裏教育委員会

 この世界にはまだ知られていないものが数多くある。
まだ人間が関知していない前人未到の地がある。
まだ観測できていない世界の果てがある。
まだ見たこともない暗黒の空間がある。
 人は自分が培った常識でしか物事をはかれない。そのものさしから外れたものは認知できない。それが人間の性であり、人間を人間たらしめる要因である。
 だからこそ男は混乱した。
 教師生活二十五年。酒の席でいっぱしの教育論を語れるくらいには教師という職務を全うしてきたと自負していた。しかし、そんな男が狼狽するほどには目の前にいる存在の常軌は逸していた。
信じられなかった。未だこの教育という世界に自分が関知しえないものが存在しているという事に。
そして男の焦燥を落ち着かせるかのように目の前の女は言った。
「大丈夫です。安心してください。言いたいことは分かります。しかし私はその問いには答えません。なぜならその問いに答えたところであなたはその事象を知るだけで理解はできないのですから」
「じゃあいったいどういう理由で……」小皺が刻まれた顔に脂汗をにじませながら男は言った。
 そしてそれとは対照的に達観したように女は言った。
「あなたの生徒を粛清するためですよ」
 豪奢に彩られた校長室に深く重い静寂が落とされた。


 問題児なるものはいつの時代でもどこででも冷たい目を向けられることは必至である。そして親というものはどうやっても自分の子供をそれにさせないようにと教育を施す。だが大数の法則なのか自然の摂理なのかどこの地域でもそういった存在は現れてしまう。
 例えばこの学区で言うケンジのように。
 国家公務員である検事のように善悪の分別を正しく判断して欲しいという母親の思いをくみ取ることなく、ケンジは立派な問題児となっていた。しかしそれは誰かを殴ったり、他人のものを自分のものだと言い張るガキ大将のようなものではなかった。
 ただ一つ、嘘をつき他人に迷惑をかける。それだけだった。言葉だけを見れば可愛いものだったかもしれない。しかしそれは次第にエスカレートしていった。
 最初は友達の顔に水性ペンだと偽った油性ペンで落書きをしたり、お互いにカンニングし合って良い点を取ろうといったテストで相手に嘘の答えを見せたりと、まだ小学生の枠を逸脱しないレベルではあった。
 だが最近では嘘という操縦桿を使って気弱な生徒を他校のガキ大将に特攻させたり、ガキ大将同士を喧嘩させスクールカーストそのものに抜本的改革を及ぼしたりと、小学生の児戯とは言えないレベルにまで昇華してきていた。
 そしてそれはとうとう取り返しのつかない事件を起こしてしまった。
 屋上から人が落ちた。


生徒をターゲットにすることに飽きを見せていたケンジが次に目を付けたのは生徒たちにとって絶対的な存在であるはずの先生だった。
「はぁ? ちょっと待てよ。前もそんなこと言ってたが、お前本気で言ってんのか?」ケンジの言葉を聞いて驚いたのは友達のタカシだった。
「当たり前だ。俺は嘘はつかない」
「いやその言葉がもう嘘だろうけど……。てかそんなことして何になんだよ?」
「お前だって心の底では思ってるんだろ? 我が物顔で俺らの前にふんぞり返ってる先公たちに一泡吹かせたいってよ?」ケンジは視線を移動させ、「なぁ、お前もそう思うだろ? ヒロ」
 その視線の先にはヒロが立っていた。前髪が長く、いつも表情が読めないヒロはこういった会合ではオブサーバーに徹するが、今回ばかりは違った。
「先生ねー。まあ、いろいろうるさいしな、あいつら。でもどいつをやるんだ?」
「あいつだ、この前から教育実習に来てる女。名前は確かだっけ? あいつこの前俺に説教垂れやがってよ。マジでイラつくわ」
「そんなことでかよ」タカシは戸惑い気味に言った。
「そんなことってなんだよ。俺はマジなんだよ。一回、痛い目見せないと分かんねぇんだよ、ああいう若造は」
「いやお前の方が若造だろ」
「ま、理由はどうあれ僕は賛成かな」ヒロが他人事のようなトーンで言う。「先生がターゲットは初だからちょっと興味あるかも」
「よし、これで二票入ったな。タカシは強制的に参加だかんな」
「マジかよ……」
昔から三人は仲が良かった。低学年の頃は互いの家を行き来してゲームをしたり、公園で鬼ごっこをしたりと子供らしい遊びに精を出していた。しかし六年生になった今ではこのようにひと気のない放課後の教室で、不穏当な会合をすることが日課となっていた。
そして今回、いたずらのターゲットとして引き合いに出されたのはまさかの先生。それも教育実習生の若い女教師だった。確かに前々から先生を嵌めたいとのたまっていたが、タカシはこの発言に驚いていた。いや恐怖していたと言う方が正しいかもしれない。
果たしてそこに手を出してよいものか。パンドラの箱ではないのだろうか。
タカシはあらゆるマイナスなイメージを想起していた。
だが、彼のそんな思いも意に介さずにヒロとケンジの二人はまるで昨日見たテレビの内容を話すかのように嬉々としてその下剋上計画を練っていった。


そして、次の日。生徒たちが家路につき、人がいなくなった放課後にそれは決行された。
「いやー、しかしヒロがこんな乗り気になるとは思わなかったよ」
 がらんどうの廊下にケンジの声は響き渡った。
「別に乗り気というか、僕らはいつもケンジのやることにはついてきてたからね。それにターゲットが先生となると参加せずにはいられないよ」
「なるほどな。タカシもそんな感じだよな?」隣で同じく歩いていたタカシに弁を向ける。
「……いや、俺は別に……」
「なんだよ、テンション低いなー」
「なぁ、ケンジ。……やっぱりやめないか?」
 大型犬ににらまれた子犬のように弱弱しくタカシは言った。
「はぁ?」それとは相反してケンジは場をわきまえず騒ぐセントバーナードのように大きな声を発した。「ここまで来といて、なに言ってんだよ。まさか怖くなったとか言うんじゃないだろうな」
「いや、でもやっぱりさ……」
「俺らはいつでも一緒にやってきたじゃないか。テストの時も互いにカンニングし合って、足りないところはお互いに助け合ってきたじゃないか。俺らは三位一体。ひとりでも欠けたらアウトなんだよ」
「確かにそうかもしれないが、俺らが今やろうとしてることは……」
「タカシ!」そこに割り込んできたのは意外にもヒロだった。「ここまで来たらもう引き返せないんだよ。僕らは運命共同体。ここで抜けるのは僕らに対する裏切り行為だ。それが分かってる?」
 いつも前髪で隠れているヒロの目が髪の隙間から覗かれた。それはまるで獲物を逃がさんとする肉食獣のようにも見え、タカシは委縮する。
「あ、ああ、分かってるよ。少し魔がさしただけだ。大丈夫だ。ごめん」
「わかればいい」ヒロは納得したのか視線を前方に戻した。
「おいおいどうしたよ、ヒロ。いつになく凄んでるじゃないか」
 嬉しそうにケンジは言った。
「別にそんなことはないよ。……じゃあそろそろ僕は行くね」
 そう言うとヒロは屋上へと続く階段を上がっていった。それを見送った後、二人は六年三組の教室へと歩を進めた。
「ほんとに鈴村は来てるのか?」並走しながらタカシはケンジに訊いた。
「ああ、来てるはずだ。昼休みに『放課後、相談したいことがあるから一人で教室に来て』って伝えたからな。見たところ鈴村の生徒への愛情はひとしおだ。そんな可愛い生徒に頼りにされて約束を無下にするなんてあるわけがない」
「……可愛い生徒ねー」
 タカシは長年連れ添って来たケンジの風貌を下から上まで矯めつ眇めつみたが可愛いという要素を一縷も見つけることができなかった。
「さぁ、そろそろだ」
 前方には毎日世話になっている六年三組の教室が見えてきた。
 それを確認してケンジはタカシの耳元に顔をよせる。
「いいか、できるだけ焦った感じで教室に入るんだ」
「分かってるよ」
「じゃあ、行くぞ」
 それを合図に二人は廊下を走り出し、その勢いに任せて六年三組の教室のドアを開け放った。


