「あの日、僕達の人生は何もかもが変わりました。だから、これから僕が生きる道は、僕が決めます。あの日、僕がどうすることもできなかった運命を変えるために」
顔を上げると、かつてのクラスメイトの写真が並んでいる。先生を含めて三十一人分の写真は誰もが笑みを浮かべている。
「僕は今、医学の道を歩み始めました。僕の命を救ってくださった先生方のように、僕も誰かの命を救えるように。僕のような思いをする人が一人でも減るように。みんなの分まで懸命に生きることを、ここに改めて誓います。元二年三組、浅羽涼太」
原稿から顔を上げて写真に向かって一礼すると、カメラのフラッシュに包まれた。
事前に決められていた通りの席に戻り、慰霊式の進行を見守る。延々と続く挨拶や再発防止の誓いを、僕はどこか他人事のように聞いていた。
やがて慰霊式が終わると、係の人に誘導されて裏口から会場の外に出る。取材はNGにしていたけど、念のためそこから車で少し離れたところにある公園まで送ってもらった。
そこでしばらく待っていると、礼服姿の夏帆が駆け寄ってくる。
「大役お疲れ様、涼太」
夏帆が差し出したホットココアのペットボトルを受け取る。慰霊式はあの事故が起きた日と同日に開かれていて、雪こそ降らないものの剥き出しの手はすっかりかじかんでいた。
「涼太が目を覚ましてから一年半、かあ。一つ、区切りになった?」
「どうだろう。あまり実感ないや」
僕が目を覚ました時、事故から半年が過ぎていた。事故を起こしたバスの中で、僕は目を覚ました唯一の人間だった。そこから一年遅れで高校を卒業し、とある大学の医学部に入学してから半年ほど。
「私のことは、思い出した?」
「……ごめん」
事故で強い衝撃を受けたせいか、僕の記憶は数人の記憶を失っていた。正確には存在は覚えているのだけど、それは記憶というより記録を見ているような感覚に近くて、目を覚ましてから夏帆と初めて再会した時は、まるで初対面のような感じだった。
「涼太のせいじゃないんだし、謝らないでよ。それに、同じ人と二回も恋愛できるってのもなかなか経験できないしね」
事故に遭う前、夏帆は僕の恋人だった。
夏帆の記憶を失ってからも、夏帆は僕の恋人であり続けようとしてくれたけど、一度友人からやり直すようお願いした。今の僕が夏帆にとって一番の存在になったら、もう一度付き合ってほしいと。
「でも、大変なんだからね。乃利子ちゃんが『先輩を支えるのは私です!』とか息巻いちゃって」
「あはは。乃利子って昔からそうだったっけ」
「そうなの。涼太ラブって感じで、油断も隙もないっていうか。そういえば、裕大君も一浪して涼太と同じ大学狙ってるんだっけ。ホント、涼太は後輩をたぶらかすの上手だよね」
夏帆は小さく頬を膨らませて腰に手を当ててみせる。
「たぶらかすって」
「ふふ、冗談。でもね、わかるよ。乃利子ちゃんも裕大君も、本気で涼太のこと慕ってるって」
ふっと息を吐き出した夏帆が口元を引き締め、その表情が険しくなる。
「運転手に睡眠薬を飲ませた犯人、結局見つからなかったね」
事故の直接的な原因は、ドライブレコーダーの映像から運転手が運転中に意識を失ったことがわかっている。だけど、事態は簡単ではなく、司法解剖の結果、睡眠薬の成分が検出された。
そして、目を覚ました僕の証言で事故ではなく事件として捜査が進められている。しかし、その犯人は未だ目星もついていないのが実情だった。
「あんなひどいことをした犯人がどこかで生きてるかと思うと、許せないよ」
「……そうだね」
憤る夏帆の言葉に頷く。きっと、犯人は見つからないだろう。そのことにほっと安堵している僕がいる。
「涼太、今日はこれからどうするの?」
「えっと、ちょっと寄りたいところがあるんだ」
「わかった。こんな日だもんね。じゃあ、私、駅で待ってるから」
「遅くなるかもしれないし、寒いから先に帰っててよ」
「やだ。待ってる」
夏帆は小さく頬を膨らませて譲ろうとしない。
