死ぬことも、生きることも選べず、ただ吸って吐くだけの俺に、なんの価値があるだろうか。
 わからないまま、俺の世界は自室だけで完結するはずだった。
 
 不意に届いたおしらせは、『望月叶のサイン会』と確かに書かれている。
 顔出しをしないと宣言していたはずなのに、どうしてこんなタイミングで気が変わるのだろうか。
 
 深い深いため息を吐き出しても、一人きりの部屋は静寂に包まれる。
 SNSを確認してみれば、サイン会を知ったファンたちの喜びの声や、地方で開催されることへの悲しみの声など、さまざまだった。
 人差し指でスクロールしながら、部屋を出ることを考えてしまう。
 
 部屋に篭り始めたのだって、大した理由はない。
 ただ、自分自身の価値を疑い始めた、だけだ。
 高校受験に失敗した。
 誰にでもあるような、小さなミス。
 
 親も応援してくれていた学校に、俺はたった一つのミスで進めなかった。
 それでも、進学した高校では仲良くしてくれる友人もでき、楽しい生活になるはずだったのだ。
 不意に、俺の足が動かなくなるまでは。
 
 優しくされればされるほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。
 両親も、姉も、不合格だった俺を気遣うばかりで、何をしても怒られない。
 
 だから、つい、一日休み。
 二日休み。
 今では数ヶ月、学校へ行っていない。
 
 学校の友人たちも、心配のメッセージを定期的には送ってくれる。
 理由を尋ねられても、俺自身わからないのだからどうしようもない。

 そんな狭い俺の自室で完結する日々の中に、唯一の彩りが望月叶先生だった。
 ジャンル問わず執筆をしている先生の作品は、とにかく楽しい。
 異世界トリップしてみたり、過去にタイムスリップしたり、普通の高校生の話だってあった。
 
 先生の作品を読んでる時だけは、俺は俺と向き合わずに、違う世界を見られる。
 そんな幸せだった。
 だから……会えるから、会ってみたい。
 
 俺とは真逆の、生きる価値がある人。
 そんな、先生に会ってみたかった。
 
 運良くなのか、悪くなのか、サイン会の実施会場は、俺の最寄駅から二駅ほど行った駅ビルの中の書店。
 高校に通っていた時に、数度訪れたことがある場所だった。
 
――行ける。
 
 でも、そんな事実が胸を苦しめた。
 酸素を無駄に浪費して、親に心配をかけ、死ねたら楽なのにと思いながら、死ぬ勇気もない俺が、会いに行って良いのだろうか。
 
 会えてしまうのだから、会いたい。
 それでも、会いたくない。
 二つの気持ちに責め立てれれながら、日々は刻々と過ぎていく。

 何度も何度も、スマホでサイン会のお知らせを確認しては閉じる。
 ウジウジと考え込んでるうちに、もう明日まで日が迫っていた。
 スマホの上部にポンっと通知が出る。
 見慣れないアカウント名から、突然のリプライが届いた。

『君の人生を変えませんか』

 スパムだろう、そう思いながらプロフィールを確認すれば何も書かれていない。
 ポストすら、ひとつもされていなかった。
 名前は英語。
 Forget-me-not……私を忘れないで、か。
 勿忘草の英語名で、望月先生がよく登場させる花の名前。
 望月先生のファン、なんだろう。

 俺が望月先生の作品を好きになったのは、引きこもりになってからだ。
 だから、俺が好きなことを知ってるのは家族しかいない。
 家族か、とも思ったが、そんなめんどうなこともしないだろう。
 結局、どれだけ想像しても、考えても、誰が送ってきたかは分かりそうにもない。

 リプライまで確認しても、俺へ送られたたった一つが表示されるだけ。
 怪しいアカウントなのに、その言葉は、きっとサイン会へ参加しろという暗示なのだと思い込む。
 そうでもしないと、俺は行く勇気すら出せない意気地無しだから。

 久しぶりに時刻が0時を過ぎない時間に、眠った。
 差し込む朝日に目を覚まして、出かける準備をする。
 両親はそんな俺の姿を確認しながらも、何も聞かない。
 出掛けてくれるなら良いとばかりの生ぬるい視線に、心臓が変な音を立てる。

 自室に篭って、後悔を始めてしまう。
 行くだなんて、考えなければよかった。
 心臓はおかしい音を鳴らしているし、喉はカラカラに乾いている。
 手は震えが止まらないし、泣き出したい。

