次の部屋にはまだ誰もいなかった。
さっきの亜沙子に倣うようにテーブルの片側の椅子を引き腰掛ける。手元に残されたカードは夏帆のカード一枚。勝つとか負けるじゃなくて、使いたくない。ここまでに使ってきた佐藤先輩や裕大の記憶が大事じゃないわけじゃないけど、夏帆との記憶は僕にとって特別だった。
「だけど、夏帆と生きる資格なんて、今さら僕にあるのかな」
独りごちると声が部屋に反響する。ここまで自分がしてきたことと、これからの自分。二つを思い浮かべて、言いようのない孤独に襲われた。
その時、部屋に新たな扉が生まれた。ギイッと軋む音とともに扉が開き、その向こうから恐る恐るといった様子で踏み出してきたのは波奈だった。
「……涼太君?」
部屋の中を覗き込んだ波奈が僕を見て、なぜかほっとしたように名前を呼ぶと、とてとてと部屋の中を歩き僕の向かいに腰を下ろす。だけど、その視線は落ち着かないように部屋のあちこちを見渡していた。今までの部屋と特に違いはないはずだけど。
「さあ、最後の二人まで来たわね。とりあえずご苦労さんといったところかしら」
ガガガというスピーカーの前触れのような音がなんだか懐かしかった。死神の声は相変わらずあっさりとしていて、僕達がどれだけ苦労しようが知ったことではなさそうだった。
「もう貴方たちしかいないし、ここから先はどれだけ時間を使っても構わないわ。悔いのない結論を出しなさい」
それだけ言うとブツリと死神の声は途切れた。
改めて波奈と向き合う。ここで向かい合っているのが波奈でよかった。考えられる中でも、一番説得に応じてくれそうな相手だ。あるいは、波奈もそれを感じたから僕を見てほっとしたのかもしれない。
そんな波奈の手にはカードが一枚だけ握られている。
「波奈も気づいたんだね。カードを二枚出せること」
僕が一枚になったカードを掲げると、波奈はどこか困ったように小さく笑った。
「……うん。どうしても、会いたい人がいるんだ」
そう答えた波奈が手元に残されたカードをぎゅっと握りしめる。その仕草に僕は自然と夏帆が描かれたカードに視線を落としていた。波奈も僕と同じように会いたい人がいて、そのカードをどうにかここまで残してきたのかもしれない。
僕たちが勝負をすれば、その記憶は失われてしまう。
「僕もだよ。だから、きっと、僕たちは勝負するべきじゃない」
意を決して切り出すと、波奈はじっと僕を見る。
「勝っても負けても、ここまで守ってきた記憶を失う。だから、寿命を分けよう。二人で分ければ、三十年とか四十年生きれるはずだ」
僕の言葉に波奈が目を見開いた。まるで、そのことに初めて気づいたような。
そんなことあるのかなと思いつつ、僕は波奈の返事をじっと待つ。波奈は何かを悩んでいるようだった。
悩む必要なんてないだろう。ここで勝てば願い事が一つ叶うらしいけど、大切な人との記憶より大事な願いなんてものは。
「……ごめん」
波奈が出した結論は、謝罪だった。
ここまで、四回の勝負で色々なやり取りがあった。
これまでのどんなやり取りよりも傷ついて、絶望しそうな僕がいる。
「どうして。そこまでして叶えたい願いがあるの?」
波奈は黙って首を横に振る。
「三十年とか、四十年って寿命じゃ足りない?」
波奈は再び何も言わずにプルプルと首を左右に降った。
「じゃあ、なんで……」
「ごめん」
波奈は今にも消え入りそうな声で謝ると、目尻に手を当てた。
その瞳がテーブルを挟んでいてもわかるくらい潤んでいる。絶え間ないまばたきがその涙をギリギリのところで押し返しているようだった。
ごめんね、と波奈が発するたびに心をザクザクと斬りつけられたようだった。ここに来るまでに分厚い殻で多い、痛みに麻痺していたはずなのに、今さらどくどくと血を流しているようで。
「わかったから、もう謝らないで」
「ごめん」
