俺たち取材チームが第一章の中間報告をアップしてから、まだ数日しか経っていない。あの報告は途中経過に過ぎず、樹海周辺で囁かれる“闇バイト”の現状を大まかにまとめただけのものだったが、それでも予想以上に大きな反響があり、「行方不明者を探しています」という連絡や、「自分も闇バイトに誘われた」と思しき情報提供が数件舞い込んだ。
ただ、実際にはどれも匿名で信憑性に乏しく、具体的な証拠を示すものではなかった。とはいえ、あの樹海で噂される“裏稼業”が確かに存在するのだと、改めて感じさせるだけの力はあった。行方不明者は本当に出ているのか? あのプレハブには誰がいて、何の目的で夜な夜な植物を採取しているのか? 闇バイトに深く関わる人間の裏事情は? 解明すべき謎は尽きない。
そこで俺たちは一計を案じた。すなわち、**「闇バイトに参加したい」という“偽装”**をして、直接組織と繋がろうという作戦である。もちろん、いきなり飛び込みで参加を申し込んでバレたら終わりだ。相手が犯罪組織めいた連中だとしたら、こちらの身が危ないかもしれない。だが、あのプレハブや周辺の不法滞在者たちを下手に尾行していてもラチがあかない。要は、**自分たちが“潜入取材”をして、内部事情をできる範囲で掴む**ほかに手はないと思えた。
もっとも、このプランにはチーム内ですら賛否が分かれた。冷静な性格の牧野は「下手をすると本当に事件に巻き込まれそうだし、下策だ」と強硬に反対したし、長沼も「警察に相談してからにしたほうがいいんじゃないか」とブレーキをかけた。一方、杉山は「撮れ高を考えればアリだ」と強気だったし、俺も“裏の現場”を撮影できるチャンスを逃すわけにはいかないと考えていた。
最終的には「できるだけ安全策を講じつつ潜入を試みる」という妥協点で落ち着き、そこへ幸運にも“ある情報”が舞い込む。食堂の店主からの紹介だ。俺たちがひいきにしている地元の食堂に、以前“あのプレハブ”に出入りしていたと名乗る若者が来店したというのだ。その若者は樹海の奥で働き、何かしらヤバい現場を目撃したらしいが、詳しいことは語りたがらなかった。店主がこっそり「取材をしたい人たちがいる」と持ちかけたら、最初は断固拒否していたものの、何度か説得するうちに「話すだけならいい」と折れてくれたらしい。
こうして俺たちは、店主の都合に合わせた休日、食堂の裏手にある小さな離れの部屋を借りることになった。そこで、いわば“極秘インタビュー”を行うという段取りだ。仮名を“村上”とするその若者は、まだ二十代前半と見受けられる。短髪で痩せ気味、どことなく落ち着かない雰囲気で、貧乏ゆすりをしながらチラチラと周囲を警戒している。
村上が俺たちの顔を見るなり、「ほんとに撮影してもいいのか? 俺、見返りとか何もいらないんだが」と、ぼそぼそと呟く。食堂の店主からは「顔は写さないでやってほしい」と頼まれていたので、杉山はカメラを回しつつも、後ろ姿か手元、もしくは音声中心の撮り方にする。そう約束したところで、村上が重い口を開き始めた。
「実は俺、あそこでバイトしてたんだ。夜だけ森に入って、変なキノコとか植物を採る仕事。1回1万円なんてレベルじゃない。日当10万とか、下手したら20万とかも稼げた。しかも当日現金払い。でも、あそこで働くと……なんか、まるで憑かれたようになるんだよ。周りの奴らも、急に失踪したりとか……。俺も怖くて、ある日バックレてきた」
緊張でかすれがちな声だが、村上は言葉を選びつつ、確かな事実を語ろうとしているようだった。牧野がマイクを近づけ、「失踪って、具体的にはどのような?」と促すと、村上は俯き気味に指先をいじりながら、こう続ける。
「夜、樹海の奥で作業してるとさ、変な光が見えるんだ。すごく遠くで、不定期に点滅してて。いくら近づこうとしてもたどり着かない。でも、あれを見てた奴が、あるときふらっとその光のほうへ歩いて行って、そのまま帰ってこないんだよ。リーダーっぽい奴は『勝手に逃げたに違いない』って言ってたけど、実際に逃げるような余裕なんかない。あの森はとにかく道がわからなくなるし……。俺の同期の奴も、次の夜には来なくなってた」
そう言って村上は何度も溜息をつく。まさか自分が目撃者になるとは思わず、その後はどこか祟られたような感覚が拭えないのだ、と苦悶の表情を浮かべる。俺はそっと質問の切り口を変え、「そこでは何を採っていたんです? 具体的に『キノコ』とおっしゃいましたが、どんな用途で? 薬物関係ってこともあり得るんでしょうか?」と尋ねる。
村上は「よくは知らないけど」と前置きして、あまり大きな声を出さぬよう気をつけながら言葉を継いだ。
「俺らは、指示された“場所”にあるキノコや草を集めるだけで、中身は詳しく知らされないままだった。でも、あのキノコ、どう見たって普通じゃない。長さも手の平以上あるし、真っ赤な斑点があったりさ。で、そいつを持ち帰ると、『上の者が研究所に送る』とか何とか言ってて……。時々、やたら厳つい外国人の連中が運び出してた。俺はあんまり近づきたくなくて、何も聞かなかったんだけど、何か薬品系のニオイとか、化学の容器みたいなのも見かけたよ」
研究所――そこまで聞いて、俺たちは目を見合わせた。やはり何かしらの“組織”が背景に存在し、樹海で採取した特殊植物を使っているのかもしれない。これがもし薬物製造なのだとしたら、かなり危険な現場だ。犯罪集団が隠れてやっているとしても不思議はない。あるいはもっと別の研究――たとえば製薬企業が違法スレスレで行う未知の実験なども考えられる。どちらにせよ、失踪者が出るほどの闇であることには違いない。
