俺は馬鹿だ。

 単純に頭が悪い。

 勉強ができない俺は、出来の良い兄貴たちと比べられて劣等感を抱き、ひねくれて不良の道に堕ちた。

 当然のように流れついたのは、テスト用紙に名前さえ書ければ合格するという男子高校だった。

 この春、俺は無事2年生に進級した。

 クラスメイトは俺と同じかそれよりも馬鹿で、馬が合うし話していて純粋に楽しい。

 だから、毎日高校に通っては、馬鹿話をして仲間と笑い合っていた。

 将来のことは、特に考えていない。

 学がなくても体力勝負で雇ってくれる職場があればいいなと、軽く考えている。

 もちろん、大学進学なんて進路は頭の片隅にも浮かばなかった。

 学校に行って、実りのない時間を過ごして放課後は夜までゲーセンで遊ぶ。

 ときどき、他校の不良と喧嘩をして、カツアゲをする。

 それが俺の、平和で楽しい、青春の日々だった。


☆☆☆

 新学期を迎え、俺のクラスの副担任として、巻村(まきむら)すみれという新米の女性教師が赴任してきた。

 小柄で目がぱっちりと大きい童顔で、さらさらの長い髪をなびかせた、揺れるフレアスカートが清楚で可憐な印象を与える美人さんだ。

 学校中の生徒が、巻村すみれの登場に沸いた。

 むさくるしい男しかいない学校に突然現れた女神のような容姿のすみれに年頃の男子が興奮しないほうがおかしいだろう。

 すぐにすみれは学校のアイドルになった。

 笑うとできるえくぼが可愛くて、俺もすぐとりこになった。

 初めての、すみれが受け持つ国語の授業は騒然とした雰囲気の中はじまった。

 すみれが教室に入るなり、どっと野太い声が飛び交う。

「すみれちゃん、可愛い、付き合ってー!」
「すみれちゃーん、好きだよー」
「すみれちゃん、俺たちと遊ぼうよー」

 馬鹿丸だしの声が交錯し、がはは、と笑い声が巻き起こる。

 すみれはやや硬い面持ちで教卓の前に立つと、すうっと息を吸って生徒の声に負けじと口を開けた。

 見た目を裏切らない声優みたいな高くて可愛らしい声ですみれは言った。

「授業をはじめます、教科書を開いてください」

 男どもの声を縫うようにして、すみれの声が教室中に響き渡る。

 しかし、そう言われて素直に教科書を開くやつなんていない。

 全員、教科書なんて机の中に入れっぱなしで、ただの1ページたりとも開いたことはない。

「ねえ、授業なんてしなくていいから遊びに行かない、すみれちゃん」

 クラスメイトの声に賛同の歓声が上がる。

 俺も手を叩いて雰囲気を作り、困った顔をしているであろうすみれをうかがう。
 
 意外なことに、俺たちのからかいに動じた様子はなく、すみれは険しい表情で教卓に広げた教科書を睨んだまま口を閉ざしている。


 どうしたのだろう。

 俺たちの空気に呑まれたのだろうか。

 今までの教師は、勉強する気もない俺たちに愛想を尽かして職務を放棄するやつがほとんどだった。

 この学校の教師は総じて給料泥棒だ。

 俺たちも真面目に勉学に励まないが、教師たちも真面目に職責を果たさない。

 きっとすみれも、すぐに諦めてまともに授業しても意味がないと悟るだろう。

 ドラマみたいに不良生徒を正そうとする熱血教師など、そうそういるものではないのだ。

 自慢ではないが、去年1年に限っても、俺たちは何人もの教師の心を折ってきた。
 
 今更、真面目になって勉強したって、手遅れというものだ。

 今が楽しければそれでいい、無駄な努力はしないのが俺たちの主義だ。

 仕事に対して希望を抱いている初々しいすみれが、死んだ魚のようなくすんだ瞳になっていくのを観察するのも、それはそれで面白いと思っていた。

 早くも押し黙ってしまったすみれに興味を失ったクラスメイトが、頭の悪い会話を再開し、俺もスマホでゲームに興じはじめた。

「……」

 すみれは、誰ひとり真面目に授業を聞く気がないことがわかって戸惑っているのだと思っていたが、突然ばっと振り向くと、黒板に向かってなにやら書きつけだした。

 がりがりとチョークが削れる音が虚しく響く。

 それに気づいた俺は、ご苦労なことだな、と内心ですみれを嘲っていた。