「だから」
「あ、そっか」
波奈がちょっと照れたようにはにかんで、ようやく少し救われたような気持になった。
もしかして僕は波奈にペースを握られているのか。でも、目の前の波奈は何かを隠しているようではあったけど、何か企んでいるようには見えなかった。
「私からも一つ、お願いがあるの」
「お願い?」
波奈が遠慮がちに僕の顔を見ている。
波奈からお願いというのは意外だった。僕からのお願いを断ったばかりで、という考えも浮かんできたけど、再びグサグサと斬りつけられるのが怖くて、頷きつつ尋ねる。
「勝負する前に、カードに描かれていた人たちのこと、お互いに話したらダメかな? 死神さん、時間はどれだけでもかけていいって言ってたし」
「いったい、何のために?」
「私達はカードに描かれてた人たちのことを忘れちゃうでしょ。でも、お互いのことは覚えてる。私達はお互いのカードには出てきてないから」
だよね、と確かめるように首を傾げる波奈に頷く。
「だから、カードに描かれてた人たちのことを、私達の会話として覚えておけないかなって。もちろん、そういった記憶も含めて忘れさせられちゃうのかもしれないけど、もしかしたら、少しだけでも記憶を残せるかも」
そう訴えかけてくる波奈の視線は、さっきまでと違って真っ直ぐ揺らぐことなく僕を見ている。
夏帆や佐藤先輩、裕大の記憶を波奈との会話を通じて残す。そんなことできるのだろうか。それができるのなら、そもそも使ったカードに描かれた相手の記憶を失うというルールの意味がなくなるんじゃないだろうか。
だけど、ここまでもカードを二枚出したり、ルールとして明言されていない部分には抜け道があった。失うものもないし、波奈の提案もやってみる価値はあるかもしれない。
「でも、会話を通じて残した記憶ってどんな感じなんだろう?」
「記憶というか、記録みたいな感じかも。歴史上の人物みたいな」
僕の質問に波奈は淀みなく答える。もしかした、この勝負が始まった時から波奈はこの方法を考えていたのかもしれない。
どのみち、ここで断ったら僕たちはもう勝負するしかない。
「わかった。やってみよう」
「わっ、ホント? 涼太君、ありがとう」
「僕はまだ、寿命を分け合うのも諦めてないけどね」
カードに描かれた人の話をしているうちに、もしかしたら勝負するよりも確実に生き返りたいと思ってくれるかもしれない。
だけど、僕の言葉に波奈は静かに首を横に振った。その決意はやっぱり固いらしい。あとは話の中でその気が変わることを信じるしかない。
「じゃあ、僕から。僕が一番会いたいのは、隣のクラスの夏帆って女の子なんだけど」
僕と波奈はテーブルをはさんで向き合う形から、隣り合わせに椅子を並べ直して、白い部屋を見ながら話し始めた。隣に座っている波奈は膝にちょこんと手を置いて、真剣に僕の話を聞いている。
「あ、知ってる。すごくかわいい女の子」
「中身はお転婆だけどね。小学生の頃からずっと一緒で。本当に、一緒にいるのが当たり前で。気がついたときには、この先もずっと一緒にいたいと思ってた」
「ステキだね。でも、その気持ち、わかるかも」
「あ、ほんとに?」
「うん。私にも、そういう人いるから」
「どんな人?」
「小さい頃からずっと一緒で。一つ年上のお兄ちゃんみたいな人。私、小さい時いじめられそうになったんだけど、お兄ちゃんが私を守ってくれて。ずっと、ヒーローみたいな人」
「その人が、波奈がどうしても会いたい人?」
「……うん」
波奈はゆっくりと天井を見上げて、はにかみながら頷いた。
そのまま僕たちは色々な人の話をした。中学時代から慕ってついて来てくれている裕大のこととか、陸上部で何かと気の合う佐藤先輩のこととか。ちょっと苦い記憶が混ざった乃利子の話とか。