「先生! 大変なんです!」
 案の定、その教室のなかには鈴村里香実習生がひとりで佇んでいた。
吸い込まれそうなほどに大きな双眸で鈴村は二人を見やった。もし二人が健全な成人男性だったならその輝きに一瞬呆けてしまうところだったが、あいにく二人はまだ毛の生え揃わないあまちゃんなのでそんなことに心奪われたりしない。
「どうしたの? そんなに慌てて」
 二人に触発されたのか鈴村も半ば戸惑うようにそう訊いた。
「……はぁ、はぁ、ヒロが!」演技だとばれてしまうのではないかと懸念するほどの大根ぶりでケンジは言った。「ヒロが屋上から飛び降りようとしてるんです!」
「え! なんで、ヒロ君が」鈴村は驚きのあまり口を手で覆った。
「とりあえず屋上に来てください! 早く!」
ケンジは鈴村の手を取り、屋上へと引っ張っていった。
その時、タカシには鈴村が少しだけ笑っているように、そう見えた。


屋上の扉を開け放つと冷たい風が頬を撫でた。風はそこまで強くは吹いていない。それは山に囲まれているこの学校の立地のおかげだ。だからこそケンジとヒロはこの場所を選んだ。
「ヒロ君はどこ?」
「あそこです!」
 ケンジが指差した方向にはマントを羽織った人影が立っていた。そこは落下防止のために備え付けられた柵の向こう側、あと一歩足を前に出したら落ちてしまうそんな危なげな場所だった。
「ヒロ君!」その背中に鈴村は叫んだがそれは何の反応も示さない。「なんでそんなとこにいるの!?」
 ヒロの代わりにケンジが答える。
「あいつ、マントつけたら空を飛べるとか言いやがって……」
「なんでそんなことを……」鈴村は柵まで歩みを進める。「ヒロ君、危ないからこっちにきなさい!」
 だが反応はない。それにしびれを切らしたのか鈴村はとうとうその柵を乗り越えた。しかし、それだけではまだその人影に触ることすらできない。仕方なく、鈴村はその柵からも手を離して、命綱なしで屋上のふちへと歩いていく。
「ヒロ君、ダメだって飛べるわけないんだから。ねぇ、ヒロ君ってば!」
 焦燥に駆られる鈴村の顔を見てケンジは必死に笑いをこらえていた。その隣でタカシも何とか笑おうとした。だが片方の口角が上がるだけのひきつった笑いしか作れなかった。
 そうこうしている間に鈴村は人影のマントを掴んでいた。
「タカシ」ケンジがまた耳元に顔を寄せてくる。「見れるぞ。驚きに顔をゆがめたあいつの顔をよ」
 鈴村はマントをはぎ取りその人影の顔をあらわにした。しかし露わにされたのはいつも前髪で隠れているヒロの顔ではなかった。
「え……」
 
 そこにあったのは、いつもは理科室に置かれているであろう人体模型だった。

 不気味で無情な顔がよりいっそうの畏怖の念を鈴村に抱かせた。
 まるでグラデ―ションのように彼女の表情は焦りから恐怖の色へと変わっていった。
 それがケンジの感情のタガを外させた。
「ははははははははは!」
 学区内全体に響き渡るような大音声でケンジは高らかに笑った。自分の策に騙された鈴村をバカにするかのように。
「騙されてやんのー。バカだ、バカだ」
 ケンジは鈴村を指さし腹を抱えて笑った。それを鈴村は何とも形容しがたい複雑な顔で見やっていた。
 その時のタカシの感情としては強いて言うなら鈴村の方に近かったかもしれない。タカシはこの時確信した。自分たちがやっていることはいけないことのなのだと。ケンジのように笑うことができない自分を知覚して、タカシはようやくそのことに気付いた。
 しかしそれはもう手遅れだった。
 突然のことだった。強風が吹いたわけじゃない。地震が起こったわけじゃない。だがそれは起こってしまった。
 
高いヒールが災いしたのか、鈴村は何を間違ったか足を踏み外してしまった。

「「え、」」
 そんな間抜けな声を発したのは二人の方だった。
 予想していなかったわけじゃない。だがあるわけがないと高を括っていた事象がいま目の前で起こってしまった。
 右足は空中へと投げ出され、自立していた人間は何もない空間へと投げ出される。右手に持っていたマントが大きく翻るがそれがパラシュート代わりになるわけもない。
 藁にもすがる思いで鈴村は左手を伸ばした。しかし掴んだのは固定もされていない近くにあった人体模型だけ。

 鈴村はその模型を道連れにして落ちていった。

 その時に二人は見た。鈴村が視界から消える瞬間に浮かべた、恐怖にゆがむ人間の顔を。
 そのせいで二人はその場から凍り付いたように動けなかった。
 爾来、何かが地面に激突した鈍い音が鳴り響き、それで二人は我に返った。
「え、……ちょ……」
 言語能力に異常をきたすほどにケンジは混乱していた。とりあえず二人は柵の方へと歩み寄り、身を乗り出すようにして下を覗いた。

そこには粉々に四散した模型と、頭から真っ赤な鮮血を垂れ流した人体が横たわっていた。

あまりに生々しいその物体が視界に入った瞬間に二人はやっと事態を飲み込むことができた。
取り返しのつかないことをしてしまったという事を自覚した。
「あ……あ……」
 動悸が激しくなり、まともに呼吸をすることも困難なタカシとは相反してケンジはすぐさま行動へと移した。
「逃げるぞ!」
「え?」
「いいから逃げるって言ってんだよ」
「でも救急車とか電話しないと……」
「バカ。そんなことしたら俺らがやったってばれるだろうが!」
「でも……」
「とりあえずここから離れるぞ」そう言うとケンジは扉の裏に隠れていたヒロを連れて、屋上から降りていった。
「そんな……」タカシはバツが悪そうに後ろを振り向きながらもケンジたちの跡を追った。「ま、待ってよ……」
 三人は走った。自らの犯した罪から逃げるかのように。
 だが罪とは犯した時点で一生ついてまわるもの、償うことも贖うこともできはしない。そんなものはただの自己満足。罪の意識からは決して逃れることができない。なぜならその罪は自分の心の中に根を張るものだから。


 まったく振り返ることなく、タカシとヒロとの別れもおざなりに、ケンジは猛スピードで家までの道を駆けていった。
 数百メートル走ったところで息切れを起こし、ケンジは肩で息をしながらとぼとぼと通学路を歩いている。代謝からくるものか恐れからくるものなのか、ケンジの顔は汗に濡れそぼっていた。
(なんで、なんでそんなわけない。死んでるわけないって大丈夫、大丈夫。血もそんなに出てなかったし、落ちた高さもそんなに高くなかったし。大丈夫だって。第一、俺がやったわけじゃないし、俺が落としたわけじゃないんだし。あいつが悪いんだ、あいつが足を踏み外すから。風なんてなかったのにふらつく奴が悪いんだ。大丈夫、明日になったらまた元気な顔で出勤して来るって。そしたらまた俺を怒ってくれるって。もうこんなことしちゃだめだよって、言ってくれるって。そうだよ。大丈夫。俺は殺してなんか――)
 その時、目の前から甲高い音を響かせるパトカーが近づいてきた。ファンファンという騒音がどんどんと大きくなっていく。
 ケンジはまるで指名手配犯のように顔を伏せた。それは一種の防衛本能だったのかもしれない。
 当然、パトカーはケンジを素通りしていった。
(今のもしかして……学校の方向に行ったし……。いやでもそんな……俺が、俺が……人殺し? いや例えそうだとしても大丈夫だって。確か少年法って言うのもあるし、これで終わりってわけじゃないだろうから……。でも、でも……)
 考えうる最悪なイメージが頭の中を侵食していく。
 人が死ぬ。それ自体が現実とは程遠い事象だと思っていた。それがよもや目の前で、しかも自分のせいとなると懊悩せずにはいられなかった。認めたくはなかった。
 自分が人を殺すなんて思ってもみなかった。だが現実とは非情なものだ。ただの一瞬で何でもないことがきっかけで現実は異様な変貌を見せ、人は倒錯してしまう。まだ世間を知らない子供ならなおさらだった。


