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最初にさくらと手に入れた3000円は、親から貰ったお小遣いとあわせて、ずっと欲しかったデパコスのアイシャドウに変身した。ちょっとだけ高価なアイシャドウを瞼にのせた瞬間、周りのクラスメイトを子どもっぽく感じて、しばらくは優越感に浸っていた。
1週間くらいはそれで満足していたけれど、少し経つとまた欲しいものができた。だから、今度はあたしがさくらを誘って、またふたりで10を数えた。
経験によって培われる危機管理能力があるとすれば、経験によって損なわれる危機管理能力もあるはずだ。白川先生との秘密のアルバイトは、一度大丈夫だったから次も大丈夫、二度目も大丈夫だったから、三度目も、四度目もきっと大丈夫、というふうに、大丈夫のドミノ倒しを重ねて、徐々に怪しさを感じなくなっていった。
あたしはあんなに感じていた怪しさとか違和感をかなぐり捨てて、美術準備室の白川先生のところに通うようになったのだ。
そうしているうちにお金がなくなる。だから、ひとりでも美術準備室に通うようになった。やる気のない美術部は木曜日以外もあまり活動していないらしく、わりといつでも美術準備室に行くことができた。
準備室では白川先生が待っている。指定された体勢で10秒間目を瞑るだけで、いつも先生は3000円をくれた。指定された体勢といっても、変なものではなくて。例えば、ソファーの上で体育座りをして、とか、脚を肩幅よりも広く開いて、とか、パイプ椅子で脚を組んで、とか。別にその格好自体が変という訳でもなかったし、仮に恥ずかしくても10秒数えれば終わるから、まあいっかって思ってた。
堕落するのに時間は必要なかった。放課後、帰る前に準備室に寄って10秒数えるだけで、3000円。1週間続ければ、1万と5000円。あたしは欲しいコスメを手に入れて、たまにさくらとファミレスで豪遊した。
お金って、持てば待つほど感覚が鈍ってくる。そのうち、自分が高価なコスメを使っている現状にも慣れてきて、次はあれもこれもと、またお金が欲しくなった。
「せんせー。来たよー」
「安藤、今日も来たのか?」
「うんー」
いつの間にか先生と仲良くなって、同級生と喋るときのような口調で色々なことを話せるようになった。しかも先生は毎度きっちりとお金をくれるから、信頼感も増していた。
だから今日は、少しだけ賭けてみることにした。
「あのさ、せんせ。10秒数えるのって、1日1回までなの?」
「はあ、どういうこと?」
「たとえばさ。今日は10秒を2セットやるから、多めにもらったりって、できないかなあ?」
図々しいことを言っているのはわかっていたけれど、まあ、あたしと先生との関係って、お金を介した健全な関係だから。だから良いかなって思って、なんとなく聞いてみた。
先生はあたしの顔をじっと見つめている。ちょっとだけ気まずかった。気まずい、という空気が世界で一番きらいなので、やっぱり大丈夫ですと、そういうふうに言おうと口を開きかけた瞬間。先に言葉を放ったのは先生の方だった。
「じゃあ、半袖ジャージに着替えて、もう一回ここに来て。それで10秒が2セットで、1万円。どう?」
イチマンエン、の響きは、悪くない。否、むしろ気に入った。ジャージに着替えて、20秒で1万円。やっば。最高じゃん。
急な取引価格のインフレーションに、あたしは即座に頷いた。なぜジャージに着替えなければならないのかという疑問を考える隙を与えない、イチマンエン、の響きに思考が侵されていた。
「すぐ着替えてくるから、待っててください」
「んん、俺が席外すよ。美術室の方で待ってるから、準備室で着替えて」
「はあい。でも、教室のロッカーからジャージ持ってくるから、だからちょっと待ってて」
そのまま、美術準備室を飛び出した。
イチマンエン。イチマンエン。何に使おうかな。SNSで話題のスキンケア、買っちゃおうかな。7000円するクレンジングオイルも良いかもしれない。いや、すこし貯めたら、ずっと欲しかった、スマホと互換性の良いワイヤレスイヤホンが買えちゃうかもしれないな。そっちにしようかな。