その人に関するエピソードを披露するたびに、波奈は目を見開いたり、くしゃりと笑ったり、しょんぼりと目を伏せたりと表情をコロコロと替えた。知らなかった。波奈がこんなに感情豊かな女の子だったなんて。
波奈が持っていたカードに描かれた人たちのエピソードも記憶に刻み込むように一生懸命聞いた。波奈は授業中以外ほとんど「お兄ちゃん」のクラスに通っていて、他の先輩達も波奈によくしてくれているらしい。
「こんなに話しても喉乾かないし疲れもしないって、ちょっと不思議」
六人目の話を終えた波奈が小さく首を傾げた。
どれくらいの時間話していたのか、時計のない僕たちは知ることはできないけど、随分長い間で話し続けていたと思う。
「ここはそういう場所なのかも。だけど、そんなの関係なく、時間を忘れるくらい楽しかった」
「うん」
夢中で話していたせいか、気がつけば波奈の頬が仄かに上気している。僕もそんな感じになってるのかも。そんなことを考えていると、波奈がくすりと笑う。
「ちょっと、もったいなかったかも」
「何が?」
「今のクラスは苦手だなって、誰とも話そうとしなかったこと。もっと早く涼太君と話してたら、教室ももう少し過ごしやすかったかも」
波奈の言葉は、亜沙子のことを思い起こさせた。僕たちはもしかしたら、健介たちを言い訳にしてお互いから背を向けすぎてたんじゃないだろうか。
ちゃんと向き合うことができていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「僕も、もっと波奈と話してみたいことがある」
「どんなこと?」
「何でもない事。昨日何食べたとか、今日の授業面倒だねとか、そんなこと」
そんな何でもない日々の大切さが、苦しいくらいに胸を突き刺す。
「だからさ、波奈。一緒に帰ろう」
そっと波奈に手を差し出す。
帰ろう。失ったものは大きすぎるけど、帰ればきっと僕たちはまた歩くことができる。
だけど、波奈は小さく首を振って静かに立ち上がった。
僕の手を取ることのないままテーブルに向かい、持っていた最後のカードを伏せた。
「最後の勝負だよ。涼太君」
僕を見る波奈は今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「どうして……」
波奈は何も答えない。ただ黙って僕を促す。
僕がカードを伏せなければ勝負は始まらない。だけど、それはどこまでも終わらない根競べで。
気がつけば僕は波奈に導かれるようにテーブルの向かいに立っていた。
夏帆のカードをテーブルに伏せる。波奈は相変わらず瞳に涙を称えたまま、祈るように息を吸う。
カードがひっくり返る。夏帆のカードには100%の下に70%の数字が浮かんだ。
「なんで……」
負けた。そう思ってた。
だけど、波奈が伏せたカードに浮かんでいた数字は二つとも10%だった。
波奈の手元に残っていたのは「お兄ちゃん」ではなく、一番弱いカード。
「どうして、なんで。そんな状態で勝負なんか……」
生き返るためには、波奈は僕の寿命を分ける提案に乗るしかなかったはずだ。
なのに、波奈は勝負を選んだ。確実に負けることがわかっていたはずなのに。
「涼太君が最後まで一番会いたい人のカードを残してたって気づいて。ああ、生き返るのは涼太君なんだなって」
「僕たちは一緒に帰れたのに」
「うん。涼太君のお話を聞いて、すごいすごい心が揺らいだけど」
波奈がずっと堪えていた涙が零れ落ちた。
「お兄ちゃんのことを全部忘れて、生きていくのはやっぱり寂しすぎるよ……」
テーブルを乗り越えて、波奈を抱き寄せる。嫌だ。こんな結末は認めない。
一人分の寿命なんていらない。だから、せめて波奈を連れて帰らせてくれ。
僕が一人で背負うにはこの現実は重すぎる。波奈となら、一緒に背負って歩いて行ける気がするんだ。