 歯を食いしばって、スマホを握りしめる。
 ブッとスマホの揺れに、体の力を緩めた、
 確認してみればまた、あのアカウント。

『待ってるから』

 まるで、俺の様子を見透かしてるようなリプライ。
 サイン会に行けばこの人とも会えるのだろうか。
 会ったら、何かが本当に変わる?
 自分で変える勇気もないくせに、人に背中を押して欲しいだなんて、ずいぶん甘えたになってしまっていたらしい。

 ぐずぐずとしながらも、書店に着いたのはサイン会が終わる直前だった。
 小さなテーブルに、目まで覆うようなウィッグを被った人が座っている。
 購入したばかりの望月先生の本を、震える手で差し出す。

「名前は、どうされますか?」

 名前。名前。そうか、サイン本には名前を書いてもらうのか。
 一瞬ためらってから、自分の下の名前だけを小さく口にした。
 久しぶりに出した声は喉の奥で絡まって、カラカラと空回る。

「基嗣です……」
「基嗣さん、来てくれてありがとうございます」

 凛とした鈴のような声だった。
 名前から女性かもしれないとは思っていたが、思ったよりも若そうな声に驚きと戸惑いを感じる。
 望月先生はサインを書き終えて、ちょいちょいと俺に手招きをした。
 顔を近づければ、本当に小さな声が耳に届く。
 
「書店の前のカフェ、待ってて」

 待ってて……?
 サイン本を受け取って、何度も何度も振り返りながらその場を後にする。
 
 書店の前にはチェーンのカフェがある。
 来た時に目に入っていたから知ってはいたし、入ったこともあった。
 それでも、カフェで待っていてという言葉を信じて、待つかどうか頭の中で悩んでしまう。

 決断というものが、苦手なのかもしれない。
 深呼吸をしてから、喉がカラカラなことに気づく。
 ただ、名前を一言口にしただけなのに。
 喉が渇いているから、と自分に言い訳をしながらカウンターでオレンジジュースを頼んだ。

 奥まった一人掛けのソファ先に腰を掛けて、オレンジジュースを一口飲む。
 目の前のソファの赤色だけが、やけに目に焼きついた。

「よっ、基嗣くん」

 ぱっと見俺とあまり年の変わらなさそうな女の子が、右手を挙げてはにかむ。
 黙り込んで見つめていれば、気まずそうに「あー」だの「うー」だの言葉にした。
 その声は、確かにあの時、俺の名前を呼んだ声と同じ気がする。

「も」

 望月先生と呼ぼうとした瞬間、女の子は慌てて両手を振って俺の口を塞ぐ。

「キョウ、って呼んで。キョウちゃん、でもいいよ」

 俺と同じオレンジジュースを片手に持ったまま、目の前の席に座る。
 叶えるで、キョウだろうか。
 初対面の女の子を名前で呼ぶという変な体験に、どぎまぎとしてしまう。
 小さく同意のようにうなずいてから、ずずっとオレンジジュースを飲み干す。

 飲み終わった俺を見て、キョウちゃんも慌ててごくごくと飲み干す。
 そして、トンっとグラスを置いたかと思えば立ち上がる。

「よし、行こうか!」
「い、行こうか?」

 どこに?
 問いかけようとした瞬間、俺の右手はぐいっと引き上げられる。
 そして、そのまま小走りに進み出す。

「私、あと半年しかないから。飛ばしていきたいの」

 何が半年なのか。とか、飛ばしていくの意味もわからず、引きずられる。
 パタパタと走るキョウちゃんは、俺の方を何度も確認しながらも迷いなく進む。
 待ってくれと言いたいのに、口が動かない。
 息はぜぇぜぇと切れているし、心臓もおかしな音を立てている。

 引きこもりを舐めないでほしい。
 しばらくまともに運動すらしていないのに。
 こんな全力疾走、付き合えるわけがない。

 不意に、キョウちゃんはぴたりと立ち止まる。
 息を整えながら、顔を上げれば目の前には学校。
 それも俺の通っている学校だった。

「なんで……」
「学びに来たの」

 息も絶え絶えに出た言葉には、曖昧な返答。
 それでも今日は土曜日だ。
 学校に居るのは、部活の生徒くらいだろう。

 迷うことなく、校門をキョウちゃんは俺の手を引いたまま早足で通り抜ける。
 背中を嫌な汗が伝って、Tシャツがべったりと張り付いた。
 いつのまにか、夏だ。
 部屋から出ることもなく、数ヶ月生きてるうちに、季節は巡っていた。