 すると、「……これ、なんて読むかわかる人いる?」か細い声が俺の耳に届いた。

 反射的にスマホから顔を上げ黒板に目を向ける。

 そこには、白いチョークで『太宰治』と書かれていた。

 俺はすぐに、ぴんときた。

 成績優秀な兄貴たちの部屋にある本棚で見かけた名前だったから知っていた。

 小学生のころ、手に取って何ページか試し読みしたこともある。

 こんな文章を理解できるなんて、自分と兄貴たちの頭の作りは違っているんだなあ、と痛感させられた作家でもある。

 すみれは、「誰か、わかる人……?」と再び呟くと、挙手を促すように片手を挙げたまま動かない。

 教師からの質問に答えるやつなんていない。

 誰も気にかけることなくすみれの声は乾いて消えていく。

 しかし、そのとき俺は違和感を覚えて、すみれを凝視した。

 すみれの唇が微かに動いていた。

「た……太い、なんとか、ち……?」

 すみれは呪文のような意味不明の言葉をぶつぶつと口の中で転がしていた。

 俺は、すみれがヒントを出しているのだと思ったので苦笑した。

 太宰治なんて誰も知らねえよ、もし知っているやつがいたら、それは奇跡だ。

 俺は稀有な例外に過ぎない。

 その間も、まだすみれは、ぶつぶつとなにごとか言っている。

「……ねえ、誰か知らない?
 教科書に書いてあるんだけど……読めなくて」

 俺は眉をひそめる。

──読めなくて?

 ずいぶん変な聞き方をするな。

 それに、なんだか口調もまるで友達かなにかに対して話しかけているような砕けた調子だ。

「ねえ、誰か」

 と、すみれがあまりにしつこいので、俺は仕方なく声を張った。

「だざいおさむ、だろ」

 すると、周りの馬鹿からおおーと俺の解答に感嘆の声があがった。

 俺は少しだけ誇らしくなる。

 こんなときだけ兄貴に感謝だ。

「だざい、おさむ……?
 なんでこれで『だざい』って読むの……?」

 しかし、心底不思議そうに呟いたすみれの言葉に、俺は耳を疑った。

──おいおい、まさか本気じゃないよな?

 国語教師が太宰治を知らないはずがない。

 やる気のない俺たちを鼓舞するための、すみれなりの戦略かなにかがあるのだろう。

 それだけ必死に生徒と向き合おうとしてくれている、ということだろうか。

 すみれは、まだ納得がいかない面持ちで教科書を睨んだまま、くるりと黒板を振り向くと、チョークでまたしてもなにやら書きはじめた。

 まさしく一心不乱に黒板にチョークが舞い、すみれは無言のままひたすら黒板を文字で埋めた。

 黒板が文字でいっぱいになってようやくこちらを向く。

 そして、次は可愛らしい声で教科書を読み上げはじめた。

 その頃には、クラスメイトたちも異変に気づきはじめ、ざわざわとした雰囲気が教室中に満ちた。

 黒板に書いてある文字は、もしかして、教科書の丸写しではないのか?

 そして、黒板に丸写ししたところまで教科書を読み上げると、「わかりましたね?」と確認をして、苦労して書いた黒板の文字をさっさと消してしまう。

 さすがの俺たちも唖然とした。

 俺たちの戸惑いを含んだ視線なんて、すみれは意に介した風もない。

 教科書を黒板に丸写ししては読み上げて消すことを繰り返して、すみれの最初の授業は終わりを告げた。

「では、今日はここまで。
 次回は続きからやります」

 俺は目を剥く。

 続きから?

 まさか、教科書を全部丸写しする気なのか?

 写経じゃあるまいし。



 チャイムが鳴ると同時に、教科書をぱたんと閉じて、すみれは颯爽と教室を出ていった。

 残された俺たちは、アホみたいに口をぽかんと開けてすみれの後ろ姿を見送ることしかできなかった。

──なんだったんだ、今の?

 果たしてあれは授業といえるのか?

 それとも、教師になって一発目の授業から、すでにやる気がなかったとか?

 いくら俺たちがすみれの言葉を真面目に聞かなかったからといって、新米教師がこんな授業をするだろうか。

 だとしたら、すみれは本気だったのか?

 わからない。

 俺だけでなく、クラス中がすみれの言動の真意が掴めず同じように悪い頭をフル回転させている様子だ。

──あの先生、ヤバいんじゃねえの?

