウバエの例と一緒に覚えておくように。下にあるアリとアリ塚の例も有名だが、ショウジョウバエの方が出やすいからな」
「えーなんでですかー?」
「それはわからん」
「えぇ〜先生なのにー?」

 野次っぽく飛んだ質問にわざとらしく肩をすくめる漆原に、クラスが湧いた。そんないつも通りのクラスの様子を、三堂(みどう)禎一(ていいち)は後方の席から冷めた目で眺める。
 だったら、あの「遊び」とやらも創発なのかな。
 ぼんやりと頭の中で呟くと同時に、思い出したくもない記憶が蘇ってきた。禎一はすぐさまそれを頭を振って掻き消す。

「まっ。真面目に答えると、ショウジョウバエは生物の遺伝子学において非常に重要な意味を持つ昆虫だからだ。時を遡れば百年以上の歴史がある。日本でいえば明治だぞ、明治。みんなはノーベル賞をとったモーガンを知っているか? 彼はな」

 禎一の様子はもちろん、クラスメイトの呆れ顔にも気づくことなく漆原は通常運転の漆原コラムを話し始めた。これが始まるととにかく長い。前回は授業の半分近くをコラムで使っていたくらいだ。
 禎一はノートをとっていたシャーペンを机に転がし、徐に窓側へと視線を向けた。
 それが、間違いだった。
 窓際の席でふんぞり返り、顔だけをこちらに向けた鈴木(すずき)隆平(りゅうへい)と目があった。

 授業終わったら、いつものとこ来いよ。

 三白眼の意地悪な目つきが、そう言っていた。
 目を逸らしたかった。
 無視を決め込みたかった。
 でも、そんなことをすればより酷い「遊び」を要求されることは自明だった。
 禎一は一瞬の逡巡の後、小さく頷く。
 チッ、と舌打ちが聞こえた気がした。禎一はびくりと肩を跳ね震わせる。
 黒板の前では、未だに漆原が得意げに遺伝子学の変遷について高説を垂れていた。
 窓の外は、うざったいくらいに晴れ渡っていた。