 額から吹き出す汗もそのままにキョウちゃんは、学校の中に入り込もうとする。
 さすがに部外者が入るのがまずいことくらい、わかった。
 それでも、ひ弱な力では引き止められない。

「やばいだろ!」

 腹の底から出したはずの声は、情けないヘロヘロの声だった。
 それでも、キョウちゃんの耳にはちゃんと届いていたらしい。
 ぴたりと、立ち止まりこちらを振り返る。

 そして……

「何の問題もないよ、私ここの生徒だもん。基嗣くんも、そうでしょう?」
「へ?」
「同い年のクラスメイト。意外に、覚えてないんだねー」

 軽く笑い飛ばして、「だから大丈夫」と答えた。
 望月先生がクラスメイト?
 見た目的に年は近いと思ったけど、あんなにたくさんの世界を創り出せるこの人が?

 声は確かに似てると思ったけど、別人?
 だったらどうして俺を引きずってまで……

 考えを巡らせても答えは出てこない。
 だって、俺の中にないからわからないに決まっていた。

「校内探検行こっ! 基嗣くんは詳しい?」

 詳しいわけないだろ。
 心の中で毒づきながらも、首を横に振る。

「まぁ、そうだよね。とりあえず教室から!」

 軽い足取りで玄関で、自分の上靴に履き替える。
 キョウちゃんの靴箱は、俺の靴箱から見て背中側にあった。
 振り返って少し右にずれたところ。

 俺が山岸だから、大体マ行の辺りか?
 望月というのは、本名なのかもしれない。
 そう思ったけど、仲のいいクラスメイトの名前以外覚えていないのだから、確かめようがなかった。

 仕方なく俺も上靴に履き替えれば、またすぐさま手を引かれる。
 さすがに、校内を全力疾走するつもりはないらしい。
 それでも少し駆け足に、目の前の階段を登っていく。
 三階にある俺らのクラスに向かっているようだった。

 教室が近づくにつれて、頭が痛くなってくる。
 誰もいないだろう事はわかっていた。
 それなのに、恐怖で足が震える。

 どくん、どくんと脈打つ心臓と同じペースで足が進む。
 久しぶりの教室は、最後に来た時から何一つ変わっていない。

「どう?」

 キョウちゃんは、髪の毛をなびかせて俺に問いかける。
 教室の窓が開放されていて、生ぬるい風が頬に吹き付けていた。

「どう、とは?」
「うーん、たとえばほらあそこに飾ってある賞状とか!」

 指さした先には、陸上部のだれそれが県の何かで三位入賞したと書かれた賞状が飾ってあった。
 日付は、俺が学校に来なくなって、少しだったくらいの時期。
 入学したばかりの一年生。
 しかも、初めて出た大会だろう。
 想像でしかないけど。

「どう思う?」
「すごいなぁと思う」
「なんですごいの?」

 どう思う。どう。なんで?
 繰り返し問われる言葉に、もう数ヶ月分言葉を発した気がする。
 それでも、答えない限りキョウちゃんは動き出そうとしないから必死に答えを捻り出す。

「初めての大会だと思うけど、先輩たちもいる中で三位入賞は相当努力したんじゃないか?」
「そうかもしれないね、じゃあ次! この席とこの席だけ近くない?」

 俺が、元々いたはずの席の前の席。
 席替えが行われていなければ、前の席は仲のいい中馬と、その隣は誰だったか。
 少し茶髪に染め上げた女の子だったと思う。

「教科書忘れて見せてもらったとか?」
「おーいいね、他には?」
「他に? あー、どっちかがひっそり片想いしてて、ちょっとだけ近づけてみたとか」

 ロマンチストだと笑われるだろうか。
 恋愛を絡めたことは、変だろうか。
 頬を伝っていく汗を気にしながら、足元を見つめる。
 キョウちゃんから返ってきた言葉は、意外なもので。

「私が思った通りだ! よし、じゃあ次行こう!」

 嬉しそうな跳ねるような声。
 顔を上げれば、口角がきゅうっと上がった笑顔と目が合う。
 大きな目を、キラキラと輝かせていた。
 化粧で物理的にも、キラキラしているけど。
 学校見学ツアーは、まだ終わらないらしい。