 形容しがたい吐き気を催しながらケンジはなんとか家に着くことができた。
「あ、おかえり」
 専業主婦の母親がいつも通り家にいる。それは何でもない日常の一ページなのに、なぜかケンジにはそう思えなかった。
 できれば今日だけはいて欲しくなかった。それは朝帰りしてきた娘が父親と顔を合わせたくないその心理に似ていた。
「あれ? どうしたの、顔色悪いわよ」
 母親は伏せていたケンジの顔を覗いてきた。
「な、何でもない。部屋にいるから」
 青ざめた顔をしたケンジはバツが悪そうにそそくさと部屋への階段を上っていった。部屋に入ると鞄を投げ出し、ケンジはベッドへと力が抜けたように飛び込み掛布団にくるまった。自分という存在をこの世から消すかのように。


 一体どれくらいそうしていただろうか。五十光年ほど先に追いやっていたケンジの思考は母親の、「ご飯よー」という優しげな声で呼び戻された。
 ケンジはゾンビのようにのっそりと上体を上げた。
(もうそんな時間……。俺いま寝てた? もしかして今までのも全部夢だったとか?)
 ケンジはベッドから這い出て、母親が待つリビングへと階段を降りる。
(そうだよ。そうに決まってる。今までのは全部夢だったんだよ。俺が人を殺すわけない)
 ケンジは食卓につき、晩御飯を食す。食を通して生きているという事を実感できる。これが現実だという事が如実に理解できていく。
(当たり前だ。悪い夢だったんだよ)
 そしてケンジは何気なくテレビを付けた。放送されていたのは夕方のニュース。いつも通り物騒な事件を報道している。
 これを見ていつも思う。
こんな凄惨な事件は現実には、少なくとも自分が生きる範囲では起こりえない非現実なもの。
ただ被害者になった人は運が悪かったのだと嘆くほかないもの。
自分とは関係のない人が、見たこともない遠くの場所で死んだだけのもの。
 まるで他人事。
そう思っていたのに――
『今日、夕方五時ごろ××市立○○小学校で鈴村里香教育実習生の遺体が発見されました。遺体は頭から血を流してお――』
 というところでケンジはリモコンでテレビを消した。
(何、何何何? 今のって俺の学校。え、てか鈴村ってまさか……まさか――)
「あー!」隣で発せられた母親の声にケンジは一瞬肩を震わせた。
(まさか、ばれた!?)
 ところが、発せられた母の言葉はなんとも気の抜けるものだった。
「ちょっと、今のキャスターイケメンだったのに、何で消すのよ」
 それを聞き、ケンジはほっと胸をなでおろす。
だが、母は脱兎の如くケンジからリモコンを取り上げ、すぐさまテレビをつける。
(やばい!)
と思ったが、先ほどのニュースはすでに終わっており、スポーツの話題に切り替わっていた。更に胸をなでおろす。
この場にはもう居たくないと思ったケンジは使い終わった食器をシンクの方に持っていく。
 その時、
「あれ?」
 母の素っ頓狂な声にケンジは一瞬動きが止まる。
「てかさっきのニュースってケンジの小学校じゃなかった? だって――」
「ごちそうさま!」
 そう言い放ち、ケンジは食器を乱暴にシンクに置く。
「ちょっと静かに置いてよ」
 バンっ、とリビングの扉をぶしつけに閉め、ケンジはリビングを出た。
「ちょっと静かに閉めてよー。まったく……」
 我が子の反抗期に頭を悩ませながら、母はテレビのニュース番組に再び意識を向ける。
「あれ?」そのとき母はふと疑問に思った。「なんか番組のキャスター、さっきと違う……」


 息荒く鼓動を速くして部屋へと戻ったケンジは、ドアを閉めて鍵までかけた。
自分以外の人間をこの場に入れたくない。自分以外にこの秘密がばれてはいけない。そんな思惟が彼をそうさせた。
(嘘だろ? 俺は――人を殺したのか?)
 信じたくはなかった。その疑いこそあれ、それを自分で認めたくはなかった。
 自分だけは自分の味方だと思っていたから。だがその自分も裏切った。その自分も自分は人を殺したと認識してしまった。
 もう逃げられない。
(え、え、どうなんの? 俺どうなんの? まだ子供だから許されるよね。死刑とかはなんないよね。でも少年院とか、そういうとこ入れられんのか? そうなったら俺の人生はこの先どうやって……いやだ、いやだ、俺は……俺は――)
 目から生暖かい液体が流れ出てくる。しかしその水がすべてを流してはくれない。悲しみも、罪の意識も、犯してしまった事実すらも。
 悲惨な現実に押しつぶされながらケンジはそのまま夜を明かした。


 その日の夜。ケンジの自宅近くにあるマンションの屋上には女がいた。
 闇に溶け込むような真っ黒なスーツに身を包んだ女はこれまた真っ黒な携帯を取り出してどこかへと電話をかける。
「こちらレイピア。場所はターゲット宅近く。どうやら対象は特に行動することなくこのまま夜を明かすように思われますが、このまま見張りを継続――」
『なあレイピアちゃん』電話先から聞こえる声は若い女のものだった。『業務連絡は相手が誰か名乗ってからっていつも言ってるでしょ? それを相手も分からずベラベラ喋らないの』
「は、左様でした。申し訳ございません」
『まあ別にいいんだよ。私はレイピアちゃんのそういうところが大好きだ―。そうだ、来週の日曜、また遊ぼうよ』
「ゆかり姐も仕事用の電話を使って私用の約束は控えてください。……ところで少し疑問に思ったのですが……」
『ん、なんだい?』
「よろしいのでしょうか。なにぶんわたしはこの世界にもまだ日が浅いので詳しいことは分からないのもあり、果たしてどこまでしていいものなのか……。また、小学生を対象にするという事が初めてなもので……」
『レイピアちゃん。この世界ってのはあまりに残酷だよ。私たちの粛清対象に選ばれれば、それが子供だろうと関係ない。それ相応の罰を与える。いや、与えすぎなくらいの罰を与える。それがわたし達でしょ?』
「……そうでした。不躾な質問申し訳ございません」
『いいのいいの。わたしはそんなレイピアちゃんが大好きだからさ。じゃ引き続き監視を頼んまさー』
 そう言うと相手は電話を切った。プープーという無機質な電子音と冷たい風の音がレイピアと呼ばれる女の耳を撫でていった。


 一睡もすることができずケンジは目の下に真っ黒なメイクを施して登校した。
ひとりで懊悩することは散々した。この状況を打開するにはこのままではだめだ。誰かの協力がいる。その時ふと思ったのがタカシとヒロであった。あの二人は事情も知っている。何なら立場を同じにした同志だ。三人でいればこの暗澹とした気持ちもいくらか払拭されるのではないかと考えてケンジは登校していた。
凄惨な事件が起こったあの学校へとケンジは歩みを進める。だがその足取りはいつもよりも重かった。何かが足首にまとわりつくような感覚に苛まれ、歩みが止まろうとする。
(でもダメだ。一人でいたらダメなんだ。あいつらも俺と同じなんだ。だったら一緒にいないと、あいつらだってそう思ってるはずだ。俺たちはいつでも一緒だったんだから)
 泥土を歩くような足取りでケンジは六年三組の教室の前へと来た。
(みんな昨日の事件のことを知ってるはずだ。だったら教室は鈴村が死んだ話題で持ち切りのはず。……まさか……まだばれてないよな。俺がやったってばれてないよな。……大丈夫だ。あいつらが言わない限りばれないはずだって、大丈夫)
 そう自分に言い聞かせてケンジは教室のドアを開け放った。
 そこにはいつもと変わらぬ六年三組の生徒たちの姿があった。みな各々の友達と談笑している。ケンジが入ってきても、特に談笑をやめることはない。
(よかった。俺ってことはとりあえずばれてないみたいだな)
 ケンジは胸をなでおろした。
だがおかしなことがある。耳を澄まして周りの声を聞いてみると、誰一人として鈴村の話題を出していなかった。みな昨日のドラマの話やアイドルの話といった不毛なものにうつつを抜かしている。
(なんで……? みんな事件のことを知らないのか? ニュースとか見てないのか?)
 意外な展開にケンジは焦る。そのとき視界の端で席に座っているヒロを捕えた。前髪で隠されているため正確ではないが視線はこちらを向いているようだった。
 ケンジはヒロの姿を見て安堵した。
仲間がいたと、そう思った。
ケンジは迷うことなくヒロへと肉薄し、許可も取らずに手を引っ張って廊下へと連れていく。とりあえずひと気のないところへ行こうと歩を進める。


