動かなくなったあやめの骸の上に、雪がつもっていく。
純白の雪に包まれ、頭上から椿がぽとりと落ちた。あやめは、残った片目をゆるゆると開けた。
「雪に包まれるというのも、存外幸福なものだ・・・」
このまま、埋もれてしまうのも悪くない。――死ぬことが、できるのならば。
胴を真っ二つにされても、あやめは死ななかった。いや、死ねなかった。
それは『呪い』か。

いつからだった? 死を渇望するようになったのは。
いつからだった? 寒さに体を丸めて、人肌に焦がれるようになったのは。
いつから、僕は――・・・・・・。

『さみしい』と、思うようになった?

ふと、こんな時に一番聞きたくない男の声が響いた。
「おいらにも、兄(あに)さんにとっても、『愛』なんて毒でしかない。百年も生きて、そんなことも学ばなかったのかい?」
三十代ほどの男が、足音もたてずふらっと立っていた。ひょいと腰を曲げて、あやめの顔を見下ろす。金の猫目はねっとりと濡れている。こぼれた後れ毛。片眼鏡の金鎖と、宝石のついた耳飾りはしゃらり揺れ、男のあやしい相貌を際立たせる。
立て襟が特徴の、隣国の青い民族衣装。その上から、漆黒の着流しをゆるく来ていた。
「よお、あやめの兄さん」
モノクル(片眼鏡)をキラリと光らせ、男はにやりと笑った。
「ずいぶんと派手にやられたみてぇだなあ。泣き別れになったその足、おいらがくっつけてやろうか? くくく」
男の小憎らしい顔を見上げ、あやめは顔をしかめた。
「・・・ついに僕の骸まで売りさばく気かい、『骸屋』め」
通り名を聞くと、男は艷やかな唇を楽しそうに歪めた。
「あんたの亡骸も結構な額になるがね、あいにく、おいらが取り扱ってんのは美女だけだ」
「では、何しに来た? 君のことだ、親切だけで僕(常連)のもとに来るはずがない。のぞみを言え」
「あんたを真っ二つにした鬼の連れのお嬢さん。あの娘をおいらに売ってくれないかい?」
単刀直入な申し出。思わぬ名に、あやめの瞳はカッと開く。
腕を使って、自力でがばりと起き上がった。「うわっ。怖っ!」と骸屋はのけぞった。
あやめはそのまま真っ二つに切り離されていた下半身をくっつける。ざわざわと細胞は動き出し、みるみる間に傷口は塞がっていく。
勢いもそのままに、あやめはゆらりと立ち上がった。
「僕の雪に、つばでもつけようと? 穢らわしい!!」
あやめは大男だ。すっぽりと包み込むように、骸屋の上に影を落とす。
骸屋は縮み上がった。両手を上げて降参する。
「落ち着きなよ、旦那。おいらは何も、あんたから取ろうってんじゃないよ。あの娘(こ)がほしいんでしょ。対価を払ってくれれば、おいらがさらってくるよ」
可愛かったのは事実だけどね、と骸屋は付け足す。そろりと視線を鬼からそらし、雪の可憐な後ろ姿を思い浮かべた。
美しい黒髪はくるぶしほど長く、純白の振り袖によく似合っていた。濡れた漆黒の瞳も、ほのかに赤い唇も、この世のすべての鬼を魅了する。
(あの女・・・。さぞ死装束が似合うだろうなあ)
骸屋は舌なめずりする。数々の美女の死体を扱ってきた自分が、わずかな想像をするだけでゾクゾクする。こんな女は初めてだ。ここまでそそる獲物が、この世にいたとは。
「なあ、旦那。さらってあげるからさ、ちょいと、おいらにもつまみ食いさせておくれ」
「っ!」
あやめは目を見開く。
骸屋はよだれの滴る飢えた獣のような顔をしていた。ちろりと覗く舌先は、雪の血の味を確かめたいと、ぬるり、うごめく。
骸屋の取引相手は、様々だ。基本的には、あやかし者だが、時折、人間も含まれる。
本人の正体も、あやめと同じくあやふやだ。
人でもなければ鬼でもない。――どちらにもなれない、穢れた存在。
元は人間だったのかもしれないが、それは本人しか知らない情報だ。
得体がしれない。
(こいつに頼んでいいものか・・・)
あやめは復活してすぐだ。龍胆は負傷しているとはいえ、まだ戦える状態ではない。
なにより、潰された片目が回復しないのだ。
(ふ、僕もいよいよ、臨終か)
目を片手で覆い、あやめは口を歪めた。竜胆の手にかかり、すでに二度死んだ。この肉体の謎はまだ多い。あと何度黄泉帰られるのか、わからない。
しぶしぶ、あやめは口を開いた。腰に手を当て、深々とため息をつく。
「背に腹はかえられん。――なにが望みだ? もっとも、雪のつまみ食いは厳禁だ。代わりになるものを言え」
「代わりになるもの、ねえ・・・?」
骸屋はころりともとの表情に戻った。コテンと首を傾げる。猫をかぶるのも得意なようだ。
「そんなこと言っても、兄さんは文無しでしょ」
「――・・・ひとつ、ある。『僕』自身だ」
あやめはとん、と自分を指さした。その顔は、覚悟を決めている。
「僕の骸をくれてやる。・・・もう長くない。雪を道連れに、地獄へ行く」
骸屋は瞬いた。――やがて、うやうやしく胸に手を添え、深々と腰を折る。
男の背後から、地獄から連れてきた魑魅魍魎が姿を現した。
牽引する牛のいない牛車。じゃらり、鎖を束ねた小鬼が、ひしめき合っている。
「まいど。ご愁傷様です」
決まり文句を述べると、骸屋は顔を上げ、ニヤリと笑った。