 右手をまた掴まれて、腕を組むように引っ張られる。
 次は、入ったことのない屋上だった。

「うちの学校って屋上入れるんだな」
「小説とか漫画みたいで、良いなと思って拝借しちゃった」

 チャリンチャリンとカギを揺らしながら、俺の方を向く。
 拝借しちゃった、というのは……

「犯罪じゃ」
「先生から許可は貰ってるよ、もちろん。悪い事はしません。品行方正に生きてるし」

 ははっと笑いながら、屋上の扉のカギを開ける。
 品行方正というよりも、お転婆が正しい気がするけど、とりあえず黙った。
 俺の心の中を読んだのか、キョウちゃんは顔をぐいっと俺に近づけてもう一度「ひんこうほーせー」と口にする。

「そうだな」

 適当にあいづちを打てば、満足したのか屋上の扉を開けた。
 ぶわりと吹く風に前髪を持っていかれる。
 視界が急にはっきりとして、青空が目に入った。
 広々とした屋上には、どこからか飛んできたのか一輪だけ白い花が咲いている。

「花が咲いてる……基嗣くんは、ヒキが強いね」

 微笑んだ横顔に目を奪われていれば、白い花の前にキョウちゃんはしゃがむ。
 ぱしゃっとスマホで写真を撮ったかと思えば、親指を素早く動かして何かを打ちこんでいる。
 俺の視線に気づいたのか、スマホから顔を上げてにまぁと笑った。

「この花、なんだと思う?」

 花は、詳しくはない。
 キョウちゃんだって検索したくせに、と思いながらも、しゃがみこんで見覚えのある花をじっくりと観察する。
 よく咲いてるタイプの花だと思う。
 聞いたことのある花の名前を適当にあげれば、当てられる気がする。

「答えは」
「聞いたのに、自分で答えるのかよ」
「え、じゃあわかったの?」

 こてんと首を傾げた瞬間、髪の毛がふわりと落ちて、真っ白な耳が目に入った。
 小さい白い花のピアスが、咲いている。
 恥ずかしそうに頬を赤く染めてから、髪の毛で隠す。

「へんたい」
「え、いや、ごめん」

 形や花びらの数が、ピアスと目の前のこの花が同じ花に見えた。

「で、答え言っていいの?」
「いいよ」
「白のマーガレット」
 
 やっぱり聞いたことのある花だった。
 身近によくあるタイプの花だもんな。
 つんつんっとつつけば、キョウちゃんの手に止められる。

「白のマーガレットって、秘めた愛って花言葉なんだよ。では、基嗣くんに問題です」

 先ほどからの問いかけや、問題は何のためにやってるんだろうか。
 それでも、俺は答えずにはいられなかった。
 キョウちゃんの視線がくすぐったいのに、それでも、その目に映っている間は生きてていいと言われてる気がしてしまうから……

「この花を見つけた高校生の男女二人がいます」

 今の俺とキョウちゃんの状況そのままだ。
 頷いてから、言葉の続きを待つ。
 キョウちゃんを見つめれば一粒の涙が、目の端に浮かんでるのに気づいて、息を飲み込んだ。

 生ぬるい風が花弁を揺らして、俺たちの間を通り抜ける。
 涙は気のせいだったのか、いつのまにか姿を消していた。

「このあと、二人はどうなるでしょう?」

 推理するにも、あまりにも情報が少なすぎる。
 キョウちゃんはそれ以上、なにか情報をくれるつもりはないらしい。
 立ち上がって、俺が考えるのを待つようにフラフラとフェンスに近寄っていく。
 二人で落ちる……?
 そんな不吉な言葉が思い浮かんで、ただ唇を噛み締めた。

「あ、悪い想像してる!」

 こちらを振り返ったかと思えばずいずいっと近づいてくる。
 逆光で、キョウちゃんの表情はよく見えない。

「そんな最後にはさせないよ、大丈夫」
「どんな最後を想像したと思ってるんだよ」
「バッドエンド?」

 間違ってはないけど。
 読み取られたことが無性に悔しくて、否定も肯定もしない。

「私は望月叶だよ? 私の作品で、ハッピーエンド以外読んだことある?」

 自信満々に言葉にするキョウちゃんに、胸がざわめく。
 俺のこの退屈なゾンビのような日常も……
 ハッピーエンドに変えてしまいそうな気がした。
「ない」と同意しようとしてキョウちゃんを見れば、顔を歪めてうずくまる。