「やあ、優勝おめでとう。君が二回目で切り札を切った時にはどうする気かなと思ったけど」
いつの間にか黒い衣装をまとった死神の女が立っていた。面倒くさそうに手を叩きながら僕たちを見ている。死神が手を掲げると、茜色をした神秘的な炎が浮かび上がった。
「さあ、優勝賞品の一人分の寿命よ。ありがたく受け取りなさい」
いらない。そんな言葉を発する間もなく炎が僕の胸に吸い込まれる。
ハッと目が覚めた感じ。借り物の体から自分本来の体に戻ったような。
ここは僕のいる場所じゃないと、体がバタバタと叫んでいる。
「ああ、そうだ。願い事は何にする? これだけ時間はあったし考えてるわよね」
「波奈も一緒に生き返らせてくれ。僕の寿命を半分にしていいから」
「ダメよ。言ったでしょ。完全に死んでしまった人間を生き返らせることはできないって。そういう時間を巻き戻すようなこと、簡単にはできないのよ」
死神は呆れたようにため息をついて冷酷な眼で僕を見る。
まだ、なにかあるはずだ。この死神が決めたルールは言外の部分に穴がある。
「気にしないで、涼太君。私の記憶と一緒に、涼太君が忘れたくない人たちの思い出を持っていって」
胸元の波奈が顔を上げる。涙の痕がくっきり残る顔で、秋晴れのように爽やかに微笑んでいた。
それからゆっくりと僕の頭に手を置いた。ぐずる子供をあやすように、波奈の手が僕の頭を撫でる。
そんな波奈も、このままでは完全に死んでしまう。ああ、そうか。そうだ。
「わかった。僕の願いは――」
僕が願い事を告げると、死神は一瞬キョトンとしてから、深々とため息をつく。
「呆れた。本当にそんなことでいいのね」
僕が頷くと死神は空中から大鎌を取り出し、天井に向かって掲げる。
部屋の白が大鎌に吸い込まれていく。パラパラと空間が不安定になり、部屋の中の白が全部なくなった瞬間、ぱあっと眩い光が当たりを包んだ。
胸元に残る波奈の温もり。それが僕の最後の記憶だった。
さっきの亜沙子に倣うようにテーブルの片側の椅子を引き腰掛ける。手元に残されたカードは夏帆のカード一枚。勝つとか負けるじゃなくて、使いたくない。ここまでに使ってきた佐藤先輩や裕大の記憶が大事じゃないわけじゃないけど、夏帆との記憶は僕にとって特別だった。
「だけど、夏帆と生きる資格なんて、今さら僕にあるのかな」
独りごちると声が部屋に反響する。ここまで自分がしてきたことと、これからの自分。二つを思い浮かべて、言いようのない孤独に襲われた。
その時、部屋に新たな扉が生まれた。ギイッと軋む音とともに扉が開き、その向こうから恐る恐るといった様子で踏み出してきたのは波奈だった。
「……涼太君?」
部屋の中を覗き込んだ波奈が僕を見て、なぜかほっとしたように名前を呼ぶと、とてとてと部屋の中を歩き僕の向かいに腰を下ろす。だけど、その視線は落ち着かないように部屋のあちこちを見渡していた。今までの部屋と特に違いはないはずだけど。
「さあ、最後の二人まで来たわね。とりあえずご苦労さんといったところかしら」
ガガガというスピーカーの前触れのような音がなんだか懐かしかった。死神の声は相変わらずあっさりとしていて、僕達がどれだけ苦労しようが知ったことではなさそうだった。
「もう貴方たちしかいないし、ここから先はどれだけ時間を使っても構わないわ。悔いのない結論を出しなさい」
それだけ言うとブツリと死神の声は途切れた。
改めて波奈と向き合う。ここで向かい合っているのが波奈でよかった。考えられる中でも、一番説得に応じてくれそうな相手だ。あるいは、波奈もそれを感じたから僕を見てほっとしたのかもしれない。
そんな波奈の手にはカードが一枚だけ握られている。
「波奈も気づいたんだね。カードを二枚出せること」
僕が一枚になったカードを掲げると、波奈はどこか困ったように小さく笑った。
