このレースに号砲はない。しかし、よーいドン! で始まると言っていいだろう。出場者たちは子宮に突入し、さらに卵管へ向かう。そこには卵子が待っている。自分の元へ最良の精子が来るのを、待ち望んでいる。
 卵子と出会うため精子は自分の体の数万倍の距離を移動する。それだけでも大変だが、問題は移動距離だけではない。卵子へ向かうライバルがいるのだ。それは自分と同じ場所で生まれた、別の自分である。つまり同じ精子同士が、たった一つの卵子を目指して競走するのである。
 一回の射精で放出される精子の数は数億に及ぶ(個人差あり)。その中で卵子と受精できるのは、一つだけだ。それ以外は死ぬ。ゴール地点を奪われ、泳ぎ疲れて、果てるのだ。
 この過酷なデスゲームの勝者が、我々だ。自分たちが意識していない段階で、恐るべき死亡率のレースを勝ち残ってきたのだ。
 今このとき生きている者は、自分が強い幸運の星の下に生まれてきたことを感謝して然るべきだろう。
 だが大抵の人は、その自覚がない。勝利の瞬間を思い出せないからだ。
 生まれる前のことなので覚えているのは無理と言われたら、それまでだが。