軽い足取りで教室前に備え付けられたロッカーに辿り着き、扉を開け、ジャージが入っているトートバックを取り出して、今度は来た道を戻る。じめじめとした廊下を突き進む。夏が盛りに向かっていた。半袖シャツが湿気で不快だけど、これから貰える1万円を想像するだけで、ちょっとだけ不快感が軽減された。
美術室に戻り、ジャージを抱えて準備室に入る。入れ替わるように先生が出て行ったので、あたしは奥の方で手早く半袖ジャージに着替えた。脱いだ制服を白川先生に見られるのはちょっとだけ恥ずかしいから、それはきちんと畳んで、トートバックの中に仕舞った。
「せんせえ、着替えたー」
美術室の方で、準備室には背を向けてスマホを触っていた先生が、座ったままこちらを振り返る。先生はあたしがジャージに着替えたことを視認すると、ゆっくりと立ち上がって、準備室の方にやってきた。
「じゃあ、始めるか」
先生は後ろ手でドアを閉めた。背の高い先生の首筋を見ていると、先生も男なんだ、と思う。これは先生に対して何か特別な気持ちを持っているとか、全然そういうことではなくて、ただの感想だった。
「せんせ。今日はどうしたらいい?」
「じゃあまずは、向こうのソファーで仰向けになって」
一番最初にここに来たときに、さくらと座った革製のソファーを指さされる。人がひとり寝転ぶにはすこし狭いから、片方のひじ掛けに頭を乗せて、片方のひじ掛けには足を乗せた。それでも身体がはみ出るので、膝を立てる。
「これで良い?」
「んん、完璧。じゃあ、目瞑って、まず10秒」
目を閉じて、視界が真っ暗になる。
「いーち、にーい、さーん、しーい」
たまに、この10秒間で先生は何をしているのだろうと不思議に思うことがあった。だけど目を瞑っているから何もわからない。
触れられることもない。話しかけられることもない。ならば見られているのかもしれないと思うが、こんな体勢で一体何を見るというのか。わからない。白川先生は、この奇妙なやりとりの他は、まったくもって普通の先生なのだ。
「ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅう!」
ゆっくりと目を開けると、一歩離れたところに白川先生が立っている。先生は満足そうな顔で、そのまま次の指示を出した。
「次は、起き上がって。ソファーには座ってていいから。んん、そしたら、半袖シャツの袖、肩までまくれるか?」
「袖? 肩を出すようにってこと?」
「ああ。ギリギリまで捲って、そしたら頭の後ろで手を組んで、それで10秒」
なんだかいつもと違うポーズ指定に戸惑いつつも、ジャージの半袖シャツの裾を、肩が見えるくらいまでに捲り上げる。反対側も同じようにしてから、スクワットをするときの手みたいに、両腕を頭の後ろで組んだ。腋の下が見えそうで緊張する。ムダ毛の処理、昨日サボっちゃったかも。最悪。
なんか、いつもより露出が多くて恥ずかしい。だけど、10秒だけ、10秒だけ数えれば終わるし、1万円もらえるし。
思い切って、目を瞑る。そのまま、10秒間数え始めた。
「いーち、に、さん、し」
「おい。いつもみたいにゆっくり数えろって」
「すみませんー。いーち、にーい」
つい恥ずかしくて、早く数えようとしたら先生に釘を刺された。前にさくらと話したように、万が一にも先生を怒らせてお金を貰えなくなることは避けたいので、もう一度最初から、ゆっくりと数えなおした。
「さーん、しーい、ごーお、ろーく、」
そして数字のカウントが7に差し掛かろうとしたとき。
いつもなら聞こえない音がした。
……カシャ。
と、準備室に響いたのは、カメラのシャッター音。
「……え?」
しち、と言いかけていた声は、その無機質な機械音で戸惑いに変わる。
驚きのあまり、目を開けてしまった。まず、先生がスマホを持っていて、それをこっちに、というか、あたしの腋に向けていて。先生はじっとりとした湿っぽい表情で、あたしを見ていた。
「え、あの、先生……?」
スマホのカメラで写真を撮られている、という事実を認識するのに、そんなに時間はかからない。だけど、認識できても、理解ができなかった。
「先生、なにしてんの?」
あたしは、腕を頭の後ろで組んだ滑稽な格好のまま、白川先生の返答を待っていた。
先生、この10秒で、写真撮ってたの?