 クラス中が抱いたそんな予感と違和感は、次の授業ではっきりと浮き彫りになり、現実のものとなった。

 すみれの2回目の授業。

 俺たちは、狐につままれた心地になった前回の授業のこともあって、すみれがやってくるのをこのときばかりは静かに待っていた。

 やがてチャイムが鳴ると、相変わらず可憐な出で立ちと可愛らしい笑顔を振りまきながらすみれが教室に入ってくる。

 からかいの野次は飛ばない。

「おはようございます。
 では、前回の続きからはじめます。
 教科書を開いてください」

 そして、思った通りと言うべきか、前にも見たような授業が展開される。

 教科書に掲載されている太宰治の小説を、黒板に丸写ししては読み上げ、満足そうにうなずいて文字を消す。

 間違いない、すみれは本気だ。

 こんなとんちんかんな授業を、正しいと思ってやっている。

 俺たちは、その異常性を目の当たりにして、出会ったことのない、すみれという人種に内心慄いていた。

 かつて、こんな授業を本気でする教師がいただろうか?

 教科書を読み上げるだけなら、誰だってできる。

 教科書に書いてあることへの理解力を補強するために、教師という存在がいるのではないのか。

 教科書を読むくらい、俺でもできる。

 だから余計に、すみれの授業の異様さが際立つことになっているのだ。

 俺たちは、すみれの授業だけは静かに耳を傾けた。

 すみれがなにをするのか、みんな興味津々だったからだ。

 しばらくは太宰治の小説を根気よく丸写しする授業が続いた。

 それを、俺たちは聞くともなしに聞いていた。

 おかけで興味のなかった小説の一部が耳に残って覚えてしまった。


 それが一段落すると、すみれはまた表情を険しくして教科書を睨んだ。

 今度はなんだ?

 クラスメイトが固唾を呑んですみれを見守る。

「21ページのこれ、なんて読むかわかる人いる?
 タイトルも作者も読めない……」

 太宰治のときと同じことが展開され、片手を挙げて、俺たちの挙手を待つ構えのすみれに、仕方なく机の中からずるずると国語の教科書を引っ張り出し広げる羽目になった。

「『らしょうもん』『あくたがわりゅうのすけ』だよ」

 この前と全く同じで、俺がそう答えてやると、すみれは、「ふうん、そう読むんだ。綿貫(わたぬき)くん詳しいね、頭良いんだ」と感心したように何度もうなずいた。

 これも、兄貴たちの本棚にあった本だ。

 考えてみれば、俺は国語だけは他のやつよりは知識があるかもしれない。

 それはそうと、俺はすみれが俺の名前を知っていたことに驚きを覚えていた。

 自分の授業をこなすことにしか興味がなさそうだったすみれが、生徒の氏名を把握していることが意外だった。

 俺たちが思うより、すみれは俺たちに関心があるのかもしれない。

 そして、またしても教科書を丸写ししはじめた。

 静寂に包まれた教室に、チョークが黒板を削る音と、すみれが教科書を朗読する声だけが響き渡っていた。

 他のクラスの知り合いにも訊いてみたが、他の担当クラスでも、すみれはこんな調子らしい。

 面白がって、すみれの授業だけはみんな静かに聞いているという。

 さすが、考えることはみんな一緒だ。

☆☆☆


 やがて中間試験が迫ってきて、俺は不安になった。

 もちろん、テストに対して不安があるのではない。

 すみれの授業がこの調子で続けば、俺たちはなにも学べていないことになる。

 気にはしないがテスト結果は惨敗だろう。

 すみれの授業が、他の教師から問題視されることはないのか?