さらに村上は続ける。「あと……すごく変な儀式みたいなのを見たことがあるんだ。夜中に、リーダーっぽい連中が何か石碑の前で祈ってるっていうか、声を合わせて呪文みたいなのを唱えてる感じ。俺は遠目に見ただけだから詳しくはわかんない。でも、あれを見ちゃった奴が……その後、様子がおかしくなって消えちまったんだよ。もう、本当に何もかもが怪しすぎる」
これ以上聞くのは酷かと思うほど、村上は青ざめていた。俺たちも正直、背筋が寒くなる思いだった。闇バイトで命を落とすかもしれない、あるいは何らかの“不可解な力”に呑まれて行方不明になるかもしれない――そんな現実が目の前にある。だが、だからこそ真相を掴む必要があるのだ。もしそこで危険な違法行為が行われているなら、やはりメディアを通じて明るみに出すべきだろうし、何より行方不明になった人々を救える可能性がわずかでもあるならば、俺たちは動くしかない。
インタビューの後、村上は「もう二度と行きたくないし、関わりたくないんだ……」と念を押して帰っていった。彼は最後に、「他にもそこを抜け出した人間がいるはず。俺が知ってる限り、2人くらいは……」と漏らしていた。もし新たにそうした人間に接触できれば、情報がさらに集まるかもしれない。
その日、取材班の4人は食堂で簡単に食事を済ませ、車中でミーティングをした。そこで改めて決まったのが、**“実際に闇バイトに応募してみる”**という作戦である。といっても正体を知られるのはリスキーなので、まずは捨てアカウント的なメールアドレスを用意し、掲示板に書かれていた連絡先へコンタクトを取る。あちらが面接などを指定してきたら、それに従って接触。何らかの形で“真夜中のプレハブ”へ誘われることを期待する――そんな段取りだ。
翌日から、長沼が掲示板の過去ログを探り、いくつかのスレッドに散らばる「闇バイトの応募先らしき情報」をかき集めた。すると、あるフリーメールのアドレス宛に「夜に働ける人間を募集中。交通費支給。報酬は応相談」という文面が使われているのを複数見つけたのだ。これはまさに怪しいニオイしかしない。長沼がテスト的に「詳しく知りたい」と送ってみると、案の定「場所は○○の森の奥。最低限の体力と秘密を守れることが条件。詳細は直接会って説明する」という返信があった。
これはほぼ間違いなく、あのプレハブへ続くルートだろう。既に我々が目をつけているエリアと符合しているし、“秘密を守れること”というフレーズが物騒すぎる。牧野は「こんなの絶対に危ない。下手をすると殺されるかもしれない」と再度憂慮の声を上げるが、結局、慎重かつ段階的に進めるということで一致。俺たちは偽名(杉山が“藤野”を名乗る、俺は“加藤”など)を使い、相手に取材目的だと悟られないようにメールを交わした。
数度のやり取りの末、指定されたのは「翌週の深夜0時に、樹海沿いの旧道にある待合所に来い」というもの。そこには黒いバンが迎えに来るらしい。さらに「複数人でも構わないが、各自責任を取れるなら来い」とも書かれている。どう考えてもマトモなバイト募集ではない。そうわかりきっていても、俺たちは行くしかない――この機を逃せば、いつ再びチャンスが巡ってくるかわからないからだ。
出発までの数日間、俺たちは撮影機材を再チェックし、防水カバーや予備バッテリーを増やすなど準備を入念に行った。さらに、万一の連絡手段として短距離無線機を用意し、スマホの位置共有アプリも使えるようにした。牧野は首から緊急ブザーを下げ、杉山はボディカメラ型の小型録画機をシャツの内側に仕込む。あくまで“バイト希望者”を装うため、大荷物は怪しまれるが、必要最低限の装備は外せない。
そして、決戦の夜。車で樹海近くの旧道に向かい、外灯もほとんどない寂れた待合所にたどり着いたのは23時半過ぎだった。車を少し離れた場所に停め、俺と杉山は“面接”に直接行く担当。牧野と長沼は陰から様子を見守り、必要があれば助けを呼べるようにスタンバイする。そんな作戦である。
寒々とした夜気の中、待合所のベンチに座っていると、遠くからヘッドライトの光が見えた。黒っぽいバンがゆっくり近づいてくる。運転席から顔を出したのは、あのリーダー格の中年男だった――名前はまだ知らない。彼は鋭い目つきでこちらを見下ろし、「お前らがメールした奴らか?」と低い声を放つ。俺たちは「ああ、そうだ。バイトの面接に来た」とわざと素っ気なく答えると、男は無愛想に「ああ、乗れ」とだけ言う。
車内には他に2人、作業服姿の男がいた。どちらも無口で、時折こちらをチラリと見るだけ。俺は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。この連中が本気で危険行為に手を染めているなら、今ここで殺されてもおかしくない。杉山は鷹揚な笑みを作りつつ、「どんな仕事なんすか?」と話しかけたが、リーダー格は「着いてから説明する」とだけ言い、あとは沈黙のままだった。
バンは真っ暗な林道を進んでいく。夜間にも関わらず、ライトを消しかける場面もあり、何かしら隠したい意図があるのだろう。やがてたどり着いた先は、俺たちが第一章で撮影した“あのプレハブ小屋”が立ち並ぶエリアだった。そこには既に何人かの若者が集まっており、同様に闇バイトの“登録”に来ているらしい。俺と杉山は他の参加希望者たちの顔を伺うが、皆一様に不安げな面持ちだ。
集団は簡単な説明を受けるため、プレハブの一つへ入る。中は工具や脚立、ライトなどが乱雑に放置されており、ほのかに油臭い。そこへリーダー格の男が足を組んで腰掛け、「まず言っとくが、ここでの作業は完全なる自己責任だ」と語り始めた。
「うちは夜間、森の奥で少し特殊な作業をしている。体力があって、危険を恐れず、口外しないって奴なら日当を弾む。だが、一度契約したら裏切りは許さん。わかったな? 警察やマスコミにチクったら、どうなるかわかるだろう」