美術準備室の中で、先生と視線が交錯する。じっとり交わって、溶けて、それは黒くなって恐怖心を煽った。
白川先生の目からは光が切れて、その薄い唇から、はあ、と大人びた吐息がはきだされる。
「ミスった。シャッター音オフにする設定、誤タップで解除してたんだな」
「え、だから、写真」
「うん。写真。写真、撮ってた」
先生は八つ当たりをするみたいに、あたしの腋を人差し指でツン、と突き、そのまま指先でぐにぐにと刺激された。くすぐったがりのあたしは、「ひっ、」とへんな声を上げてしまい、あわてて腕を下げる。
力の抜けたあたしの手を引き、先生はソファーの中にあたしをなぎ倒した。大人の、男性の力だ。白川先生はあたしの手首を頭の上にまとめ上げ、革のソファーに押し付けるついでに、あたしの上に馬乗りになった。
「せんせ、やだ、せんせ、どうして、」
「あ、犯される心配とかは、しなくて平気。おまえの身体とかには興味ないっていうか」
「まって、何のしゃしん、とってたの。てか、なに、これ」
あたしが目を瞑って10秒数えている間に、白川先生が写真を撮っていた、ということはわかった。
問題は、何を撮っていたかということ。いつも制服を着ていたし、体のどこかに触れられていたわけでもない。さっきはきっと、腋の写真を撮られていたのだろうけど、じゃあ、いつもは一体、何を撮っていた?
白川先生は、あたしをうっとりとした顔で見つめていた。否、正確には、目線はそれよりもすこし上。
「毛穴」
「……は?」
「安藤の毛穴。腕も、脚も、腋も」
毛穴? 毛穴って、全身の?
数秒経って、意味を理解してから、ぞわ、と背筋が震え上がった。全身にブツブツができる。
先生は、あたしの鳥肌をみて目を輝かせた。
「ヤバ。ヤバいよ、マジで。はあ、どうしよ、」
「せんせ、せんせ!」
「安藤ってちょっとズボラだから、腕の毛穴ブツブツだし、指毛の剃り残しも可愛いし、さっきの腋、剃り残しからちょっと毛が生えててマジで最高だったっていうか。俺、そういうフェチなんだよねー」
先生、気持ち悪い。
どうしよう。どうしよう。先生、あたしの目を瞑らせて、写真撮ってたんだ。毛穴の写真。脚も、腕も、指も、さっきの腋も、全部に興奮して、近くから写真撮ってたんだ。あたしの毛穴を見て、先生、何してたの。
先生の下腹部を見ると、ソレはあまりにもわかりやすく勃っていた。最悪。最悪最悪最悪。気持ち悪い。どうしよう。逃げなきゃ。
「せ、せんせ。あたしそんなの、知らなかった、も、もうかえる、」
「もう来ない? 毛穴の写真、撮らせてくれないのか?」
必死に頭を上下に振る。ぶんぶんと、何度も頷いた。
あたしが馬鹿だった。まんまと釣られて、お金目当てで、先生に毛穴の写真を撮らせた。別に、所謂デリケートゾーンを見られているわけでもないのに、先生がそう言う目で自分の身体を、毛穴を見ていると思っただけで、気持ち悪い。あたしは自ら、先生にそういう場所を見せつけていたのだ。どうぞ、近くで眺めてください、写真を撮ってくださいって言ってたのと同じで、先生は金銭と引き換えに興奮剤を得ていたのだ。気持ち悪い、本当に、最悪、無理。
先生は残念そうに笑った。
「そっか。まあ、俺も鬼じゃないし、安藤が来ないっていうならそれで良いけど。だけど俺も、供給がないのは困るっていうか。だから安藤、代わりを見つけてこいよ」
「か、かわり……?」
「そ。10秒目を瞑って3000円。連れてこれるやつを連れてこれたら許してやるよ。もし連れてこなかったら、んー、何だろ。下着の写真とか、んん、クラスの男子に送るとか?」
「なに、それ……!?」
急に白川先生の口から放たれた、下着の写真、という一言に驚く。先生はなんてことない顔をしながら言った。
「こういうときに、口封じをする手段はあった方がいいだろ? 前に脚を肩幅に開いてもらうポーズをしたときに、ついでに撮った。スカートの下から盗撮してるみたいなやつ」
「やだ、やだ、けして……!」
「ああ、安心して。俺はそういうのでは興奮しないから。安藤が次の子見つけてくれたら、下着の写真は消しといてあげるから」
頭の中が黒い絶望感で満たされていく。軽率に、お金に釣られて先生の欲望の餌食になった。ふつうに考えて、10秒で3000円って、おかしいに決まってるのに。あたしは危機感を捨てて、甘い餌に食いついた、愚かで馬鹿な子どもだったのだ。
先生は最後、あたしの腕の毛穴をじっとりと眺めていた。気持ち悪さに比例して鳥肌が立つと、先生は余計に興奮するようだった。それから数十分、白川先生は毛穴だらけの顔で湿っぽい視線をあたしの肌に注いでいた。あたしの肌を近くで見ること以外は本当に何もされなかった。ただじっと、顔が触れそうなくらいに近い距離で、あたしの肌を舐め回すように眺めていた。何かを堪能するかのように。