『リテイクで』
 そっけない文面がスマホのロック画面に表示されていた。
 脱力。スマホを手にした右手から力が抜ける。2人がけのソファからはみ出した右手の小指に何か当たる。カラカラと間抜けな音共に、空になった缶ビールがローテーブルから転げ落ちた。横たわる缶ビールを見ていたら、なぜだか視界が滲んだ。閉じたカーテンの隙間から差し込む朝日すら疎ましく感じて、手の甲で瞼を押さえて光を遮る。
 あー、まじで何やってるんだろう、私。
 数年前に卒業した音大の先輩伝手で紹介された、たいした金にもならない仕事。
 一案件、約6万円。かれこれ一ヶ月ほどのこう着状態が続いている。全くと言っていいほど、労力と対価が見合っていない。
 最初に送ったデモ音源から、果たして何回リテイクを食らったのか、まともに数えたら発狂してPCデスクを叩き割りそうなのでしない。
 この業界は、入れ替わり立ち替わりが濁流のように激しい。
 ついこないだまで一世を風靡していた作曲家が半年後にはカケラの噂すら聞かない過去の人になるなんて、ザラだ。
 そんな世界の中で、大した功績もないペーペーの私が、細々と食いつなげているだけマシな方。……分かってる、分かってるよ。そんなの。
 自分に十二分に言い聞かせて、PCに齧り付いて、理不尽にリテイク重ねられても、へこへこしながら“売れるための曲作り”をする。
 そこには昔のような熱意も、拘りも、誇りもない。淡々と目の前の音符を並べる機械のようにこなすだけ。これじゃあAIと何も変わらない。
 じわじわと背後から襲いかかって来る焦燥感に駆られて、頭の中に疑念が肥大化する。破裂寸前まで膨らんだそれは、明け方の鈍った思考には効きすぎる劇薬だ。
 これが、こんなのが……本当に私の作りたかった”モノ”か?
 誰でもできるような、ありきたりで薄っぺらなモノが──あ、やばい。考えるな。この先は何も考えるな。

 静まり返った沈黙を切り裂くように、ピアノの音がした。エリーゼのために、だ。
 この着信音に設定している人は1人だけだ。ここ数日何度もメッセージが入っていたけど、仕事を理由にほとんど既読無視していた。痺れを切らして、ついに電話をかけて来たのだろう。
 疲労した脳でグルグルと考え込んで、仕方なく電話を取ることにした。このまま無視したら、次は家まで乗り込んでくる。それだけはご勘弁願いたい。
「……はい」
『立夏、アンタ──』
「用件だけ言って。じゃないと切るから」
 電話口から憤る母の息遣いが聞こえてきて、辟易とした。
 鉛のように重い体を起こして、ベランダへ向かう。鍵を開けて、100均で買ったペラペラのサンダルに足を通す。夜の合間に霜が降りたらしい、素足に目の覚めるような冷たさが沁みた。
 手すりに手を置いて、再びスマホを耳に当てる。
「で、何?」
『メッセージ、送ったでしょ。一週間後に家を引き払うの。アンタ、部屋に荷物置いたままでしょ。取りに来なさい』
「あー……、分かった」
『それから、今度の3回忌、一時間前には来て。準備あるから』
「はいはい」
 適当に頷く。
 それが癪に障ったのか、語気を強めた母の声がスピーカーから聞こえて来る。
『立夏、アンタ……もう28でしょう。いつまでそんなことしてるつもりなの。いい加減、いい人見つけて──』
 後先も考えず、電話を切った。
 スウェットのポケットに放り込む。振動しながら着信音が鳴り響くのを無視して、代わりに煙草とライターを取り出す。が、すでに煙草の中身は空っぽで、メンソールのツンとした僅かな残り香が朝の澄んだと共に漂うだけだった。
 空箱を握りつぶして、空に向かって大きく息を吐いた。
 もし、10年前の私が今の私を見たのなら、なんと云うだろうか。
 ふと、そんなことを想う。普段こんな感傷に浸る事はない。相当メンタルにきている証拠だ。口から乾いた笑いが漏れた。
 ああ。そうだ。
 認めたくない、認めたくないけど。
 今の私には、少しだけ、音楽がしんどい。