その言葉に、周囲の若者たちはざわめく。明らかに普通のアルバイトとは違う。俺は「どんな作業か具体的に教えてほしい」とあえて聞いてみると、男は「黙って森について来い。見りゃわかる」と一蹴。何とも不親切だが、これは相手が完全に主導権を握っている証拠だ。少しでも逆らえば、ここから先に進めないだろう。俺と杉山は他の連中と同じように「わかりました」と頭を下げるしかない。
そこへ別の作業員が現れて、「新入り分の装備を持ってきました」と軍手や作業用ベストを配り始める。ヘッドライトも渡されたが、ほとんどくたびれていて頼りなさそうだ。かと思えば、大きなリュックを背負い込んだ外国人風の男が通りかかり、リーダーに耳打ちして何か報告している。外国語でのやり取りらしく、内容はわからないが、どうやら今夜は“収穫”が多いらしい。
リーダーは俺たちを見回しながら、ゴツい声で念を押すように言う。「お前ら、仕事が終わるまでは勝手に帰るな。逃げても夜の森じゃ遭難するだけだ。俺らは助けない。死にたくなければ黙ってついて来い。それから――余計なもん撮ったり録音したりも禁止だ。ルールを破れば、どうなるか……」
そう言って、リーダーは腰に差したナイフの柄をポンと叩く。あからさまな脅迫だが、こちらが文句を言う権利などない。俺は脅えながらも、「わかりました」と繰り返すしかない。杉山の胸には小型カメラが隠してあるが、それがバレたら即アウトだろう。下手をすれば消されるかもしれない。だが、ここまで来たら引き返せない。
やがて夜11時を過ぎ、闇バイト参加者たちは2グループに分けられた。俺と杉山はリーダー格の男が率いるチームに入り、作業服の数人とともに森の奥へ歩いていく。もう一つのチームは別の指揮役に連れられて、別のルートへ向かうようだった。プレハブ周辺のライトが背後に遠ざかるにつれ、樹海の闇がじわじわと押し寄せてくる。足元には苔や木の根が張り巡らされ、道はほぼ踏み慣らされていない。ここで躓いたりしたら一巻の終わりだ。
歩き始めて10分ほどした頃、作業服の一人が立ち止まり、林の奥にある石碑のようなものをじっと見つめていた。そこには古びた岩が積み上げられ、その表面に何やら文字とも記号ともつかない刻印が見える。リーダーが「さっさと行くぞ」と促すと、作業服は一瞬苦虫を噛みつぶしたような顔をして足早に追いついてくる。見れば、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。何か胸騒ぎを覚えるのだろうか。
さらに進むと、ぽつんとした空き地のような場所へ出た。そこで指示された作業は「キノコの採取」だった。なるほど、村上が言っていたことと合致する。見れば、赤黒い傘を持つ巨大なキノコが何本も生えている。俺と杉山も軍手をはめて、言われるがままにキノコを刈り取り、袋に詰めていく。匂いは強烈で、鼻を近づけるとむせ返りそうだ。これを何に使うのかはさっぱりわからないが、恐らくは先ほどの外国人が言っていたように“研究所”なりどこかへ運ばれるのだろう。
採取を続けるうち、突如遠くのほうで奇妙な chanting(呪文を唱えるような声)が聞こえた。耳を澄ますと、男女の声が入り混じっているように思えるが、言葉の内容はまるで外国語、あるいは古語のようで理解できない。杉山と目を合わせるが、リーダーは「気にするな」と言わんばかりに睨んでくる。やがて chanting は次第に大きくなり、一定のリズムで森に響き渡る。俺はぞわぞわとした不安を覚えながら、袋いっぱいのキノコを抱え込む。
30分ほど経過した頃、リーダーが「休憩」と合図を出し、俺たちはその場に腰を下ろした。周囲に散っていた他の作業員たちも戻ってくるが、人数を数えてみると、さっきよりひとり足りない。どうしたのかと訝しむと、リーダーはまるで関心がなさそうに「あいつか? 逃げたんだろ」と言う。いや、先ほどまでここで作業していた若者の姿が見当たらないのだが、本当に逃げたのかどうかも疑わしい。こんな深い夜の森で、どこへ行くというのか……。
そんな不穏な空気が漂う中、森の奥から急にライトの点滅が見えた。合図のようにも見えるが、何らかのトラブルかもしれない。するとリーダーが舌打ちして、「お前らはここで待機しろ」と作業服の2人を連れ、そちらへ走って行ってしまう。俺と杉山、そして他の新入りたちは取り残される形になった。誰もが落ち着かず、ひそひそ話を交わし始める。「なあ、やっぱりヤバいよな、この仕事……」「帰りたいけど、道わかんないし」「奴らと揉めたらどうなるか……」――暗闇の森に不安だけが積もっていく。
5分ほど経った頃だろうか。遠方の林の影から悲鳴のようなものが聞こえ、またしてもライトが激しく点滅する。何かが起きたのは間違いない。さすがに不安を抑えきれなくなった新入りのひとりが立ち上がり、「もうやめて帰ろう」と言い出した。正直、俺もその判断に傾きかけたが、場所がわからない。深夜の樹海を独力で抜け出すなんて無茶だ。そう葛藤していると、不意に杉山が袖を引き、「あれ……見て」と小声で言う。
指差す先には、森の闇を縫うように何かが動いているのが見えた。それは、人? 動物? 輪郭がはっきりしないが、赤黒い服をまとったようにも見える。そいつは低い姿勢でこちらをじっと観察しているかのようだが、光が当たるとスッと木々の向こうに消える。まるで亡霊だ。周囲にいた新入りたちも気づいてざわつくが、誰も声を出せない。
さらに悪いことに、先ほどの chanting がまた聞こえ始め、今度ははっきりと石碑のほうから響いてくるのがわかった。俺は石碑の場所を思い出し、そこがリーダーたちが向かった先の可能性に思い至る。もしかすると、彼らは“儀式”を行っている最中なのか? それとも仲間が襲われているのか? こんな状況でも撮影をしようとする杉山に、俺は「やめろ、バレたらマズい」とささやくが、もう杉山のカメラは回っているようだった。