 ……ないのかもしれない。

 この学校の教師は腐っている。

 誰もまともに俺たちに向き合う教師なんかいない。

 すみれの授業も他の教師の授業も、生徒に全く学ばせないという点でいえば、そう変わりはない。

 授業を放棄している教師たちに比べれば、方向性は間違っているとはいえ、すみれの授業には情熱のようなものを感じる。

 嬉々として授業を進めるすみれは、自己陶酔に陥っているように見えるが、同時に輝いてもみえる。

 授業が楽しくてたまらない、教職に就けたことが嬉しくてたまらない、そんな風に見えないこともない。

 他の教師にはない情熱に、俺たちは興味を引かれるのだろう。

 退屈でしかなかった授業は、すみれという色が混ざったことにより、目に見える形で変化をもたらした。

 すみれが度々こっちに話を振るので、俺たちは答えを探すために教科書を開き、各々持ちうる限りの知識を披露し合ってすみれの質問に応えようとつとめた。

 すみれは、本当になにも知らなかった。

 俺たちでは答えが出なかった疑問は、疑問のまま持ち越され、俺たちとすみれは揃って首を傾げるばかりだった。

 そんなだから、中間試験はぼろぼろだった。

 しかし気にする者は全くといっていいほどいない。

 試験の出来で一喜一憂するほど勉強に入れ込んでいるやつはこの高校を受験しないだろう。

 教師も親も、俺たちの成績なんかに興味はない。

 そもそも試験をする意味もほぼ皆無といっていい。


 俺たちの普段の生活に投げ込まれたすみれという小石は、水面に波紋を描くようにじわじわと俺たちの中に確かに変化をもたらしはじめていた。

 放課後、いつものゲーセンにたむろしていると、仲間のひとりが騒音の中、本を開いて熱心に読んでいることに気づいた。

──『人間失格』。

「お前、太宰なんか読んでんの?」

 俺がからかい混じりに肩を小突くと、やつは恥ずかしそうに頭をかいた。

「いや、なんていうかさ、うちにあったから、すみれちゃんが言ってた作者だなー、と思って読んでみたんだ。
 こういう本読んでるとなんか、頭良くなった気にもなるしさ」

 発言は相変わらず馬鹿丸だしだが、教科書すら開かなかったやつだと思うと、大きな変化なのは間違いない。

「最初は人間失格って、俺のこと言ってんのかと思ってどきっとしたけどな」

「まあ……俺たちはクズだしな。
 間違ってはいないかもな」

 俺がそう言うと、やつは「だよな」とはにかむ。

 すみれの授業の効果がこんな形で出るとは思わなかった。

 しかし、生徒のそんな変化を知ってか知らずか、すみれの授業は変わりなく続いた。

☆☆☆


 夏の気配が色濃くなりだしたころ、すみれは嬉しそうに笑顔を咲かせた。

「やった、今日は25ページも進んだ!」

 ただ丸写しして読むだけなら、それは当然といえる。

 しかし、教科書の内容というのは、1年かけて習うものなんじゃないのか?

 そう思った俺は、声をあげずにはいられなかった。

「すみれちゃん、これって授業って言えるの?」

 すると、すみれは、大きな瞳をぱちくりと瞬くと、心底不思議そうに言った。

「だって、先生って、黒板になんか書くのが仕事でしょう?」 

 俺たちはもう何度目かもしれない驚きをすみれから与えられた。

「……いや、すみれちゃんの授業は普通じゃないっていうか……」

 俺は、あまりにも真っ直ぐなすみれの眼差しにたじろぎつつも、どうにか言葉を絞り出した。

「すみれちゃんだって、学生時代、授業受けてきたでしょ?
 それに、教育実習とかして先輩の授業見てたんじゃないの?」

 ことり、とすみれが首を傾げる。

「学生時代……ほとんど寝てたからなあ、授業……。
 教育実習もやったことにはなってるけど……」

「『やったことになってる?』」

 俺はずっと聞きたかったことを口に出してみた。

「すみれちゃん、大学とか出てるよね?」

 すると、すみれは教卓に頬杖をついて、可愛らしい顔で俺たちを見渡しながら、唐突に爆弾発言をぶっ放してきた。

「すみれ、裏口だから難しいことわかんな〜い」

 クラス中が凍りつく。

 しかし、そんな空気を間違った方向に察したすみれが少し慌てた声で繋げた。

「あ、裏口っていうのは、学校の偉い人にお金とか渡して、入学させてもらうことなんだけど……」

 恐らくクラス中のやつらが同時に思ったであろう、胸の中の突っ込みを、俺も心の中で叫ぶ。

──そんなこと、俺たちだって知ってる!