ヒロを引き連れ、廊下を歩いていると目の前からある女が近づいてきた。
(あれは、鈴村と同じ教育実習生の……確か名前はゆかり。同じ中学だとかで仲が良いんだっけか……)
 二人が仲良く歩いているところを何度か見かけたことがあったため、ケンジはよく覚えていた。だが今は当然、鈴村と歩いてなんかいない。
ゆかりは清楚な黒髪を揺らしながらこちらへと近づいてくる。
ケンジは罪悪感からか顔を伏せてやり過ごそうとした。だがもう少しで素通りできるというところで深江が話しかけてきた。
「あれー?」
 そう言うゆかりの目は満月のように真ん丸だった。
(やばい、もしかしてこいつ、あの事件のことを――)
 とケンジは一瞬懸念したが、ゆかりの目は殺人者を見る目ではなくヤンチャな男の子を見るそれだった。
「もうすぐホームルーム始まるってのに二人してどこに行くの? もしかして二人で何かいかがわしいことを?」
 そんな拍子抜けな発言にケンジはわずかに意表を突かれたが、
「い、いやそんなんじゃないですよ。ちょっと二人でトイレにでも行こうかと」
「そっか。……ま、どうせ嘘だろうけど」
「え、」
「どうせ二人してサボろうとかそういう魂胆でしょ。ね、そうなんでしょ?」
「あ、はいそうです」
「やっぱりか、そうだよね。うん。私も学生時代よくやったよ。あ、今でも学生なんだった。教育実習生ってそうだよね。そうだった。……まあ、あれだ」深江は二人の肩を叩いて、「サボりもほどほどにね。私はそれを止めないよ。なぜなら私はそういう青春じみたことが大好きだからだ。それじゃあねー」
 可愛らしく手を振ってゆかりは自分が受け持つ教室へと入っていった。
「なんなんだよ……」そう言いながらもケンジは内心ほっとしていた。
「なんなんだよはこっちだよ」腕を掴まれていたヒロはケンジの手を振りほどいた。「いつまでも掴んでんじゃねぇよ」
「あ、わりぃ」
「ったく、どこまで行く気だよ」
「いや、ここじゃまだ人が来るかもしれないから。あっちの方に」
「ああ、踊り場かよ。あそこならこの時間は人は来ねぇか」
 察しが良いヒロは自分が先導してその場所へと歩を進める。ケンジもおくれを取らぬようそれについていく。


踊り場に着くとヒロはケンジの方へと振り向いた。
「ここならいいんだよな?」
「ああ。てかお前、誰にも話してないだろうな?」
「……何をだよ?」
「何をって、昨日のことに決まってるだろ」
「あー」
「あー、って何だよ。ニュースにもなってたんだ。いつ警察が来てもおかしくないんだぞ」
「確かにそうだな。でも……僕には関係ないし」
 まるで本当に他人事と思っているような無機質な声でそう言った。ケンジはその言葉を聞いて自分の耳を疑った。
「……関係ないだと?」
「ああそうだよ」
「なに言ってんだよ。あのときお前は俺と一緒にいたじゃねぇか。だったらお前も同罪だ」
「違うな。確かに僕はあの時お前らと一緒に屋上にいた。だがそれだけで、

僕とお前が同罪ってことにはなんないだろ」

「は?」ケンジは驚愕に目を見開く。「なに……言ってんだ……。なに言ってんだお前……」
自分の聴細胞が異常をきたしたのか、それともヒロの言語能力が倒錯してしまったのか。どちらでもよかった。だがヒロの顔を見る限りそれが冗談ではないという事が分かる。
ケンジのリアクションを気にすることなくヒロは滔々と語る。
「あのとき目撃者はいなかった。だが人体模型の指紋やら情況証拠なんかであのとき屋上にいたのが僕とお前とタカシだったってのはすぐに分かるだろうな。でもそれがなんだってんだ。お前は学区内中に知られている嘘つき野郎で問題児。片や僕は先生たちには成績優秀な優等生として通ってるんだぞ。それに表だって僕とお前がつるんでることを知ってるのはタカシだけだ」
「それがなんだって言うんだ……」
「だったらまだ弁解できるんだよ。僕はお前に脅されて無理やりに協力させられてたんだってな」
 ヒロは悪魔のように禍々しい視線を前髪の間から覗かせていた。睨まれたケンジは自らの死を悟った小動物のようにその場を動けなかった。
「僕たちみたいな未成年の事件では、身近な人の証言を判断材料にする傾向がある警察は一体どっちの言い分を信じるんだろうな? ケンジ」
「……」ケンジは返す言葉を探せずにいた。ヒロは続ける。
「何のために今まで良い子ちゃんを演じてきたと思ってんだ。お前みたいに何の将来性もないバカとは違うんだよ。
僕がお前と一緒にいたのは単に面白かっただけだ。お前の嘘に翻弄される奴のバカな顔と、騙せたことに対して優越感に浸るもっとバカなお前の顔を見るのがな」
狡猾な笑みを浮かべてヒロは途方に暮れているケンジを見やる。そして反応は望めないと思ったのかヒロは教室へと帰ろうとする。だが――
「待ってくれよ」それをケンジは引き留めた。
「なんだよ?」
「じゃあ何か? お前は今まで俺たちに嘘をついてたってのか。俺たちを騙してたってのか。俺たちの友情は……嘘だったってのか?」
 ケンジは自分の言っていることがどれだけ恐ろしいことかを自覚したうえで、――震える声でそう言った。
 それを聞いてヒロは含みのある笑いを見せる。
「ああ、そうだよ」
 ケンジにとって最も聞きたくなかった答えをヒロはさも当たり前のように言ってのけた。
「なんなんだよ……」ケンジは拳を強く握りしめる。「結局お前も……俺と同じ嘘つきじゃないか……」
「……お前みたいなガキくさい嘘と一緒にするな」
 そう言い捨てるとヒロは教室へと歩を進めた。
 自分から離れていくヒロの背中を見て、ケンジはその場に膝から崩れ落ちた。ホームルームの開始を知らせるチャイムがひと気のない踊り場に鳴り響き、ケンジの嗚咽を掻き消してくれる。
(俺は……何をやってたんだ……。自分のためだけに、ただ面白いだとかそんなものために俺は今まで嘘をついてきたのか。人を騙してそれを面白がってたのか。なんだよそれ、結局俺がやってたのはヒロとおんなじじゃねぇか。なんだよ、なんだよ……信じてたものに裏切られるってこんなにも……悲しいことなのかよ。俺が今までやってきたことはそんなにもひどいことだったのかよ……。ほんとに……何やってんだよ……俺は…………)
 裏切られることがこんなにも心を痛めるという事を知らなかった。自分がやってきたことがそこまでひどいという事を知らなかった。
 嘘がこんなにも人を悲しませるという事を知らなかった。
 善悪の区切りが曖昧な子供は嘘が悪だという事を知らなかった。
 だがこの時ケンジは初めて知った。嘘は何も生まない。誰も喜ばない。皆を悲しませる悪の所業だという事をケンジはこのとき初めて知った。
(俺が悪いんだ。俺が面白がって鈴村を屋上に連れて行ったから。だから死んだんだ。俺が殺したようなものなんだ。俺のせいなんだ。だからヒロも失った。当たり前だ。……当たり前だ。俺はそれだけのことをしてきたんだから……)
 友達を失い、信用を失い、自分のやってきたことがどれだけひどいことかを自覚したケンジは泣いた。心臓が張り裂けそうなくらいに鼓動は速かった。自分では聞いたこともない声が喉の奥から漏れ出てきた。だが心の澱は払拭されない。心の闇は一向に晴れない。
 このまま溶けていきたい。そのままいなくなりたい。
 死にたい。
 そう思った時、
「ケンジ!」
 と、階段の上から声がした。
 涙でぬれた顔を上げるとそこにはタカシが立っていた。ケンジは泣き顔を見せたくなかったからか、それともバツが悪かったからか目を背ける。
「何やってんだよ、タカシ。今はホームルームだろ。こんなとこに何しに来たんだよ。来るなよ。どっか行けよ!」
「ケンジ……」
「何だよ! どうせお前もヒロとおんなじだろ! 俺とは違うとかそんなことを言いに来たんだろ。もう分かってるよ。分かったからそれ以上言わないでくれよ……。頼むよ……。もう嫌なんだよ。分かったから、……分かったからもう俺に……関わるなよ…………」
 裏切られるくらいならもう関わりたくない。最初から関わりがなかったかのようにして欲しい。これ以上悲惨な現実を知らしめないで欲しい。そんな思いがケンジの内には込められていた。
 だがタカシはそんな委細は構わずに言った。

