片眼鏡の奥で、黄金にギラリと光る猫目。白い鼻筋。どこか含みのある笑みを浮かべた唇――・・・・・・。
「あなたは、だれ・・・?」
雪は裾をぎゅっと握りしめた。こんな時間に、寒空の下、人の敷地のそばで何をやっているのだろう。
ふと、雪は男の足元に視線をおとす。――ひゅっと、息を呑んだ。
足跡が、なかった。
雪がふりはじめてから、半日たつ。足跡がつかない時間帯なんて、なかったはずだ。
ならば、どうやって、ここまで来たというのだ。
雪は思わず、後ろへ後ずさっていた。男は「おや?」と首を傾げたが、雪の視線の先を見ると、「ああ・・・」と合点がいった、とぽんと手を叩いた。
「あんた、賢いねぇ。初対面の男の足跡に目が行くなんてねぇ」
「あなたは、あやかしですか?」
雪は必死に思考をめぐらした。
この男は間違いなく妖だ。――・・・ならば、目的は龍胆か。それとも菫か。
得体のしれない男は、のらりくらりと口を開く。
「いいねぇ。度胸があるのも気に入ったぜ。あんたは外見だけじゃなくて、中身も魅力的だね」
「質問に、こたえてください」
雪はねばった。
会話を引き伸ばし、どうにか龍胆に危機を知らせたい。
「おいらは人じゃあない。だが鬼でもない。――あんたの恋人が真っ二つにした男とおんなじ、得体のしれないバケモノでござんすよ」
雪の試みは、残念ながら男には読めていたようだ。雪が一歩下がるたび、大股で距離を詰めてくる。
こんなに寒いのに、嫌な汗がたらりとこめかみをつたう。
「そ、そんな方が、ここになんの御用ですか」
唇を噛み、キッと精いっぱいの威嚇をする。
「それ以上こちらへ来たら、家主が黙ってませんよ」
暗に、龍胆は復活したと匂わせた。
(この人の狙いは、きっと龍胆さま。だったら、今動けない体だと悟られることはまずいわ)
男は「へえ?」と顎に手を添え、考える素振りを見せた。
「おいらが見ていた限りじゃ、あんたの旦那は虫の息だろ。――ああ、安心しな。野郎に興味はねぇよ」
男は、言うが早いか踏み込んだ。
瞬きほどの間にいつの間にか雪の眼前まで迫ると、その白い手首を掴む。
「ひっ!」
「おいらがほしいのは、あんただぜ。・・・雪さん」
ぐっと引き寄せられ、雪はなすすべなくその胸に倒れ込んだ。抱きしめられる。
意外にも、男はほのかに温かかった。血が通ったあやかしなのか。人間に近い存在なのは本当のようだ。
男の顔はすっかり高揚している。陶酔しきった瞳はとろりと濡れ、たっぷりと雪の髪の香りを嗅ぐ。
「ああ、ゾクゾクする。これほど芳しい香りは嗅いだことがねぇ」
雪は怖気がした。嫌悪とか、そういう次元ではない。
本能が告げる、生命の危機。捕食者に食われる兎のよう。足が震える。思うように動いてくれない。
せめてもの抵抗で、雪は賢明にもがく。離して、と震える声で叫ぶ。
だが男には、全く無意味だ。「たまらんなぁ」と逆に嗜虐心を煽ってしまう。
「あやめの兄さんには釘を差されたけど・・・。いいよな? ――小指くらいなら」
「っ!」
雪はぎょっとする。指を喰う気なのだ。
声にならない悲鳴が、雪からほとばしる。必死で抗う獲物を、男は剛腕で雪をねじ伏せると、その小さな小指をおもむろに口へ運ぶ。
ギラリと鋭い犬歯から涎が滴る。雪はぎゅっと目をつぶった。
刹那。
「雪っ、伏せろ!」
龍胆の声。
雪は目を閉じたまま体を伏せた。
何かが飛んでくる音。ついで、ふわりと誰かに抱き上げられる。恐る恐る目を開け、状況を理解したときには、雪は龍胆の腕の中だった。
「りんどうさま・・・。――きゃあっ!?」
龍胆を見て、次いで片眼鏡の男へと視線を投げ、雪は縮み上がった。
男の額に、ずぶりと龍胆の脇差しが突き刺さっていた。
人間であれば即死だ。・・・だが、案の定、バケモノは死なない。
「痛ってぇなぁ。雪さん、あんたの旦那はずいぶんと血気盛んだねぇ」
男は何でもないかのように衝撃で折れた首をもとに戻す。ゴキッと骨が再生する音が響く。
そのまま、素手で刃物を握ると、おもむろに引き抜いた。
額の肉はざわざわとうごめく。傷口はあっという間に塞がった。
「ちっ。バケモノめ」
龍胆が舌打ちする。
「おいおい。鬼にバケモノなんて言われたかないぜ」
衝撃でずれた片眼鏡をかけ直し、不死身の男は笑う。
「あんたとおいら。違うところなんて何一つねぇだろ」
龍胆は雪を下がらせると、冷たい瞳で嘲笑した。
「愚か者。――この俺を、悪趣味な死体収集家と混同するな」
いつもの口調とは違う。
おそらく、こちらが素なのだ。
「おや。その様子じゃ、おいらが何者かご存知のようでござんすな」
男――骸屋は飄々と腕を組む。視線を雪へ注ぐと、舐めるように眺め回した。
「あいにくと、おいらは野郎の骸は売らねえ主義なんだ。・・・にしても、あんたはツイてるねぇ。そんないい女捕まえてさ」
骸屋はいったん言葉を切る。次に口を開いたときには、獰猛な笑みを浮かべ、あざわらった。
「残念だが、宝の持ち腐れだ。おたくの冷てぇ体じゃ、女も抱けねぇだろ。ああ、可哀想な雪さん。くだらねぇ夫婦ごっこにつきあわされてなぁ」
「――」
「なんだったら、おいらが雪さん似のべっぴんの骸を用意してやろうか?」