結局、リーダー格が戻ってきたのはその数分後。彼は息を切らせながら、「行くぞ、ここはもう終わりだ」とだけ言う。足りない作業員のことを誰かが尋ねると、「いいから置いていけ」と冷たく一言。まるで、人一人が消えたのに何の関心もないかのようだ。これにはさすがに新入りの一人が食ってかかろうとしたが、作業服の男が無言で拳を突き出し、威嚇する。
「何があったんですか?」と俺が恐る恐る尋ねても、リーダーは「死にたくなけりゃ黙ってろ」と鋭い視線を浴びせるばかり。よほど事態が切迫しているのか、彼の雰囲気が昼間と比べても格段に殺気立っているように思えた。もはや正常な会話は通じない。ここは言う通りにしておくほかない。
そうして俺たちは、別のルートを辿ってプレハブへ戻る形になった。帰り道の途中でも、不気味な気配が付きまとっている。木々の間から視線を感じるし、湿った苔の匂いが鼻を衝いて神経を逆なでする。頭の中で、村上の言葉がリフレインする。「失踪者が出る」「儀式を見た奴は消える」……あれはただの妄想でも嘘でもなかった。こうして身をもって体験すると、その真実味が嫌でも伝わってくる。
プレハブに帰り着くと、先ほど別ルートへ行ったグループもほぼ同時に戻っていた。そちらも新入りが「実は一人いなくなったんだが……」などと言っているが、リーダーの仲間らしき男が「行方不明? 知らん。自分で逃げたんだろう」と一蹴。この現場では、人間の命や安否についての配慮が一切ないらしい。
最終的に、この夜の“作業”は打ち切られた形となり、新入りの俺たちには「後日改めて連絡する」と言われる。しかし、報酬としては1万円がその場で支払われた。約束の半額以下だという声も出たが、何を言っても「文句があるなら帰れ」と取りつく島もない。一応現金を手にした俺たちは、バンに乗せられて旧道の待合所まで戻され、そこで解散となった。
深夜2時を回っていた。待合所から先の移動は自力でどうぞ、というわけだ。もちろん、俺たちは事前に仕込んでおいた車に乗り込んで逃げるように町へ戻った。途中、合流した牧野と長沼が「大丈夫だった?」と血相を変えて聞いてくる。どうやら「悲鳴みたいな声が聞こえた」「変なライトが点滅していた」など、外部から見ても異様な状況だったらしい。万一、俺たちが戻らない場合を想定して通報しようと思ったが、下手に警察を呼んでも証拠がつかめないうえ、俺たち自身に危険が及ぶかもしれず、動けなかったという。
車中で簡単な打ち合わせをしながら、杉山が隠し撮りした映像を確認してみた。画質は暗所で荒れているが、森の暗闇を進む様子や、怪しげな chanting の音声がかすかに収録されている。また、リーダーが失踪者を「置いていけ」と言った場面の音声も拾えている。これだけでも、普通じゃない現場だと証明するには十分なインパクトがある。だが、実際に見る人がそれを信じるかどうかは、また別の問題だ。
そのまま朝方近くに町のビジネスホテルへ着き、俺たちは仮眠を取る。翌昼頃に再集合し、それぞれが体験したことを細かく共有すると、チーム内には強い動揺が広がった。「あの失踪した人は本当に戻ってこないのか?」「リーダーの背後にいるのはどんな組織?」「儀式の声は何だったのか?」――疑問は山ほどある。
ひときわ怯えているのは牧野だった。彼女は待機中も森から変な音が聞こえたと言い、さらに「誰かがずっと私を見ていた気がする」と訴える。長沼も「普通に考えたら、ここで引き返すべきだろ。命がいくつあっても足りない」と本音を漏らす。しかし、杉山は「これだけヤバい現場があるって証拠だ。ここでやめたら、そのまま闇に葬られる」と譲らない。俺も悩んだ末に、やはりこのまま放置するわけにはいかないと思った。行方不明の人たちをこのまま見捨てるのか? 自分たちはここまで潜り込んで、ようやく闇の一端に触れた。それを途中で投げ出すのは、あまりにも無責任ではないか――そんな義憤めいた思いが、恐怖を上回った。
「いずれにせよ、次の連絡を待って、もう一度潜り込むしかない。あるいは、他に内部告発者を探してみる。どっちにしてもこのままじゃ終われない」
そう締めくくると、牧野と長沼も渋々ながら了解した。もちろん、今度こそ命に関わるかもしれない。それでも、どこかに光があるなら、そこへ手を伸ばすしかない。それが取材班としての、せめてもの使命感だった。
こうして第2章の“潜入作戦”は、一応の成功を収めながらも大きな恐怖と疑問、そして目の前で起きた失踪という揺るがぬ現実を残す結果に終わった。今後、俺たちは再びあの組織とコンタクトを取り、より深い情報を得ることになるだろう。その先に何が待ち構えているかは、想像しただけで身震いがする。村上のように逃げ出したくなるのも当然だ。だが、あの儀式じみた光景や、あり得ない失踪事件に直面した以上、“何か”がこの樹海の奥底で渦巻いていることは紛れもない事実なのだ。
取材後の夕方、メンバー全員が一度実家や自宅に帰り着いて休息を取り、連絡を取り合う中で、牧野がポツリと「変な夢を見た」と言いだした。樹海の中で赤い印がこちらを囲い込み、石碑の前に自分が縛られている――そんな悪夢だという。さらに長沼も、「俺も寝てる間に森の声が聞こえた気がして目が覚めた」と吐露。どうやら単なる精神的ストレスなのか、それとも樹海が放つ“何か”に侵蝕され始めているのか……。
いずれにせよ、誰一人として無傷ではいられないだろう。俺たちはリスクを抱えながら、次なるステップへ進むしかない。既に何者かの手で樹海の“扉”はわずかに開かれている。封印を解かれた禍なのか、あるいは組織的な犯罪の闇か――その答えを掴むには、まださらに奥へと足を踏み入れざるを得ないのだ。