「っつ……」
「だ、大丈夫?」

 ふぅふぅっと荒い呼吸を繰り返して、頭を押さえてる。
 近づくのも、なんと声をかけていいかも、思い当たらない。

「だいじょぶだからっ!」

 返ってきたのは、今にも消えそうな掠れた声。
 それでも、最後はむりやり吐き出すように大きくしたせいか、ますます頭が痛むようだった。
 触れないように隣にしゃがみこんで、キョウちゃんの様子を窺う。

 次第に落ち着いてきたのか、ふぅっと長い息を吐き出してから顔を上げた。

「大丈夫?」
「大丈夫だって、ごめんね。次行こ」
「どっかで休まない?」

 キョウちゃんに連れまわされるのが嫌とか、そういうわけではなくて。
 あまりにも青い顔をしてるキョウちゃんに無理をさせたくない気持ちの方が強かった。

「大丈夫だって言ってるじゃん。私は、基嗣に小説を書かせるんだから」
「へ?」

 初耳な言葉に、変な声が口からついて出た。
 色々聞きたいことはある。
 それでも、立ち上がった瞬間にふらついたキョウちゃんを問い詰める気にはならなかった。

「とりあえずどっか座ろう。色々聞きたいことはあるけど」
「大丈夫だってば!」
「大丈夫じゃなさそうな顔で言われても説得力ないって」

 先ほどまでは俺が手を引かれる側だった。
 でも、今からは俺が手を引く側だ。
 キョウちゃんの右手を掴んで、屋上から階段を下る。
 空調が効いていて、静かな空間で思い当たったのは図書室だった。

 休みの日もやってるかは、わからない。
 それでも、図書室の近くには自販機もある。
 飲食禁止かもしれないけど……

 階段を下った三階の右手奥。
 図書室に近づけば、「図書室内はお静かに」というポップが貼られている。
 扉に手をかければ、あっさりと開いた。
 
 図書室の中には、数人の大人。
 俺たちを見て、驚いた顔をしてから一人が近づいてきた。
 髪の毛を一本に結んだ若そうな女の先生?だった。

「えっと……宗像さん、顔色悪いじゃない」

 宗像さん、とキョウちゃんを見つめて呼んだ。
 望月は本名ではないのかと思いながらも、何度も頷く。

「休ませてもらえませんか?」
「今日本当は、やってないんだけど、休むくらいなら大丈夫、かな。ちょっと騒がしかったらごめんね」
「ありがとうございます」

 キョウちゃんの手を引いて、近くのイスに座らせる。
 キョウちゃんはまだ何か言いたそうだったけど、口を閉じて大人しく座った。

 先ほどの女の人に近づいて、飲み物を飲んでも大丈夫かの確認を取る。

「飲み物とかって……」
「本の近くで飲まないなら、いいよ。宗像さんのこと、よろしくね!」

 先生たち?はパタパタと数人で何かを話しては、本棚の間を行き来している。
 邪魔をしてしまった気はするけど、そんなことよりキョウちゃんだ。
 
 図書室から出れば、どこかからトランペットの音が聞こえる。
 聞き覚えのある、最近流行りの曲だった。
 吹奏楽部も休みの日は練習に来てるらしい。
 音楽に身を任せながら、自販機で水を買う。

 曲がぷつんと途中で切られて、何か話してる声が聞こえた。

「練習曲じゃない曲を……」

 どうやら、好き勝手にやって怒られてるらしいことだけは聞き取れた。
 俺も好きだったから、ちょっと聞こえて嬉しかったんだけどな……

 図書室に戻れば、キョウちゃんは机にぐったりとうなだれていた。
 隣に座って水を差し出せば、弱々しい声で俺を見上げる。

「開けて」
「はい、どうぞ」

 カシュっと音を立てて開いた水を渡せば、ちびちびと飲み進める。
 俺を振り回していた姿とは変わって、大人しく萎れてる姿に、なんだか、申し訳ないけどかわいらしいなという感想が浮かんでしまった。

「宗像さん?」
「その苗字で呼ばないで」
「嫌いなの?」
「嫌いじゃない……でもカクカクしててかわいくない」

 幼さの残る発言に、つい笑い声が口から出そうになった。
 キョウちゃんと出会ってから、心をかき乱されてばかりだ。

「キョウちゃんは、本当に望月先生なの?」

 ここからなら、先生たちに聞こえることもないだろう。
 だから声をひそめて、尋ねる。

 キョウちゃんは小さくうなずいてから、起き上がった。
 そして、ほほえみながら「落ち着いた、ありがと」とお礼を述べる。

「頭痛持ち?」
「そ、頭痛持ち」
「大変だね」
「もう慣れたよ。さすがに、しんどい時もあるけど」

 本当に落ち着いたようで、顔色はまだ青白いが噛み締めていた唇は普通に戻っていた。
 自分用に買ってきた水で、口を潤す。
 本当に、俺の憧れの先生なら……言いたいことはたくさんあるのに、胸の中で絡まってなかなか言葉は取り出せない。