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 今年53になる母が再婚すると聞いたのは、28歳の誕生日だった。
 たいして欲しくもないブランド物のジュエリーを渡されて、上手くも不味くもないフランス料理を流れ作業みたいに口に運んでいた時、唐突に言ったのだ──「お母さん、再婚するの」、と。
 その時、久しぶりに母の目を見た気がする。母もまた時同じくして私を見ていたらしく、目が合った。
 目尻の皺が以前よりも濃くなった。ファンデーションで隠してはいるけれど、うっすらシミも見える。老けたな、と思った。
 まだ母と二人で暮らしていた頃、私は母には絶対に逆らえないと思っていた。でも時が経てば、人は必ず老いるものだ。初めて母の言いつけを破って抵抗したあの日、私と母の立場は完全に逆転した。今の私には、振り上げられた手を掴んで振り払う事も、逆に突き飛ばす事だって出来る。
 私を見上げるその瞳には、覚えがあった。
 かつての私が母に向けていたそれと同じものだ。怯えと、ほんの少しの期待が混じった、媚びへつらう濁った色。
 だから、手に取るように分かる。今、母が何を考えているのか。
 おめでとう、って言って欲しいんだよね? 愛娘から幸せになって、とか言われたいんだよね? 手放しで祝福されたいんだよね?  
 ──だから言わない。お母さんが欲している言葉は、絶対に。
「そうなんだ」 
 淡々と頷いて、グラスの水を飲んだ。
 私の返答を聞いて、分かりやすく期待を裏切られた顔をしていた。それから、「ええ、そうなの」とだけ相槌が返ってきた。何がどうしたら、私が母の幸せを願うような言葉を言うと思ったのか、本当に理解に苦しむ。ひとつひとつの小さな言動が、行動が、この人とは一生相容れないのだと思い知らされる。
 重苦しいの空気に反して、流れてくるクラッシック音楽の優雅さがアンバランスで、居心地悪いことこの上ない。一刻も早くこの場を立ち去りたくなってきた。私はグラスをテーブルに置いて、立ち上がった。
「仕事あるから、もう帰る」
「立夏──」
「家、引き払うんだよね? そのうち荷物取りに行くから」
 私を呼び止める声を無視して、その場を後にした。
 だから嫌なんだ。お母さんに会うの。 
 まるで私が、悪人にでもなった気分になるから。

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 数週間前の苦い記憶を振り払うように、キーケースの中で1番古めかしい鍵を鍵穴に差した。鍵を回す。ガチャリ、と音を立ててドアが開く。
 無言で玄関のドアを開け、一歩中に足を踏み入れると、懐かしい匂いがした。数年ぶりに帰って来た実家は、何一つ変わらない。嫌になるくらいに。
 こんなところにいたら、閉塞感で眩暈がしそうだ。
 私は、二階にある自分の部屋に向かう。ドアの前に立つと、小学生のころ、図工の時間に作ったどんぐりのドアプレートが目に付く。それを取り外して、私はドアノブを押した。
 数年ぶりの自分の部屋の中は、古書店に入った時のような焦げた本の匂いが充満していた。僅かに空いたカーテンの隙間から差し込む西日で、舞い上がった埃が星屑のように反射している。
 部屋のほとんどの家具は、白いシーツが掛けられていた。試しに一つシーツを剥がしてみると、学生の頃使っていた勉強机が姿を表す。机の上を人差し指でなぞると、ニスの禿げかけた茶色の線が浮き上がった。
 指についた埃を払って顔を上げた時、かたり、と物音がした。驚いて後ろを振り返ると、そこにはクローゼットがある。
 私は吸い寄せられるように、クローゼットのノブに手を伸ばした。折戸の片方をゆっくりと開く。
「──」
 私の影で覆われた”それ”は、ダンボールで山積みになったクローゼットの中で、窮屈そうに押し込まれていた。
 無意識に伸ばした手を、思わず止める。
 いつのまにか、呼吸が浅くなっていたのか、それともこの部屋の酸素が薄いのか、息が苦しい。
 黒いケースで覆われたそれをクローゼットの中から引っ張り出して、自分の膝の上に置いた。優しく撫でると、ナイロン生地の滑らかな手触りがした。ジジジ、と滑りの悪いチャックを開けると、それは姿を表す。
 臙脂色のふちから中心に向かって木目グラデーションが混じり合う特徴的なボディと、ネックからヘッドにかけて黒く艶のある光沢が目を引く。
 Gibson USA Les Paul。
 10年前に置き去りにした青春が、そこにはあった。
 試しに適当な弦を弾くと、錆びついた弦から酷い音階が奏でられた。手入れもせず何年もクローゼットの片隅に放置していたことを、暗に咎められたような気分になる。
「……ごめん。随分待たせたね」
 私はギターを撫でて、語りかける。
「一緒に帰ろっか。私の家に」
 もちろん、返事はない。それでもいい。私は、再びギターケースに戻してチャックを閉めた。その時、私は気づいた。ギターケースの正面についた大きなポケットの、不自然な膨らみに。バリバリと音を立てて、マジックテープを剥がす。手を突っ込んで中身を取り出した。
 使い古されて端が折れ曲がった五線譜ノートと、イヤホンを差し込んだままのテープレコーダー。開閉ボタンを押すと、中にはカセットテープが入ったままだった。
 それを両の手のひらで握ると、鼻の奥がツンとした。何年経っても決して色褪せない私の青春が、ここにある。
 たぶん、ずっと待ってたんだ。私を。  
 イヤホンを耳に付けて、巻き戻しボタンを押した。テープの擦り切れる音と共に2つの歯車がぐるぐる回る。片方の歯車側に全てのテープが集まると、ガチャ、と停止した。
 埃っぽい空気を吸い込んで吐き出す。
 意を決して、もう一度再生ボタンを押した。