何だかその意地の張り方が懐かしい。だけど、その懐かしさは僕の記録の中の夏帆なのか、また別の誰かのことなのか自信がなかった。
それでも、夏帆が僕のことを心配して待つと言ってくれていることはわかった。
「ありがと、夏帆。じゃあ、また後で」
*
「お、涼太」
「佐藤先輩」
病室の扉を開くと、スツールに腰掛けてベッドをじっと見つめる佐藤先輩の姿があった。
陸上部で一緒だった佐藤先輩は静かに立ち上がると、僕を手招きする。
「慰霊式、お疲れ様。テレビで見てたぞ」
「慣れないことはするもんじゃないなって」
「様になってたぞ。それに、波奈もお前の決意、見てたはずだ」
立ち上がった佐藤先輩の向こうでは、波奈が静かに目を閉じている。
あのバス事故で生き残っているのは、僕と波奈だけだった。だけど、波奈は意識を失ったままだった。
佐藤先輩は柔らかな笑顔を波奈に向けてから、スツールを僕に譲る。
「気にしないでください。少し立ち寄っただけなんで」
「いや、ちょっとトイレ行くからさ。波奈のこと見守っててくれよ。もし目を覚ました時、一人だったら寂しすぎるだろ?」
「……わかりました」
「腹の調子悪いから、長くなるかも」
「その情報はいりませんって」
まるで高校時代の部室のような感覚に気持ちが落ち着く。佐藤先輩の記憶も失ってしまっていたけど、佐藤先輩はリハビリ中の俺を容赦なく走らせて、そんな先輩後輩をやっていたら、いつの間にか記憶を失う前以上の関係なっていた。
「佐藤先輩」
「ん?」
病室を出る佐藤先輩を呼び止める。いつも通りの様子だから気づかなかったけど、その目が赤く腫れていた。
「波奈は、僕が連れ戻しますから」
佐藤先輩がハッと息を呑むのがわかった。それから、くしゃりと表情を崩す。泣き笑いのような表情は波奈の最後のことを思い出させた。
「頼むよ。昔からよく迷子になる、手間のかかる妹みたいなやつなんだ」
“あの場所”で波奈が語った「お兄ちゃん」は、佐藤先輩のことだった。カードに描かれた佐藤先輩の話をしたときの波奈の驚いた顔を今もはっきり思い出すことができた。
佐藤先輩が足早に病室を離れ、僕は波奈と二人きりになる。
あの事故の前は波奈と二人きりになることなんてなかった。ちゃんと会話を交わしたのも、あの場所が最初で最後だったと思う。
「波奈。久しぶり」
佐藤先輩すみません、と心の中で謝ってから波奈の手を取る。今にも目覚めるんじゃないかと思えるような、温かくてふわふわとした手だった。
『波奈を、殺さないでくれ』
僕が死神に託した願い事を、死神は律儀に守ってくれている。
――完全に死んでしまった人間を生き返らせることはできないって。そういう時間を巻き戻すようなこと、簡単にはできないのよ。
僕が波奈との勝負に勝った後、それまで勝った相手とは違うことが一つだけあった。直樹や健介は勝負の後、体がすり抜けていたのに、波奈だけは最後まで抱き寄せることができ、そのふわふわとした手で頭を撫でてくれた。
もしかしたら、波奈はまだ『完全に』死んではいないのではないか。
だから、死にゆく波奈の時間を「止めてもらう」ことを頼んだ。
「この前はどこまで話したっけ。ああ、そうだ。医学部に入学したんだけどさ、大変だよ。僕、元々文系だしね」
バス事故の後の経過を見せてもらったことがある。僕達が救助されたタイミングでは、全員意識を失っていたもののまだ八人が生きていたらしい。その八人は玲美や亜沙子が含まれていて、それは死神のゲームの経過によく似ていた。だから、僕の予想はそこまで大きく間違ってはいないんだと思う。
「じつはさ、大学の先輩に委員長のお兄さんがいたんだ。来年から研修医だって。将来は妹――亜沙子のような子を救える医者になりたいって」
“向こう側”で聞いた亜沙子との約束は、守ることにした。警察や関係者には「誰かが運転手に差し入れをした」とだけ話している。今の僕には、それが亜沙子にできる精一杯だった。あんなに追い込まれてると気づこうともしなかったことへの償いとしては、まだ全然足りないんだろうけど。