「……うん。どうしても、会いたい人がいるんだ」
そう答えた波奈が手元に残されたカードをぎゅっと握りしめる。その仕草に僕は自然と夏帆が描かれたカードに視線を落としていた。波奈も僕と同じように会いたい人がいて、そのカードをどうにかここまで残してきたのかもしれない。
僕たちが勝負をすれば、その記憶は失われてしまう。
「僕もだよ。だから、きっと、僕たちは勝負するべきじゃない」
意を決して切り出すと、波奈はじっと僕を見る。
「勝っても負けても、ここまで守ってきた記憶を失う。だから、寿命を分けよう。二人で分ければ、三十年とか四十年生きれるはずだ」
僕の言葉に波奈が目を見開いた。まるで、そのことに初めて気づいたような。
そんなことあるのかなと思いつつ、僕は波奈の返事をじっと待つ。波奈は何かを悩んでいるようだった。
悩む必要なんてないだろう。ここで勝てば願い事が一つ叶うらしいけど、大切な人との記憶より大事な願いなんてものは。
「……ごめん」
波奈が出した結論は、謝罪だった。
ここまで、四回の勝負で色々なやり取りがあった。
これまでのどんなやり取りよりも傷ついて、絶望しそうな僕がいる。
「どうして。そこまでして叶えたい願いがあるの?」
波奈は黙って首を横に振る。
「三十年とか、四十年って寿命じゃ足りない?」
波奈は再び何も言わずにプルプルと首を左右に降った。
「じゃあ、なんで……」
「ごめん」
波奈は今にも消え入りそうな声で謝ると、目尻に手を当てた。
その瞳がテーブルを挟んでいてもわかるくらい潤んでいる。絶え間ないまばたきがその涙をギリギリのところで押し返しているようだった。
ごめんね、と波奈が発するたびに心をザクザクと斬りつけられたようだった。ここに来るまでに分厚い殻で多い、痛みに麻痺していたはずなのに、今さらどくどくと血を流しているようで。
「わかったから、もう謝らないで」
「ごめん」
「だから」
「あ、そっか」
波奈がちょっと照れたようにはにかんで、ようやく少し救われたような気持になった。
もしかして僕は波奈にペースを握られているのか。でも、目の前の波奈は何かを隠しているようではあったけど、何か企んでいるようには見えなかった。
「私からも一つ、お願いがあるの」
「お願い?」
波奈が遠慮がちに僕の顔を見ている。
波奈からお願いというのは意外だった。僕からのお願いを断ったばかりで、という考えも浮かんできたけど、再びグサグサと斬りつけられるのが怖くて、頷きつつ尋ねる。
「勝負する前に、カードに描かれていた人たちのこと、お互いに話したらダメかな? 死神さん、時間はどれだけでもかけていいって言ってたし」
「いったい、何のために?」
「私達はカードに描かれてた人たちのことを忘れちゃうでしょ。でも、お互いのことは覚えてる。私達はお互いのカードには出てきてないから」
だよね、と確かめるように首を傾げる波奈に頷く。
「だから、カードに描かれてた人たちのことを、私達の会話として覚えておけないかなって。もちろん、そういった記憶も含めて忘れさせられちゃうのかもしれないけど、もしかしたら、少しだけでも記憶を残せるかも」
そう訴えかけてくる波奈の視線は、さっきまでと違って真っ直ぐ揺らぐことなく僕を見ている。
夏帆や佐藤先輩、裕大の記憶を波奈との会話を通じて残す。そんなことできるのだろうか。それができるのなら、そもそも使ったカードに描かれた相手の記憶を失うというルールの意味がなくなるんじゃないだろうか。
だけど、ここまでもカードを二枚出したり、ルールとして明言されていない部分には抜け道があった。失うものもないし、波奈の提案もやってみる価値はあるかもしれない。
「でも、会話を通じて残した記憶ってどんな感じなんだろう?」
「記憶というか、記録みたいな感じかも。歴史上の人物みたいな」