 衝撃の告白を果たしたすみれは、憑き物が落ちたような晴れ晴れとした表情で語る。

「あたしね、とある大企業の社長の子どもなの。
 多分、社名はみんな知ってると思う。
 あまりに有名だから、パパとママに社名は絶対に言っちゃ駄目よって昔から注意されてるの。
 ほら、身代金目的の誘拐とか、そういうのに遭ったら困るからね」

 あんぐりと口を開けている俺たちを置き去りにして、すみれはまだまだ話し続ける。

「あたしね、勉強が全然できなかったの。
 だから、小学校から大学まで入学も卒業も全部裏口。
 先生になってみたいって言ったら、就職先までパパがお金払って用意してくれてね。
 一人娘に甘いのよねえ、うちの両親」

 回想するように遠い目をしたのち、ふと真面目な顔つきになったすみれは、俺たちを見回して言った。

「みんなは、あたしみたいになったら駄目だよ。
 頭も良くない、世間も知らない、親がお金に困ったら、あたしはひとりきりでは生きていけない。
 今更ながら思うよ、勉強しておけば良かったって。
 みんなには、同じようになって欲しくないから。
 だから、次の期末試験は頑張って欲しいな」

 そう言うと、すみれはにこっと俺たちに笑いかけた。

 
 やっとわかった。

 すみれがあんな授業に終始する理由が。

 教師であるすみれに抱いた違和感の正体が。

「はい、じゃあ授業を続けます。
 続きは誰かに読んでもらおうかな」

 なにごともなかったかのように、すみれは黒板に向き合った。


☆☆☆

「すみれちゃんてさ、やべーよな」

 いつものゲーセンで、誰かが言ったことに、その場にいた全員が異議なくうなずく。

 喧騒が満ちた薄暗いゲーセンの端っこ。

 集まった仲間数人は、学校から持ち帰った国語の教科書に目を落としていた。

 見るからに不良の出で立ちの俺たちが、ゲームに見向きもせずに教科書を開いているさまは、さぞかし異様だったことだろう。

 実際、前に俺たちに突っかかってきて喧嘩になった他校の不良も、気味悪そうに遠巻きに俺たちを眺めていたが、声はかけてこなかった。

 俺たちが勉強している理由。

 それは、すみれに泣き落としされたからだ。

 期末試験が迫る中、担当クラスの成績が芳しくないと、責任問題になりかねず、自分が叱られるのは嫌だと、まるで子どものように大粒の涙を零しながら生徒に懇願してきたのだ。