「そんなこと言うなよ。俺とお前は……いつでも一緒じゃねぇか」

 それはケンジにとって予期せぬ言葉だった。反省してもしきれない、取り返しのつかないことをしてしまった自分によもやそんな言葉をかけてくれるなんて思いもよらなかったから。
「え……」ケンジは涙で潤んだ瞳をタカシへと向ける。
「鈴村は死んだ。だがそれはお前だけのせいじゃない。止められなかった俺にだって責任がある。だから――」
 タカシは階段を下り、ケンジの肩に手を置いた。
「俺もお前も同罪だ。今までもこれからも俺はお前と一緒だ」
「……タカシ」
「だからこれで最後にしよう。嘘をついて人を困らせるのはな」
「あ、ああ。でも俺は取り返しのつかないことを……」
「大丈夫だ。誠心誠意、事情を話せば分かってくれるって。田崎先生にそのことを話そう。心配するな。ちゃんと反省してるってことが分かればそんなに責められることはない」
「……でもお前まで巻き込むわけには……」
「いいんだよ。俺たちはまだやり直せるくらいには若いんだ。それに俺たちは友達なんだからな」
 満面の笑みでそう言うとタカシはケンジの腕を取って、階段を上った。
 そのタカシの背中を見てケンジは思った。
(友達ってこんなにもいいものなのか……。俺たちの友情は嘘なんかじゃなかったんだ)
 という何とも当たり前なことを。


 ホームルームが終わってすぐに二人は来た。担任らしく「どこに行ってたんだ?」と田崎が問う前に、その二人は田崎をひと気のない場所に連れて行き、事のあらましを話した。
そして、田崎がすでに知っている事件の真相を話してくれた。
 案の定な独白をしてくれた二人に田崎は「分かった。校長にもそう伝えるから二人はとりあえず教室に戻っていてくれ。あ、あと時間がかかりそうだから、一時間目は自習だって他の生徒に伝えといてくれ」と言い、校長室へと足を向けようとする。
「え、あの」
 それを引き留めたのはケンジだった。
「ん? なんだ」と振り向く田崎。
「いや、こういうのってもっと詳しく訊くものじゃないかなって。俺たちまだ、鈴村先生が屋上から落ちたってことしか言ってないし、他にももっと――」
「あー」田崎はケンジの言葉を遮って、「いいんだ、あとは校長に伝えてからで。お前らは早く教室に戻れ」
 そう言って田崎は校長室に走っていった。
「なんなんだろ……」残されたケンジは頭の上にはてなマークを浮かべる。「なんか、拍子抜けってかんじだよな。なあ、タカシ」
 そういったケンジは隣のタカシに目をやる。だがなぜか目を合わそうとしない。
「タカシ?」
「あ、いや、なんでもない。早く教室に戻ろう。自習ってこと伝えなきゃだし」
そう言って立ち上がりタカシは教室へと向かう。ケンジは首をかしげながらそれについていく。
 タカシの顔には嫌な汗が浮いていた。


(全部、あの人の言った通りに……)
 田崎は校長室の扉の前に立つ。この扉を開ける時はいつも独特の緊張感があるが今回ばかりはそれとは異にしたものが心の奥にはあった。
 田崎は一つ深呼吸をして校長室へと入った。
「失礼します」
 中では豪奢なソファに座った二人が酒を酌み交わしながら談笑していた。そのうちの一人がこちらに気付いた。
 それはこの学校の長であり、すっかり頭が寂しくなっている校長だった。
「おお、田崎君。ご苦労様。で、どうだった?」
「はい。おっしゃっていた通り二人はホームルーム終わりに自首してきました」
「おお、そうだろそうだろ。じゃあどうだね、一杯」赤ら顔の校長がとっくりを傾ける。
「いえ、勤務中ですので。というか校長も勤務中でしょ」
「いいんだよ。許可も取ってるし」校長は前に座っている者に目を向けた。そこには――

「ねぇ、鈴村先生」
 
 そこには真っ黒なスーツでふんぞり返っている鈴村里香が座っていた。
「先生なんてやめてくださいよ。私は正規の教員免許を持っているわけではないんですから」
「いえいえ私からすれば先生のようなものですよ。なんせあの組織から派遣されているんですから。それに、聞けばあなたは――」
「やめましょーや、そんな話は。ここは確かに職場かもしれませんが間におちょこを挟めばそこは酒の席。仕事の話はなしですぜ。まあまあ一杯」
 鈴村は校長のおちょこに酌をする。
「おお、これは光栄です」
 傍から見ればそれは女が自分の出世のため上司に接待をしているように見えたかもしれないが、立場は明らかに逆。年功序列のねの字もなかった。
 そこに疑問を呈する無知な男がひとり。
「すみません」田崎が二人の話に割って入った。
「何だね、田崎君。やっぱり君も勤務中に酒を飲むという背徳感に毒されたくて――」
「違います。私はただ疑問に思いまして……」
 その発言で校長は察した。
「……田崎君。君にはこの前話したじゃないか」
「あんな抽象的な説明では分かりません。もう一度説明して欲しいのです」田崎は視線を移動させた。「この鈴村里香と名乗る方はいったい誰なんですか? いや、いったい何なんですか?」
「んー、説明といってもねー。私程度のものが無闇に説明してもいいものではないんだよ。校長ごときのレベルではあんな抽象的な説明までが関の山でね」
「ならば鈴村里香本人に訊きます。あなたはいったいなんなんですか?」
 田崎は射抜くような視線を鈴村に向ける。だがそんな視線に彼女は臆することもなく、口を開く。
「なかなかに知的好奇心が豊富ですね。さすが教育という領域に身を置く御仁だ。ちなみに校長、この田崎教諭のキャリアは?」
「彼は教職を二十五年も続けているベテランです。過去には高校や中学も受け持ったことがあり、ここに来る十年前までは各学校を転々としていましたが今ではこの学校に骨をうずめる覚悟を持っています。もうすぐ教頭試験を受けるので、それもおそらく合格してくれるでしょう。こりゃあ、いずれ校長の座も明け渡さなくてはならないですな」
「ならば遅かれ早かれ知ることにはなるんですね。じゃあ、まいっか」
 おそらくそんな軽い感じで決めていいことではないのだろうが鈴村はまるで適当な調子でそう言った。しかしそれとは相対して鈴村から醸成される雰囲気はそんな軽いものではなかった。
「田崎教諭。この世には触れてはいけない闇というものがある。そして誰にも知られていない秘密の組織なるものもあるんですよ」
「……それがあんたたちか?」
「ええそうです。それが私たち裏教育委員会です」
「裏教育委員会……そんなもの聞いたことがないぞ」
「当たり前じゃん。だって秘密の組織なんだからさ」鈴村はしたり顔でそう言った。
「じゃあその裏教育委員会は主に何を生業としてやっているんだ」
「何をか……まあなんでもやるし、何でもできる。それが私達だからね。一体どう説明したらいいか、まああれだ。田崎教諭は教育委員会の方は知ってる?」
「当たり前だ。俺たち教師はその教育委員会の下で働いているようなもんだからな」
「まあそうだろね。そして主にその教委の仕事は学校に対して教育方針を諭したりすることを生業としている。
だがそれだけではやはり足りない。例え信頼と実績に裏付けされた教育論を教え諭したとしても生徒たちは互いの自主性を重んじ、協調性を全員が全員身に着けられるわけじゃない。集団ともなれば何人かはそのレールから外れる異端なものが出てきてしまう。言わば不良だね。タバコ吸ったり、肩がぶつかっただけで因縁つけたり、行き過ぎれば法を犯してしまうあのバカな生き物だ。
私たち裏教はそういう懸念がある生徒、またはそういう生徒を粛正するために設けられた機関なんだよ。分かったかな?」
「……ああ、まあ多少はな。最初に聞いた時には何を電波なことを言ってるんだと思ったが今では信じられる」
「そりゃありがとね」
「だがまだ疑問は残る。今回のこと。ケンジが今回の粛清対象に選ばれたってことは分かる。他校の奴らを喧嘩させたりしてけが人を出したからそういう対象になったってことはまだ分かる。だがその粛清のやり方は一教育機関ができるような事じゃない」
「へぇ、例えば?」
「例えばケンジの家に盗聴器と隠しカメラをセットしたこと。そしてよきところで嘘のニュースを流してケンジを精神的に追いつめたこと。こんなのは今の日本で許される行為じゃない。いや、テレビの電波をジャックするなんてやろうと思ってもできるような事じゃないんだ。しかもケンジの家にだけなんて。……一体どうやったんだ?」
「どうやったんだと言われてもねー。ただケンジの家のテレビにあらかじめちょっとした細工を施していたのと、テレビ局から電波塔に行くまでのルートをちょこっといじくったくらいのことだね。詳しいことは私も分からないよ。そういう雑用は下のもんに任せてたからさ。おおかた文化祭みたいなノリで独自にニュース番組を作ってそれを私たちが買い取っているテレビ局を介して放送でもしたんだろうさ」
「そんなことが可能なのか?」
「可能だよ、そんなことくらいね」そう言うと鈴村は立ち上がった。「なぜなら私たちは一教育機関の枠を逸脱しているから。裏教育委員会と便宜上はそう呼んでいるけど行政機関には属さない独立した機関、いや組織と言った方が語弊がないかな。だからそれだけに自由で、それだけに圧倒的な力を有している。その気になれば現首相の首を挿げ替えることだってできるんですよ」
 まるで野党党首のような奸悪な発言をすると鈴村は廊下に続く扉へと歩いていった。
 鈴村が今までに言ったことがすべて真実だとするとどれだけ恐ろしいことか。田崎はそんなことを考えてしばし固まっていた。
「それでは失礼します」
 鈴村は扉に手をかける。
「待ってくれ」
 だがそれを田崎は引き止めた。
「何ですか? まだ裏教について訊きたいことでもありますか?」
「そこじゃない。裏教についてはよく分からないが、それに関する説明はそこまで明確にはできないんだろ?」
「ええ、禁足事項ですから」
「ならそこはいい。ただ……俺が訊きたいのはそこじゃない。俺が訊きたいのは、あなたがなぜ今も生きているのかってことだ」
まるで事情聴取をする刑事のような気迫で田崎は言った。
「なぜ……か」鈴村は背中を向けたまま呟く。「人が生きている理由なんて生まれたから以外に理由なんてないと思うんだけど……」
「そんな哲学的なことを訊いてるんじゃない。……俺はさっきタカシとケンジから事のいきさつを聞いた。それは昨日あなたが語ってくれたこととなんら遜色はなかった。だからこそ疑問に思う。
二人の話によればあなたはヒロに見立てられた人体模型と一緒に屋上から落ちた。それを二人は目撃している。人体模型は当然地面に落ちて粉々になり、その隣にあなたの死体が倒れているのを屋上から見たと二人は言っていた。これは――」
「ああ、その死体はゆかりが変装した姿だよ。ほら、私と同時期に入ってきた教育実習生に深江ゆかりっているでしょ? あの娘は私の部下だからさ。私が飛び降りる前から下で死体のフリをしていてくれたんだよ。……ってあれ? これも昨日言わなかったけ?」
「ああ、聞いたよ。だからそこは分かる。ただ俺が訊いているのは、