僕の質問に波奈は淀みなく答える。もしかした、この勝負が始まった時から波奈はこの方法を考えていたのかもしれない。
どのみち、ここで断ったら僕たちはもう勝負するしかない。
「わかった。やってみよう」
「わっ、ホント? 涼太君、ありがとう」
「僕はまだ、寿命を分け合うのも諦めてないけどね」
カードに描かれた人の話をしているうちに、もしかしたら勝負するよりも確実に生き返りたいと思ってくれるかもしれない。
だけど、僕の言葉に波奈は静かに首を横に振った。その決意はやっぱり固いらしい。あとは話の中でその気が変わることを信じるしかない。
「じゃあ、僕から。僕が一番会いたいのは、隣のクラスの夏帆って女の子なんだけど」
僕と波奈はテーブルをはさんで向き合う形から、隣り合わせに椅子を並べ直して、白い部屋を見ながら話し始めた。隣に座っている波奈は膝にちょこんと手を置いて、真剣に僕の話を聞いている。
「あ、知ってる。すごくかわいい女の子」
「中身はお転婆だけどね。小学生の頃からずっと一緒で。本当に、一緒にいるのが当たり前で。気がついたときには、この先もずっと一緒にいたいと思ってた」
「ステキだね。でも、その気持ち、わかるかも」
「あ、ほんとに?」
「うん。私にも、そういう人いるから」
「どんな人?」
「小さい頃からずっと一緒で。一つ年上のお兄ちゃんみたいな人。私、小さい時いじめられそうになったんだけど、お兄ちゃんが私を守ってくれて。ずっと、ヒーローみたいな人」
「その人が、波奈がどうしても会いたい人?」
「……うん」
波奈はゆっくりと天井を見上げて、はにかみながら頷いた。
そのまま僕たちは色々な人の話をした。中学時代から慕ってついて来てくれている裕大のこととか、陸上部で何かと気の合う佐藤先輩のこととか。ちょっと苦い記憶が混ざった乃利子の話とか。
その人に関するエピソードを披露するたびに、波奈は目を見開いたり、くしゃりと笑ったり、しょんぼりと目を伏せたりと表情をコロコロと替えた。知らなかった。波奈がこんなに感情豊かな女の子だったなんて。
波奈が持っていたカードに描かれた人たちのエピソードも記憶に刻み込むように一生懸命聞いた。波奈は授業中以外ほとんど「お兄ちゃん」のクラスに通っていて、他の先輩達も波奈によくしてくれているらしい。
「こんなに話しても喉乾かないし疲れもしないって、ちょっと不思議」
六人目の話を終えた波奈が小さく首を傾げた。
どれくらいの時間話していたのか、時計のない僕たちは知ることはできないけど、随分長い間で話し続けていたと思う。
「ここはそういう場所なのかも。だけど、そんなの関係なく、時間を忘れるくらい楽しかった」
「うん」
夢中で話していたせいか、気がつけば波奈の頬が仄かに上気している。僕もそんな感じになってるのかも。そんなことを考えていると、波奈がくすりと笑う。
「ちょっと、もったいなかったかも」
「何が?」
「今のクラスは苦手だなって、誰とも話そうとしなかったこと。もっと早く涼太君と話してたら、教室ももう少し過ごしやすかったかも」
波奈の言葉は、亜沙子のことを思い起こさせた。僕たちはもしかしたら、健介たちを言い訳にしてお互いから背を向けすぎてたんじゃないだろうか。
ちゃんと向き合うことができていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「僕も、もっと波奈と話してみたいことがある」
「どんなこと?」
「何でもない事。昨日何食べたとか、今日の授業面倒だねとか、そんなこと」
そんな何でもない日々の大切さが、苦しいくらいに胸を突き刺す。
「だからさ、波奈。一緒に帰ろう」
そっと波奈に手を差し出す。
帰ろう。失ったものは大きすぎるけど、帰ればきっと僕たちはまた歩くことができる。