こうして幕を下ろす。惨劇の予兆は、既に十分すぎるほど漂っている。次の一手を誤れば、俺たち自身が“行方不明”リストに載ることになるかもしれない。それでも――恐怖の向こうにある真実を求めて、取材班の歩みは止まらない。
ただ、実際にはどれも匿名で信憑性に乏しく、具体的な証拠を示すものではなかった。とはいえ、あの樹海で噂される“裏稼業”が確かに存在するのだと、改めて感じさせるだけの力はあった。行方不明者は本当に出ているのか? あのプレハブには誰がいて、何の目的で夜な夜な植物を採取しているのか? 闇バイトに深く関わる人間の裏事情は? 解明すべき謎は尽きない。
そこで俺たちは一計を案じた。すなわち、**「闇バイトに参加したい」という“偽装”**をして、直接組織と繋がろうという作戦である。もちろん、いきなり飛び込みで参加を申し込んでバレたら終わりだ。相手が犯罪組織めいた連中だとしたら、こちらの身が危ないかもしれない。だが、あのプレハブや周辺の不法滞在者たちを下手に尾行していてもラチがあかない。要は、**自分たちが“潜入取材”をして、内部事情をできる範囲で掴む**ほかに手はないと思えた。
もっとも、このプランにはチーム内ですら賛否が分かれた。冷静な性格の牧野は「下手をすると本当に事件に巻き込まれそうだし、下策だ」と強硬に反対したし、長沼も「警察に相談してからにしたほうがいいんじゃないか」とブレーキをかけた。一方、杉山は「撮れ高を考えればアリだ」と強気だったし、俺も“裏の現場”を撮影できるチャンスを逃すわけにはいかないと考えていた。
最終的には「できるだけ安全策を講じつつ潜入を試みる」という妥協点で落ち着き、そこへ幸運にも“ある情報”が舞い込む。食堂の店主からの紹介だ。俺たちがひいきにしている地元の食堂に、以前“あのプレハブ”に出入りしていたと名乗る若者が来店したというのだ。その若者は樹海の奥で働き、何かしらヤバい現場を目撃したらしいが、詳しいことは語りたがらなかった。店主がこっそり「取材をしたい人たちがいる」と持ちかけたら、最初は断固拒否していたものの、何度か説得するうちに「話すだけならいい」と折れてくれたらしい。
こうして俺たちは、店主の都合に合わせた休日、食堂の裏手にある小さな離れの部屋を借りることになった。そこで、いわば“極秘インタビュー”を行うという段取りだ。仮名を“村上”とするその若者は、まだ二十代前半と見受けられる。短髪で痩せ気味、どことなく落ち着かない雰囲気で、貧乏ゆすりをしながらチラチラと周囲を警戒している。
村上が俺たちの顔を見るなり、「ほんとに撮影してもいいのか? 俺、見返りとか何もいらないんだが」と、ぼそぼそと呟く。食堂の店主からは「顔は写さないでやってほしい」と頼まれていたので、杉山はカメラを回しつつも、後ろ姿か手元、もしくは音声中心の撮り方にする。そう約束したところで、村上が重い口を開き始めた。
「実は俺、あそこでバイトしてたんだ。夜だけ森に入って、変なキノコとか植物を採る仕事。1回1万円なんてレベルじゃない。日当10万とか、下手したら20万とかも稼げた。しかも当日現金払い。でも、あそこで働くと……なんか、まるで憑かれたようになるんだよ。周りの奴らも、急に失踪したりとか……。俺も怖くて、ある日バックレてきた」
緊張でかすれがちな声だが、村上は言葉を選びつつ、確かな事実を語ろうとしているようだった。牧野がマイクを近づけ、「失踪って、具体的にはどのような?」と促すと、村上は俯き気味に指先をいじりながら、こう続ける。
「夜、樹海の奥で作業してるとさ、変な光が見えるんだ。すごく遠くで、不定期に点滅してて。いくら近づこうとしてもたどり着かない。でも、あれを見てた奴が、あるときふらっとその光のほうへ歩いて行って、そのまま帰ってこないんだよ。リーダーっぽい奴は『勝手に逃げたに違いない』って言ってたけど、実際に逃げるような余裕なんかない。あの森はとにかく道がわからなくなるし……。俺の同期の奴も、次の夜には来なくなってた」
そう言って村上は何度も溜息をつく。まさか自分が目撃者になるとは思わず、その後はどこか祟られたような感覚が拭えないのだ、と苦悶の表情を浮かべる。俺はそっと質問の切り口を変え、「そこでは何を採っていたんです? 具体的に『キノコ』とおっしゃいましたが、どんな用途で? 薬物関係ってこともあり得るんでしょうか?」と尋ねる。
村上は「よくは知らないけど」と前置きして、あまり大きな声を出さぬよう気をつけながら言葉を継いだ。
「俺らは、指示された“場所”にあるキノコや草を集めるだけで、中身は詳しく知らされないままだった。でも、あのキノコ、どう見たって普通じゃない。長さも手の平以上あるし、真っ赤な斑点があったりさ。で、そいつを持ち帰ると、『上の者が研究所に送る』とか何とか言ってて……。時々、やたら厳つい外国人の連中が運び出してた。俺はあんまり近づきたくなくて、何も聞かなかったんだけど、何か薬品系のニオイとか、化学の容器みたいなのも見かけたよ」
研究所――そこまで聞いて、俺たちは目を見合わせた。やはり何かしらの“組織”が背景に存在し、樹海で採取した特殊植物を使っているのかもしれない。これがもし薬物製造なのだとしたら、かなり危険な現場だ。犯罪集団が隠れてやっているとしても不思議はない。あるいはもっと別の研究――たとえば製薬企業が違法スレスレで行う未知の実験なども考えられる。どちらにせよ、失踪者が出るほどの闇であることには違いない。
さらに村上は続ける。「あと……すごく変な儀式みたいなのを見たことがあるんだ。夜中に、リーダーっぽい連中が何か石碑の前で祈ってるっていうか、声を合わせて呪文みたいなのを唱えてる感じ。俺は遠目に見ただけだから詳しくはわかんない。でも、あれを見ちゃった奴が……その後、様子がおかしくなって消えちまったんだよ。もう、本当に何もかもが怪しすぎる」