なぜ屋上から飛び降りたあなたが未だに生きているのかってことだ」
 
 田崎は射抜くような視線を鈴村の背中に向ける。それを感じ取ったからか鈴村はゆっくりとこちらに振り向いた。
「そんなの疑問にするほどのことじゃないですよ。なぜならそんなのは膝のクッションを使ったから、って理由で事足りるんだからさ」
「は? なに言ってるんだ。そんな冗談を聞くために――」
 だがそんな笑いにもならない発言をした鈴村の顔は今までにない本気の顔だった。
 それを見て田崎は戦慄した。
「……おい、まさかほんとに――」
「なぜ?」鈴村は冷淡な声で言った。「なぜあなたは自分が見てきたことがこの世の真理だなんてそう思えるの? なぜあなたは自分が知っていることが常識だなんて思えるの? すべては嘘かもしれないのに。みんな嘘をついてるかもしれないのに。あなたが知りえた知識や得てきた経験など結局はあなたの世界でのこと。
この世界にはあるんだよ。まだ人間が関知していない前人未到の地が、まだ観測できていない世界の果てが、まだ見たこともない暗黒の空間が、触れてはいけない闇がこの世界にはあるんだよ。
人は自分が培った常識でしか物事をはかれない。そのものさしから外れたものは認知できない。それが人間の性。人間を人間たらしめている要因。
だからこそ私たちは撥ねられる。世間からひた隠しにされる。人類生態学やダーウィンの進化論を全否定してしまう私たちのような存在は、一国の軍事力をも超える『暴』を持つ私たちはこの世にはいてはいけない存在。
闇に生きるしかないんだよ」
最後に鈴村は悲壮な顔を浮かべて校長室を出ていった。重く深遠な静寂が、残された校長と田崎にのしかかっていた。


鈴村はその足で小学校の裏門へと向かった。その道中に、ある女と出会う。
「お、ゆかり」
 目の前で壁にもたれかかって佇んでいたのは自分と同じくこの小学校に派遣されて来た深江ゆかりだった。もちろん、鈴村と同様に裏教のメンバーである。
「何やってんの? 今は一時間目だよ。教室にいなくていいの?」
「いいんだよ。自習にしたし。あ、ちなみに明日からはわたし、あんたがいた三組に移動するから」
「悪いね。あいつらの経過観察任せちゃって」
「誰かがやらなきゃいけないことだかんね。ま、私が一番適任だろうとは思ってたけど。ああ、めんどくさい。なんであと一週間もこんなガキどもの御守りなんかしなきゃいけないんだよ」
「あー、ゆかり。子供嫌いなんだっけ?」
「そうだよ。だからこの裏教に入ったってのもあるけどね。里香はもう抜けるの?」
「うん。一応わたしは死んでることになってるから。いやー助かったよ。あんたが死体の役してくれなかったらわたしが死んだフリする羽目になってたからね」
「それくらいしなさいよ」
「血のりって結構落ちないから嫌なんだよね」
「ったく、未だになんであんたがわたしらの上司なのかが甚だ疑問だよ。委員の誰かに枕でもしたの?」
「するわけないでしょ。確かにわたしは思春期男子垂涎の美貌を誇っているけど出世のために女を使うほど落ちぶれちゃいないよ。てかあいつらはそんな人間染みた性に興味なんてないだろうしね。『暴』を持った私たちは人間の本能を削ぎ落した傀儡のようなものだからさ。ゆかり、あんたはこんな風になるなよ」
「……そういう存在……結構憧れるけどね」
「確かにわたしも昔はそうだったよ。でもいざなってみると虚しいもんだよ。これだけの力を持っているのに何もできない自分がほんとに情けなく思えてしまうからね」
 鈴村は何を思うのか天を仰いだ。頭上では群れから離れた鳥が一羽寂しく空を飛んでいた。仲間を探しているのか、止まり木を探しているのか、その鳥は目的地を見失ったかのように辺りを浮遊していた。鈴村の心象はそれによく似ていた。ゆかりもそれを知っていた。
「だとしても」ゆかりは鈴村に背を向け、「わたしも上に行くよ。あんたひとりじゃ心配だからさ」
 そう言うとゆかりは歩みを進め、自分の教室へと帰っていった。鈴村は旅立つ娘を見送る母親のような目でその小さな背中を見つめていた。
「ゆかり!」鈴村は言った。「一緒にこの世界ひっくり返そうな!」
 ゆかりはその声に振り向くことはなく、背中を向けながら手を振って反応したが、すぐに角を曲がってその姿は見えなくなった。
 鈴村は安心からか少しだけ口角を上げた。
 その時、
「里香姉」
 後ろから声を掛けられた。
 鈴村は振り返る。そこにはまるでホテルの受付嬢のように静謐に佇立している女がいた。
「ああ、レイピアか。早いね」
「また新たな案件が入ってきましたので早めに報告をしようかと」
「えー、マジかよ。終わったばっかなのに」
「それだけ里香姉が認められているという事です。立ち話もなんですのでこちらへ」
 レイピアと呼ばれるその女は背を向けて裏庭の方へと歩いていく。意外に早いその歩みに鈴村は遅れぬようについていった。
「あの子は来てるの?」
「はい、車の中でお待ちいただいてます。それよりも里香姉」
「ん?」
「あなたの服に盗聴器が仕込まれているのはもしかしてお忘れですか?」
「忘れてないよ」
「では言動にはお気を付けください。それは任務終わりに委員会に提出するものであり、言わば業務をどう遂行したのかを見定める材料でもあります。まあ委員会もそんなものはそこまで重要視していないので提出する義務もないですし、今では聞いているのが私だけでしたのでそこまで気に掛けることではないでしょうが、……やはり校長室でのあなたの言動、そして今の発言は裏教が定めた規則に抵触してしまう可能性があります。ただでさえあなたは目を付けられているのですから」
「そりゃ仕方ないよ、いつの時代も野心あふれる若人は目を付けられるものさ。なんせわたしは闇の組織といわれる裏教の闇をも喰らおうとしているんだから」
「……今の発言は完全にアウトかと」
「他の奴らもこれくらいのことは言ってるって。この地位を得たやつが考えることなんてみんなおんなじなんだからさ」
「まったく、私もその地位が欲しいですよ」
「おう、さっさと来いよ」
 奸悪な笑みを浮かべた鈴村と呆れ顔のレイピア、二人は同じ方向を向いて歩いていった。