だけど、波奈は小さく首を振って静かに立ち上がった。
僕の手を取ることのないままテーブルに向かい、持っていた最後のカードを伏せた。
「最後の勝負だよ。涼太君」
僕を見る波奈は今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「どうして……」
波奈は何も答えない。ただ黙って僕を促す。
僕がカードを伏せなければ勝負は始まらない。だけど、それはどこまでも終わらない根競べで。
気がつけば僕は波奈に導かれるようにテーブルの向かいに立っていた。
夏帆のカードをテーブルに伏せる。波奈は相変わらず瞳に涙を称えたまま、祈るように息を吸う。
カードがひっくり返る。夏帆のカードには100%の下に70%の数字が浮かんだ。
「なんで……」
負けた。そう思ってた。
だけど、波奈が伏せたカードに浮かんでいた数字は二つとも10%だった。
波奈の手元に残っていたのは「お兄ちゃん」ではなく、一番弱いカード。
「どうして、なんで。そんな状態で勝負なんか……」
生き返るためには、波奈は僕の寿命を分ける提案に乗るしかなかったはずだ。
なのに、波奈は勝負を選んだ。確実に負けることがわかっていたはずなのに。
「涼太君が最後まで一番会いたい人のカードを残してたって気づいて。ああ、生き返るのは涼太君なんだなって」
「僕たちは一緒に帰れたのに」
「うん。涼太君のお話を聞いて、すごいすごい心が揺らいだけど」
波奈がずっと堪えていた涙が零れ落ちた。
「お兄ちゃんのことを全部忘れて、生きていくのはやっぱり寂しすぎるよ……」
テーブルを乗り越えて、波奈を抱き寄せる。嫌だ。こんな結末は認めない。
一人分の寿命なんていらない。だから、せめて波奈を連れて帰らせてくれ。
僕が一人で背負うにはこの現実は重すぎる。波奈となら、一緒に背負って歩いて行ける気がするんだ。
「やあ、優勝おめでとう。君が二回目で切り札を切った時にはどうする気かなと思ったけど」
いつの間にか黒い衣装をまとった死神の女が立っていた。面倒くさそうに手を叩きながら僕たちを見ている。死神が手を掲げると、茜色をした神秘的な炎が浮かび上がった。
「さあ、優勝賞品の一人分の寿命よ。ありがたく受け取りなさい」
いらない。そんな言葉を発する間もなく炎が僕の胸に吸い込まれる。
ハッと目が覚めた感じ。借り物の体から自分本来の体に戻ったような。
ここは僕のいる場所じゃないと、体がバタバタと叫んでいる。
「ああ、そうだ。願い事は何にする? これだけ時間はあったし考えてるわよね」
「波奈も一緒に生き返らせてくれ。僕の寿命を半分にしていいから」
「ダメよ。言ったでしょ。完全に死んでしまった人間を生き返らせることはできないって。そういう時間を巻き戻すようなこと、簡単にはできないのよ」
死神は呆れたようにため息をついて冷酷な眼で僕を見る。
まだ、なにかあるはずだ。この死神が決めたルールは言外の部分に穴がある。
「気にしないで、涼太君。私の記憶と一緒に、涼太君が忘れたくない人たちの思い出を持っていって」
胸元の波奈が顔を上げる。涙の痕がくっきり残る顔で、秋晴れのように爽やかに微笑んでいた。
それからゆっくりと僕の頭に手を置いた。ぐずる子供をあやすように、波奈の手が僕の頭を撫でる。
そんな波奈も、このままでは完全に死んでしまう。ああ、そうか。そうだ。
「わかった。僕の願いは――」
僕が願い事を告げると、死神は一瞬キョトンとしてから、深々とため息をつく。
「呆れた。本当にそんなことでいいのね」
僕が頷くと死神は空中から大鎌を取り出し、天井に向かって掲げる。
部屋の白が大鎌に吸い込まれていく。パラパラと空間が不安定になり、部屋の中の白が全部なくなった瞬間、ぱあっと眩い光が当たりを包んだ。
胸元に残る波奈の温もり。それが僕の最後の記憶だった。