龍胆から表情が消し飛んだ。
骸屋は更になにか言いかけたが、言葉を紡げなかった。
龍胆の姿がない。
ふわり。
舞うような軽やかな動きで。龍胆は間合いを詰めていた。
「――!?」
骸屋の思考が追いついたときにはすでに、龍胆の刃が男の鼻先まで迫っていた。
(――かわせない)
骸屋は瞬時に悟る。
ザクッ!!
鈍い音が青い闇に響いた。
刃は躊躇なく、骸屋の顔面を斬り裂いた。鮮血がほとばしり、衝撃でモノクルはふっ飛ぶ。
龍胆は感情の一切を封じ込め、冷静さを失わない。瞳の青は、らんらんと獣の如き光を帯び、彼を次の斬撃へと導く。
返す刃は、無駄な動き一つなく男の胴を斬り裂いた。
「ゴガッ・・・!?」
骸屋はうめき声一つあげる暇さえ与えられない。龍胆は容赦ない回し蹴りをめり込ませ、軽々と吹っ飛ばした。
骸屋は、水切り石のごとく吹っ飛んだ。近場の木に激突する。幹はメキメキと音を立てながらへし折れる。頭上からは枝に積もっていた雪がドサリと落ちてきて、不死身の男を全身真っ白に染める。
一方で、龍胆は呼吸の乱れさえない。敵を斬り刻む鬼と化したのだ。圧倒的な実力差で戦場を蹂躙する。龍胆は、ゆらりと立つと、おもむろに体制を整え、刀を握る腕をだらりと下げた。
長い前髪の隙間からは、青々とした瞳が凄まじい殺気を帯び、雪煙をひたと睨みつけている。
雪はなにも言えない。なにも言葉が浮かんでこない。
ただただ、あっけにとられていた。
(これが、本気を出した龍胆さまの姿――・・・・・・)
借りにも人の形をしたものを斬ったのだ。普通の人間であれば、悲鳴を上げて腰を抜かしたことだろう。人殺しと、罵倒したかもしれない。
だが、雪はなぜかぼうっと見とれてしまった。
理由はわからない。理由など、ない。

彼の残虐な横顔を『美しい』と、思ってしまった。

鮮血の花びらを次々と散らしていく刃先。赤く染まったその白髪(はくはつ)、その獰猛に光る瞳でさえも。
竜胆の何もかもが、美しい。
はっと我に返った雪は、思わず片手で目を覆った。
(わたしは、なにを考えたの・・・?)
戦いを止めもせず、のうのうと静観して。見とれてしまうなんて。
これでは、まるで――・・・・・・
自分も、鬼(彼ら)と同類ではないか。

雪の葛藤をよそに、不死身の男と屍食鬼の戦いは続いていた。
骸屋は顔から血を滴らせながら、龍胆の負傷した胸元へ突きを放つ。相手の急所を真っ先につくあたり、戦い慣れしているようだ。だが、龍胆はその何倍も死地をくぐっている。
相手がどう出るか、手に取るようにわかるのだ。
骸屋の拳が届くより先に身を翻し、攻撃を交わすと、刀の柄でズンと相手の肺を突き、潰す。呼吸を奪われ、骸屋は動きが鈍る。
その首を龍胆は鷲掴むと、あっという間に地面へ引き倒した。
「――ガッ!」
「・・・・・・その程度か」
雪の上に投げ出された男の首を踏みつけ、龍胆は静かに、視線を男へ注ぐ。
哀れ、声帯を潰された骸屋は、余裕めいた笑みを浮かべるので精いっぱいだった。
(まいったねぇ。ここまでの腕前とは聞いてねぇぜ、あやめの兄さん)
いくら不死身とはいえ、痛いものは痛い。苦しいのも人間と一緒なのだ。
(おいらもこの戦いで何度か殺された。あと何度、再生できるやら。――さあて。どうしたもんかねぇ・・・)
「何がおかしい」
骸屋の思案の顔が癇に障ったらしい。龍胆は踏みつける足に更に力を加える。
メキりと首の骨にヒビが入る嫌な音がした。骸屋は焦る。
(まずい。・・・一刻の猶予もねぇなこりゃ)
冷や汗を流した時だった。
重々しい地鳴りが、あたり一面に響き渡った。
「なんだ」
龍胆は骸屋から視線を空へと移す。
今度はずんと突き上げるような激しい地震が一同を襲った。
龍胆は踏みつけた力を緩めずに、冷静に分析する。
(ただの地震じゃないな。規則的すぎる)
まるで巨人の足音だ。
「龍胆さまっ!! あれはっ!?」