 裏門の前にはいかにもな金持ち、もしくはヤクザが乗っていそうな黒塗りの車が停まっていた。
 鈴村は辺りを見回す。
「あれ、あいつは?」
「こちらです」
 レイピアはコンコンと後部座席の窓をノックした。
その合図で少年は出てきた。
「おっす」鈴村は少年に話しかける。「ヒロ君」
 前髪が長く表情が読み取りにくいその少年はタカシとケンジとつるんでいたヒロだった。
 目は見えないがおそらくその視線は鈴村に向けられている。
「わたしを屋上に誘う作戦をあんたがケンジに伝えたことによって事がうまく進んだよ。自分の嘘で人を死なせたという罪悪感を抱かせるのは何とも手っ取り早い粛清だからね。あれでもうあいつはむやみやたらな嘘をつくことはないだろう。あんたがいなけりゃこの作戦は成り立たなかった。ありがとね」
 と鈴村は言ったがヒロはそんな言葉など無意味というように右手を差し出していた。まるで何かをねだる子供の様に。
「ん? 何かな? 握手?」
「分かってるでしょ」無感動な声でヒロは呟く。「僕が欲しいのはそんなねぎらいの言葉じゃない。そんなもののためにあんたの下に付いたわけじゃない」
「ああ、そうかよ。はいはい」
 鈴村は懐からブランド物の財布を取り出し、その中から適当に抜き取った紙幣数枚をヒロへと渡した。
「その年にして金の何たるかが分かっているか」
「当たり前じゃないですか。金があれば何でもできる。愛も買えるし、力も買えるし、友情だって買えるんですから」そう言いながらヒロはまるでベテラン銀行員のように紙幣を数えていた。「……意外に少ないんですね」
「なに言ってんだ。小六のガキからすれば、世の中が思い通りになる額と錯覚できるくらいには弾んだつもりだが」
「僕をその辺のバカと一緒にしないでください。成人男性が三か月過ごせるくらいの額しかないじゃないですか。まあ僕は別に大したことはしてないんでそこまで多くは求められませんが」
「よく分かってんじゃねぇか。子供の様なわがままをほざかないところを見るとお前が他の奴らとは違うことは如実に分かる。どうだ? 将来、裏教に来る気はないか?」
「それは稼げるんですか?」
「ああ、稼いでいるという概念がなくなるくらいには稼げるぞ。ちなみに入るために必要なことはただ一つ。どうやって入るのかを解明することだ」
「なるほど。秘密の組織は入る方法すらも、審査基準も秘密だと。……そうですね、考えておきます。ではもう用もないので失礼します」
 そう言うとヒロは一礼して、背を向けた。慇懃な態度や、右手に握られた分厚い紙幣はなんとも子供らしくない。
「これは私の独り言だが」ヒロの背中に鈴村は語り掛ける。「実はタカシにもお前と同じように接触したんだ。時期は私が屋上から落ちた後、つまりは事件が起こった後にな。粛清対象はケンジだけだったからタカシまで罪の意識を植え付けるのは少しナンセンスだと思い、タカシにもお前と同じように仕掛け人になってもらおうとしたんだよ」
「へぇ、そうだったんですね」
 ヒロは鈴村に背を向けたまま立ち止まっている。鈴村の場所からはヒロの表情は読み取れない。
 鈴村は続ける。
「そう。大事な友達であるお前ら二人がケンジのもとから離れて行ってしまう。そういう事象を引き起こしたかった。そうすればケンジの罪悪感はより一層増す。小学生にとって友達というものは酸素よりも必要な生きる上でのファクターだ。それが二人同時にいなくなる。ケンジにとってこれ以上の地獄はないだろうと私たちは考えた。
だからこそお前ら二人にはケンジと離れて欲しいと持ちかけたんだが……あいつ、それを拒否しやがった」
それを聞き、ヒロの右手が少しだけ強く握られる。それに伴い、紙幣がひしゃげる。
それを見た鈴村は少し口角を上げ、
「金は弾むと言ったのに、ケンジと一緒にいても何もメリットがないぞと教えてやったのに、タカシはそれを拒否したんだ。
『俺はケンジの友達だから。一緒にその悲しみも背負う義務があるから。だから俺はケンジと一緒にその罪を背負う。裏切ることなんてできない』と、そう言ってな。
 大人な私達からすればバカな野郎だと思ったさ。友達なんてすぐに作ることができるのに、代わりなんてそこら中にいっぱいいるのに。あいつはケンジを選んだ。友達だからというそんなガキくさい理由で。……ヒロ……お前はどう思う?」
 ヒロは背中を向けたまま答える。
「……すごくバカだと思います。金に勝る友情なんてこの世界にはありませんから」
「まあ、そう言う考え方もあるわな。確かにそれは間違っちゃいないさ。ならば質問を変える。
 
……ヒロ、お前は友情を捨て、金を得たことに後悔はないのか?」

 その言葉にヒロはわずかにだが肩を震わせた。しかし平静を装うように言葉を紡ぐ。
「……は? なに言ってるんですか。後悔なんてないに決まってるでしょ。あんな、程度の低い嘘つき野郎との友情なんて、はなっからありませんよ。ただ一緒にいたのはあいつの馬鹿面が面白かっただけです。さっさと縁を切って正解でしたよ。金も手に入れたし一石二鳥です。……よかったですよ……ほんとに……」

「そうか、じゃあなんで……なんでお前は泣いているんだ?」

 見るとヒロの背中はわなわなと震えていた。拳は固く握られていた。体の中で抑えられている嗚咽がわずかに鈴村の耳を撫でていく。
 顔を見ずとも分かる。ヒロが泣いていることも、ヒロの心中も。
「お前は後悔しているんじゃないか? ケンジとの友情を壊してしまったことに。そしてタカシの言葉を聞いて、俺もそうしていればと思っているんじゃないのか?」
「は? 思ってねぇよ。別れられてせいせいしてるよ」
「お前はケンジとあんなにも仲が良かったのに」
「だから上辺だけのもんだったんだよ!」
「違うな」断ずる鈴村の言葉はヒロの心の深層へと入り込む。「お前のケンジへの友情は本物だった。それがたとえ悪行を介したものだったとしてもお前ら二人の間には確固たる友情というものが築かれていたはずなんだよ」
「なんでそんなことが分かる」
 ヒロは鈴村の方へと振り向いた。
「教育者としての勘。そして、女の勘ってやつさ」
 子どもをバカにするような鈴村の表情に、そして大人の独りよがりな言い分に、ヒロは怒りを覚える。
「そんなもんで僕たちを語るな!」
 腹の底から、心の底から吐き出された怒号。ヒロの深層にある真相の部分。
 それを聞き、鈴村はにやりと笑う。
「いまので分かったよ。やっぱりもってお前はケンジの友達だった。だが悲しいかな、なぜかお前はそれを金で売ってしまった。いったいなぜだろう? 確かさっきお前は金を貰えて且つ悪い友達であるケンジと縁を切れたことで『一石二鳥』という言葉を使ったが、もしかしたらその『一石二鳥』という意味は別にあるんじゃないのか? 

