生活の波長が乱れ始めるのはいつだって些細なことがきっかけだ。

 女子高校生の会話がきっかけで起きた銀行の取付け騒ぎとか、迷惑メールを開いてしまったがばかりにその後チェーンメールがばかみたいに届く現象とか、まさにそれの代表格。

 そんなこと、数え上げたらキリがない。ひょんなことが種となり、芽が出て、根を張り、破滅を形作る、なんてよくあることだ。

 だからとはいえ、些細なことすべてに気を遣って生きていくのは困難だから、人間はこれまで培ってきた経験や直感に頼りながら判断をするしかない。それで失敗するならどうしようもないっていうか、ご愁傷様、っていうか。言ってしまえば、新しい経験をするたびに危機感センサーを磨いていくしかないし、あたしはそれで十分、うまくやっていくので大丈夫っていうか。

 だからあたしは、そういう失敗とは無縁だと思ってた。危機感はむしろ強いほうだし、へんなことをやらかす人を冷笑するタイプだと思う。何かをやらかす人って、ほんとに頭わるいんだと思ってる。




 大きく開け放した教室の窓から生ぬるくて不快な風がやってきて、しつこく肌にまとわりついた。夏の空気は、いつだってじとりと湿っている。

 しつこくて甘ったるいミルクティーをひとくち含ませる。いつもの変わらぬ味で喉を潤してから、視線を前方にうつした。

 視線の先で、すでにお弁当を食べ終えた友人が、じっくりと手鏡を覗き込んでいる。彼女はしきりに、目の中に入ったまつ毛の在処を気にしていた。痛そうだな、と思いながらもそれは口には出さず、全く関係のない話題を提示する。


「てか。最近、なんでそんなに羽振りいいの」


 この間もリップ買ってたじゃん、と付け加える。彼女は変わらず鏡を覗き込んではいるものの、あたしに突っ込まれて、まんざらでもなさそうな顔をした。なにその顔。ばかみたい。

 それよりも。彼女が持っている手鏡は、百貨店のコスメカウンターに並んでいるブランドのノベルティだったはずだ。そのブランドの商品を7000円以上買えば付いてくるというもの。ゆえに、彼女が手鏡を新調したこの1週間で、新たに7000円以上の買い物をしたということは自明なわけで。

 百貨店のコスメカウンターで売られている化粧品なんて、高校生が簡単に手に入れられる代物じゃない。それなのに最近の彼女は、高価な化粧品ばかりを持つようになっていた。彼女の家は、特段裕福というわけでもない。

 じゃあなぜ、急にそんなお金が手に入るようになったのか。あたしの質問の真意はそれだった。

 友人はやっと鏡から視線を外して、目を細めながら言う。


「じゃあ、まこちゃんも、一緒にやってみる?」


 彼女はいたずらっ子のような表情であたしの顔を覗き込んだ。そんなふうにもったいぶった言い方をするのが、すこし気に食わない。もう一度ミルクティーを口に含ませて、わざと眉間にしわを寄せてみせた。


「さくら。バイトでもしてんの?」

「んー、バイトともちょっと違うっていうか」

「じゃあ、最近流行りのパパ活? だとしたら通報ってかんじ?」

「まこちゃん、落ち着いてってば」


 さくらは人差し指を形の良い唇の前に立てて、しー、とわざとらしい仕草をする。声のトーンを落として、内緒話をするみたいに声をひそめた。


「あのね、たった10秒、目を瞑ってるだけで3000円貰えるの」

「……なにそれ。都市伝説?」

「ううん。ほんとだよ。しかも、ぜんぜん怪しくないし」

「いや、どこからどう見てもヤバいし怪しいじゃん」

「大丈夫。だって、お金くれるの、白川先生だよ?」


 ふいに放たれた先生、の響きに、拍子抜けをする。

 白川先生というのは美術の授業を受け持っている先生で、あたしたちのクラスの担任でもある。

 話し始める前に、んん、と咳払いをする癖がある、なんの変哲もないふつうの先生。

 つまらない授業ばかりをする他の先生と比べれば、白川先生は比較的マトモで、おまけに若くて、まあ顔も悪くない。比較的白い肌に、綺麗にセットされた黒髪は清潔感ということばと相性が良い。瞳は切れ長だけど大きくて、まつ毛は薄いけど鼻が高くて、横顔が整っている。各クラスに一人くらいは、白川先生にガチで恋しちゃってるばかな子がいるのも、まあ納得はできた。あたし的にはナシだけど。

 でも、白川先生のことは嫌いじゃない。下校前のHRはすぐに切り上げてくれるし、白川先生の美術の授業は緩くて楽だし、本当は校則違反のメイクにも、目を瞑ってくれている。そこそこ正義感もあるけど、頭が堅くないというか、柔軟、っていうか。だからあたしは白川先生がわりと好きだったし、たぶん白川先生のことが嫌いな人って、この学校にはいないんだと思う。

 だけど、そんな白川先生がお金をくれるだなんて。やはり都市伝説にしか聞こえないし、正直、ヤバいと思うけど。


「さくら、冗談キツいって」

「冗談だったら、こんなにデパコス買えないよお。そんなに言うなら、今日の放課後さ、行こうよ。美術準備室。ほんとだよ。10秒で、3000円。まって、時給いくら? さんぜん、かける、ろく、かける?」


 さくらがスマホの電卓アプリに数字を打ち込み始める。知らなくていいよそんなの。とは言わないでおいた。

 正直、怪しいしおかしいと思う。だけど、さくらは実際にこうやってお金をもらってるわけだし、それで好きなもの買えちゃうの、ずるいな。この子ばっかり、ずるい。あたしも、新作のコスメ買いたい。


「……あたしにも教えてよ。白川先生のやつ」

「やった。決まりね。先生に連絡しとくー」


 視界の端っこで、カーテンが揺れる。すこし遅れて、ぬるい風が肌にまとわりつく。夏は何度でも不快だった。