「僕もさ、頑張るよ。波奈を起こすことができるように」
僕の目標は、眠ったままの波奈を目覚めさせること。そんな方法があるのかもわからないけど、そのために医療分野に進むことにした。そのため“だけ”に。
あのゲームが終わっても、僕は相変わらず人を騙しているのかもしれない。あるいは、理想の僕を演じているのかも。
「目が覚めたら、色々なことを話そう。あの時、波奈が何を感じてたのかとか、少ないかもしれないけどあのクラスでの思い出とか。何でもないようなことを、日が暮れるまでさ」
握っていた波奈の手をベッドに戻し、あの時とは逆にそのさらりとした髪をゆっくり撫でる。話したいことがいっぱいあった。
僕は一応、亜沙子が言っていた「生きる責任」を果たしているのだとは思う。だけど、それがどうしようもない重荷になるときがこれからやってくるだろう。
そんなとき、分かち合える人が欲しかった。それだけは、他の誰にもできないことだ。
「波奈はさ、思い出をなくして生きるのは寂しすぎるって言ったけど。新しい思い出を積み上げていくのも、悪くないよ。波奈に頷いてもらえるように、頑張るから」
その時、病室に冷たい風が吹き込んできた。窓が微かに空いている。もしかしたら、佐藤先輩が空けたままにしていったのかもしれない。
『無理しないでね』
ふわりと、波奈の声が聞こえた気がした。
驚いて波奈の顔を見るけど変わった様子はない。今にも目を覚ましそうな顔で眠ったままだった。
その頬に、どこから飛んできたのか季節外れの桜の花びらが乗っていた。そっと、その花びらを掬う。
「そういう時は、『頑張ってね』とか『待ってるね』って言うんじゃないの」
でも、波奈らしい。幻かもしれないその言葉は、救いだった。
薄い桃色の花びらを握りしめ、立ち上がる。波奈に目を覚ましてほしいというのは、僕のエゴかもしれないと思うこともあったけど。
それでも、僕以外にも波奈の帰りを待っている人がいる。だから、僕は身勝手でも歩き続ける。それが、僕なりの生きる責任の果たし方。
「また来るよ。君が目を覚ますとの時まで、何度でも」
顔を上げると、かつてのクラスメイトの写真が並んでいる。先生を含めて三十一人分の写真は誰もが笑みを浮かべている。
「僕は今、医学の道を歩み始めました。僕の命を救ってくださった先生方のように、僕も誰かの命を救えるように。僕のような思いをする人が一人でも減るように。みんなの分まで懸命に生きることを、ここに改めて誓います。元二年三組、浅羽涼太」
原稿から顔を上げて写真に向かって一礼すると、カメラのフラッシュに包まれた。
事前に決められていた通りの席に戻り、慰霊式の進行を見守る。延々と続く挨拶や再発防止の誓いを、僕はどこか他人事のように聞いていた。
やがて慰霊式が終わると、係の人に誘導されて裏口から会場の外に出る。取材はNGにしていたけど、念のためそこから車で少し離れたところにある公園まで送ってもらった。
そこでしばらく待っていると、礼服姿の夏帆が駆け寄ってくる。
「大役お疲れ様、涼太」
夏帆が差し出したホットココアのペットボトルを受け取る。慰霊式はあの事故が起きた日と同日に開かれていて、雪こそ降らないものの剥き出しの手はすっかりかじかんでいた。
「涼太が目を覚ましてから一年半、かあ。一つ、区切りになった?」
「どうだろう。あまり実感ないや」
僕が目を覚ました時、事故から半年が過ぎていた。事故を起こしたバスの中で、僕は目を覚ました唯一の人間だった。そこから一年遅れで高校を卒業し、とある大学の医学部に入学してから半年ほど。
「私のことは、思い出した?」
「……ごめん」
事故で強い衝撃を受けたせいか、僕の記憶は数人の記憶を失っていた。正確には存在は覚えているのだけど、それは記憶というより記録を見ているような感覚に近くて、目を覚ましてから夏帆と初めて再会した時は、まるで初対面のような感じだった。
「涼太のせいじゃないんだし、謝らないでよ。それに、同じ人と二回も恋愛できるってのもなかなか経験できないしね」