例えば金を貰えて、なお且つこれでケンジを更生させることができるという意味とか。違う?」

鈴村はまっすぐな強い視線でヒロを見つめた。ヒロはその視線から逃げるように顔を俯かせ、何も答えない。何も答えられなかった。
「お前は自分が退くことで、ケンジに自分は悪いことをしたんだという事を自覚してほしかったんだ。そうすればケンジはもうこんな事件を起こさないと思ったから。お前は友情を犠牲にしてケンジを護りたかったんだろう? お前はケンジのために悪役になってやろうと、そう思ったんだろう? お前はケンジのことを誰よりも深く思っていたんだろ!」
「違う!」ヒロは激昂した。「違う違う違う違う。僕は金のためにあいつとの縁を切ったんだ。そこにあいつとの友情なんて一ミリもねぇ! 僕は……僕は……」
 ヒロはその場に膝から崩れ落ちた。そして押し殺された低く小さな嗚咽を、肩を震わせながらひり出していた。
「ったく」鈴村はその丸まった物体を慰めるでもなく、背を向け車へと向かう。「なんでガキは嘘をつくくせに、そんなに嘘が下手なんだよ。……ほんとのことを言えばいいのにさ」
 助手席に鈴村が乗ったその車は発進し、学校を後にした。
絶望に打ちひしがれ、あの友情はもう戻らないと知っている少年を一人残して。
 少年の右手で握りつぶされているその金は、脆くひしゃげて汚くなっていた。


 レイピアは運転しながら、隣に座って窓の外を眺める鈴村に言った。
「里香姉」
「ん?」鈴村は振り向かず外を眺めたままだった。
「やっぱりあなたのやり方はえぐいですね」
「あらそう? でもさ、この方法が手っ取り早かったんだよ。

なんせ今回の粛清対象はケンジとヒロの二人だったんだからね」

「確かに嘘をつき、他校の生徒たちを喧嘩させていたケンジ君は当然に粛清の対象です。そしてそのケンジ君の陰に隠れて、喧嘩させた被害者たちのお金を盗み取っていたヒロ君もまた悪事を働いていたと言えるでしょう。でも――」
「でも、なに?」
 真っ黒な双眸をまっすぐにこちらへ向けてきた鈴村に、レイピアは恐怖した。その後の言葉を紡げないほどに。
 代わりに鈴村が言葉を続ける。
「病気になった母親の手術代のために、ヒロはお金が必要だったから仕方ないって、そんなことが言いたいの?」
「いえ、決してそのようなことはありません」レイピアはすぐさま弁解する。
「だよね」納得したのか、鈴村は再び窓の外を眺める。「犯罪の是非に私情を持ち込んだら司法はいらない。わたし達もいらない」
「はい」冷や汗を浮かしながら、素直に首肯するレイピア。
「それにやりすぎなくらいがちょうどいいんだよ。それくらいのことをしないと感受性が乏しいガキどもには分からないんだよ。自分がどういう人間で、どういうことを思っているのか明確に言葉にできない脆弱な存在たるあいつらにはね」
「そうですね。私たちの教育理念は教育委員会が掲げる自主性の尊重や協調性の確立などとは打って変わって、無理矢理に力づくで相手の気持ちなど意に介さず是正することにありますから。そういった厳正な対処は裏委員長も嫌いではないでしょう」
「だよねー。あ、ちなみにわかってると思うけど、ヒロに渡したあのお札。財務大臣に掛け合って国立印刷局に作ってもらった発信機付きのものだから。ヒロが今後あの札を一体どういうルートで使うのか、はたまた使わないのか、そういう経過観察を見て初めて粛清完了だからね」
「承知しております。すでにそういった流通ルートの情報精査の準備も済んでおります。その辺りの雑貨屋でちょっとエッチな大人の本を買ったとしても情報はこちらに入ってくるようにはなっております」
「さすがレイピアちゃんだ。思春期男子にとってそれ以上の屈辱はないね。さてと」
 鈴村は目の前にあるダッシュボードを開ける。無理矢理に詰め込んでいたからか、開けた瞬間に中に入っていた書類が座席下にぶちまけられる。それは多種多様、選り取り見取りな個人情報書類だった。
「うわ、しばらく整理してなかったからなー。そういえば新しい案件入ってたんだっけ?」
「ええ。新規案件の詳細については赤色の紙に記載されているのですが……ありますか?」
 運転に集中しながらレイピアは助手席で書類を探す鈴村を気遣う。
「ちょっちまってよー」
 鈴村は足元の書類を漁りまくり、なんとか目当ての書類をサルベージする。
「これか」それは何枚かの紙束になっており、鈴村はぺらぺらと中を見る。「この案件、誰からの依頼?」
「今回は大きいですよ。文部科学大臣から直々のご依頼です」
「マジかよ。あの老いぼれもやっと私の実力が分かってきたってことか」
「そうみたいですね。粛清対象も風変わりしてますから」
「誰なの?」
「対象はオオクマトウヤ。十七歳。写真と経歴は二ページ目に」
 そう言われて鈴村は履歴書のようになっている二ページ目を出す。
「なるほど、なるほど。前科者か」
「はい。十四歳の時にクラスメイトの男子を集団で暴行し殺害。その後、保護更生のため少年院に送致されたものの二か月前に寮から消え行方不明。しかし先週、麻薬の売人と取引しているところを警察に目撃され、その後、逃走。まだ捕まっておりません」
「何それ、めんどくせぇ。てか少年院がらみなら法務省でしょ。なんで私たちのところに来るの?」
「いまや裏教は文科省管轄のものだけにはとどまりません。某国要人の暗殺、人類不可侵領域の調査、その任務は多岐にわたります。今後も私たちの活動分野は広がっていくことでしょう」
「ったく、上の奴らは働き方改革って言葉を知らないのかね」と悪態をつき、鈴村はオオクマトウヤの写真を指で弾く。「で、このオオクマくんがどこにいるかは分かんないの?」
「はい。ですがおおよその活動エリアは把握しておりますので、見つけるのも時間の問題かと」
「オッケー、わっかりましたー」
「そして、ちなみに申し上げると今回の件はおそらく……」
「ああ、前科ありというところを見てもそうだね。ライン越えだ」
「久しぶりですね」
「ああ、久しぶりだ」鈴村は外の景色を眺める。

「久しぶりに、殺しが許される」

 もしもスモークガラスではなければ通行人が卒倒しそうな顔を浮かべて、鈴村は言った。
 レイピアはアクセルを踏んで車を急がせた。なぜか信号は赤になることはなくその車はすいすいと道路を走っていく。まるで止めることが許されぬかのように、邪魔することが許されぬかのように。
 教育という武器を振りかざす『暴』を乗せて、真っ黒なその箱は進んでいく。この世の闇へずぶずぶと。

 この世には触れてはいけない闇がある。
知ってはいけない存在がある。
子供の将来を考えたその教育ももしかしたらまがい物かもしれない。ただの洗脳の一種かもしれない。
国民の生活が第一とのたまう為政者の心の内は欲にまみれているかもしれない。自分のことしか考えていない奸悪な存在かもしれない。
理想の国を創ろうと奮闘し、自らの言葉を語っているように見える首相も、もしかしたら裏の組織に操られる傀儡かもしれない。
この世界の真実はすべて嘘かもしれない。
この世界には存在する。人類学を全否定する存在が、世界の摂理をゆがませる存在が、常識を覆す存在が、今まで天才と呼ばれていた人間が凡人に思えてしまうほどの天才がこの世界には存在する。
だがそんな異端なものは排除される。存在してはいけない存在だから。
それほどの力を有した者は光の下には出てこられない。闇に落ちた人間は先の見えないその世界で生きていくしか道はない。
 これもその一つだった。
 教育にかこつけ必要悪に成りおおせる正義の存在を人々は認めないだろう。
 教育のためには、より良い国を創るためには人をも殺す。そんなものがあってはならない。
 だが、なくてはならない。
 何もかもを欺き、存在自体が嘘のような茫漠とした存在。レールから外れたものを是正、排除するためには死という教育すらも厭わない。それが闇に巣食う教育機関。
 裏教育委員会である。