これ以上聞くのは酷かと思うほど、村上は青ざめていた。俺たちも正直、背筋が寒くなる思いだった。闇バイトで命を落とすかもしれない、あるいは何らかの“不可解な力”に呑まれて行方不明になるかもしれない――そんな現実が目の前にある。だが、だからこそ真相を掴む必要があるのだ。もしそこで危険な違法行為が行われているなら、やはりメディアを通じて明るみに出すべきだろうし、何より行方不明になった人々を救える可能性がわずかでもあるならば、俺たちは動くしかない。
インタビューの後、村上は「もう二度と行きたくないし、関わりたくないんだ……」と念を押して帰っていった。彼は最後に、「他にもそこを抜け出した人間がいるはず。俺が知ってる限り、2人くらいは……」と漏らしていた。もし新たにそうした人間に接触できれば、情報がさらに集まるかもしれない。
その日、取材班の4人は食堂で簡単に食事を済ませ、車中でミーティングをした。そこで改めて決まったのが、**“実際に闇バイトに応募してみる”**という作戦である。といっても正体を知られるのはリスキーなので、まずは捨てアカウント的なメールアドレスを用意し、掲示板に書かれていた連絡先へコンタクトを取る。あちらが面接などを指定してきたら、それに従って接触。何らかの形で“真夜中のプレハブ”へ誘われることを期待する――そんな段取りだ。
翌日から、長沼が掲示板の過去ログを探り、いくつかのスレッドに散らばる「闇バイトの応募先らしき情報」をかき集めた。すると、あるフリーメールのアドレス宛に「夜に働ける人間を募集中。交通費支給。報酬は応相談」という文面が使われているのを複数見つけたのだ。これはまさに怪しいニオイしかしない。長沼がテスト的に「詳しく知りたい」と送ってみると、案の定「場所は○○の森の奥。最低限の体力と秘密を守れることが条件。詳細は直接会って説明する」という返信があった。
これはほぼ間違いなく、あのプレハブへ続くルートだろう。既に我々が目をつけているエリアと符合しているし、“秘密を守れること”というフレーズが物騒すぎる。牧野は「こんなの絶対に危ない。下手をすると殺されるかもしれない」と再度憂慮の声を上げるが、結局、慎重かつ段階的に進めるということで一致。俺たちは偽名(杉山が“藤野”を名乗る、俺は“加藤”など)を使い、相手に取材目的だと悟られないようにメールを交わした。
数度のやり取りの末、指定されたのは「翌週の深夜0時に、樹海沿いの旧道にある待合所に来い」というもの。そこには黒いバンが迎えに来るらしい。さらに「複数人でも構わないが、各自責任を取れるなら来い」とも書かれている。どう考えてもマトモなバイト募集ではない。そうわかりきっていても、俺たちは行くしかない――この機を逃せば、いつ再びチャンスが巡ってくるかわからないからだ。
出発までの数日間、俺たちは撮影機材を再チェックし、防水カバーや予備バッテリーを増やすなど準備を入念に行った。さらに、万一の連絡手段として短距離無線機を用意し、スマホの位置共有アプリも使えるようにした。牧野は首から緊急ブザーを下げ、杉山はボディカメラ型の小型録画機をシャツの内側に仕込む。あくまで“バイト希望者”を装うため、大荷物は怪しまれるが、必要最低限の装備は外せない。
そして、決戦の夜。車で樹海近くの旧道に向かい、外灯もほとんどない寂れた待合所にたどり着いたのは23時半過ぎだった。車を少し離れた場所に停め、俺と杉山は“面接”に直接行く担当。牧野と長沼は陰から様子を見守り、必要があれば助けを呼べるようにスタンバイする。そんな作戦である。
寒々とした夜気の中、待合所のベンチに座っていると、遠くからヘッドライトの光が見えた。黒っぽいバンがゆっくり近づいてくる。運転席から顔を出したのは、あのリーダー格の中年男だった――名前はまだ知らない。彼は鋭い目つきでこちらを見下ろし、「お前らがメールした奴らか?」と低い声を放つ。俺たちは「ああ、そうだ。バイトの面接に来た」とわざと素っ気なく答えると、男は無愛想に「ああ、乗れ」とだけ言う。
車内には他に2人、作業服姿の男がいた。どちらも無口で、時折こちらをチラリと見るだけ。俺は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。この連中が本気で危険行為に手を染めているなら、今ここで殺されてもおかしくない。杉山は鷹揚な笑みを作りつつ、「どんな仕事なんすか?」と話しかけたが、リーダー格は「着いてから説明する」とだけ言い、あとは沈黙のままだった。
バンは真っ暗な林道を進んでいく。夜間にも関わらず、ライトを消しかける場面もあり、何かしら隠したい意図があるのだろう。やがてたどり着いた先は、俺たちが第一章で撮影した“あのプレハブ小屋”が立ち並ぶエリアだった。そこには既に何人かの若者が集まっており、同様に闇バイトの“登録”に来ているらしい。俺と杉山は他の参加希望者たちの顔を伺うが、皆一様に不安げな面持ちだ。
集団は簡単な説明を受けるため、プレハブの一つへ入る。中は工具や脚立、ライトなどが乱雑に放置されており、ほのかに油臭い。そこへリーダー格の男が足を組んで腰掛け、「まず言っとくが、ここでの作業は完全なる自己責任だ」と語り始めた。
「うちは夜間、森の奥で少し特殊な作業をしている。体力があって、危険を恐れず、口外しないって奴なら日当を弾む。だが、一度契約したら裏切りは許さん。わかったな? 警察やマスコミにチクったら、どうなるかわかるだろう」
その言葉に、周囲の若者たちはざわめく。明らかに普通のアルバイトとは違う。俺は「どんな作業か具体的に教えてほしい」とあえて聞いてみると、男は「黙って森について来い。見りゃわかる」と一蹴。何とも不親切だが、これは相手が完全に主導権を握っている証拠だ。少しでも逆らえば、ここから先に進めないだろう。俺と杉山は他の連中と同じように「わかりました」と頭を下げるしかない。