事故に遭う前、夏帆は僕の恋人だった。
夏帆の記憶を失ってからも、夏帆は僕の恋人であり続けようとしてくれたけど、一度友人からやり直すようお願いした。今の僕が夏帆にとって一番の存在になったら、もう一度付き合ってほしいと。
「でも、大変なんだからね。乃利子ちゃんが『先輩を支えるのは私です!』とか息巻いちゃって」
「あはは。乃利子って昔からそうだったっけ」
「そうなの。涼太ラブって感じで、油断も隙もないっていうか。そういえば、裕大君も一浪して涼太と同じ大学狙ってるんだっけ。ホント、涼太は後輩をたぶらかすの上手だよね」
夏帆は小さく頬を膨らませて腰に手を当ててみせる。
「たぶらかすって」
「ふふ、冗談。でもね、わかるよ。乃利子ちゃんも裕大君も、本気で涼太のこと慕ってるって」
ふっと息を吐き出した夏帆が口元を引き締め、その表情が険しくなる。
「運転手に睡眠薬を飲ませた犯人、結局見つからなかったね」
事故の直接的な原因は、ドライブレコーダーの映像から運転手が運転中に意識を失ったことがわかっている。だけど、事態は簡単ではなく、司法解剖の結果、睡眠薬の成分が検出された。
そして、目を覚ました僕の証言で事故ではなく事件として捜査が進められている。しかし、その犯人は未だ目星もついていないのが実情だった。
「あんなひどいことをした犯人がどこかで生きてるかと思うと、許せないよ」
「……そうだね」
憤る夏帆の言葉に頷く。きっと、犯人は見つからないだろう。そのことにほっと安堵している僕がいる。
「涼太、今日はこれからどうするの?」
「えっと、ちょっと寄りたいところがあるんだ」
「わかった。こんな日だもんね。じゃあ、私、駅で待ってるから」
「遅くなるかもしれないし、寒いから先に帰っててよ」
「やだ。待ってる」
夏帆は小さく頬を膨らませて譲ろうとしない。
何だかその意地の張り方が懐かしい。だけど、その懐かしさは僕の記録の中の夏帆なのか、また別の誰かのことなのか自信がなかった。
それでも、夏帆が僕のことを心配して待つと言ってくれていることはわかった。
「ありがと、夏帆。じゃあ、また後で」
*
「お、涼太」
「佐藤先輩」
病室の扉を開くと、スツールに腰掛けてベッドをじっと見つめる佐藤先輩の姿があった。
陸上部で一緒だった佐藤先輩は静かに立ち上がると、僕を手招きする。
「慰霊式、お疲れ様。テレビで見てたぞ」
「慣れないことはするもんじゃないなって」
「様になってたぞ。それに、波奈もお前の決意、見てたはずだ」
立ち上がった佐藤先輩の向こうでは、波奈が静かに目を閉じている。
あのバス事故で生き残っているのは、僕と波奈だけだった。だけど、波奈は意識を失ったままだった。
佐藤先輩は柔らかな笑顔を波奈に向けてから、スツールを僕に譲る。
「気にしないでください。少し立ち寄っただけなんで」
「いや、ちょっとトイレ行くからさ。波奈のこと見守っててくれよ。もし目を覚ました時、一人だったら寂しすぎるだろ?」
「……わかりました」
「腹の調子悪いから、長くなるかも」
「その情報はいりませんって」
まるで高校時代の部室のような感覚に気持ちが落ち着く。佐藤先輩の記憶も失ってしまっていたけど、佐藤先輩はリハビリ中の俺を容赦なく走らせて、そんな先輩後輩をやっていたら、いつの間にか記憶を失う前以上の関係なっていた。
「佐藤先輩」
「ん?」
病室を出る佐藤先輩を呼び止める。いつも通りの様子だから気づかなかったけど、その目が赤く腫れていた。
「波奈は、僕が連れ戻しますから」
佐藤先輩がハッと息を呑むのがわかった。それから、くしゃりと表情を崩す。泣き笑いのような表情は波奈の最後のことを思い出させた。
「頼むよ。昔からよく迷子になる、手間のかかる妹みたいなやつなんだ」
“あの場所”で波奈が語った「お兄ちゃん」は、佐藤先輩のことだった。カードに描かれた佐藤先輩の話をしたときの波奈の驚いた顔を今もはっきり思い出すことができた。
佐藤先輩が足早に病室を離れ、僕は波奈と二人きりになる。
