放課後はさくらに連れられて、美術室にやってきた。もちろん、白川先生の妙な噂の真相を確かめるためである。

 さくらが美術室の扉に手をかけると、鍵が開いていた。木曜日は美術部が休みだから、今日は誰もいないらしい。前方のドアから入ると美術室はしんと静まり返っていた。

 さくらは迷うことなく奥へと進み、黒板の脇にある美術準備室の扉の前で、「こっちー」とあたしに手招きをする。

 彼女の後ろから、遠慮がちに中を覗きこんだ。


「せんせー、来たよー。まこちゃんも一緒に!」

「おー、入って」


 先生にタメ口を使う生意気なさくらと一緒に準備室に足を踏み入れ、後ろ手で扉を閉めた。

 美術準備室はわずか4畳くらいしかない狭いスペースで、すこしだけ埃っぽかった。使われているのかどうかわからないデッサン用の石膏に、誰が書いたのかなんてよくわからない絵。古びたアート雑誌に、絵の具がこびりついたパレット。それらがぎゅうぎゅうに押し込まれていて、天井からの蛍光灯でなんとか存在を視認できた。窓もない異質な空間だからか、学校の中なのになんだか別世界にいるような気分にさせられる。

 白川先生は、座り心地の悪そうなパイプ椅子を出しながら、「そっち座って」と言って準備室の奥を指さした。そこには、人がふたりくらいならやっと並んで座れそうな、こぢんまりとした革製のソファーが置いてある。あたしとさくらはそれに座って、先生はパイプ椅子に座った。

 先生が一度、んん、と咳ばらいをしてから言う。


「安藤ははじめてだけど、西村からある程度聞いてる?」


 先生の視線がこちらに向いたので、一度頷いた。


「10秒目を瞑っているだけでお金がもらえると聞きました」

「うん。だいたいはその通り。じゃあ、早速やってみるか?」


 白川先生はその場から立ち上がって、ソファーに座るあたしたちの近くにやってきた。

 センター分けにされた黒髪は、夏だというのになぜか涼しげで、白い肌に良く似合っていた。遠くから見ると若く見えるが、近くで見ると、少しだけ小鼻の周りにぽつりぽつりと毛穴が見えて、肌のきめの粗さをみると、やはり一回り歳上の大人なんだなと思った。


「ふたりとも、立って。そうしたら、そうだな。お互い向かい合って。うん、そうしたら、両手で自分の目を塞いで」


 言われたとおりにさくらと向かい合って、右手で右目を、左手で左目を隠した。ちょうど、顔を隠すみたいに。


「隠すだけじゃなくて、ちゃんと目も瞑ってくれよ」

「せんせ、できたよー」

「じゃあ、二人でゆっくり、10秒数えて」


 ぎゅっと目を瞑ると、目の前からはさくらの声が、横からは先生の声がした。さくらが「せーの」と合図をしたので、一緒に1から数を数え始める。


「いーち、にーい、さーん」


 こんな、くだらない。子ども騙しみたいなことを。こんなことで3000円だなんて、やっぱり嘘にきまってる。

 そんなことを考えながらも、流れのままに数を数えていた。ちょうど、小学生の時にかくれんぼの鬼をしたときのポーズに似ている。


「しーい、ごーお、ろーく、しーち」


 この間、先生は何をしているのだろうと思った。身体を触られるわけでもないし、話しかけれられるわけでもないし。変なの。


「はーち、きゅーう、じゅう!」


 数え終えて、両目を隠していた手をおろし、ゆっくりと目を開けた。目の前には同じように目を開けたばかりのさくらがいて、横を見ると、さっきと同じように先生が立っていた。


「……これで、終わり?」


 お遊びのように数を10秒数えただけだった。だけど先生は満足そうな顔をしている。


「んん、終わり。ふたりともありがとう。はい、お礼ね」


 白川先生は鞄から黒いシンプルな財布を取り出した。先生のほっそりとした指が摘み上げる紙幣は、なんだか生々しく感じられる。

 先生は3枚ずつ紙幣を数えて、それぞれをあたしとさくらの手に持たせた。角がそろった千円札が、3枚。高校生からすれば大金だ。


「え、これ、本当だったんだ」


 あまりの驚きに敬語を忘れたあたしに、白川先生が笑う。


「気が向いたら、またおいで。二人で一緒でも良いし。一人でも良いし。でも、他言無用な。お前たちだけのサービスってことで」


 ひらり、先生はあたしたちに手を振った。詮索はせずに帰れ、と言われている気がして、あたしとさくらは先生に頭を下げてから美術準備室を去った。







「あれって、ガチなんだね」


 帰り道、そのままの流れで学校を出たあたしたちは、先生からもらった3000円が入っている財布を大事に持ちながら、やや早歩きぎみにローファーを鳴らしていた。

 本当に、目を瞑っているだけで3000円を貰ってしまった。美術準備室にいた時間は、きっと10分にも満たない。昼休みにさくらが言っていた通り、時給に換算したらとんでもないことになりそうだ。


「だから、ほんとって言ったじゃん?」

「だとしてもよ? さすがにびっくりしたっていうか」

「楽にお金もらえて、ラッキーでしょ。パパ活よりも安全だし、デメリットないじゃん?」

「……まあ、確かに」


 あの10秒間、ほんとうに何も起こらなかった。白川先生に身体を触られたわけでもないし、何か変なことが起きたわけでもない。

 じゃあ、先生のメリットって、何なんだろう。生徒に3000円払って、10秒だけ目を瞑らせる意味って、何?


「さくらー。先生って、あの10秒で何してんの?」

「そんなの、あたしだって目瞑ってるんだからわかるわけないじゃんー?」

「気になって見たりしないの?」

「気になるけどさー。下手なことして、先生怒らせてお金貰えなくなる方が損だって。別に変なことされてるわけじゃないし、こっちが不快な思いしないなら、良くない? だからまこちゃんも、余計な詮索はやめといたら?」


 さも当たり前のような顔をしながら、さくらが笑う。目の前の快楽を優先させた成れの果てだけど、すこしだけ、そっち側に引っ張られている自分がいる。

 パパ活よりも安全で、普通のバイトよりはちょっとだけ怪しい。だけど相手は、今日だってHRを担当していた担任の先生だ。

 ほんの少しの違和感とか疑念には見ないふりをして、先生から貰った3000円の使い道を考えた。