「基嗣が聞きたいこと、答えるよ」
「なんで俺に小説を書かせようとしてるの」
「書きたいこと、たくさんあるでしょ」

 頬杖をついて、少し上目遣い気味に俺を見上げる。
 目が大きいところも、右目の下のほくろも、すべてがかわいく見えてきた。
 湧いてきた邪念を、ぶんぶんと頭を振って消す。

「書きたいって思ったことないけど」
「苦しんでる君にしか、書けない物語はあるよ」
「といわれても」
「それに、言えないことも、物語の中なら言えたりするから……」

 遠くを見つめて、キョウちゃんはイスにもたれ掛かる。
 キョウちゃんの物語も、言えないことを詰め込んだものだろうか。
 想像してみても、どれがそうかはわからない。
 だって、望月先生の作品はあまりにもジャンルも、描いてることも違いすぎる。

「小説書ける気しないけど」
「絶対書けるよ。知ってるから」
「まるで読んだことあるみたいな言い方だけど、書いたことないからな」

 キョウちゃんは一瞬、泣き出しそうな顔をしてから、すぐに意地悪そうな顔に変わった。
 そして、俺の方を見つめて、まっすぐと告げる。

「読んだこと、あるって言ったらどうする?」

 書いたこともないのに?
 それでも、キョウちゃんの顔はそれがまるで真実であるかのようだった。

「私の作品で、死んでほしくないの。生きる希望になってほしいの。だから、私これ二回目なんだ」

 まるで物語のような話だなと思う。
 嘘をついてるようには、見えないけど。
 それに……俺が死ぬと、キョウちゃんは言った。
 そんな勇気、持ち得ていないはずなのに。
 でも、望月先生の作品に背中を押されたとしたら、あり得てしまう。
 そう思ってしまうくらいに、俺は望月先生を崇拝していた。

「私はみんなに幸せになってほしくて、書いてるから、許せなかったんだよね。しかも、人が死にそうな時に」

 半年しかないから、その言葉の意味を、ようやっと理解した。
 キョウちゃんは、あと半年で、命を終えてしまうということだろう。
 それは、どんな理由かはわからないけど。
 理由を聞いていいかも、俺にはわからないけど。

「だから、基嗣には生きてもらうために、小説を書いてもらおうと思って」
「だからって繋がってなくない?」
「つながってんの!」

 それ以上を説明するつもりはないらしい。
 キョウちゃんは、プクッと頬を膨らませて顔を背けた。
 もう一つだけ気になっていたことを、問いかけようとすればキョウちゃんは机に突っ伏して寝たふりを始める。

「えっ、ちょ」
「もう答えませーん、今日は疲れた! 走ったし、頭も痛いし!」

 散々振り回したくせに、そんなのありかよ。
 俺も疲れた体を机に預ける。
 俺だって久しぶりに自室を出たかと思えば、連れまわされて疲れたよ。
 心臓だって変わらず、変な音を立てているし。

「基嗣、また連絡するから小説、なんか、書いてきてよ」
「なんか、ってなに」
「たとえば、屋上で話してたやつとか」
「二人で落ちる話?」

 フェンスにキョウちゃんが近づいた時によぎった、悪い予想。
 それを口にすれば、顔を上げたキョウちゃんが俺をじとっとした目で見つめる。
 
「やっぱ、悪い方向ばっか考えてんじゃん」
「いや、そういえば、答えてなかったな」
「ハッピーエンドにして。誰か死んでも、願いが叶わなくても、違う幸せな結末にして」

 無理難題を突きつけられてる気がする。
 小説なんて、書いたこともないし。
 ましてや、ハッピーエンドなんて、どう考えても思いつきそうもない。

「約束だから。とりあえず、明後日ね」
「勝手に決められても」
「ひきこもってんだから、予定なんてあってないようなもんでしょ」

 引きこもってることを知ってる……
 二回目と言ったのは、本当なんだろうか?
 でも、俺は、あのリプライがなければ、きっとサイン会にも行ってない。
 もし本当に二回目だとして、何で俺のことを知ったんだろうか。