 教師に協力してやる義理は、不良である俺たちにはないのだが、あれだけ泣かれては、座りが悪いというもの。

 仕方なく、俺たちは力を合わせて無い知識を持ち寄り、やり方もわからない勉強をはじめたのだった。

 全ては、すみれを泣かせないため。

 結局、なんだかんだ言って、みんなすみれを笑わせたいのだ。

 そう考える単純馬鹿は、俺たちだけじゃない。

 他のクラスの生徒も一念発起し、嫌で仕方ないが教科書を開き、空っぽの頭に無理やり知識を詰め込んでいく。

 早くも勉強に拒絶反応を示したり飽きて欠伸を連発して船を漕ぎ出すやつを叱咤しながら、生まれてはじめて学生らしいことをする。

「なあ、提案なんだけどさ、すみれちゃんをびっくりさせねえ?」

 眉間を揉みながら、ひとりがそう言った。

「びっくりさせる?」

 俺の言葉に、提案したやつがにやりと笑う。

「考えてみたらさ、俺たちみたいなクズに、本気で向き合ってくれてるのって、すみれちゃんがはじめてだろ。
 だから、恩返し、じゃないけどさ、驚かしてやるんだよ」

 仲間が話しだした『提案』に、その場にいた全員が不敵に笑いながら了承したのだった。

☆☆☆


「ねえ、どういうこと?!
 なんでこんなことになったの?!」

 夏休みを控えた教室に、すみれの甲高い声が響いた。

 俺たちは、顔を見合わせて、作戦の成功の喜びを分かち合う。

 俺たちの期末試験の結果に、すみれは目を剥いているのだった。

 問題文すら理解できずに、早々に昼寝の態勢に入るのが、テスト期間の当たり前の光景だったが、今の俺たちは違う。

 すみれに驚いた顔をさせたくて、仕掛けたいたずらは、無事成功したのだ。

 これこれ、この顔と反応が見たかった。

 潤んでキラキラと光る大きな瞳を輝かせるすみれに、俺たちは得も言われぬ達成感を抱き、心の中で歓喜の拳を天高く突き上げた。

 期末試験、俺たちは驚異の成績を叩き出した。

 しかも、すみれが担当の国語に限らず、他の教科まで、これまでにない高得点を記録した。

 とはいえ、やはりそこは元々馬鹿な俺たちだけあって、満点に近い点数が取れるはずもなく、一番良かった成績のやつでも、50点にも及ばない。

 それでも、赤点どころか0点を並べていたこれまでに比べたら飛躍といっていいだろう。

 この現象は、俺のクラスに限らず、他のクラスでも起きているという。

 うちのクラスが発案者となって、他のクラスに呼びかけたからだ。

 かつてない成績を取って、巻村すみれを驚かせて、嬉し泣きさせてやろう。

 そのために俺たちは、クラスメイトの頭の良い兄弟や知り合いに掛け合って、勉強を教えてもらい、クラスを越えて勉強会まで開いた。

 俺も、恥を忍んで、兄貴たちに泣きついて勉強を見てもらった。

 朝起きてから、深夜まで、勉強漬けだった。

 今まで、できないと決めつけてかかっていた勉強だが、その気になると、知識が脳にすうっと入っていくから不思議だ。

 俺たちは、少し、いや、だいぶ自信を持って(きた)る試験に臨んだ。

 努力の結果が点数という目に見える形となり、すみれを喜ばせることに成功した。

 まともな人間になることを放棄した俺たちでも、その気になれば、ここまでやれるのだ。

「驚いた、すみれちゃん?」

 俺は笑いを堪えながらすみれに問う。

「驚いた!驚いたよ、みんな、一体どうしちゃったの?
 まさか、あたしもやったことあるけど、カンニング?」

 俺たちはずっこける。

「ひでえな、すみれちゃんじゃねえんだから。
 頑張って勉強した結果だよ。
 つーか、カンニングしたことあるのかよ……」

 俺たちでさえ、カンニングの経験はない。

 それをさらっと告白してしまうすみれの異常性に、俺たちはかなり引いた。

「すみれちゃんに喜んでほしくて、必死に頑張ったんだよ、褒めてよ」

 高校生とは思えない子どもみたいな要求をするクラスメイトにも、すみれは目を輝かせて何度もうなずく。

「みんな、すごい、本当にすごいよ、尊敬する。
 あたしにはできないことだよ、偉い!よくできました!」

 おおー、と、単細胞な俺たちは歓喜の雄叫びを上げる。

「だから、もう泣くなよ、すみれちゃんが悲しむのは見たくないからさ」

「泣く……?
 あたし、いつ泣いたっけ?」

 またも俺たちはずっこける。

 自分の責任になるからと試験前に泣き落とししたことは、忘却の彼方らしい。

 すみれらしいといえばらしいので、もう俺たちはなにも思わない。

「じゃあ、もう泣かなくてもいいように、すみれのお願いきいてくれる?」

 上目遣いでこちらをうかがうすみれが可愛くて、俺たちはデレデレと鼻の下を伸ばす。


「お願い?なんでもきくよ」
「すみれちゃんが泣かないようにするから俺たちに任せてよ」

 調子のいい声があちらこちらから聞こえる。

「大学合格してほしい」

 今度は俺たちが目を剥く番だった。

 この高校から、大学合格を果たした生徒はいまだかつていない。

 元々、進学を希望する生徒がいないことに加え、頭脳が残念で大学合格に手が届くやつなんていないのだ。

 でも、と思う。

 にこにこと、嬉しそうに微笑むすみれを見ているうちに、頑張ってやるというのも、悪くないかもしれない、そんな風に思うようになっていたのも事実だ。

 すみれは、確実に俺たちの意識を変えた。

 今の俺たちのやる気があれば、大学合格も、決して夢物語ではないように思える……というのはさすがに調子に乗りすぎか。

「わかったよ、すみれちゃん、進学のこと、真面目に考えてみる」

 俺が言うと、すみれはポニーテールを揺らして、純朴な子どものように大きくうなずいて笑った。

「うん!
 みんなに負けないように、すみれも頑張るね!」

 教室に、温かい雰囲気が流れる。

 俺たちと、すみれの間には、言葉にすることは難しいが、今まで関わってきた教師たちにはなかった絆のようなものが生まれ信頼関係が築かれつつあった。

「じゃあ、授業をはじめます、教科書を開いてください」 

 すみれの号令に、俺たちは一斉に教科書を開く。

 俺たちは変わった。

 きっとすみれも変わるはずだと、どこかで期待を抱いていたのは確かだ。

 俺たちの期待を一心に背負ったすみれは、黒板に向き合うと、鼻歌交じりに教科書の丸写しをはじめたのだった。