あの事故の前は波奈と二人きりになることなんてなかった。ちゃんと会話を交わしたのも、あの場所が最初で最後だったと思う。
「波奈。久しぶり」
佐藤先輩すみません、と心の中で謝ってから波奈の手を取る。今にも目覚めるんじゃないかと思えるような、温かくてふわふわとした手だった。
『波奈を、殺さないでくれ』
僕が死神に託した願い事を、死神は律儀に守ってくれている。
――完全に死んでしまった人間を生き返らせることはできないって。そういう時間を巻き戻すようなこと、簡単にはできないのよ。
僕が波奈との勝負に勝った後、それまで勝った相手とは違うことが一つだけあった。直樹や健介は勝負の後、体がすり抜けていたのに、波奈だけは最後まで抱き寄せることができ、そのふわふわとした手で頭を撫でてくれた。
もしかしたら、波奈はまだ『完全に』死んではいないのではないか。
だから、死にゆく波奈の時間を「止めてもらう」ことを頼んだ。
「この前はどこまで話したっけ。ああ、そうだ。医学部に入学したんだけどさ、大変だよ。僕、元々文系だしね」
バス事故の後の経過を見せてもらったことがある。僕達が救助されたタイミングでは、全員意識を失っていたもののまだ八人が生きていたらしい。その八人は玲美や亜沙子が含まれていて、それは死神のゲームの経過によく似ていた。だから、僕の予想はそこまで大きく間違ってはいないんだと思う。
「じつはさ、大学の先輩に委員長のお兄さんがいたんだ。来年から研修医だって。将来は妹――亜沙子のような子を救える医者になりたいって」
“向こう側”で聞いた亜沙子との約束は、守ることにした。警察や関係者には「誰かが運転手に差し入れをした」とだけ話している。今の僕には、それが亜沙子にできる精一杯だった。あんなに追い込まれてると気づこうともしなかったことへの償いとしては、まだ全然足りないんだろうけど。
「僕もさ、頑張るよ。波奈を起こすことができるように」
僕の目標は、眠ったままの波奈を目覚めさせること。そんな方法があるのかもわからないけど、そのために医療分野に進むことにした。そのため“だけ”に。
あのゲームが終わっても、僕は相変わらず人を騙しているのかもしれない。あるいは、理想の僕を演じているのかも。
「目が覚めたら、色々なことを話そう。あの時、波奈が何を感じてたのかとか、少ないかもしれないけどあのクラスでの思い出とか。何でもないようなことを、日が暮れるまでさ」
握っていた波奈の手をベッドに戻し、あの時とは逆にそのさらりとした髪をゆっくり撫でる。話したいことがいっぱいあった。
僕は一応、亜沙子が言っていた「生きる責任」を果たしているのだとは思う。だけど、それがどうしようもない重荷になるときがこれからやってくるだろう。
そんなとき、分かち合える人が欲しかった。それだけは、他の誰にもできないことだ。
「波奈はさ、思い出をなくして生きるのは寂しすぎるって言ったけど。新しい思い出を積み上げていくのも、悪くないよ。波奈に頷いてもらえるように、頑張るから」
その時、病室に冷たい風が吹き込んできた。窓が微かに空いている。もしかしたら、佐藤先輩が空けたままにしていったのかもしれない。
『無理しないでね』
ふわりと、波奈の声が聞こえた気がした。
驚いて波奈の顔を見るけど変わった様子はない。今にも目を覚ましそうな顔で眠ったままだった。
その頬に、どこから飛んできたのか季節外れの桜の花びらが乗っていた。そっと、その花びらを掬う。
「そういう時は、『頑張ってね』とか『待ってるね』って言うんじゃないの」
でも、波奈らしい。幻かもしれないその言葉は、救いだった。
薄い桃色の花びらを握りしめ、立ち上がる。波奈に目を覚ましてほしいというのは、僕のエゴかもしれないと思うこともあったけど。
それでも、僕以外にも波奈の帰りを待っている人がいる。だから、僕は身勝手でも歩き続ける。それが、僕なりの生きる責任の果たし方。
「また来るよ。君が目を覚ますとの時まで、何度でも」