そこへ別の作業員が現れて、「新入り分の装備を持ってきました」と軍手や作業用ベストを配り始める。ヘッドライトも渡されたが、ほとんどくたびれていて頼りなさそうだ。かと思えば、大きなリュックを背負い込んだ外国人風の男が通りかかり、リーダーに耳打ちして何か報告している。外国語でのやり取りらしく、内容はわからないが、どうやら今夜は“収穫”が多いらしい。
リーダーは俺たちを見回しながら、ゴツい声で念を押すように言う。「お前ら、仕事が終わるまでは勝手に帰るな。逃げても夜の森じゃ遭難するだけだ。俺らは助けない。死にたくなければ黙ってついて来い。それから――余計なもん撮ったり録音したりも禁止だ。ルールを破れば、どうなるか……」
そう言って、リーダーは腰に差したナイフの柄をポンと叩く。あからさまな脅迫だが、こちらが文句を言う権利などない。俺は脅えながらも、「わかりました」と繰り返すしかない。杉山の胸には小型カメラが隠してあるが、それがバレたら即アウトだろう。下手をすれば消されるかもしれない。だが、ここまで来たら引き返せない。
やがて夜11時を過ぎ、闇バイト参加者たちは2グループに分けられた。俺と杉山はリーダー格の男が率いるチームに入り、作業服の数人とともに森の奥へ歩いていく。もう一つのチームは別の指揮役に連れられて、別のルートへ向かうようだった。プレハブ周辺のライトが背後に遠ざかるにつれ、樹海の闇がじわじわと押し寄せてくる。足元には苔や木の根が張り巡らされ、道はほぼ踏み慣らされていない。ここで躓いたりしたら一巻の終わりだ。
歩き始めて10分ほどした頃、作業服の一人が立ち止まり、林の奥にある石碑のようなものをじっと見つめていた。そこには古びた岩が積み上げられ、その表面に何やら文字とも記号ともつかない刻印が見える。リーダーが「さっさと行くぞ」と促すと、作業服は一瞬苦虫を噛みつぶしたような顔をして足早に追いついてくる。見れば、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。何か胸騒ぎを覚えるのだろうか。
さらに進むと、ぽつんとした空き地のような場所へ出た。そこで指示された作業は「キノコの採取」だった。なるほど、村上が言っていたことと合致する。見れば、赤黒い傘を持つ巨大なキノコが何本も生えている。俺と杉山も軍手をはめて、言われるがままにキノコを刈り取り、袋に詰めていく。匂いは強烈で、鼻を近づけるとむせ返りそうだ。これを何に使うのかはさっぱりわからないが、恐らくは先ほどの外国人が言っていたように“研究所”なりどこかへ運ばれるのだろう。
採取を続けるうち、突如遠くのほうで奇妙な chanting(呪文を唱えるような声)が聞こえた。耳を澄ますと、男女の声が入り混じっているように思えるが、言葉の内容はまるで外国語、あるいは古語のようで理解できない。杉山と目を合わせるが、リーダーは「気にするな」と言わんばかりに睨んでくる。やがて chanting は次第に大きくなり、一定のリズムで森に響き渡る。俺はぞわぞわとした不安を覚えながら、袋いっぱいのキノコを抱え込む。
30分ほど経過した頃、リーダーが「休憩」と合図を出し、俺たちはその場に腰を下ろした。周囲に散っていた他の作業員たちも戻ってくるが、人数を数えてみると、さっきよりひとり足りない。どうしたのかと訝しむと、リーダーはまるで関心がなさそうに「あいつか? 逃げたんだろ」と言う。いや、先ほどまでここで作業していた若者の姿が見当たらないのだが、本当に逃げたのかどうかも疑わしい。こんな深い夜の森で、どこへ行くというのか……。
そんな不穏な空気が漂う中、森の奥から急にライトの点滅が見えた。合図のようにも見えるが、何らかのトラブルかもしれない。するとリーダーが舌打ちして、「お前らはここで待機しろ」と作業服の2人を連れ、そちらへ走って行ってしまう。俺と杉山、そして他の新入りたちは取り残される形になった。誰もが落ち着かず、ひそひそ話を交わし始める。「なあ、やっぱりヤバいよな、この仕事……」「帰りたいけど、道わかんないし」「奴らと揉めたらどうなるか……」――暗闇の森に不安だけが積もっていく。
5分ほど経った頃だろうか。遠方の林の影から悲鳴のようなものが聞こえ、またしてもライトが激しく点滅する。何かが起きたのは間違いない。さすがに不安を抑えきれなくなった新入りのひとりが立ち上がり、「もうやめて帰ろう」と言い出した。正直、俺もその判断に傾きかけたが、場所がわからない。深夜の樹海を独力で抜け出すなんて無茶だ。そう葛藤していると、不意に杉山が袖を引き、「あれ……見て」と小声で言う。
指差す先には、森の闇を縫うように何かが動いているのが見えた。それは、人? 動物? 輪郭がはっきりしないが、赤黒い服をまとったようにも見える。そいつは低い姿勢でこちらをじっと観察しているかのようだが、光が当たるとスッと木々の向こうに消える。まるで亡霊だ。周囲にいた新入りたちも気づいてざわつくが、誰も声を出せない。
さらに悪いことに、先ほどの chanting がまた聞こえ始め、今度ははっきりと石碑のほうから響いてくるのがわかった。俺は石碑の場所を思い出し、そこがリーダーたちが向かった先の可能性に思い至る。もしかすると、彼らは“儀式”を行っている最中なのか? それとも仲間が襲われているのか? こんな状況でも撮影をしようとする杉山に、俺は「やめろ、バレたらマズい」とささやくが、もう杉山のカメラは回っているようだった。
結局、リーダー格が戻ってきたのはその数分後。彼は息を切らせながら、「行くぞ、ここはもう終わりだ」とだけ言う。足りない作業員のことを誰かが尋ねると、「いいから置いていけ」と冷たく一言。まるで、人一人が消えたのに何の関心もないかのようだ。これにはさすがに新入りの一人が食ってかかろうとしたが、作業服の男が無言で拳を突き出し、威嚇する。
「何があったんですか?」と俺が恐る恐る尋ねても、リーダーは「死にたくなけりゃ黙ってろ」と鋭い視線を浴びせるばかり。よほど事態が切迫しているのか、彼の雰囲気が昼間と比べても格段に殺気立っているように思えた。もはや正常な会話は通じない。ここは言う通りにしておくほかない。
そうして俺たちは、別のルートを辿ってプレハブへ戻る形になった。帰り道の途中でも、不気味な気配が付きまとっている。木々の間から視線を感じるし、湿った苔の匂いが鼻を衝いて神経を逆なでする。頭の中で、村上の言葉がリフレインする。「失踪者が出る」「儀式を見た奴は消える」……あれはただの妄想でも嘘でもなかった。こうして身をもって体験すると、その真実味が嫌でも伝わってくる。
プレハブに帰り着くと、先ほど別ルートへ行ったグループもほぼ同時に戻っていた。そちらも新入りが「実は一人いなくなったんだが……」などと言っているが、リーダーの仲間らしき男が「行方不明? 知らん。自分で逃げたんだろう」と一蹴。この現場では、人間の命や安否についての配慮が一切ないらしい。
最終的に、この夜の“作業”は打ち切られた形となり、新入りの俺たちには「後日改めて連絡する」と言われる。しかし、報酬としては1万円がその場で支払われた。約束の半額以下だという声も出たが、何を言っても「文句があるなら帰れ」と取りつく島もない。一応現金を手にした俺たちは、バンに乗せられて旧道の待合所まで戻され、そこで解散となった。
深夜2時を回っていた。待合所から先の移動は自力でどうぞ、というわけだ。もちろん、俺たちは事前に仕込んでおいた車に乗り込んで逃げるように町へ戻った。途中、合流した牧野と長沼が「大丈夫だった?」と血相を変えて聞いてくる。どうやら「悲鳴みたいな声が聞こえた」「変なライトが点滅していた」など、外部から見ても異様な状況だったらしい。万一、俺たちが戻らない場合を想定して通報しようと思ったが、下手に警察を呼んでも証拠がつかめないうえ、俺たち自身に危険が及ぶかもしれず、動けなかったという。
車中で簡単な打ち合わせをしながら、杉山が隠し撮りした映像を確認してみた。画質は暗所で荒れているが、森の暗闇を進む様子や、怪しげな chanting の音声がかすかに収録されている。また、リーダーが失踪者を「置いていけ」と言った場面の音声も拾えている。これだけでも、普通じゃない現場だと証明するには十分なインパクトがある。だが、実際に見る人がそれを信じるかどうかは、また別の問題だ。
そのまま朝方近くに町のビジネスホテルへ着き、俺たちは仮眠を取る。翌昼頃に再集合し、それぞれが体験したことを細かく共有すると、チーム内には強い動揺が広がった。「あの失踪した人は本当に戻ってこないのか?」「リーダーの背後にいるのはどんな組織?」「儀式の声は何だったのか?」――疑問は山ほどある。
ひときわ怯えているのは牧野だった。彼女は待機中も森から変な音が聞こえたと言い、さらに「誰かがずっと私を見ていた気がする」と訴える。長沼も「普通に考えたら、ここで引き返すべきだろ。命がいくつあっても足りない」と本音を漏らす。しかし、杉山は「これだけヤバい現場があるって証拠だ。ここでやめたら、そのまま闇に葬られる」と譲らない。俺も悩んだ末に、やはりこのまま放置するわけにはいかないと思った。行方不明の人たちをこのまま見捨てるのか? 自分たちはここまで潜り込んで、ようやく闇の一端に触れた。それを途中で投げ出すのは、あまりにも無責任ではないか――そんな義憤めいた思いが、恐怖を上回った。
「いずれにせよ、次の連絡を待って、もう一度潜り込むしかない。あるいは、他に内部告発者を探してみる。どっちにしてもこのままじゃ終われない」
そう締めくくると、牧野と長沼も渋々ながら了解した。もちろん、今度こそ命に関わるかもしれない。それでも、どこかに光があるなら、そこへ手を伸ばすしかない。それが取材班としての、せめてもの使命感だった。
こうして第2章の“潜入作戦”は、一応の成功を収めながらも大きな恐怖と疑問、そして目の前で起きた失踪という揺るがぬ現実を残す結果に終わった。今後、俺たちは再びあの組織とコンタクトを取り、より深い情報を得ることになるだろう。その先に何が待ち構えているかは、想像しただけで身震いがする。村上のように逃げ出したくなるのも当然だ。だが、あの儀式じみた光景や、あり得ない失踪事件に直面した以上、“何か”がこの樹海の奥底で渦巻いていることは紛れもない事実なのだ。
取材後の夕方、メンバー全員が一度実家や自宅に帰り着いて休息を取り、連絡を取り合う中で、牧野がポツリと「変な夢を見た」と言いだした。樹海の中で赤い印がこちらを囲い込み、石碑の前に自分が縛られている――そんな悪夢だという。さらに長沼も、「俺も寝てる間に森の声が聞こえた気がして目が覚めた」と吐露。どうやら単なる精神的ストレスなのか、それとも樹海が放つ“何か”に侵蝕され始めているのか……。
いずれにせよ、誰一人として無傷ではいられないだろう。俺たちはリスクを抱えながら、次なるステップへ進むしかない。既に何者かの手で樹海の“扉”はわずかに開かれている。封印を解かれた禍なのか、あるいは組織的な犯罪の闇か――その答えを掴むには、まださらに奥へと足を踏み入れざるを得ないのだ。
こうして幕を下ろす。惨劇の予兆は、既に十分すぎるほど漂っている。次の一手を誤れば、俺たち自身が“行方不明”リストに載ることになるかもしれない。それでも――恐怖の向こうにある真実を求めて、取材班の歩みは止まらない。
